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父と母
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フィオナとルーカスが通されたのは、目が痛くなりそうなほどキラキラしく飾り立てられた部屋だった。どうやら、家族が寛ぐための部屋ではなく、来客をもてなすための応接間らしい。
家具も、絨毯も、置物も、何もかもが煌びやかだ。
廊下も相当装飾過多だったけれども、この部屋はそれに輪をかけて眩しい。
(ここがお客様用の部屋だからだといいけれど)
目よりも気持ちを眩ませたフィオナは、胸の中でそう呟いた。質素な警邏隊詰所に慣れた彼女には、少々きつい。
そんな、あまりに華美な内装に気を取られていたフィオナの耳に、半信半疑――よりも疑が多く感じられる声が届く。
「ベアトリス……?」
それが自分に向けられたものと認識してではなく、ただ声がしたから無意識に、彼女はそちらへ目を向けた。
たった今長椅子から立ち上がったという風情で少し腰を歪ませて立っているのは、輝かしい黄金の髪にくすんだ薄青色の瞳をした女性だった。華やかな顔立ちの美しい人で、年の頃は四十を超えるか超えないか、というところ。霧でけぶる湖面のようなその目に浮かび、フィオナと視線が絡んだ瞬間掻き消えたものは、喜びか――驚愕か。
彼女の後ろには黒髪に深い緑色の目をした五十がらみの男性が立っていた。彼もまた整った容姿をしているけれど、女性に比べるとおとなしい雰囲気だ。
(この人たちが、わたくしのお父様とお母様?)
二人とも贅を尽くした衣装を身にまとっているから、この屋敷の主であることは間違いない。そして、この屋敷の主であるということは、フィオナの両親だということになる。
(でも……)
まったく、何も感じない。
いくら記憶がなくても、一目見たら何か胸に込み上げるものがあるかと思っていた――期待していたのに、両親と思しき彼らを前にしても、フィオナは、何一つ、感じることができなかった。
思わず一歩引きかけた彼女の背に、温かなものが触れる。ハッと振り返ると、励ますようなルーカスの微笑みがあった。
(ああ、そうだ。わたくしは独りではない)
ルーカスが、いてくれる。
その笑みに支えられ踏み止まったフィオナに向けて、女性がふらりと足を踏み出してくる。
「ベアトリス……本当にベアトリスなのね!?」
ためらいがちな歩みでフィオナの前に立った彼女は、感極まった声音でそう叫ぶとたおやかな両腕できつく抱き締めてきた。刹那、その抱擁を振り払って逃げ出したくなる衝動に駆られ、フィオナは身を強張らせる。
人に触れられることや抱き締められることに慣れていないわけではない。もちろん、隊員がそんなことをしてくることはなかったけれど、彼らの分を補うように、ケイティが何かにつけ抱き締めてくれたから。
何のためらいもなく触れてこられることが、初めのうちは、居心地が悪かった。
不快だったわけではない。
むしろその逆で、彼女の腕の温もりと柔らかさは心地良かったのに、そうされることに馴染めなかったというか。
抱き締められるたびに身を固くしていたフィオナにめげずケイティは彼女を抱き締め続け、いつしかそれは、フィオナにとってただただ心地良いだけのものになっていたのだ。
けれど、今、母と思しきこの女性が与えてくれる抱擁は、ケイティのそれとは違っていた。初めて彼女がそうしてくれた時よりも、遥かに、落ち着かない。
「必死で探していたのよ」
むせかえるような香水の香りを漂わせ、女性がむせび泣く。けれど、じきにフィオナがあまりに無反応なことに気付いたのか、彼女はフィオナを押しやるようにして身体を離した。
「ベアトリス……?」
女性の眼に訝しむ光が浮かぶ。もの問いたげに彼女が優美な眉をひそめたところで、ルーカスの声が割って入る。
「ああ、失礼。申し遅れましたが、実は、彼女には記憶がないのです」
「え……?」
サラリと流された、けれど決して軽くはない情報に怪訝そうな声を上げたのは、女性だけではない。最初に立っていた場所にとどまっていた男性もまた、同じように眉間にしわを寄せてフィオナたちを見つめてくる。
「このフィオナ――ベアトリス嬢は、三年半前に、我々が保護しました。しかし、それ以前の記憶を全て失っていたため、身元が判らず、今までこちらにお連れすることができなかったのです」
淀みなくそう説明を付け加えたルーカスに、彼の存在に今初めて気がついたという風情で、男性が問いかける。
「君は、いったい何者なんだ? 記憶が、と――ベアトリスはこれまでどこにいたのだ?」
不信感も露わな、尊大な口調だった。ルーカスはそんな彼にニコリと笑いかけ、一礼する。
「私はグランス国王都ロンディウムで警邏隊に属しております。ルーカス・アシュクロフトと申します」
「グランス……警邏隊……?」
「はい」
また、ニコリと。
爽やかを絵で描いたようなその笑顔に、男性は毒気を抜かれたように身じろぎする。
「それは、また……。ああ、私はベアトリスの父エドモン・トラントゥール、それは私の妻、アデライドだ」
「とてもお美しい方ですね、流石フィオナ――失礼、ベアトリス嬢の母君だ」
ルーカスはそう言ってアデライドの手を取り、その甲に恭しく口付けた。と、そこでエドモンが軽く咳払いをする。
「で、どういうわけで、ベアトリスはグランスなどにいたのだ?」
「それは、ですね――」
エドモンの問いに、ルーカスが端的ながら要所を捕らえて説明する。
「――という訳で、保護した後、我が警邏隊でお預かりしていた次第です」
ルーカスが語り終えると、アデライドは悪心をこらえるかのように口元を押さえ、フラフラと長椅子に腰を下ろした。
「人買い、などに……」
両手で顔を覆ったまま、信じられないとばかりにかぶりを振る。
そんなアデライドをチラリと見遣ってから、ルーカスはエドモンに目を向けた。
「ところで、こちらのお嬢様が行方不明だという話はあまり知られていないようですが。届け出などはされなかったのですか? こちらのお国にも失踪事件などがないかと問い合わせたのですが、そのようなことはないとの返事をいただきまして」
父親に投げた問いの答えは、彼が口を開くより先に母から返される。
「それは……ほら、外聞が悪いでしょう?」
「外聞、ですか」
小首をかしげたルーカスに、アデライドは当然とばかりに顎を上げる。
「ええ。ベアトリスが散歩に出かけたきり戻らなくて、これは何か良くないことが起きたのだと思いましたわ。でも、我が家にはこの子の他にも兄と姉がいますから。変に騒ぎ立てて妙な醜聞が流れたら、その子らの縁談に響いてしまいますもの」
母であるはずの人のその言葉に、フィオナは知らず両手を拳に握り締めた。もちろん、兄姉よりも自分のことを優先して欲しかったなどとは、言えない。
――言えない、けれど。
彼女の身の安全よりも、兄姉の縁組の方が重要なのだと微笑まれ。
気持ちが、揺らいだ。
フィオナのうちに生じた不安に気づいたふうはなく、アデライドは両手を胸の前で組む。
「それにしても見つかってよかったわ、ベアトリス」
そう呼びかけられて、フィオナは違和感を覚えた。不快に限りなく近い、違和感を。
母という人に本当の名前を呼ばれたはずなのに、どうしてそんなふうに感じてしまうのだろう。
そんな疑問がフィオナの頭をよぎり、同時に、口が勝手に動いていた。
「わたくし……わたくしのことは、ここでのことを思い出すまではフィオナと呼んでいただけますか?」
「え?」
アデライドとエドモンが、同時に眉をひそめた。彼ら『両親』を真っ直ぐに見つめ、フィオナはもう一度繰り返す。
「わたくしは、その名で呼ばれていた頃のことを思い出せません。その名がわたくしのものだと、実感することができないのです」
『フィオナ』は、ケイティがくれた名前だ。不安で、怯えて、混乱していた彼女にケイティが与えてくれた、大事な名前。
ケイティがフィオナをフィオナと呼んで笑いかけてくれたとき、真っ暗闇に一筋の光が射し込んできたような心持になったことを、今でも彼女は覚えている。
ケイティが、隊員たちが、そして、ルーカスが、皆が『フィオナ』と呼んで、まさに右も左も判らなかった彼女を優しく見守ってくれてきた。
だから、フィオナは今ここに立てている。
その大事な名前を、捨てたくなかった。今はまだ、『ベアトリス』よりも『フィオナ』でいたかった。
父と母だという人たちは、見るからに呆気に取られた様子でフィオナを見つめている。まるで、まさか彼女が口を利くとは思っていなかったというような反応だ。
「ベアトリス、あなた――」
アデライドの眉がキリリと上がり、フィオナに向けて一歩を踏み出しかけた。が、そこでハタとルーカスの存在を思い出したように、彼に向けて笑みを浮かべる。
「あら、失礼、取り敢えず、お付きの方にはお引き取りいただいて……」
彼女の言葉に、フィオナの心臓がキュッと縮まったような気がした。
ルーカスが、行ってしまう。
ここで独りになってしまう――彼と離れてしまう。
ぶわりと襲ってきたのは、恐怖に近い、不安。
しかし、彼が去るのは当然のこと、最初から判っていたことだった。
フィオナは込み上げてくる心細さを胸の奥へと押し込んで、懸命に自分自身に言い聞かせる。
ルーカスにはルーカスの戻るべき場所がある。彼がいるべき場所があるし、彼が帰らなければならない場所があるのだから。
フィオナの傍にいてくれる、そう言ってくれた、その気持ちだけで、充分だ。
(あの言葉を支えに、ここで頑張ろう)
そして記憶が戻ったら、その時、戻りたいと言ってみよう。
(独りでもちゃんと立てるのだということを証明すれば、ルーカスさんもわたくしのことを大人の女性として見てくれるようになるかもしれない)
拳を握り、フィオナはルーカスに向き直る。彼を見上げて、笑顔を作ろうとした。
けれど。
「いや、私は彼女に対して責任がありますから、しばらくここに滞在させていただけないかと」
ルーカスはサラリと爽やかに、そう言った。
「え、ルーカス、さん?」
目を瞬かせているフィオナに温かく微笑み、次いで幾分その温度を下げて、彼はアデライドたちに向けて続ける。
「申し遅れましたが、私自身はしがない子爵でしかないのですが、父はグランスで伯爵の位についていますから、身元の確認が必要であれば問い合わせていただければ」
「子爵……伯爵……でも、確か、何かお仕事をなさっていらっしゃるとか」
アデライドは、ルーカスの身なりをうろんげに眺めている。明らかに彼の言葉を疑っている眼差しだ。
そんな彼女に向けて、ルーカスは左手を差し出した。
「ええ、特に何をする必要もないので、暇を持て余しておりましてね。ああ、そうだ、こちらも何かの証になれば」
その人差し指には、一見簡素な、けれども見る者が見れば高価なものだと判る宝石で装飾が為された印章がはめられている。
「まあ……」
一瞬にして、アデライドの眼の色が変わった。彼女は顔を輝かせ、満面に笑みを浮かべる。
「どうぞごゆっくり。精一杯、おもてなしさせていただきますわ」
アデライドのその言葉に、フィオナはパッとルーカスを振り仰いだ。
「でも、ルーカスさんは――」
大事な仕事があるのに。
そう言おうとしたフィオナを遮るように、アデライドが声を上げる。
「あなたがいらっしゃってくださった方が、ベア――フィオナ、も気持ちが落ち着くでしょうから。ねえ、フィオナ?」
彼女は優しげに微笑んでいたけれど、ヒタと据えられた眼差しに射抜かれて、フィオナは蛇に睨まれた仔ネズミのように息ごと全ての動きが止まってしまう。
アデライドは、立ちすくんだフィオナから再びルーカスへと視線を流す。
「この子の姉はコンスタンスと申しまして、それはもう、良い娘なのです。是非とも会ってやってくださいまし」
目を輝かせてそう言った彼女に、ルーカスは穏やかな笑みを浮かべて頷きを返していた。
家具も、絨毯も、置物も、何もかもが煌びやかだ。
廊下も相当装飾過多だったけれども、この部屋はそれに輪をかけて眩しい。
(ここがお客様用の部屋だからだといいけれど)
目よりも気持ちを眩ませたフィオナは、胸の中でそう呟いた。質素な警邏隊詰所に慣れた彼女には、少々きつい。
そんな、あまりに華美な内装に気を取られていたフィオナの耳に、半信半疑――よりも疑が多く感じられる声が届く。
「ベアトリス……?」
それが自分に向けられたものと認識してではなく、ただ声がしたから無意識に、彼女はそちらへ目を向けた。
たった今長椅子から立ち上がったという風情で少し腰を歪ませて立っているのは、輝かしい黄金の髪にくすんだ薄青色の瞳をした女性だった。華やかな顔立ちの美しい人で、年の頃は四十を超えるか超えないか、というところ。霧でけぶる湖面のようなその目に浮かび、フィオナと視線が絡んだ瞬間掻き消えたものは、喜びか――驚愕か。
彼女の後ろには黒髪に深い緑色の目をした五十がらみの男性が立っていた。彼もまた整った容姿をしているけれど、女性に比べるとおとなしい雰囲気だ。
(この人たちが、わたくしのお父様とお母様?)
二人とも贅を尽くした衣装を身にまとっているから、この屋敷の主であることは間違いない。そして、この屋敷の主であるということは、フィオナの両親だということになる。
(でも……)
まったく、何も感じない。
いくら記憶がなくても、一目見たら何か胸に込み上げるものがあるかと思っていた――期待していたのに、両親と思しき彼らを前にしても、フィオナは、何一つ、感じることができなかった。
思わず一歩引きかけた彼女の背に、温かなものが触れる。ハッと振り返ると、励ますようなルーカスの微笑みがあった。
(ああ、そうだ。わたくしは独りではない)
ルーカスが、いてくれる。
その笑みに支えられ踏み止まったフィオナに向けて、女性がふらりと足を踏み出してくる。
「ベアトリス……本当にベアトリスなのね!?」
ためらいがちな歩みでフィオナの前に立った彼女は、感極まった声音でそう叫ぶとたおやかな両腕できつく抱き締めてきた。刹那、その抱擁を振り払って逃げ出したくなる衝動に駆られ、フィオナは身を強張らせる。
人に触れられることや抱き締められることに慣れていないわけではない。もちろん、隊員がそんなことをしてくることはなかったけれど、彼らの分を補うように、ケイティが何かにつけ抱き締めてくれたから。
何のためらいもなく触れてこられることが、初めのうちは、居心地が悪かった。
不快だったわけではない。
むしろその逆で、彼女の腕の温もりと柔らかさは心地良かったのに、そうされることに馴染めなかったというか。
抱き締められるたびに身を固くしていたフィオナにめげずケイティは彼女を抱き締め続け、いつしかそれは、フィオナにとってただただ心地良いだけのものになっていたのだ。
けれど、今、母と思しきこの女性が与えてくれる抱擁は、ケイティのそれとは違っていた。初めて彼女がそうしてくれた時よりも、遥かに、落ち着かない。
「必死で探していたのよ」
むせかえるような香水の香りを漂わせ、女性がむせび泣く。けれど、じきにフィオナがあまりに無反応なことに気付いたのか、彼女はフィオナを押しやるようにして身体を離した。
「ベアトリス……?」
女性の眼に訝しむ光が浮かぶ。もの問いたげに彼女が優美な眉をひそめたところで、ルーカスの声が割って入る。
「ああ、失礼。申し遅れましたが、実は、彼女には記憶がないのです」
「え……?」
サラリと流された、けれど決して軽くはない情報に怪訝そうな声を上げたのは、女性だけではない。最初に立っていた場所にとどまっていた男性もまた、同じように眉間にしわを寄せてフィオナたちを見つめてくる。
「このフィオナ――ベアトリス嬢は、三年半前に、我々が保護しました。しかし、それ以前の記憶を全て失っていたため、身元が判らず、今までこちらにお連れすることができなかったのです」
淀みなくそう説明を付け加えたルーカスに、彼の存在に今初めて気がついたという風情で、男性が問いかける。
「君は、いったい何者なんだ? 記憶が、と――ベアトリスはこれまでどこにいたのだ?」
不信感も露わな、尊大な口調だった。ルーカスはそんな彼にニコリと笑いかけ、一礼する。
「私はグランス国王都ロンディウムで警邏隊に属しております。ルーカス・アシュクロフトと申します」
「グランス……警邏隊……?」
「はい」
また、ニコリと。
爽やかを絵で描いたようなその笑顔に、男性は毒気を抜かれたように身じろぎする。
「それは、また……。ああ、私はベアトリスの父エドモン・トラントゥール、それは私の妻、アデライドだ」
「とてもお美しい方ですね、流石フィオナ――失礼、ベアトリス嬢の母君だ」
ルーカスはそう言ってアデライドの手を取り、その甲に恭しく口付けた。と、そこでエドモンが軽く咳払いをする。
「で、どういうわけで、ベアトリスはグランスなどにいたのだ?」
「それは、ですね――」
エドモンの問いに、ルーカスが端的ながら要所を捕らえて説明する。
「――という訳で、保護した後、我が警邏隊でお預かりしていた次第です」
ルーカスが語り終えると、アデライドは悪心をこらえるかのように口元を押さえ、フラフラと長椅子に腰を下ろした。
「人買い、などに……」
両手で顔を覆ったまま、信じられないとばかりにかぶりを振る。
そんなアデライドをチラリと見遣ってから、ルーカスはエドモンに目を向けた。
「ところで、こちらのお嬢様が行方不明だという話はあまり知られていないようですが。届け出などはされなかったのですか? こちらのお国にも失踪事件などがないかと問い合わせたのですが、そのようなことはないとの返事をいただきまして」
父親に投げた問いの答えは、彼が口を開くより先に母から返される。
「それは……ほら、外聞が悪いでしょう?」
「外聞、ですか」
小首をかしげたルーカスに、アデライドは当然とばかりに顎を上げる。
「ええ。ベアトリスが散歩に出かけたきり戻らなくて、これは何か良くないことが起きたのだと思いましたわ。でも、我が家にはこの子の他にも兄と姉がいますから。変に騒ぎ立てて妙な醜聞が流れたら、その子らの縁談に響いてしまいますもの」
母であるはずの人のその言葉に、フィオナは知らず両手を拳に握り締めた。もちろん、兄姉よりも自分のことを優先して欲しかったなどとは、言えない。
――言えない、けれど。
彼女の身の安全よりも、兄姉の縁組の方が重要なのだと微笑まれ。
気持ちが、揺らいだ。
フィオナのうちに生じた不安に気づいたふうはなく、アデライドは両手を胸の前で組む。
「それにしても見つかってよかったわ、ベアトリス」
そう呼びかけられて、フィオナは違和感を覚えた。不快に限りなく近い、違和感を。
母という人に本当の名前を呼ばれたはずなのに、どうしてそんなふうに感じてしまうのだろう。
そんな疑問がフィオナの頭をよぎり、同時に、口が勝手に動いていた。
「わたくし……わたくしのことは、ここでのことを思い出すまではフィオナと呼んでいただけますか?」
「え?」
アデライドとエドモンが、同時に眉をひそめた。彼ら『両親』を真っ直ぐに見つめ、フィオナはもう一度繰り返す。
「わたくしは、その名で呼ばれていた頃のことを思い出せません。その名がわたくしのものだと、実感することができないのです」
『フィオナ』は、ケイティがくれた名前だ。不安で、怯えて、混乱していた彼女にケイティが与えてくれた、大事な名前。
ケイティがフィオナをフィオナと呼んで笑いかけてくれたとき、真っ暗闇に一筋の光が射し込んできたような心持になったことを、今でも彼女は覚えている。
ケイティが、隊員たちが、そして、ルーカスが、皆が『フィオナ』と呼んで、まさに右も左も判らなかった彼女を優しく見守ってくれてきた。
だから、フィオナは今ここに立てている。
その大事な名前を、捨てたくなかった。今はまだ、『ベアトリス』よりも『フィオナ』でいたかった。
父と母だという人たちは、見るからに呆気に取られた様子でフィオナを見つめている。まるで、まさか彼女が口を利くとは思っていなかったというような反応だ。
「ベアトリス、あなた――」
アデライドの眉がキリリと上がり、フィオナに向けて一歩を踏み出しかけた。が、そこでハタとルーカスの存在を思い出したように、彼に向けて笑みを浮かべる。
「あら、失礼、取り敢えず、お付きの方にはお引き取りいただいて……」
彼女の言葉に、フィオナの心臓がキュッと縮まったような気がした。
ルーカスが、行ってしまう。
ここで独りになってしまう――彼と離れてしまう。
ぶわりと襲ってきたのは、恐怖に近い、不安。
しかし、彼が去るのは当然のこと、最初から判っていたことだった。
フィオナは込み上げてくる心細さを胸の奥へと押し込んで、懸命に自分自身に言い聞かせる。
ルーカスにはルーカスの戻るべき場所がある。彼がいるべき場所があるし、彼が帰らなければならない場所があるのだから。
フィオナの傍にいてくれる、そう言ってくれた、その気持ちだけで、充分だ。
(あの言葉を支えに、ここで頑張ろう)
そして記憶が戻ったら、その時、戻りたいと言ってみよう。
(独りでもちゃんと立てるのだということを証明すれば、ルーカスさんもわたくしのことを大人の女性として見てくれるようになるかもしれない)
拳を握り、フィオナはルーカスに向き直る。彼を見上げて、笑顔を作ろうとした。
けれど。
「いや、私は彼女に対して責任がありますから、しばらくここに滞在させていただけないかと」
ルーカスはサラリと爽やかに、そう言った。
「え、ルーカス、さん?」
目を瞬かせているフィオナに温かく微笑み、次いで幾分その温度を下げて、彼はアデライドたちに向けて続ける。
「申し遅れましたが、私自身はしがない子爵でしかないのですが、父はグランスで伯爵の位についていますから、身元の確認が必要であれば問い合わせていただければ」
「子爵……伯爵……でも、確か、何かお仕事をなさっていらっしゃるとか」
アデライドは、ルーカスの身なりをうろんげに眺めている。明らかに彼の言葉を疑っている眼差しだ。
そんな彼女に向けて、ルーカスは左手を差し出した。
「ええ、特に何をする必要もないので、暇を持て余しておりましてね。ああ、そうだ、こちらも何かの証になれば」
その人差し指には、一見簡素な、けれども見る者が見れば高価なものだと判る宝石で装飾が為された印章がはめられている。
「まあ……」
一瞬にして、アデライドの眼の色が変わった。彼女は顔を輝かせ、満面に笑みを浮かべる。
「どうぞごゆっくり。精一杯、おもてなしさせていただきますわ」
アデライドのその言葉に、フィオナはパッとルーカスを振り仰いだ。
「でも、ルーカスさんは――」
大事な仕事があるのに。
そう言おうとしたフィオナを遮るように、アデライドが声を上げる。
「あなたがいらっしゃってくださった方が、ベア――フィオナ、も気持ちが落ち着くでしょうから。ねえ、フィオナ?」
彼女は優しげに微笑んでいたけれど、ヒタと据えられた眼差しに射抜かれて、フィオナは蛇に睨まれた仔ネズミのように息ごと全ての動きが止まってしまう。
アデライドは、立ちすくんだフィオナから再びルーカスへと視線を流す。
「この子の姉はコンスタンスと申しまして、それはもう、良い娘なのです。是非とも会ってやってくださいまし」
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