41 / 48
Ⅲ:捨てられ王子の綺羅星
執務室で
しおりを挟む
長らく王の為の机と椅子しか置かれていなかった執務室には、少し前から椅子が一脚増えていた。
寛ぎを重視した安楽椅子だが、もちろん、アレッサンドロが休む為のものではない。そこに座るのは本来のこの国の王であるジーノ・ティスヴァーレだ。アレッサンドロが政務を執り行うようになってから執務室に足を踏み入れることがなかったジーノだったが、今はよほど体調がすぐれない日以外は、ほぼ毎日のようにこの部屋を訪れるようになっている。
そうなったのは、ステラに助けられ、面と向かってアレッサンドロと兄が過去を振り返ることができたことがきっかけだった。
ジーノの身体が多少なりとも回復し始めた数年前から、何か少しでも手伝うことがあればとの提案は彼から為されていた。だが、アレッサンドロは、二度とこの城の者に気を許してなるものかと、差し伸ばされるその手を頑なに拒んできたのだ。
――愚かにも。
(本当に、馬鹿みたいだ)
アレッサンドロは書類に目を通しながら、声に出さずに呟いた。
何も知ろうとせず、頑迷に兄やリナルドたちを責めるばかりだった己が恥ずかしい。
十三年前、自分の目に見えていたものの裏にあったことを聞かされた今となっては、どれほど視野狭窄になっていたかを思い知り、恥じ入るばかりだ。
彼らが差し出してくれていた手をずっと拒み続けてきたのだから、今度はアレッサンドロの方から動くべき。
そう思って始めたことが、ジーノの為の椅子を執務室に用意することだった。
ジーノが執務室にいられるのは、一日の内、わずかな時間だけだ。しかし、それでも、関係修復の足掛かりにはなるだろう。実際、日を重ねるごとに、室内に漂っていたぎこちなさは和らいできていた。
それに、変わったことが、もう一つある。
やってみて自覚したのだが、独りで政務を担うことを、アレッサンドロは相当に重荷に感じていたらしい。国という巨大なものに対する責を分かち合ってくれる者がいるということは、随分気を楽にしてくれるのだ。時折意見を仰ぐもののジーノはほぼただ存在しているだけで、実際の政務の負荷は大して変わっていない。にもかかわらず、彼が執務室にいるようになってから、アレッサンドロは不思議なほど気が楽になった。
自分は誰かの助けなど必要としない人間だと、アレッサンドロは思っていた。守られる側でなく、守る側である、と。そうあるべきだ、と。
だが、それは独りよがりの驕りに過ぎなかったのだ。
(ガキだな、俺は)
アレッサンドロは小さく息をこぼし、署名を終えた書類を揃える。そうして、地方からの嘆願書に目を通している兄に声をかけた。
「兄上、そろそろ部屋にお戻りください」
「ん? ああ」
答えて、ジーノは時計に目を走らせる。時刻はもう昼間近だ。
「もうこんな時間か」
彼は少し驚いたようにそう言った。時間を気にせずにいられるようになったということは、それだけ体力がついたということなのだろう。良い兆候だ。
医学は日々前に進んでいる。
また近々、北方の医師を招く予定だ。それでまた、何か良い治療法が見つかるだろう。
そんなことを考えていたアレッサンドロに、ジーノの静かな声が届く。
「昼食にはまだ間があるな。……少し話をしたいが、いいか?」
アレッサンドロは眉根を寄せてジーノを見返した。そんなふうに改まらずとも、真相を知ってから、皆の話にちゃんと耳を傾けるようにしているはずだ。
「何ですか?」
怪訝な眼差しを向けたアレッサンドロをしばし見つめ、ジーノは口を開く。
「ステラのことだ」
一瞬、アレッサンドロは息を詰めた。それをジーノに気付かれぬよう静かに吐き出し、問い返す。
「彼女が何か?」
「彼女『が』というか、彼女『を』だな」
「?」
兄の意図を読めずにいるアレサンドロに、ジーノは続ける。
「お前はステラをどうするつもりなんだ?」
「どう、とは?」
「彼女をここに招いてから、もうずいぶん経つ。そろそろ、この先どうするかを考えてもいいのではないか?」
この、先。
アレッサンドロは奥歯を食いしばった。
それは、常に目の前にぶら下がっていたにもかかわらず、ずっと見まいとしてきたことだった。
黙り込んでいるアレッサンドロを、ジーノは彼と同じく口をつぐんで見つめている。
あれ以来、ステラとは話をしていない。挨拶やちょっとした言葉を交わすことはあっても、会話らしい会話はしていない。アレッサンドロは何を言っていいのか判らなかったし、ステラの方は、どことなく彼を避けているようにも見えたからだ。
いつまでも、ステラをここに引き留めておくわけにはいかない。
それは嫌というほど理解していたが、アレッサンドロは、『今』から動きたくなかった。
――ステラが傍にいない日々に、戻りたくなかった。
答えを出せないアレッサンドロの代わりに、ジーノが現実を目の前に突き付けてくれる。
「ステラをここに招いたのは、私だ。私が一言口にすれば、彼女はここを去るだろう」
その台詞に、アレッサンドロはビクリと反応してしまう。ジーノはそれに気付かぬふうに、淡々と言葉を継いだ。
「どうする? お前は、それでいいのか?」
まるで、アレッサンドロが頷けば、すぐにでもそうしそうな口振りだった。
アレッサンドロの中に、焦燥が込み上げる。
ステラには、ステラの人生がある。
ただ傍にいて欲しいからというだけで、無為に自分の傍に縛り付けておくわけにはいかない。
(それは、判ってる。判っているんだ)
どれだけ考えようとも答えを出すことは難しい。いや、本当は、正しい答えはもう判っている。判っているが、それを呑み込みたくないだけなのだ。ステラにとって正しいことが、アレッサンドロにとって望ましいこととは限らないから。
アレッサンドロは卓の下で拳を固める。うつむいていた彼は、そんな弟に向けるジーノの思案深げな眼差しには気付かなかった。
寛ぎを重視した安楽椅子だが、もちろん、アレッサンドロが休む為のものではない。そこに座るのは本来のこの国の王であるジーノ・ティスヴァーレだ。アレッサンドロが政務を執り行うようになってから執務室に足を踏み入れることがなかったジーノだったが、今はよほど体調がすぐれない日以外は、ほぼ毎日のようにこの部屋を訪れるようになっている。
そうなったのは、ステラに助けられ、面と向かってアレッサンドロと兄が過去を振り返ることができたことがきっかけだった。
ジーノの身体が多少なりとも回復し始めた数年前から、何か少しでも手伝うことがあればとの提案は彼から為されていた。だが、アレッサンドロは、二度とこの城の者に気を許してなるものかと、差し伸ばされるその手を頑なに拒んできたのだ。
――愚かにも。
(本当に、馬鹿みたいだ)
アレッサンドロは書類に目を通しながら、声に出さずに呟いた。
何も知ろうとせず、頑迷に兄やリナルドたちを責めるばかりだった己が恥ずかしい。
十三年前、自分の目に見えていたものの裏にあったことを聞かされた今となっては、どれほど視野狭窄になっていたかを思い知り、恥じ入るばかりだ。
彼らが差し出してくれていた手をずっと拒み続けてきたのだから、今度はアレッサンドロの方から動くべき。
そう思って始めたことが、ジーノの為の椅子を執務室に用意することだった。
ジーノが執務室にいられるのは、一日の内、わずかな時間だけだ。しかし、それでも、関係修復の足掛かりにはなるだろう。実際、日を重ねるごとに、室内に漂っていたぎこちなさは和らいできていた。
それに、変わったことが、もう一つある。
やってみて自覚したのだが、独りで政務を担うことを、アレッサンドロは相当に重荷に感じていたらしい。国という巨大なものに対する責を分かち合ってくれる者がいるということは、随分気を楽にしてくれるのだ。時折意見を仰ぐもののジーノはほぼただ存在しているだけで、実際の政務の負荷は大して変わっていない。にもかかわらず、彼が執務室にいるようになってから、アレッサンドロは不思議なほど気が楽になった。
自分は誰かの助けなど必要としない人間だと、アレッサンドロは思っていた。守られる側でなく、守る側である、と。そうあるべきだ、と。
だが、それは独りよがりの驕りに過ぎなかったのだ。
(ガキだな、俺は)
アレッサンドロは小さく息をこぼし、署名を終えた書類を揃える。そうして、地方からの嘆願書に目を通している兄に声をかけた。
「兄上、そろそろ部屋にお戻りください」
「ん? ああ」
答えて、ジーノは時計に目を走らせる。時刻はもう昼間近だ。
「もうこんな時間か」
彼は少し驚いたようにそう言った。時間を気にせずにいられるようになったということは、それだけ体力がついたということなのだろう。良い兆候だ。
医学は日々前に進んでいる。
また近々、北方の医師を招く予定だ。それでまた、何か良い治療法が見つかるだろう。
そんなことを考えていたアレッサンドロに、ジーノの静かな声が届く。
「昼食にはまだ間があるな。……少し話をしたいが、いいか?」
アレッサンドロは眉根を寄せてジーノを見返した。そんなふうに改まらずとも、真相を知ってから、皆の話にちゃんと耳を傾けるようにしているはずだ。
「何ですか?」
怪訝な眼差しを向けたアレッサンドロをしばし見つめ、ジーノは口を開く。
「ステラのことだ」
一瞬、アレッサンドロは息を詰めた。それをジーノに気付かれぬよう静かに吐き出し、問い返す。
「彼女が何か?」
「彼女『が』というか、彼女『を』だな」
「?」
兄の意図を読めずにいるアレサンドロに、ジーノは続ける。
「お前はステラをどうするつもりなんだ?」
「どう、とは?」
「彼女をここに招いてから、もうずいぶん経つ。そろそろ、この先どうするかを考えてもいいのではないか?」
この、先。
アレッサンドロは奥歯を食いしばった。
それは、常に目の前にぶら下がっていたにもかかわらず、ずっと見まいとしてきたことだった。
黙り込んでいるアレッサンドロを、ジーノは彼と同じく口をつぐんで見つめている。
あれ以来、ステラとは話をしていない。挨拶やちょっとした言葉を交わすことはあっても、会話らしい会話はしていない。アレッサンドロは何を言っていいのか判らなかったし、ステラの方は、どことなく彼を避けているようにも見えたからだ。
いつまでも、ステラをここに引き留めておくわけにはいかない。
それは嫌というほど理解していたが、アレッサンドロは、『今』から動きたくなかった。
――ステラが傍にいない日々に、戻りたくなかった。
答えを出せないアレッサンドロの代わりに、ジーノが現実を目の前に突き付けてくれる。
「ステラをここに招いたのは、私だ。私が一言口にすれば、彼女はここを去るだろう」
その台詞に、アレッサンドロはビクリと反応してしまう。ジーノはそれに気付かぬふうに、淡々と言葉を継いだ。
「どうする? お前は、それでいいのか?」
まるで、アレッサンドロが頷けば、すぐにでもそうしそうな口振りだった。
アレッサンドロの中に、焦燥が込み上げる。
ステラには、ステラの人生がある。
ただ傍にいて欲しいからというだけで、無為に自分の傍に縛り付けておくわけにはいかない。
(それは、判ってる。判っているんだ)
どれだけ考えようとも答えを出すことは難しい。いや、本当は、正しい答えはもう判っている。判っているが、それを呑み込みたくないだけなのだ。ステラにとって正しいことが、アレッサンドロにとって望ましいこととは限らないから。
アレッサンドロは卓の下で拳を固める。うつむいていた彼は、そんな弟に向けるジーノの思案深げな眼差しには気付かなかった。
0
お気に入りに追加
28
あなたにおすすめの小説


王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。
ふまさ
恋愛
楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。
でも。
愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。

ごめんなさい、お姉様の旦那様と結婚します
秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
しがない伯爵令嬢のエーファには、三つ歳の離れた姉がいる。姉のブリュンヒルデは、女神と比喩される程美しく完璧な女性だった。端麗な顔立ちに陶器の様に白い肌。ミルクティー色のふわふわな長い髪。立ち居振る舞い、勉学、ダンスから演奏と全てが完璧で、非の打ち所がない。正に淑女の鑑と呼ぶに相応しく誰もが憧れ一目置くそんな人だ。
一方で妹のエーファは、一言で言えば普通。容姿も頭も、芸術的センスもなく秀でたものはない。無論両親は、エーファが物心ついた時から姉を溺愛しエーファには全く関心はなかった。周囲も姉とエーファを比較しては笑いの種にしていた。
そんな姉は公爵令息であるマンフレットと結婚をした。彼もまた姉と同様眉目秀麗、文武両道と完璧な人物だった。また周囲からは冷笑の貴公子などとも呼ばれているが、令嬢等からはかなり人気がある。かく言うエーファも彼が初恋の人だった。ただ姉と婚約し結婚した事で彼への想いは断念をした。だが、姉が結婚して二年後。姉が事故に遭い急死をした。社交界ではおしどり夫婦、愛妻家として有名だった夫のマンフレットは憔悴しているらしくーーその僅か半年後、何故か妹のエーファが後妻としてマンフレットに嫁ぐ事が決まってしまう。そして迎えた初夜、彼からは「私は君を愛さない」と冷たく突き放され、彼が家督を継ぐ一年後に離縁すると告げられた。

前世の恋の叶え方〜前世が王女の村娘は、今世で王子の隣に立ちたい〜
天瀬 澪
恋愛
村娘のエマには、前世の記憶があった。
前世の王女エマリスとしての人生は呆気なく幕切れしてしまったが、そのときの護衛騎士に対する想いをずっと引きずっていた。
ある日、エマは森の中で倒れている第二王子のレオナールを発見する。
そして、衝撃の事実が判明した。
レオナールの前世は、王女エマリスの護衛騎士であり、想い人でもあるレオだったのだ。
前世では《王女》と《護衛騎士》。
今世では《村娘》と《王子》。
立場の違いから身を引こうとしたエマだったが、レオナールが逃がしてはくれなかった。
それならばと、村娘のエマとして、王子であるレオナールのそばにいることのできる立場を目指すことに決める。
けれど、平民であるエマが歩く道は、決して平坦な道ではなかった。
それでもエマは諦めない。
もう一度、大好きな人のそばに立つために。
前世で蓄えた知識と経験は、やがてエマの存在を周囲に知らしめていく―――…。
前世の記憶に翻弄されながら逆境に立ち向かう、成り上がり恋愛ファンタジー。

旦那様に愛されなかった滑稽な妻です。
アズやっこ
恋愛
私は旦那様を愛していました。
今日は三年目の結婚記念日。帰らない旦那様をそれでも待ち続けました。
私は旦那様を愛していました。それでも旦那様は私を愛してくれないのですね。
これはお別れではありません。役目が終わったので交代するだけです。役立たずの妻で申し訳ありませんでした。

【完結】お飾りではなかった王妃の実力
鏑木 うりこ
恋愛
王妃アイリーンは国王エルファードに離婚を告げられる。
「お前のような醜い女はいらん!今すぐに出て行け!」
しかしアイリーンは追い出していい人物ではなかった。アイリーンが去った国と迎え入れた国の明暗。
完結致しました(2022/06/28完結表記)
GWだから見切り発車した作品ですが、完結まで辿り着きました。
★お礼★
たくさんのご感想、お気に入り登録、しおり等ありがとうございます!
中々、感想にお返事を書くことが出来なくてとても心苦しく思っています(;´Д`)全部読ませていただいており、とても嬉しいです!!内容に反映したりしなかったりあると思います。ありがとうございます~!
【コミカライズ2月28日引き下げ予定】実は白い結婚でしたの。元悪役令嬢は未亡人になったので今度こそ推しを見守りたい。
氷雨そら
恋愛
悪役令嬢だと気がついたのは、断罪直後。
私は、五十も年上の辺境伯に嫁いだのだった。
「でも、白い結婚だったのよね……」
奥様を愛していた辺境伯に、孫のように可愛がられた私は、彼の亡き後、王都へと戻ってきていた。
全ては、乙女ゲームの推しを遠くから眺めるため。
一途な年下枠ヒーローに、元悪役令嬢は溺愛される。
断罪に引き続き、私に拒否権はない……たぶん。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる