凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<帰還>

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 その日も、いつもと変わらない朝から始まった。

 長い梅雨が明け、夏休みまではあと一週間というところの日曜日。
 あまり暑くならないうちに、と朝一の客が引けたところで買い出しに出た颯斗はやと綾音あやねは、それぞれ両手に買い物袋を提げて、とりとめのない会話を交わしながら店への道を歩いていた。

 会話と言っても、綾音といるときはだいたいいつも彼女の方がしゃべっていて、颯斗はそれに相槌を打つくらいだ。
 彼の方には特に話すことなどなかったし、自分のことを話すよりも彼女の声を聴いていたかったから。
 姦しい同級生の女子たちのものとは違う、おっとりした柔らかな声は耳に心地良い。死ぬまで毎日一日中聴いていても、きっと飽きることがないだろう。

 店がそろそろ見えてくる、というところまで来た時、それまでほとんど途切れることがなかった綾音のそのおしゃべりが、フツリと止む。同時に、彼女の足も止まっていた。

「綾音?」

 颯斗が名前を呼んでも、綾音はピクリとも反応しない。
 見ればその目はまっすぐ前を向いていて、瞬き一つ、していなかった。
 まるで、一瞬にして凍り付いたかのように、彼女は固まっている。
 颯斗は綾音の視線を追って、彼女をそうさせている原因を探した。

 見えたのは、店の前に立つ、一人の男の、背中。
 大柄なその男は左手で杖を突いている。半袖シャツから覗く筋肉質な両腕は、日本人離れした日焼けで真っ黒だ。
 がっしりした、見覚えのある、背中。

 ――まさか、と颯斗は思った。

 まさか、そんなはずはない、彼であるはずがない、と。
 呆然としている颯斗の耳にドサリと何かが落ちる音がして、同時に綾音が駆け出す。
 彼女の足音が聞こえたのか、それとも気配を感じ取ったのか、男が振り返った。
 真っ直ぐに走って行く綾音を見て、男が太陽のような笑みを浮かべる。
 彼は右脚を伸ばすようにしてしゃがみ込み、まるで幼い子どものように飛び込んでいった彼女を受け止めた。彼の首に顔を埋めてしゃくりあげる背中を、大きな手がなだめるように撫でている。柔らかな笑みを浮かべながら、彼女の耳元に何かを囁いているのが見て取れた。

 それは、誰にも立ち入らせないような、とても親密な空気をまとっていて。

 颯斗は、動けなかった。
 動けないまま、男の名を呟く。

「……荘一郎そういちろう……」

 男は――荘一郎は、颯斗のその声が聞こえたかのように顔を上げた。目が合うと、彼はチラリと綾音に視線をやってから、仕方がないな、というように苦笑を浮かべる。
 そうしている間も綾音はずっと荘一郎にしがみついたままで、ほんの一瞬も颯斗の方を振り返ることはない。

 颯斗はノロノロと綾音が落とした荷物を拾い、重い足取りで二人の方へ歩み寄った。

「よう、元気か? でっかくなったなぁ」

 能天気な、声。
 まるで自分が行方不明だったことなど、なかったかのように。
 颯斗は彼にどんな言葉をかければいいのか判らなかった。

 少し迷って、言う。

「……久しぶり」
 彼のその一言に、荘一郎は破顔する。
「確かになぁ。三年ぶりか。もう高校生だろ?」
 その三年のブランクなど全く感じさせない態度だった。

 荘一郎は颯斗から視線を移し、綾音の背中をポンポンと叩く。少し首をかしげて、笑いを含んだ穏やかな声で囁きかけた。

「ほら、アヤ、そろそろ泣き止んで。通行人が見てるぞ。まだ脚の調子が良くないから、抱っこはしてやれないんだ」

 身体を傾けるようにして荘一郎が立ち上がると綾音も立ち上がり、彼女が抱き付く場所はズルズルと滑るように彼の首から腹へと変わった。
 片時も荘一郎から離れようとしない綾音を、颯斗は無理やりにでも引き剥がしたくなる。両手が荷物で塞がっているから、かろうじてそんな醜態をさらさずに済んだけれど、何も持っていなければ、きっとそうしていただろう。

 なんだか、綾音の中の時間も、一気に三年前に戻ってしまったような気がする。
 颯斗の両肩に重くのしかかってくるのは、どうしようもないほどの無力感に似た何かだ。あるいは、敗北感か。

 そんな彼の気持ちなど全く気付いた様子もなく、荘一郎は、右の脇腹に綾音を縋りつかせ、左手で杖を突きながら店の方へと歩いていく。
 颯斗は無意識のうちにこらえていた息を思い切り吐き出した。二人の後をついていきかけて、ふと颯斗は足を止める。

(あいつの右脚……)

 彼のその脚は動きが悪く、よく見れば、シャツの袖から出ている腕には遠目でも見て取れるほどの傷跡も残っている。

(だから、帰ってこなかったのか?)

 怪我のせいで動けなかったから、二年以上も音沙汰なかったのだろうか。
 颯斗はピタリと寄り添っている荘一郎と綾音の姿を見ていられなくて、唇を噛んでうつむいた。
 荘一郎が帰って来て、颯斗も嬉しく思う。
 生きていて良かった、と、それは、心からの気持ちだ。
 けれど頭の片隅では、なんで今更、とも思わずにはいられなかった。
 颯斗はグッと顎に力を入れて、顔を上げる。

(綾音は、俺のことを好きだって言ってくれただろう?)

 そう、自分に言い聞かせた。
 異性として好きなのは颯斗の方だと、確かに綾音は言ったのだ。それを、信じるべきだ。
 ――たとえ、今の綾音の視界に全く彼が入っていないとしても。

 二人はもう店の中に入っていったらしく、姿はない。
 颯斗は荷物を持ち直し、店に向かう。
 中に入るともう綾音と荘一郎は離れていて、代わりに利音《りね》が彼の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶっていた。よほどの力がこもっているのか、ガタイのいい荘一郎の上半身が、利音の腕が動くたびにグラグラと揺れている。

「ちょっとあんた今まで何してたのよ!?」
「ま、待てって、色々事情が、あってだ、な。取り敢えず、座らせてくれ、ないか? 脚がまだ、痛むんだ」

 頭をがくがくさせながら荘一郎が何とかそう言い終えると、今気が付いたという風情で利音が彼の足に目を向けた。

「……怪我……?」

 揺れがおさまり安堵の息をこぼした荘一郎が、ヘラリと間の抜けた笑みを浮かべた。そうしてカウンターの椅子に腰を下ろすと、ほかの面々にも座るように手で促す。

「いや、ホント、悪かったな。心配しただろ?」
「心配しただろ……って、するわよ、そりゃ。もうてっきり死んだもんだとばかり思ったわ」
「あはは、そうだよなぁ。二年以上だもんなぁ」

 死人扱いされているというのに、軽いノリだ。
 けれど、隣でまた泣きそうになりつつ彼を睨み付けている綾音に気付くと荘一郎は苦笑し、彼女の頭をくしゃくしゃと撫でる。そうして両手で彼女の頬を包み込み、目を覗き込んだ。

「ごめん。悪かったよ。でも、本当に、どうにもできなかったんだ」

 颯斗は綾音の後ろに立っていたから彼女がどんな表情になったかは見て取れなかったけれど、すん、と、小さく鼻をすする音と、荘一郎が見せた柔らかな微笑みで、何となく察せられた。
 荘一郎はもう一度ポンと彼女の頭に手をのせてから、真面目な顔になる。

「あのハリケーンが襲ってきた時、僕は橋の様子を見に行っててね。急だったんだよ。まさに鉄砲水ってやつで。あっという間に流された」
「でも、かなりしつこく捜索したって聞いてるわよ?」
 眉をひそめた利音に、荘一郎は苦笑する。
「それが、流された距離自体はそうたいしたものじゃなかったんだけど、僕を拾ってくれた人が川べりからかなり離れた所にある村の人でね。僕を見つけて村に連れて帰って治療してくれたのは良かったんだけど、その村までは捜索隊がやってこなかったんだよ」

 彼は、また、軽く笑う。運が良かったんだか悪かったんだか、とか言いながら。
 自分の人生の問題なのに、なんでそんなに軽いんだ、と、颯斗は呆れる。

「で、僕はと言えば、どうも頭を打ったらしくて一年くらい殆ど自分のことが判らなかったんだ。ようやく頭がはっきりしても、怪我の後遺症でしばらくまともに動けなかったし、方言が強くて言葉もさっぱり通じなかったしね。ようやく日本の大使館と連絡が取れるような場所に行けるようになったのが、一ヶ月くらい前のことで。でも、パスポート無くなってたし、僕は死人扱いだったしで色々手間がかかってさ。ホント、一ヶ月で済んだのは早い方だよ」

 また、能天気な笑い。
 それを止めたのは、それまで無言で彼の話を聞く一方だった綾音の低い声だ。

「……笑い事じゃ、ないんですから」
「綾音?」
 荘一郎が眉をひそめて顔を覗き込むと、彼女はパッと立ち上がった。

「荘一郎さんの、バカ!」

 言うなりクルリと振り返り、ガシリと颯斗にしがみつく。思わず反射的に抱き締め返して顔を上げると、彼女の頭越しに荘一郎と目が合った。
 彼は一瞬ポカンとしたが、すぐに口元に笑みが浮かび、それからそれがみるみる顔中に広がっていく――まるで、この上なく楽しいものを目にしたように、この上なく嬉しそうに。

「ふうん、そうかぁ」

 納得顔でにやにやと笑う荘一郎は、利音の方へと顔を向ける。そうして彼女と目を合わせると、その満面の笑みのままで軽く颯斗たちの方へと首をかしげた。

「そう、なんだ?」
「うんまあ、そう、なのよ」

 利音は真面目な――それでいて、明らかに裏に何かを隠している顔で、荘一郎に頷き返した。
 二人のその遣り取りに、颯斗は眉をひそめる。
 荘一郎にとって綾音は、まだ『婚約者』のはずだ。それなのに、その彼女が他の男に抱き付き、その男が彼女を力いっぱい抱き締めているというのに、なぜこんなふうに嬉しそうにしていられるのか。

(普通、嫉妬するだろ?)

 少なくとも、荘一郎に抱き付いている綾音を見ている時の颯斗は、そうだった。抱き締めるどころか、荘一郎が綾音に触れるだけでもイライラする。

 颯斗だったら、そうなのに。

「……それは、良かった」

 しみじみとした口調で発せられた荘一郎の一言で、颯斗のその疑問は一層深まった。

(俺じゃ、相手にならないから、とか?)

 ムッとして、颯斗は一層しっかりと綾音を腕の中にくるみ込む。
 けれど、やっぱり、そんな二人を見つめる荘一郎の嬉しそうな顔は変わらないままで。

(訳解かんねぇよ)

 颯斗は荘一郎を睨み付けながら、胸の中でそう呟くばかりだった。
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