凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<彼女がいない世界で>

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「よう、颯斗はやと。今度の土曜、遊びに行かね?」

 陽気な声をかけてきたのは、今井隆いまい たかしだ。
 颯斗は肩に掛けた鞄を揺すり上げながら彼を振り返る。

「土曜?」
「ああ。映画のタダ券もらったんだよ。二枚」
「勉強しなくていいのか? 今月末模試だろ」
「たまには息抜きしないと頭がパンクする」

 言いながら回した隆の首が、ゴキリといい音を立てた。

「まあ、俺はいいけど」
桃子とうこと行こうと思ってたのにさ、あいつは雨宮あまみやと約束があるんだってさ。ったく、彼氏よかあっちの方が優先なんだよなぁ……」
「いつものことだろ」

 深々とため息をついた友人の台詞をあっさりとそう流して、颯斗は肩をすくめた。
 隆はしょっちゅう木下のことで同じような不満をぼやいているが、なんだかんだ言って彼は彼女のそういうところも好きなのだ。

(俺だったら、他の奴を優先されるのなんて、我慢できないけどな)

 腹の中でそう呟きながら、颯斗は携帯で予定を確認する。

 三年生の夏休みも終わり、いよいよ本格的な受験シーズンに突入したが、颯斗は進路をIT系の専門学校に決めているので勉強よりもバイトに時間を割いていた。
 そして、バイトをするようになった分だけ、利音りねに行く時間は減った。今は客として月に数度行くくらいだ。行ったとしても、長居はしない。あの店にいると綾音あやねがいないのだということを実感してしてしまって、正直、つらかった。
 進路に専門学校を選んだ颯斗に教師や義父は有名大学の名前をいくつも勧めてきたけれど、四年制大学は無駄な時間が多すぎる。まだ夏休み前で、特に教師たちは未練たらたらだったが、颯斗は決めた道を変える気はなかった。

 綾音たちが行ってしまってから少しして、彼は独り暮らしのアパートも引き払った。
 以前から同居するように再三促してきていた義父の家に住まわせてもらうことにしたのだ。
 誰かと一緒に暮らす生活など、最初のうちは戸惑うことばかりだったが、屈託なく打ち解けてくる美奈子みなこのお蔭もあって、じきに慣れた。彼女の効果は颯斗と母親との関係にも変化をもたらしていて、ぎこちなさは残るものの、今では結構普通に会話を交わすようになっている。
 同居の流れで専門学校の費用も出そうと義父は言ってくれたが、颯斗は、まずは自力でやってみたいと答えた。どうしても足りなかったら出世払いで世話になるから、というのが妥協点だ。
 学費と入学後の当座の資金を稼ぐためのバイトは結構タイトなスケジュールだが、隆が言う日は十八時からファミリーレストランのシフトが入っているだけだった。

「……その日は夕方までなら付き合える」
「よく働くなぁ。もうだいぶ貯まったのか?」
「まあ、半分くらいは」
「へえ、すげぇな。じゃ、昼めし食ってからにしようぜ」
「わかった」
 颯斗は予定を入力しながら頷いた。

 と。

「あの、有田君、ちょっといいかな?」
 背後から、女子の声が呼びかけてきた。

 振り返ると、そこにいるのは見覚えのない女生徒だ。
 誰だろうと眉をひそめた颯斗に、隆がこっそり耳打ちする。

「山中だよ。一年の時に同じクラスだった」

 名前を言われても、まったく覚えがない。

「何か用?」

 他に返しようがなくてそう訊くと、隆から盛大なため息が漏れた。わざとらしいその反応にムッとするが、颯斗が彼に何か言おうとするより先に、山中がまた口を開く。

「あのさ、あたし、話あるんだけど……一緒に来てもらえる?」

 何やら必死感みなぎる彼女の雰囲気に、颯斗も『否』とは言えなくなる。

「どこ?」
「えっと、じゃあ――視聴覚教室とか……先行って待ってるね!」

 言うなり彼女は駆け出し、颯斗は呆気に取られてその背中を見送ってしまう。

「何なんだ?」
 思わずつぶやいた颯斗の耳に、またため息が届く。
「……何だよ?」
「女の子が『誰もいないとこで話がある』って言ったら、アレしかないだろ」
「『アレ』?」
「告白だよ、告白」

 隆は、「なんで判らないかな」と言わんばかりの顔だ。

「……行ってくる」

 憮然として席を立つ颯斗の耳に、小さな笑い声が届く。
 声の主はもちろん隆だった。その何の脈絡もない笑いの意味を量りかねて、颯斗はイラッとする。そんな彼の顔を見て、隆はヒラヒラと手を振った。

「イヤぁ、お前、困ってるよな、と思ってさ」
「なんでそれが面白いんだ?」
「面白いっていうか……人って変われば変わるもんだなぁ、と」
 そう言って、隆はポンポンと颯斗の肩を叩く。
「困ってるってことは、相手のことを考えてるってことだろ。昔のお前は、こういうの、全然困ってなかったよな――ただ、迷惑だってツラするだけで。下手したらその場で『何の用?』とか言ってたじゃん。で、告られると即却下、とかさ」

(そんなにひどいヤツか?)

 一瞬そう思って反論しようとした颯斗だったが、やめる。確かに隆の言うとおりだったから。

「じゃあな」
「がんばれよ」

 何に対してなのかよく判らない励ましの声を背に受け、颯斗は教室を出る。
 視聴覚教室への廊下を歩きつつ、彼は山中というあの女子とどんな言葉を交わしたら良いのかを考えた。

 そもそも面識のない生徒が何の用だ、という感じだし、もしも彼女の用件が隆の言うように恋愛絡みのことだったとしても、颯斗はそれに応えられない。
 迷いながらの歩みでも山中が待つ部屋にはあっという間に着いてしまって、結局颯斗は何の準備もできないままその戸を引き開けた。

 窓際に立っていた山中は、戸が開くその音でパッと振り返る。颯斗の姿を目にして、あからさまに安堵の表情が浮かんだ。

「良かった……」

 思わず、というようにそんな一言が漏れたのは、颯斗にすっぽかされると思っていたからなのだろう。
 彼女にも、そんな人間なのだと思われていたわけだ。

 まあ、仕方がないかもしれないが。

 戸を閉めて山中の方へ近付いていくと、距離が縮まるにつれて彼女の肩が身構えるように強張った。
 二歩分ほど距離を開けて足を止め、彼女の正面に立つ。

「で、用は?」
「一年生の頃から好きだったの」

(――単刀直入も度が過ぎるんじゃないか?)

 前置きなく隆が言った通りの展開をぶちまけた山中に、颯斗はさすがに呆気に取られる。
 黙ったままの颯斗に、彼女は少し顎を引いて、彼の表情を窺うように上目遣いになった。

「えっと……同じクラスだったんだけど、覚えてる?」
 嘘は、つけなかった。
「――悪い」

 申し訳ないような気持ちでかぶりを振った颯斗に、山中は一瞬ガッカリした顔になり、それから明るく笑った。

「あはは、そうだよねぇ。あたし、地味だし」

 諦め半分、自嘲半分の彼女の台詞は、颯斗の胸をチクチク刺す。
 あの頃、問題があったのは颯斗の方で、山中の方ではなかったからだ。
 正直言って、一年生の同級生など、隆と木下しか記憶にない。

(どんだけ視野が狭かったんだよ)

 ため息をつきたい気持ちだったが、そんなことをしたら、多分、いや確実に、彼女の誤解を招くだろう。

「山中さんがクラスで一番派手だったとしても、多分俺は覚えてないと思う」
「なんかそれも微妙な返事だねぇ」
 そう言いつつも、彼女の顔は少し明るくなった。
「じゃあ、とりあえずあたしのこと知ってくれたわけだけど、えっと、どうかな、あたしとお付き合い、してくれない――か、な?」

 山中は少し顎を引いて、窺うように颯斗を見る。緊張を和らげようとしているのか、口元には気弱げな笑みを浮かべているが、目はこの上なく真剣だった。

 はっきり言って、気まずい。
 他人に『否』というのが、これほど難しいことだとは知らなかった。
 しかし、どれだけ気まずかろうが、彼の中にある答えは一つしかないわけで。

「俺は――」
 ――好きな人がいる。
 そう言おうとした。

 が。

「あ、あ、あのね、友達! 友達でいいから! まずはお友達で!」
 颯斗が口を開きかけると同時に、山中は両手を振りながらそうまくしたてた。
「せめて、あたしっていう人間がいたってことくらいは、有田君に知っておいて欲しいの」

 彼女はそう言うが、彼の中では固まってしまっているものがあるのだから、適当にはしておけない。

「多分俺は、山中さんに恋愛感情は持てない」

 颯斗は、断言した。
 山中は一瞬怯んだように唇を噛んだけれども、すぐにまた真っ直ぐに顔を上げる。

「あの、文化祭に来た女の人がいるからだよね」

 虚を突かれた颯斗は、即座に返すことができなかった。
 無言の彼に、山中が小さく微笑む。

「あのさ、あたし、中学校も有田君と一緒だったんだよ」
「中学、も?」

 申し訳ないが、全然、覚えてない。
 心の中でのその声が聞こえたかのように、山中は「はは」と諦めを含んだ乾いた笑いを漏らす。

「やっぱり、覚えてないよねぇ。そうだと思ってた。まあ、いいよ、わかってたから。でね、有田君のことが好――気になりだしたのは、あの文化祭からだったの」
 彼女はそう言って、視線を窓の外へと向けた。
「あの時までの有田君って、近寄りがたいっていうか、ちょっと怖いっていうか……だったんだよね。でもさ、あの人といた時、有田君、ちょっと笑ったんだ」
 よそを向いたままで、ポソリと言った。
「その笑顔が、ねぇ。なんか、ズバッとやられちゃってさ」
 また颯斗の方に向き直った彼女の口元には、笑みが浮かんでいる。

「でさ、有田君にあんなふうにさせられるのも、すごいよなぁとか思ったりして。無理なの判ってるけど、あたしにもできたらなぁ、とか。……そんなふうに思い始めたのが、始まり」

 山中は照れ臭そうに、肩ほどまでの長さの彼女らしい真っ直ぐな髪をくしゃくしゃと乱して頭を掻く。

「あの人と、お付き合いしてるんでしょ?」

 一瞬、颯斗は適当にごまかそうかと思った。
 だが、彼女は率直に話してくれたのだ。

「綾音は――彼女は、今はちょっと遠いところにいる。一年くらい前から」

 その事実がやっぱりまだ痛くて、颯斗の声は硬いものになってしまう。表情も、少し強張ったのかもしれない。

 山中はポカンと口を開け、そして息を呑むようにして閉じた。

「そ、っか……それは、寂しいね」

 寂しい、なんてものじゃない。
 綾音が旅立ってもう一年近くになろうというのに、颯斗は、彼女が傍に居ないという事実に未だ馴染めないでいる。
 ふとした時に、息ができなくなったような胸苦しさに襲われるのだ。
 この感覚にいつか慣れることができるとも思えなかった。

 黙りこくった颯斗に、おずおずとした山中の声がかけられる。

「でも、さ、あのひと、有田君のこと、すっごく好きだよね」
「……はあ?」

 あの時の綾音の態度のどこを見たらそう思えるのか。
 思い切り不可解そうな顔をした颯斗に、山中は呆れたような、そして気の毒そうな目を向ける。

「そんなの、一目瞭然ってやつよ。っていうか、一緒にいて気付かなかったの?」

 気付くわけがない。
 当時の綾音のどこを見たらそんなふうに思えるのか、今からでもいいから教えてもらいたいところだ。叶うことなら、それを聞いたら時間をさかのぼって彼女の許に行き、今とは違う結末になるように行動する。

 そんなふうに考えてしまって、颯斗は奥歯を噛み締めた。
 けっして実現することはない願望は、思うだけ虚しいものだ。
 その虚しさで、颯斗の心のタガが緩む。

「……けど、彼女は俺を置いていった」
 言う気はさらさらなかったのに、つい、口からこぼれた。
「――なんでもない」

 唇を引き結んだ颯斗を、山中はしげしげと見つめてくる。

「うわ、新鮮……拗ねる有田君って」
「別に拗ねてなんかいない」
「そう? なんか、母さんに一緒に買い物に連れて行ってもらえなかった時のうちの弟に似てるけど」
「弟?」
「そう。母さんは理由があって置いていってるんだけど、弟は全然聞かないの。ダダこねるばっかで」

 ムッと颯斗は山中を睨み付けたが、彼女は軽く肩をすくめて返した。

「まあさ、取り敢えずは、彼女さんが行っちゃった理由っての、考えてみたら?」
「綾音が、行った理由……」
「そ。何となく、それが解からないままだと、戻って来てくれないんじゃないかなって気がするんだけどな」

 首をかしげながらの彼女の言葉は、颯斗の胸の中にズシリと沈み込んだ。

「山中は、綾音のことなんか何も知らないじゃないか。彼女のことなんか、解かるはずがない」

 そこにも『拗ねるような』響きが含まれていることに、今度は、颯斗自身も気付いていた。だから余計に、腹立たしい。
 不機嫌そうに眉間にしわを刻んだ颯斗を、山中は、クスリと笑う。やけに大人びた顔で。

「解かるよ」

 そう答えた山中の眼差しは、何故か、今は遠く離れた地にいる綾音を思い出させた。

(解かるわけがない)

 声に出さずにそう返したけれど、多分彼女の言うことは正しいのだと、彼にもなんとなく判っていた。

(ああ、クソ)

 綾音に、逢いたくてたまらない。
 逢いたくて、声を聴きたくて、触れたくて。
 なのに綾音は頑ななまでに颯斗と距離を置き、電話一本、メール一本送ってこようとしない。

(綾音の考えていることなんて、俺にはさっぱり解からない)

 ――けれど、多分山中が言うように、理解しなければ、ならないのだ。

 別離を決めた綾音が、何を考え、何を恐れ、何を求めたのか。
 颯斗に、どうなって欲しいと願っているのか。
 誰かに教えられるのではなく、自分自身で見つけ出さなければならない。

 ――綾音がいない、この世界で。

 両手をきつく握り締めた颯斗を見て、山中が小さく微笑んだ。

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