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ルーカス・アシュクロフトという男
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「ウィリスサイドは特に問題ありませんね」
ルーカス・アシュクロフトは、その日の業務報告を上司であるブラッド・デッカーを前にして読み上げる。
二人がいるのは王都ロンディウムウィリスサイド地区警邏隊詰所だ。彼らがここで任に就くことになったのはまだ二ヶ月前のこと。ブラッドは隊長、そしてルーカスはその副官の地位にある。
十代から警邏隊に属しているブラッドに対し、ルーカスは職に就いてからまだ二ヶ月ほどしか過ぎていない。そんな彼は、警邏隊に入ると同時に副隊長という役職を与えられていた。
どうして初っ端からそんな地位にと問われれば、ルーカスがアシュクロフト伯爵家の息子だからだ。
――では、どうして伯爵家のご子息様である彼が『仕事』などという下々の者がするようなことをしているのか。
ほとんどの貴族の仕事というものは領地からの報告を聞くか議会に出るか慈善事業に携わるかがせいぜいで、いわゆる労働というものに手を出すことはない。肉体を使うものなどもってのほかというものだ。
では、空いた時間は何をしているかというと、ほとんどが社交に費やされる。建前には『情報交換』やら『人脈を広げる』やらがあるが、実際のところ、単なる遊興だ。
きらびやかな衣装に身を包み、国のあちらこちらから取り寄せられる食材で作られる贅沢な料理に舌鼓を打ち、様々な芸ごとで目や耳を楽しませる。
貴族が消費することで下々の者が糧を得るのだという言い分もあるが、ルーカスは、そんな毎日に退屈していたのだ。
耳に心地よい社交辞令も、一皮剥けばどんな腹が隠れているやら。
賭け事をしてみても、もとより潤沢な懐がより一層潤うだけ。
ほんの少し微笑みかけて甘い言葉を囁くだけでこの手に堕ちてくる女性たちは、確かに肉体的な快楽を与えてくれる。しかし、寝台の中での束の間の喜びの代償として、会えば我が物顔で絡みついてくるようになられるのには、うんざりだった。
(私には、何かが欠けているのかもしれないな)
ヒトにもモノにも執着できない自分に、時々、ルーカスはそんなふうに思うことがある。とはいえ、それすら、どうでもいいことではあるのだが。
まあ、そんなこんなで社交や遊興に飽いてしまえば、はっきり言って、やることがない。
伯爵家の息子でも三男坊になると家督を継ぐ可能性は低く跡継ぎ教育は回ってこないし、議会で発言する権限もない。
ルーカスは、何もかもが、退屈だった。
だから、何か目先の変わることをしたいと思って警邏隊に入ってみたのだ。しかし、仮にも貴族を平隊員にするわけにもいかず、とは言え経験皆無な者を長にするわけにもいかないから、と、副官という地位に落ち着いたらしい。
ルーカス自身は平でも良かったのだが、一応階級社会のこのグランスではそうもいかないのだろう。
任命されたときはパッと出が突然副官などとはさぞかし反感を買うに違いないと思っていたが、このブラッド・デッカーという男はよほど懐が広いのか、それともどこか鈍いのか、ルーカスのことをすんなりと受け入れた。
二ヶ月ほど共に過ごしてみた感じからすると、多分、前者なのだろう。不正には闘犬のように食らいつく一方で、それ以外のことは、まさに「小さいことは気にしない」――それがブラッドだ。ルーカスは、そんな彼が結構気に入っていた。そして、長がそんな人柄なせいかその部下たちも似たようなもので、ルーカスは『平民の中の貴族』として浮いた存在にならずにいる。
「年の瀬が近いせいか多少酔漢たちが羽目を外していますが、まあ、大きないざこざはありません」
報告を続けたルーカスに、ブラッドが肩をすくめる。
「まあ、死人が出なければ構わないだろう」
「隊長が見回りに行くだけで、不心得者は路地裏に引っ込んでしまいますからね」
これは事実だ。
青みがかった銀髪に銀灰色の目で優男にしか見えないルーカスに対し、茶髪に茶色の目のブラッドは大柄で顔つきもかなりの威圧感がある。実際に接してみると人畜無害この上なく、滅多なことでは手を上げないが、ひとたび力を揮えば鬼神の如し、だ。街の者は皆ブラッドの人となりを知っているから怯えたりはしないが、やましいことがある者は彼の姿を見かけるとすぐさまこそこそと隠れていく。
「別に脅しているつもりはないぞ」
不満そうにぼやいたブラッドに、ルーカスは笑顔で返す。
「まあ、頻度は低いですが、たまにやる立ち回りで、色々噂が出回っていますし。ほら、いつだったか、一人で出かけた時、往来で喧嘩を始めた十人かそこらのチンピラを叩きのめしたことがあったでしょう。あれ、あの界隈では未だにいい語り草になっていますよ。まさに鬼のような戦いぶりだったって」
きっかけは対立するごろつき集団の場所争いか何かだったが、ブラッドはその仲裁に入って、結局両者から攻撃されることになった。ルーカスもその場にいたが、下手に手を出せば邪魔になるだけのような気がして、高みの見物と決め込んだ。結果、組んず解れつの騒ぎが鎮まった後、立っていたのはかすり傷すらついていないブラッド一人だけだったという。
「あれは相手が弱すぎたんだ」
「先日は、暴れ出した馬車馬を力業でねじ伏せたでしょう」
猛る馬の前に無造作にブラッドが仁王立ちになった時は、ルーカスは彼の頭がおかしくなったのかと思ったのだ。
「アレはそれなりにコツがあってだな。ただ力任せという訳ではないぞ」
ボソボソと言い訳めいたことをしていたブラッドだったが、諦めたようにため息をつく。
「まあ、いい。今日はもう休むか」
「そうですね――」
頷き、ルーカスがカップを片付けようと手を伸ばした時だった。
かなり離れた場所から、ガタリと何かがぶつかる音がした。
「何だ?」
眉をひそめたブラッドに、ルーカスが答える。
「玄関、ですかね」
急ぎそちらに向かい、先に辿り着いたブラッドが扉を開く。と、まるでそれにすがっていたかのように、外にいた者が倒れ込んできた。
ルーカス・アシュクロフトは、その日の業務報告を上司であるブラッド・デッカーを前にして読み上げる。
二人がいるのは王都ロンディウムウィリスサイド地区警邏隊詰所だ。彼らがここで任に就くことになったのはまだ二ヶ月前のこと。ブラッドは隊長、そしてルーカスはその副官の地位にある。
十代から警邏隊に属しているブラッドに対し、ルーカスは職に就いてからまだ二ヶ月ほどしか過ぎていない。そんな彼は、警邏隊に入ると同時に副隊長という役職を与えられていた。
どうして初っ端からそんな地位にと問われれば、ルーカスがアシュクロフト伯爵家の息子だからだ。
――では、どうして伯爵家のご子息様である彼が『仕事』などという下々の者がするようなことをしているのか。
ほとんどの貴族の仕事というものは領地からの報告を聞くか議会に出るか慈善事業に携わるかがせいぜいで、いわゆる労働というものに手を出すことはない。肉体を使うものなどもってのほかというものだ。
では、空いた時間は何をしているかというと、ほとんどが社交に費やされる。建前には『情報交換』やら『人脈を広げる』やらがあるが、実際のところ、単なる遊興だ。
きらびやかな衣装に身を包み、国のあちらこちらから取り寄せられる食材で作られる贅沢な料理に舌鼓を打ち、様々な芸ごとで目や耳を楽しませる。
貴族が消費することで下々の者が糧を得るのだという言い分もあるが、ルーカスは、そんな毎日に退屈していたのだ。
耳に心地よい社交辞令も、一皮剥けばどんな腹が隠れているやら。
賭け事をしてみても、もとより潤沢な懐がより一層潤うだけ。
ほんの少し微笑みかけて甘い言葉を囁くだけでこの手に堕ちてくる女性たちは、確かに肉体的な快楽を与えてくれる。しかし、寝台の中での束の間の喜びの代償として、会えば我が物顔で絡みついてくるようになられるのには、うんざりだった。
(私には、何かが欠けているのかもしれないな)
ヒトにもモノにも執着できない自分に、時々、ルーカスはそんなふうに思うことがある。とはいえ、それすら、どうでもいいことではあるのだが。
まあ、そんなこんなで社交や遊興に飽いてしまえば、はっきり言って、やることがない。
伯爵家の息子でも三男坊になると家督を継ぐ可能性は低く跡継ぎ教育は回ってこないし、議会で発言する権限もない。
ルーカスは、何もかもが、退屈だった。
だから、何か目先の変わることをしたいと思って警邏隊に入ってみたのだ。しかし、仮にも貴族を平隊員にするわけにもいかず、とは言え経験皆無な者を長にするわけにもいかないから、と、副官という地位に落ち着いたらしい。
ルーカス自身は平でも良かったのだが、一応階級社会のこのグランスではそうもいかないのだろう。
任命されたときはパッと出が突然副官などとはさぞかし反感を買うに違いないと思っていたが、このブラッド・デッカーという男はよほど懐が広いのか、それともどこか鈍いのか、ルーカスのことをすんなりと受け入れた。
二ヶ月ほど共に過ごしてみた感じからすると、多分、前者なのだろう。不正には闘犬のように食らいつく一方で、それ以外のことは、まさに「小さいことは気にしない」――それがブラッドだ。ルーカスは、そんな彼が結構気に入っていた。そして、長がそんな人柄なせいかその部下たちも似たようなもので、ルーカスは『平民の中の貴族』として浮いた存在にならずにいる。
「年の瀬が近いせいか多少酔漢たちが羽目を外していますが、まあ、大きないざこざはありません」
報告を続けたルーカスに、ブラッドが肩をすくめる。
「まあ、死人が出なければ構わないだろう」
「隊長が見回りに行くだけで、不心得者は路地裏に引っ込んでしまいますからね」
これは事実だ。
青みがかった銀髪に銀灰色の目で優男にしか見えないルーカスに対し、茶髪に茶色の目のブラッドは大柄で顔つきもかなりの威圧感がある。実際に接してみると人畜無害この上なく、滅多なことでは手を上げないが、ひとたび力を揮えば鬼神の如し、だ。街の者は皆ブラッドの人となりを知っているから怯えたりはしないが、やましいことがある者は彼の姿を見かけるとすぐさまこそこそと隠れていく。
「別に脅しているつもりはないぞ」
不満そうにぼやいたブラッドに、ルーカスは笑顔で返す。
「まあ、頻度は低いですが、たまにやる立ち回りで、色々噂が出回っていますし。ほら、いつだったか、一人で出かけた時、往来で喧嘩を始めた十人かそこらのチンピラを叩きのめしたことがあったでしょう。あれ、あの界隈では未だにいい語り草になっていますよ。まさに鬼のような戦いぶりだったって」
きっかけは対立するごろつき集団の場所争いか何かだったが、ブラッドはその仲裁に入って、結局両者から攻撃されることになった。ルーカスもその場にいたが、下手に手を出せば邪魔になるだけのような気がして、高みの見物と決め込んだ。結果、組んず解れつの騒ぎが鎮まった後、立っていたのはかすり傷すらついていないブラッド一人だけだったという。
「あれは相手が弱すぎたんだ」
「先日は、暴れ出した馬車馬を力業でねじ伏せたでしょう」
猛る馬の前に無造作にブラッドが仁王立ちになった時は、ルーカスは彼の頭がおかしくなったのかと思ったのだ。
「アレはそれなりにコツがあってだな。ただ力任せという訳ではないぞ」
ボソボソと言い訳めいたことをしていたブラッドだったが、諦めたようにため息をつく。
「まあ、いい。今日はもう休むか」
「そうですね――」
頷き、ルーカスがカップを片付けようと手を伸ばした時だった。
かなり離れた場所から、ガタリと何かがぶつかる音がした。
「何だ?」
眉をひそめたブラッドに、ルーカスが答える。
「玄関、ですかね」
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