悩める子爵と無垢な花

トウリン

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奪われて、墜ちる

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 それを目にした瞬間、ルーカスは、世界中の時間が止まったような心持になった。

(なんだ、これ)

 胸の内で呻き、彼は、呆然と目の前の存在を見つめる。

 少女は、美しかった。生気が失せ、蒼褪めていてもなお、この世のものとは思えないほど。
 誤ってこの世に現れてしまった天使か妖精が、邪悪な者の手に落ちた――そんな現実離れした、お伽噺じみたことがルーカスの頭に浮かぶ。

 それほどまでに、美しかった。

 艶やかな黒い髪とは対照的に、シミひとつない白磁のような肌。今は赤みを失っていて痛ましいばかりだが、血の気を取り戻せば、その頬はきっと淡い薔薇色に染まるに違いない。
 大きく見開かれた両の瞳は今まで見たことがないほど青く、そう、まるで良く晴れた日の深い海のようだ。
 可憐な面立ちにはまだ幼さが目立つが、いずれ国、いや、世で一番の美女となって咲き誇るに違いない。

 締め付けられるような苦しさを覚えた胸元を、ルーカスは無意識のうちに握り締める。
 その間も、彼の眼は少女に吸い寄せられたままだった。
 引きはがそうとしても、できないのだ。自分の身体が自分の思う通りにならないなど、初めてのことだ。

 眼を、奪われていた。
 いや、眼以外の、何かも。

 警邏隊に入るまでは数多の優雅な淑女が彼の前を流れていったが、彼女たちに対してこんなふうに感じたことなどない。これではまるで十代の若造だ――いや、あの頃だって女性に見惚れられこそすれ、彼の方が見惚れることなど、なかったというのに。

 しばし、息すら忘れていたルーカスだったが。

「ケイティ、は?」
 小さくたどたどしい、けれども澄んでよく通る声がそう問いかけてきて、現実に引き戻される。
 怯えを含み震えていても、それは耳に心地良かった。きっと、朗らかな笑い声は天上の響きさながらなのだろう。
 ルーカスは瞬きで頭をはっきりさせ、案じる色を湛えた青い瞳を覗き込みながら答える。
「あ、ああ。怪我と言っても小さなものばかりだから。でも、心配なら自分で会って確かめてごらん。警邏隊の詰所で休んでいるから」
 混乱した胸の内はきれいに包み隠した微笑みと共に、ルーカスは片方の手から制服の一つである白手袋を引き抜き、彼女に向けてそれを差し出した。

 少女はルーカスの手と彼の顔との間で視線を行き来させる。

 彼は、待った。辛抱強く。

 やがて、少女は胸元に引き寄せ固く握り締めていた手を開き、その指先をおずおずと彼の手のひらにのせる。冷え切ったそれが微かに震えているのを感じ取った瞬間、ルーカスは階下に転がっている男どもを皆殺しにしてやりたくなった。
 一息にではなく、彼女が与えられた恐怖以上のものをじっくりと味合わせながら。
 だが、そんなどす黒い感情は完璧な笑顔の下に押し込んで、ルーカスはしゃがみ込んだままそっと彼女を立たせる。薄い貫頭衣一枚に包まれたその肢体は華奢で、やはり妖精のようだと、ルーカスは改めて思った。
 彼は先ほどブラッドがそうしたように、自分の上着を脱いで少女の肩に着せかける。ルーカスにはぴったりなその服が彼女にとってはだぶだぶで、再び彼の中には痛ましさが込み上げてきた。
 危うく少女の手を握ったままの手に力がこもりそうになり、ルーカスは自分を戒める。

 怒りをおさめるためにも何か他のことをしなければ。

「そうだ、私はルーカス・アシュクロフト。ルーカスでいいよ。君の名前は? 君の名前は何ていうんだい?」
 微笑みながらそう訊ねると、どこか焦点の定まらない青い瞳がルーカスに向けられた。
「なまえ?」
「そう。赤毛の子はケイティというんだね。君は?」
「わたくし、わたくし、の、名は……」
 ふらりと、少女の視線が、そして身体が揺れた。
「!」
 彼女が力を失い崩れ落ちるのと、彼が両手を差し伸べるのとはほぼ同時のことだった。

「おい!?」
 ルーカスは、腕の中でぐったりとうつむく少女の頬に手を添えそっと上げさせる。だが、驚くほどに長い睫毛が伏せられたその顔を見るまでもない。何の抵抗もなくされるがままになっていることからも、完全に意識が失われていることが明らかだった。
 疲労のあまりか、それとも、緊張の糸が切れたせいか。
 いずれにせよ、早く彼女を休ませてやりたい。
 ルーカスは少女の細い背と膝裏に手を回し、壊れやすいガラス細工に触れているような気持ちになりながら彼女を抱き上げた。
 と、そのあまりの軽さに、逆にふら付きそうになる。

 この感覚を、どう表現したらいいのだろう。

 触れただけで溶けてしまう淡雪。
 あるいは、そよ風一つで倒れてしまう花。
 そんなものを前にしたときに抱くのに似た、この感覚を。

 ――儚い。

(そう、儚い、だ)
 少女はあまりに儚く、もろそうで。
 と、ルーカスが凝視する中、明らかに意識がないにもかかわらず、彼女の小さな手が彷徨い、キュッと彼の上着を握り締める。まるで、すがるものは彼しかいないとでもいうように。

(う、わ?)
 不意に込み上げてきた奇妙な感覚。

 この腕から放したくない。叶うなら、一生懐の中に包み込んでおきたい。
 渾身の力で抱き締めたいのに、できない。そんなことをしたら壊してしまいそうで、怖い。

 身の内に渦巻く支離滅裂な衝動に、ルーカスは硬直する。

 これは、何なのだ。この身の内にある、熱い何かは。
 回転数が半減した頭で、彼は懸命に考える。

 そして。

 ――守ってやりたい。

 パッと頭にひらめいたのは、その一言。だが、それだけではない。そんな優しいものだけでなく、もっと利己的で強烈な思いも、同じだけの強さで彼の中にひしめき合う。
 守り、慈しみ、そして、自分の、自分一人だけのものにしたい、と。
 その衝動は唐突にルーカスの中に生まれ、そして溢れ出した。
 これまで付き合ってきた女性に対して、いや、老若男女を問わず他の誰に対しても、こんなことを感じたことはない。
 なのに、今、彼は腕の中の華奢な少女に対して全身が痺れるほどに強い想いを抱いていた。
 思わず彼女を包む腕に力がこもる。

 今の今まで、ルーカスは、自分には心なんてものがないのではないのだろうかと思っていた。
 何をしても心底楽しいと思うことがなく、深い仲になった女性が別れの時に流す真珠のような涙にも何も感じたことがなく、是が非でも手に入れたいと思うようなものもなかったのだ。

 それが今は、どうだ。

 蒼褪めた少女の頬に目を落とすだけで、胸が締め付けられる。そこに心というものが存在しているのだと、これでもかというほど主張してくる。
 彼女を守りたいと、彼女を手に入れたいと、痛切に望んだ。

「この私が、誰かを守りたいと思うなんてな」
 ルーカスは、苦笑混じりに呟いた。
 そういうのは、上司のブラッドの性分だ。警邏隊に属している理由も、ブラッドは「皆を守りたい」という真っ当なものだが、ルーカスのそれは単なる暇潰しだ。庇護欲過多な彼のことを、常々呆れ半分で眺めていたというのに。
 今ではブラッドを笑えない。個人に注ぐものと不特定多数に向けるものとでは趣が違うかもしれないが、この『守りたい』という衝動は、対象を目にするたびに居ても立っても居られない気分にさせるのだ。

 そして、同時にルーカスはもう一つの感情を自覚する。

「なんて、ことだ」
 呆然と、彼は呻く。

 腕の中の存在が年端もいかない少女であるとか、どこの誰かも判らないとか。
 そんな些末なことなどどうでも良くなるほどの、強烈で揺るぎない、想い。

 そう――ルーカス・アシュクロフトは、二十代も半ばになろうというこの齢《よわい》にして初めて、恋というものに落ちたのだ。
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