凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<変わらぬ想い、流れる想い>

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 水族館は、今日も人が溢れている。

 綾音あやねの肩に手を回して真横から走ってきた子どもから遠ざけながら、颯斗はやとはグルリと辺りを見渡した。

 ここへは去年の夏に来たきりだから、前回からほぼ一年が経っている。
 別に、改装が加えられたわけじゃない。
 曜日が違って人の出入りが増減したわけでもない。
 目に見える光景は昨年と全く同じなのに、颯斗には、なんだか、全てが違って見える。

(前の時は、なんかもやもやしてたんだよな)
 颯斗はあの頃を感慨深く振り返った。

 綾音に触れたくてもそう易々とは触れられず、彼女の一言一言にいちいちイライラしたりして。
 それが今は自然に彼女と手をつなぎ、何の陰りもない彼女の笑顔を向けられている。
 颯斗も綾音に触れることをためらう必要はなく、その笑顔の裏にあるかもしれないものを邪推してやきもきすることもない。誘いをかけるのに薄氷を踏む思いにもならず、一緒に、どこにでも行ける。
 颯斗は、それが嬉しくてならない。

 ――綾音に『答え』をもらえてから、颯斗と彼女はこうやって出かけることが増えていた。
 その上、今日のこの水族館は、綾音の方から言ってきたことだ。
 これで浮かれずして、いつ浮かれよう。

(前は、誘うのも一苦労だったもんなぁ……)
 しみじみと、颯斗は胸の中で呟いた。

 以前は一方的に颯斗が誘うばかりだったのに、最近では、彼女の方から「どこそこに行きたい」と言ってくる方が、多いかもしれないくらいだった。
 その違いを噛み締めていた颯斗の袖が、チョイチョイと引かれる。
 そう言えば、綾音をまだ抱え込んだままだった。腕の中に目をやれば、楽しげに顔を輝かせた彼女が見上げてくる。

「やっぱり、人多いね」
「冬だともう少し少ないのかもだけどな」
「んん、でも、水族館はやっぱり『夏』って感じだよね」

 綾音は満面の笑みでそう言うが、颯斗にしてみればいつどこに行こうがどうでもいい。肝心なのは、彼女が隣にいるということだけだ。

「夏休みになったら、もう少し遠出もできるから」

 高校になってからは利音の店でバイト代をもらうようになったから、資金も潤沢だ。
 綾音の分も颯斗が金を払うのは彼女が嫌がるから割り勘にしているが、少なくとも、自分の分は自分で出せる。
 と、颯斗のそんな問いかけに、ふと綾音の笑顔が消えた。

「今井君とかとは、こういうふうに出かけたりはしないの?」
 首をかしげてそう訊かれ、彼は即答する。
「ないな」

 学校帰りにちょっとファーストフードの店に寄ったりする程度のことはするけれど。
 試験前の勉強会とか、少し長めになりそうな時は、たいてい利音の店に集まる。
 特に今は、綾音と居たいのだ。ほんのわずかでも、時間が惜しい。

「お店のせいでその時間がないなら、お休みしてもいいんだよ?」
 念を押すようにそう言う綾音に、颯斗は少しムッとする。

(俺は一分一秒でも綾音と離れていたくないのに、綾音はそうじゃないのか)

 さすがにそれを口に出すほど『子ども』じゃないが、こういう時に垣間見える二人の間の温度差が、彼には不満だ。
 まるで、友達づきあいよりも彼女の方を優先していることが気に入らないかのようではないか。
 だが、綾音にとってその遣り取りはそれほど深い意味はなかったようで、すぐに水槽の中に目が移る。

「あ、颯斗君、あれキレイ。なんだろ。タツノオトシゴ?」

 綾音が嬉々として袖を引くから、颯斗もそんな小さな不満はすぐに消え失せてしまった。
 その後は、前と同じように食事をして、ペンギンの行進を眺めて。
 時々綾音の昔の話――親や荘一郎そういちろうのことが出てきたけれど、彼女の自然な明るさは変わらなかった。

(完全に、吹っ切ったんだな)

 颯斗は目を輝かせてイルカの曲芸に見入っている綾音の横顔を見守りながら、そう思った。
 綾音の過去は本当に過去になって、これからの綾音は颯斗と一緒に歩いていくのだ。
 そう実感できて、胸がジンと痺れてくる。

「わたし、イルカのお姉さんになりたいって思ったことあったな。家族みんなで来てた頃だから、まだ小学校くらいの時だけど」

 楽しげな思い出話。
 小学生くらいの綾音はどんなふうだったのだろうと思い浮かべつつ、颯斗は頷く。

「イルカの――って、調教師?」
「そう。イルカとお友達みたいで、すごくうらやましかったの。颯斗君は何になりたいとか、ある?」

 振られて、彼は言葉に詰まった。
 漠然と、綾音を幸せにする為に自分で稼げるようになれればいいとは思っていたが、そこに具体的な形はない。

 期待に満ちた眼差しに、颯斗は終始変わらず頭の中にある台詞を口にする。

「……ずっと、綾音といられれば何でもいいよ」

 返ってきたのは、少し困ったような顔。

(いや、寂しそう? ……でもないな。もどかしそう、とか……?)

 自分の答えのどこがどう悪かったのかは判らないけれど、綾音が望むものではなかったのだということだけは解かった。

 最近綾音は、こういう顔を時々見せる。

(なんでそんな顔をするんだ?)

 颯斗の方こそもどかしくなって、そう、綾音に訊きたくなるけれど、同時に、その疑問に触れたくないとも思う。訊いて、答えをもらったら、今の心地良い関係が変わってしまうような気がして。
 だから。

「わたしも、颯斗君とずっと一緒にいたいよ」
 綾音が微笑みながらそう返してくれて、ホッとする。

 そんな遣り取りのうちにイルカショーは終わっていて、ベンチから立ち上がった綾音が颯斗に右手を差し伸べた。

「帰ろっか」

 颯斗は、取った小さな右手を離さずに、歩く。
 帰りの電車の中でもつないだままで、シートには二人の間に紙一枚すら割り込めないほどぴったりと寄り添って座った。
 そんなふうにしていることを綾音が許してくれていることに、颯斗は喉元まで何かが詰まっているような心持ちになって、何も言えなくなる。
 だから、さえずるような彼女のおしゃべりに時折頷くだけで、ただ電車に揺られていた。
 控えめな綾音の声は騒音で掻き消されがちだったけれど、笑いかけてくる彼女の眼差しが自分だけに注がれると、颯斗の中には彼女しか存在しなくなる。
 二人きりかどうかなど、彼にとってはそれは些細なことだった。
 うまく聴き取れなくて訊き返せば、綾音は颯斗の耳元に口を寄せて繰り返してくれる。そうすると、綾音のくせ毛と、吐息と、香りが颯斗の肌をくすぐって、電車の中だという事を忘れて危うく彼女をもっと間近に引き寄せそうになった。それを堪える為に颯斗が結構な力を注いでいることに、綾音は全然気付いていない。
 それはある種の苦行ではあるけれども、同時にやっぱり幸せこの上なくて、颯斗の口元はついつい緩んでしまう。
 笑う場所でもないのにニヤ付いていれば当然綾音も不思議に思うわけで、いぶかしげな顔で首をかしげてきた。

「颯斗君?」
「なんでもない」
 目で問いかけてくるのを、小さく首を振ってごまかした。
 綾音は少し不満そうに颯斗を見るけれど、またすぐに気を取り直してしゃべりだす。

 そんなふうに過ごしていれば、時間はあっという間に過ぎていく。電車に乗ったと思ったら、もう、店の最寄駅に着いていた。
 電車を降りて駅を出て、綾音はふと空を見上げる。

「ねえ、颯斗君。もう一か所行きたいところがあるんだけど、いい?」

 お願いされなくとも、彼が否と言うわけがない。たとえ買い物の荷物持ちだろうと喜んでついていく。

「どこ?」
 一応そう訊くと、彼女はにっこり笑った。
「秘密」

 今度は、綾音に手を引かれる形で彼女から半歩ほど遅れて歩く。
 少しして、近所の公園に行くつもりらしいというのは薄々判ったけれど、入り口を通り抜けて広場を過ぎても、彼女は止まらなかった。

 子どもが遊ぶ姿も見えなくなってくると、さすがに颯斗もどこまで行くのだろうかと思い始めた。道を外れて木々の間を進むようになってくるとその疑問がいっそう膨らんでくるが、あまりに綾音が楽しげにしているので呼び止めるタイミングが掴めない。
 その気配を察したのか、不意に彼女が肩越しに振り返った。

「もうちょっと、だよ」

 ――笑顔でそう言われれば、行きつく先が地獄の底だろうがなんだろうがどうでも良くなってしまう。
 彼女にいざなわれるまま、枝を避け、でこぼことした地面を踏みしめながら進んだ。

 と、突然。
 パッと開けた視界に、颯斗はハッとする。

「着いた。ここだよ」
 得意げに、足を止めた綾音が彼を見上げてくる。

 彼女の向こうに広がっているのは、パノラマさながらの光景だった。
 二人は高台に立っていて、かなり下方に街並みが一望できる。山のない、平野部の方を向いているらしく、地平線がきれいに見えた。太陽の位置は大分低くなっていて、じきに夕日が沈んでいくのを眺められるだろう。

「……すごいな」
「でしょ? 端っこの方に行くと、ちょっとゾクゾクしちゃうんだけどね」
 そう言いながら、綾音は颯斗の手を放し、もう少し前に進む。

 ついて行ってみると、崖になっているのかと思った先は意外に緩やかな坂になっていた。
 二人で並んで広々とした景色を眺める。水族館で人ごみに揉まれた後だと、余計にこの静かさが心地良かった。

 しばらくして、綾音が口を開く。

「……ここに連れてきてくれたのは、荘一郎さんだったの」

 颯斗が首だけをひねって隣に視線を移すと、綾音も彼に目を向けた。口元には、淡く微笑みが浮かんでいる。

「お母さんとお父さんが亡くなって、部屋に閉じこもってたわたしを、ここに連れてきてくれたの。それからは、一人で来ることもけっこうあったな。何も考えたくないっていう時は、ここでぼーっとしてた」

 綾音の視線が、景色へと戻る。颯斗はその横顔を少しの間見つめてから、彼女と同じものを眺めた。
 また、少し、間が空いて。

「前に颯斗君と水族館に行った時は、ちょっと怖かったの」
「え?」

 脈絡のない展開に颯斗は眉をひそめたが、綾音は気付いていない。前を向いたまま、続ける。

「あそこは、荘一郎さんとよく行った場所だったから。でも、着いてみたら前とは全然違ってて、ホッとしちゃった。荘一郎さんと行ってた時と同じだったら、叫んで逃げ出しちゃってたかも。改装されてたから、荘一郎さんの思い出とは関係ない、全然別の場所だって思えたんだよね。あの時でも、わたし、荘一郎さんはただ帰ってきていないだけだと思いたかったんだぁ」

 今度の彼女の笑いには、微かに自嘲が感じられた。

「わたしは変わりたくなかったから、変わりたくないと思ってると思ってたから、颯斗君への気持ちが勝手に変わっていくのが、怖かった」
「俺は、ずっと変えたいと思ってた」
「うん……」

 その頷きは、賛同のものなのか、それとも、彼のその思いに気付いていたという意味なのか。
 綾音の手が動き、颯斗の手を取る。今度は、身体ごと彼に向き直った。真っ直ぐに颯斗を見上げて、言う。

「あの頃のわたしって、すごく変だったよね、きっと。一緒にいるの、面倒だったんじゃないかな。普通はとっくに愛想尽かしてるよ」
「どんな綾音でも綾音は綾音だ。俺は面倒だと思ったことも、うんざりしたこともない」

 ――困ったことは、多々あったけれど。
 最後の一言は胸の内にとどめておいた颯斗に、綾音は少し困ったような顔をする。

「颯斗君は、わたしに甘すぎるんだよ」
 苦笑混じりにそう言って、彼女はその笑みを消した。
「今でもね、荘一郎さんのことは、すごく大事。ある意味、やっぱり、わたしの中では『特別』で『一番』かもしれない」
 真っ直ぐに、ほんの一瞬も颯斗の目から視線を逸らすことなく、綾音はそう言い切った。

(それは、どうしようもないんだろう)

 颯斗は、諦めというよりも受容の気持ちでそう思う。彼女が言うように、多分、ある意味では、彼が荘一郎を超えられる日は来ないのだ。
 綾音にとって一番重要な分岐点で荘一郎が手を差し伸べたのだという過去は、どうやっても変えられないのだから。

「……ごめんね」

 その謝罪の言葉ごと、颯斗は彼女を抱き締めた。すっぽりと包み込める華奢な身体が、ほんの少し身震いする。

「いいよ、それでも。俺は、綾音のこれからをもらえればいいから」
「……わたし、颯斗君のこと、大好きだよ」

 颯斗の胸に押し付けられてくぐもって聞こえるその声が彼を慰める為に発せられたもののように感じてしまって、少し、情けなくなる。

「俺の方が、ずっと好きだよ。他には何もいらないと思うくらい」

 何度も口にしてきたその台詞を、颯斗は繰り返した。上辺だけでない、心の底からの想いをこめて。
 綾音はしばらく黙ったままで、そして、言う。

「荘一郎さんが帰ってこなくなって、もう、わたしは何で生きてるんだろうって思っちゃったくらい、苦しかった。……誰にも、あんな気持ちは持って欲しくない」

 最後はかろうじて聞き取れるくらいの囁き。
 彼女の腕も颯斗の背中に回されて、小さな手が服をギュッと握り締めたのが判った。
 ほんの少し身体を離して腕の中を見下ろすと、綾音も頭を傾けて彼を見上げてくる。夕日はほとんど沈みかけ、辺りは薄暗くなりつつあったけれども、彼女の顔だけははっきりと見えた。

 颯斗は頭を下げて、そっと唇を触れ合わせて、その柔らかさに酔って、また抱き締める。

(この感じは、何て言ったらいいんだろう)

 彼女の全てが大事で、たまらなく愛おしかった。
 心地良い苦しさに襲われた彼の胸に響くようにして、綾音の声が届く。

「あのね、今はね、荘一郎さんのこと思い出しても、あんまり痛くないの。颯斗君の気持ち、ちゃんと受け止めてから、荘一郎さんのことをまた思い出せるようになった。でも、つらくないの」

 少し間を置いて、内緒話をするように小さな声で。

「わたしね、荘一郎さんと、したことなかったの」
「――何を?」
「…………キス」
「……本当に……?」
「ホント。颯斗君との、あれが、初めて」

『あれ』と言われて脳裏によみがえるのは、暴走した時の、衝動に任せたほとんど暴力に近い『あれ』だ。初めてだと言われても、甘酸っぱい思い出とは程遠い。正直言って、超ど級の大失態だ。

「ちょっと、痛かったな」
「悪い」
「急にギュッてしてきたりするのも、結構、怖かった」
「……悪い」

 それしか言いようがなくて同じ言葉を繰り返すしかない颯斗の耳に、柔らかなくすくす笑いが届く。
 すり、と、柔らかな頬が胸に擦り付けられた。

「いいよ、今は、颯斗君が触れてくれるの、好きだから」

 そんなふうに言われたら、もう、その華奢な身体を抱き締めるしかできなくて。

 腕に力を込めると、それに応えるように綾音の手にも力がこもった。
 幸せで幸せで、颯斗はこの瞬間がずっと変わらず続いていってくれることを願わずにはいられなかった。
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