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<見え始めた歪み>
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夏休みに入ってから、颯斗は朝から晩まで利音の店に居た。もちろん、綾音も一緒に。
開店一時間前にはやって来て、閉店二時間後に帰る。
十二時間以上をそこで過ごしていて、まさに、家では眠るだけ――いや、夏休みの課題をやって眠るだけという状況だった。
利音がこれ幸いとばかりにあれやこれやと用を言いつけてくる一方で、颯斗に向けられる綾音の視線は、いつも何か言いたげにしている。
邪険にしているわけではない、が、彼が終日店にいるということを綾音はあまり良く思っていないようだということは伝わってきた。
その眼差しは、強いて言うなら、心配そう、か。
けれど、何故、綾音がそんな案じるような目で彼を見てくるのかは判らない。
(荘一郎のせいだ)
颯斗は彼女のその視線から目を逸らしつつ、胸の中でこぼした。
彼が帰ってきてからというもの、綾音との間がどこかぎくしゃくしているのだ。
今、荘一郎は、休職して川に流された時に負った怪我のリハビリで病院通いをしている。もちろん、病院に行っている時間なんて数時間だけで、つまり、それ以外は暇にしているということだ。
荘一郎の友人たちは当然昼間は働いているからその暇を潰す為の場所と相手は限られていて、結果、彼も颯斗に負けず劣らず店に入り浸るようなことになっていた。
今も利音や綾音と楽しそうに笑み交わしていて、颯斗はついモップの扱いが手荒くなってしまう。
綾音が男として好きなのは颯斗の方なのだということはわかっているし、彼女のその気持ちを信じてもいる。
けれど、やっぱり、荘一郎は綾音にとって別格の存在なのだ。
その彼と綾音が自分の知らない間に一緒にいると思うと、居ても立ってもいられなくなる。だから、颯斗も余計に店から離れられなくて。
(いっそ、綾音をどこかに連れ出してやろうか)
そうは思うけれど、颯斗が綾音をどこかに誘っても、きっと彼女は荘一郎を連れて行きたがるだろう。
(くそ)
胸の中で罵りを呟く颯斗の苛立ちなど全く気付いた様子なく、能天気に荘一郎が笑う。
「なあ、颯斗。お前、こんなにここに居っ放しでいいのか? 高二の夏休みっちゃぁ一番中だるみだろ? 僕なんか勉強そっちのけでダチとあちこち行ったもんだけどなぁ? 高校生なら泊まりもありだろ?」
荘一郎のそんな言葉に、利音ものってくる。
「そうよねぇ。私も高二の夏休みなんて一週間も家にいなかったわよ?」
「そりゃちょっとやり過ぎだろ」
「だって泊まり込みのバイトとかもあったし」
「ああ、あの軽井沢行ったやつか?」
「そ。楽しかったわぁ。後輩の子、連れてったんだけどね、この子がまた失敗ばっかで泣きそうになるからもう可愛くて可愛くて……」
「お前はさぁ、可愛いなら普通に可愛がってやれよ」
「あら、可愛がってたわよ」
「お前の可愛がり方は、ちょっと伝わりづらいよ、多分」
――年長二人はどんどん話がずれていっていることに気付いていない。
そんな彼らにため息をこぼすと、颯斗はふと視線を感じた。首を巡らせると綾音がジッと颯斗を見つめている。その眼差しはもの問いたげで。
颯斗は、綾音が何を言いたいのかは判っていた。
最近――荘一郎が戻ってきてからは特に――彼女は颯斗に、この店以外で、綾音たち以外の誰か他の人間と過ごす時間を作るようにと言うようになってきたからだ。
なぜ、そんなことを言うのか。
なぜ、今になって、言い出したのか。
(荘一郎が帰ってきたら、とか……?)
もう綾音に颯斗は必要なくなったのかもしれない。
そんなことを思ってはいけないし、全然筋違いの邪推だということも判っているけれど、あまりにしつこく綾音がこの店から離れることを勧めるからどうしても考えが嫌な方向に向かってしまう。
もちろん、隆からは夏休みに入って早々に、海やら山やらへの誘いがあった。
が、こんなにもやもやしていては、とてもじゃないが、行ける気分じゃない。
「颯斗君は、どこか――」
案の定訊いてきた彼女の機先を制する。
「綾音といる方がいい」
むっつりとそう答えた颯斗の声を聞き付けて、振り返った荘一郎がにやにやと笑う。
「なんだよ、アヤとほんのちょっとでも離れてられないってか?」
「ああ」
一瞬たりとも迷うことなく即答すると、今度は鼻白んだ。
「……なんだか、ちょっと前のアヤみたいだな」
荘一郎のその台詞と共に、ガチャン、と音がした。洗い物をしていた綾音が、何か取り落としたらしい。
「何か割った?」
颯斗が訊くと、綾音はうつむいたままで彼と目を合わそうともせず、かぶりを振る。
「だいじょうぶ。……ちょっとトイレ」
あからさまに不自然な態度ではあったが、『トイレ』と言われたら追いかけるわけにもいかない。
モヤモヤしながら店の奥へと入っていく彼女を見送る颯斗の耳に、やれやれと言わんばかりのため息が聞こえた。
「……なんだよ?」
睨み付けても、呆れたような荘一郎の眼差しは変わらない。見れば、利音も同じような目を颯斗に向けていた。そうして、仕方がないけど、といわんばかりの口調で言う。
「まあ、あんたはあの頃のあの子、知らないしねぇ」
『あの頃』とは、引きこもっていた頃のことだろうか。
颯斗はムッと唇を引き結ぶ。
「俺だって、できるもんなら知りてぇよ」
ブスリと答えた彼に、荘一郎と利音が苦笑した。それと共に、なんとなく、二人の雰囲気が和らぐ。
「まあ、な。そりゃ無理だもんな。悪かったよ」
荘一郎は手を伸ばし、颯斗の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。それを払いのけ、髪を掻き上げながら颯斗は彼を睨み付ける。
「いつまでも子ども扱いするなよ」
不機嫌さを隠さずそう言った彼に、荘一郎は眉を上げた。
「なんだよその顔」
「別にぃ……。あのなぁ、颯斗。多分、綾音が僕に抱いていたのは、父親とか兄とかに対する気持ちみたいなものだったんじゃないのかな」
唐突な内容ではあったが、その台詞で、荘一郎が言わんとしていることが知れる。
「……解かってるよ」
それは、颯斗もよく解かっている。
だが。
「……荘一郎は、綾音のことを好きなんだろ?」
どうしても、声に拗ねたような響きがにじんでしまう。けれど綾音に対して特別な想いを抱いていて、彼女自身も最上級に大事に想っている男が近くをウロウロしていることが、どうにも心をざわつかせるのだ。
ほとんど睨み付けるようにして返事を待つ颯斗に、荘一郎は一瞬きょとんと眼を丸くしたが、すぐにフッと穏やかな笑みを浮かべた。
「……この世で一番幸せにしてあげたいと思っているよ」
微妙に、ぼかした答え。けれども、とてつもなく想いが込められている、答え。
――俺だってそう思ってる。
颯斗はそう言いたかったけれど、口が動かなかった。
同じ台詞を吐いたところで、その力は荘一郎のものには遠く及ばないのだということが、イヤというほど解かっていたから。
黙ったままの颯斗に、荘一郎はカウンターに頬杖を突いて、遠いどこかを眺めるような眼差しになる。
「初めてアヤに会ったのは、利音ンとこに遊びに来た時だったかな。利音の陰に隠れて挨拶してきてね、可愛かったな。小さくて、片手に乗せられるんじゃないかと思っちゃったよ。しょっぱなっからノックアウトされたな。こんな幼気な存在は何としても護らなければならないと思ったんだ。会っているうちに段々懐いてくると、またこれがいっそう可愛くてね」
どんな顔をしながらそんな惚気るようなことを吐いているのかと思って見てみれば、そこにあるのは穏やかで温かな、ただただ包み込むような、笑みだった。
自分は、綾音を想いながらこんな顔はできない。
颯斗は強く手を握り込む。
綾音に関することで、荘一郎にできて自分にはできないことがあるということが、嫌だった。
颯斗のその苛立ちを感じ取ったかのように、荘一郎がチラリと彼を見る。
「濁流に揉まれていた時、僕の頭の中にあったのはあの子を悲しませてはいけないという気持ちだけだった。それが僕を生にしがみつかせたんだと思うよ。僕が死んだら、あの子は生きていけない、だから僕は生きなきゃいけない――ってね」
「綾音は、大丈夫だったんだ」
本当は、『大丈夫』とは程遠い二年間を過ごしてきたけれど、颯斗は荘一郎を睨むようにしてそう言った。
荘一郎がいなくても綾音は大丈夫だったのだ、彼の『死』を乗り越えることができたのだ、と。
半ば挑む気持ちで颯斗が発した言葉を、しかし、荘一郎は小さく笑って受け取った。それは、いつも彼が綾音に向けて浮かべるものと、よく似ていて。
「そうだな」
平然と嬉しそうに頷くから、颯斗はまた正体不明の敗北感に襲われる。
悔しくて唇を引き結んだ彼に、荘一郎は、今度は少し困ったような、静かな笑みを浮かべた。そうして、ついさっき颯斗が放った言葉を繰り返す。
「アヤは、もう大丈夫だ」
自分の発言に賛同するその台詞に、何故か颯斗は引っ掛かりを覚える。
――アヤ『は』、大丈夫。
(なら、何が大丈夫じゃないっていうんだ?)
イライラ、する。
荘一郎が戻ってから、イライラすることばかりだった。
「俺、食器洗うから」
ムスッとそう言ってカウンターを回ろうとした颯斗を、荘一郎の声が足止めする。
「なあ、颯斗」
厭々振り返ると、思いのほか真剣な荘一郎の眼差しがあった。
「何?」
ぶっきらぼうな颯斗の態度にも、荘一郎は穏やかなままだ。深く落ち着いた目で、颯斗を捉えている。
「アヤはな、あの頃、すごく苦しんだんだ。多分、僕が帰らなかった時も、同じか、それ以上につらかったんだと思う」
それほど自分は彼女に想われているのだとアピールしたいのか。
颯斗は何も答えずカウンターの奥に行こうとする。その背中を、荘一郎の声が追った。
「……アヤは、同じ思いをさせたくないんだよ」
小さな、呟くようなその台詞が、颯斗の記憶を突く。
どこかで誰かが、同じようなことを言っていた。
いったい、いつ、どこでだったか。
(あれは――)
――綾音、だ。
夏が始まったばかりの頃、水族館の帰りに。
不意に、颯斗の胸がギュッと痛む。あの時の彼女が、鮮明に思い出されて。
パッと荘一郎を振り返ると、彼はもう、穏やかな笑みを返してくるだけだった。
開店一時間前にはやって来て、閉店二時間後に帰る。
十二時間以上をそこで過ごしていて、まさに、家では眠るだけ――いや、夏休みの課題をやって眠るだけという状況だった。
利音がこれ幸いとばかりにあれやこれやと用を言いつけてくる一方で、颯斗に向けられる綾音の視線は、いつも何か言いたげにしている。
邪険にしているわけではない、が、彼が終日店にいるということを綾音はあまり良く思っていないようだということは伝わってきた。
その眼差しは、強いて言うなら、心配そう、か。
けれど、何故、綾音がそんな案じるような目で彼を見てくるのかは判らない。
(荘一郎のせいだ)
颯斗は彼女のその視線から目を逸らしつつ、胸の中でこぼした。
彼が帰ってきてからというもの、綾音との間がどこかぎくしゃくしているのだ。
今、荘一郎は、休職して川に流された時に負った怪我のリハビリで病院通いをしている。もちろん、病院に行っている時間なんて数時間だけで、つまり、それ以外は暇にしているということだ。
荘一郎の友人たちは当然昼間は働いているからその暇を潰す為の場所と相手は限られていて、結果、彼も颯斗に負けず劣らず店に入り浸るようなことになっていた。
今も利音や綾音と楽しそうに笑み交わしていて、颯斗はついモップの扱いが手荒くなってしまう。
綾音が男として好きなのは颯斗の方なのだということはわかっているし、彼女のその気持ちを信じてもいる。
けれど、やっぱり、荘一郎は綾音にとって別格の存在なのだ。
その彼と綾音が自分の知らない間に一緒にいると思うと、居ても立ってもいられなくなる。だから、颯斗も余計に店から離れられなくて。
(いっそ、綾音をどこかに連れ出してやろうか)
そうは思うけれど、颯斗が綾音をどこかに誘っても、きっと彼女は荘一郎を連れて行きたがるだろう。
(くそ)
胸の中で罵りを呟く颯斗の苛立ちなど全く気付いた様子なく、能天気に荘一郎が笑う。
「なあ、颯斗。お前、こんなにここに居っ放しでいいのか? 高二の夏休みっちゃぁ一番中だるみだろ? 僕なんか勉強そっちのけでダチとあちこち行ったもんだけどなぁ? 高校生なら泊まりもありだろ?」
荘一郎のそんな言葉に、利音ものってくる。
「そうよねぇ。私も高二の夏休みなんて一週間も家にいなかったわよ?」
「そりゃちょっとやり過ぎだろ」
「だって泊まり込みのバイトとかもあったし」
「ああ、あの軽井沢行ったやつか?」
「そ。楽しかったわぁ。後輩の子、連れてったんだけどね、この子がまた失敗ばっかで泣きそうになるからもう可愛くて可愛くて……」
「お前はさぁ、可愛いなら普通に可愛がってやれよ」
「あら、可愛がってたわよ」
「お前の可愛がり方は、ちょっと伝わりづらいよ、多分」
――年長二人はどんどん話がずれていっていることに気付いていない。
そんな彼らにため息をこぼすと、颯斗はふと視線を感じた。首を巡らせると綾音がジッと颯斗を見つめている。その眼差しはもの問いたげで。
颯斗は、綾音が何を言いたいのかは判っていた。
最近――荘一郎が戻ってきてからは特に――彼女は颯斗に、この店以外で、綾音たち以外の誰か他の人間と過ごす時間を作るようにと言うようになってきたからだ。
なぜ、そんなことを言うのか。
なぜ、今になって、言い出したのか。
(荘一郎が帰ってきたら、とか……?)
もう綾音に颯斗は必要なくなったのかもしれない。
そんなことを思ってはいけないし、全然筋違いの邪推だということも判っているけれど、あまりにしつこく綾音がこの店から離れることを勧めるからどうしても考えが嫌な方向に向かってしまう。
もちろん、隆からは夏休みに入って早々に、海やら山やらへの誘いがあった。
が、こんなにもやもやしていては、とてもじゃないが、行ける気分じゃない。
「颯斗君は、どこか――」
案の定訊いてきた彼女の機先を制する。
「綾音といる方がいい」
むっつりとそう答えた颯斗の声を聞き付けて、振り返った荘一郎がにやにやと笑う。
「なんだよ、アヤとほんのちょっとでも離れてられないってか?」
「ああ」
一瞬たりとも迷うことなく即答すると、今度は鼻白んだ。
「……なんだか、ちょっと前のアヤみたいだな」
荘一郎のその台詞と共に、ガチャン、と音がした。洗い物をしていた綾音が、何か取り落としたらしい。
「何か割った?」
颯斗が訊くと、綾音はうつむいたままで彼と目を合わそうともせず、かぶりを振る。
「だいじょうぶ。……ちょっとトイレ」
あからさまに不自然な態度ではあったが、『トイレ』と言われたら追いかけるわけにもいかない。
モヤモヤしながら店の奥へと入っていく彼女を見送る颯斗の耳に、やれやれと言わんばかりのため息が聞こえた。
「……なんだよ?」
睨み付けても、呆れたような荘一郎の眼差しは変わらない。見れば、利音も同じような目を颯斗に向けていた。そうして、仕方がないけど、といわんばかりの口調で言う。
「まあ、あんたはあの頃のあの子、知らないしねぇ」
『あの頃』とは、引きこもっていた頃のことだろうか。
颯斗はムッと唇を引き結ぶ。
「俺だって、できるもんなら知りてぇよ」
ブスリと答えた彼に、荘一郎と利音が苦笑した。それと共に、なんとなく、二人の雰囲気が和らぐ。
「まあ、な。そりゃ無理だもんな。悪かったよ」
荘一郎は手を伸ばし、颯斗の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。それを払いのけ、髪を掻き上げながら颯斗は彼を睨み付ける。
「いつまでも子ども扱いするなよ」
不機嫌さを隠さずそう言った彼に、荘一郎は眉を上げた。
「なんだよその顔」
「別にぃ……。あのなぁ、颯斗。多分、綾音が僕に抱いていたのは、父親とか兄とかに対する気持ちみたいなものだったんじゃないのかな」
唐突な内容ではあったが、その台詞で、荘一郎が言わんとしていることが知れる。
「……解かってるよ」
それは、颯斗もよく解かっている。
だが。
「……荘一郎は、綾音のことを好きなんだろ?」
どうしても、声に拗ねたような響きがにじんでしまう。けれど綾音に対して特別な想いを抱いていて、彼女自身も最上級に大事に想っている男が近くをウロウロしていることが、どうにも心をざわつかせるのだ。
ほとんど睨み付けるようにして返事を待つ颯斗に、荘一郎は一瞬きょとんと眼を丸くしたが、すぐにフッと穏やかな笑みを浮かべた。
「……この世で一番幸せにしてあげたいと思っているよ」
微妙に、ぼかした答え。けれども、とてつもなく想いが込められている、答え。
――俺だってそう思ってる。
颯斗はそう言いたかったけれど、口が動かなかった。
同じ台詞を吐いたところで、その力は荘一郎のものには遠く及ばないのだということが、イヤというほど解かっていたから。
黙ったままの颯斗に、荘一郎はカウンターに頬杖を突いて、遠いどこかを眺めるような眼差しになる。
「初めてアヤに会ったのは、利音ンとこに遊びに来た時だったかな。利音の陰に隠れて挨拶してきてね、可愛かったな。小さくて、片手に乗せられるんじゃないかと思っちゃったよ。しょっぱなっからノックアウトされたな。こんな幼気な存在は何としても護らなければならないと思ったんだ。会っているうちに段々懐いてくると、またこれがいっそう可愛くてね」
どんな顔をしながらそんな惚気るようなことを吐いているのかと思って見てみれば、そこにあるのは穏やかで温かな、ただただ包み込むような、笑みだった。
自分は、綾音を想いながらこんな顔はできない。
颯斗は強く手を握り込む。
綾音に関することで、荘一郎にできて自分にはできないことがあるということが、嫌だった。
颯斗のその苛立ちを感じ取ったかのように、荘一郎がチラリと彼を見る。
「濁流に揉まれていた時、僕の頭の中にあったのはあの子を悲しませてはいけないという気持ちだけだった。それが僕を生にしがみつかせたんだと思うよ。僕が死んだら、あの子は生きていけない、だから僕は生きなきゃいけない――ってね」
「綾音は、大丈夫だったんだ」
本当は、『大丈夫』とは程遠い二年間を過ごしてきたけれど、颯斗は荘一郎を睨むようにしてそう言った。
荘一郎がいなくても綾音は大丈夫だったのだ、彼の『死』を乗り越えることができたのだ、と。
半ば挑む気持ちで颯斗が発した言葉を、しかし、荘一郎は小さく笑って受け取った。それは、いつも彼が綾音に向けて浮かべるものと、よく似ていて。
「そうだな」
平然と嬉しそうに頷くから、颯斗はまた正体不明の敗北感に襲われる。
悔しくて唇を引き結んだ彼に、荘一郎は、今度は少し困ったような、静かな笑みを浮かべた。そうして、ついさっき颯斗が放った言葉を繰り返す。
「アヤは、もう大丈夫だ」
自分の発言に賛同するその台詞に、何故か颯斗は引っ掛かりを覚える。
――アヤ『は』、大丈夫。
(なら、何が大丈夫じゃないっていうんだ?)
イライラ、する。
荘一郎が戻ってから、イライラすることばかりだった。
「俺、食器洗うから」
ムスッとそう言ってカウンターを回ろうとした颯斗を、荘一郎の声が足止めする。
「なあ、颯斗」
厭々振り返ると、思いのほか真剣な荘一郎の眼差しがあった。
「何?」
ぶっきらぼうな颯斗の態度にも、荘一郎は穏やかなままだ。深く落ち着いた目で、颯斗を捉えている。
「アヤはな、あの頃、すごく苦しんだんだ。多分、僕が帰らなかった時も、同じか、それ以上につらかったんだと思う」
それほど自分は彼女に想われているのだとアピールしたいのか。
颯斗は何も答えずカウンターの奥に行こうとする。その背中を、荘一郎の声が追った。
「……アヤは、同じ思いをさせたくないんだよ」
小さな、呟くようなその台詞が、颯斗の記憶を突く。
どこかで誰かが、同じようなことを言っていた。
いったい、いつ、どこでだったか。
(あれは――)
――綾音、だ。
夏が始まったばかりの頃、水族館の帰りに。
不意に、颯斗の胸がギュッと痛む。あの時の彼女が、鮮明に思い出されて。
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