凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<予期せぬ訪問>

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 キンコン、と、玄関の呼び出しチャイムが鳴った。
 颯斗はやとは課題から顔を上げる。

 また、呼び出し音。

 時計を見ると、もうじき十九時になろうとしている時間だった。

 この部屋を訪問する人など、滅多にいない。新聞屋か宗教の勧誘か、そんなところがせいぜいだった。
 もしも、――もしも、個人的な来客だとしたら。
 颯斗の頭に思い浮かぶのは、一人しかいなかった。
 彼は立ち上がり、玄関へ向かう。

 ――頼むから、綾音あやねであってくれ。

 そう願いながら。
 そう願いながらも、きっとそうではないだろうなと諦めの念を抱きながら。

 文化祭で長年隠し通してきた想いをぶちまけてから、二週間が過ぎている。その二週間、彼女とは逢っていない。

「俺は店にはしばらく行かない。綾音の中で答えが出たら、逢いに来て欲しい」

 あの日、別れ際にそう告げてから、もう二週間も過ぎてしまったのだ。

 三日目には心が折れそうになった。
 七日目にはこっそりガラス戸越しに彼女の姿を眺めに行った。
 十日目には気付いたら店のドアを開けそうになっていた。
 そして、十四日目だ。

 もう欲求不満もいいところで、綾音の声聴きたさに、危うく店に電話をしてイタ電まがいのことをしてしまいかねない状態だった。

 颯斗はドアノブに手をかけ、ドアスコープを覗き込む。そして見えた姿に、彼は失意のどん底に突き落とされた。
 深々としたため息と共に、颯斗はドアを開ける。憮然とした彼の前に立っているのは、下ろしたら背中の半ばくらいまで届きそうな髪を二つに分けて結わえ、近所の中学校の制服を着た、少女だった。

「こんにちは」
 朗らかな声でそう言った少女は、ぺこりと頭を下げる。

尚子なおこ――ちゃん」

 颯斗はためらいがちに彼女の名前を呼ぶ。少女――尚子は、母親の再婚相手の娘だった。
 綾音と利音りね以外、下の名前で呼ぶ異性はいないから、毎回、呼び方に困る。当然名字で呼ぶわけにはいかないし、名前を呼ぶにしても呼び捨てはまずいし年下だから『ちゃん』付けが一番普通なのだろうが、何というか、かなり照れくさい。
 母親の再婚相手に会う時は必ず彼女もついてきていて、これまでに三回顔を合わせたことがある。が、相手の家族がこの部屋にやってくるのも、それが彼女だけというのも、初めてだった。

「どうぞ」
 何の用だろうと内心で首をかしげつつ、颯斗は身体を引いて尚子を中へと招き入れた。

「お邪魔しまぁす」
 初めて会った時から屈託のない彼女は、ほんのわずかも躊躇することなく玄関へと足を踏み入れる。

 尚子を居間に座らせておいて、颯斗はコーヒーを淹れた。茶請けになるようなものはないのでカップだけを彼女の前に置く。
 尚子はそれを口に運びながら、時折、何か言いたげにチラリと颯斗に目を走らせてきた。が、なかなか用件を切り出そうとはしない。
 五分ほど待って、颯斗は痺れを切らす。

「で、用は?」
 突然の声にびっくりしたように、尚子は二、三度、パチパチと瞬きをした。

「あ、えっと……」

 口ごもり、視線をフラフラとさまよわせた末に、グッと意を決した様子でカップをテーブルに置く。
 そして、咳き込むように。

「あの! どうして、あたしたちと一緒に住まないんですか?」
「は?」

 単刀直入の質問は、直截すぎて一瞬質問の意図が判らなかった。
 面食らっている颯斗に、彼女は少し勢いを落として続ける。

「颯斗さん、まだ高校生でしょ? お継母かあさんと一緒に、ウチに来たらいいじゃないですか」

 母親らしくない母親が、赤の他人に『母』と呼ばれているのが奇妙だった。何となく、自分よりも彼女の方が、『母親だ』と思っているように感じられる。

「まあ、俺は一人の方が気楽だし、学校もこっちの方が近いしな」
「そうなんですか?」
 疑わしげな眼差しが、颯斗に向けられている。
「他にどんな理由があると思うんだ?」
「それは……颯斗さん、あたしたちといてもあんまり話してくれないから……あたしたちのこと、実はあんまりよく思ってないのかな……とか……」
「はあ?」
「だって、一緒にご飯食べに行った時も、あたし多分十語くらいしか聞いてないです、颯斗さんの言葉。『こんにちは』『いただきます』『ごちそうさま』と、訊かれたことに『はい』とか『いいえ』とか、そのぐらいしか」

 そうだっただろうかと振り返って、まあそうかもしれないと納得する。だが、それは颯斗の常態だ。

「俺はいつもそうだよ。他の奴に対しても。そんなにしゃべることなんかないし」
「そう、なんですか?」

 どことなくホッとしたようにそう訊いてきた彼女に、颯斗は肩をすくめた。

 綾音は、颯斗の方からしゃべらなくても放っておいてくれる。何も言わずにむっつりしていても、母親のように「何を脹れてるのよ!」と怒ることもなく、それでいて、ふと彼が視線をさまよわせて彼女を見ると、必ずニッコリと笑顔を返してくれるのだ。
 店に通い始めた頃は、見れば必ず目が合って、しかも笑顔が返ってくる、というその状況が不思議ですらあった。不思議で、不思議と心地良く、つい、何度も見てしまっていたものだ。

 ――どんどん伸びる身長に反比例して、そうする頻度は減っていったけれど。

 そしてまた、どうして判るのか判らないが、彼から切り出さなくても、何か颯斗の中でモヤモヤするようなことがあった時には、隣に座って取り留めのないおしゃべりをしていたりする。そういう時にも、別に颯斗は反応を求められるわけではなく、ただ柔らかで甘い声に耳を傾けているだけだった。
 そう言えば、と颯斗は思い出す。

「お前、もうちょっと愛想よくすればモッテモテになるのに」

 嘆かわしげにそうため息をついたのは、たかしだ。

「お前のこと、いいなぁとか思ってる女子はたくさんいるわけよ。だけど、そのムスッとした態度がいかにも近寄るなって感じで、みんなビビっちゃってるんだよな。毎朝『おはよう!』とか爽やかに挨拶するだけで、多分三日に一回は告られるようになるぜ?」

 別に不特定多数の女子にモテたい気持ちは皆無だから、その時は聞き流していたが。

 多分、今尚子が言わんとしているのも、同じようなことなのだろう。
 颯斗は言葉を選びながらなんとか『説明』を試みる。

「俺は母親の再婚はいいことだと思ってるし、別に尚子……ちゃんたちのことを嫌ってるわけでもない。ただ、ここにいる方が色々と都合がいいんだ」

 実際、別々に暮らすようになってひと月ほど経つが、そうしてからの方が母親との関係はマシになっている。生まれてこの方見たことがなかった彼女の笑顔も、何度か目にするようになったくらいだ。
 颯斗の言葉に納得しているのかどうなのか、尚子は黙って彼の声に耳を傾けている。
 生真面目なその表情からは、少なくとも、その台詞に疑いを抱いているようには見えなかった。

「とにかく、俺は好きでここに残っているんだから、気にしないようにお父さんにも伝えてくれ」
「……わかりました。でも、一緒に暮らしてもいいなって思ったら、そう言ってくださいね? あたし、ずっとお兄ちゃんとかお姉ちゃんとか、欲しいなって思ってたんです。だから、今度の再婚で颯斗さんのことを聞いて、すっごく嬉しかったんです」

 屈託のない笑顔は、陰りの欠片もないものだった。
 多分、彼女の家庭で、彼の母親は、『いい妻』『良い母』なのだろう。
 何となく颯斗は、背負っていた荷物が一つなくなったような、そんな心持ちになる。

「――じゃあ、もう遅いし、送って行くから」
「あ、はい。ありがとうございます」

 時計はもう十九時を余裕で回っていて、窓の外は真っ暗だ。尚子の家はここから歩いて三十分ほどだが、こんな時間に中学生を一人では帰せない。
 玄関を出て戸締りをしながら、颯斗はふと思い当った。

「そう言えば、ここに来るって家には言ってあるのか?」
「あ、してません」
「じゃあ、ちゃんと電話しておけよ。遅くなるって」

 そんなやり取りをしていると、カンカンと階段を上ってくる足音が近付いてきた。二階の住人の誰かが帰ってきたのだろうと、颯斗は目もくれずにいたが、それが突然、中途半端なところで途絶える。
 何故、そんな所で止まるのだろうと何気にそちらに目を向けた颯斗は、次の瞬間固まった。

「綾音……?」

 呟いた声は小さかったが、口の動きに気付いたのか、実際に綾音のもとに届いたのか、立ち竦んでいた彼女が融ける。

「あ、えっと、ね。その。ちょっと、逢ってなかったから、どうしてるかな……って」

 そこでチラリと綾音の視線が動いて、颯斗からその向こう――尚子のいる方へと移った。
 途端、キュッと唇を引き結んだのが、見える。
 次の瞬間、颯斗が反応するよりも早く、綾音が動いた。

「ごめんね、おじゃましました!」

 そう言ってクルリと身を翻すと、階段から転げ落ちそうに一回ふらついて、またカンカンと高い音が響く。
 今度は、遠ざかる方向で。

 状況は多少違うが、同じようなことがあった気がする。
 場所は店、相手は木下桃子きのしたとうこで。
 激しくデジャヴを覚えた颯斗は、部屋の鍵を尚子に押し付ける。

「戻って来たら送ってくから、部屋の中で待ってろ。家にはちゃんと連絡しろよ!」
 走り出しながらそう彼女に残し、階段を二段飛ばしで下りた。

 道路に出てその先を見通せば、さして足の速くない、いやむしろ鈍足な綾音の背中がある。気配に気付いたのか、彼女は肩越しに振り返り、颯斗と目が合うとまたばっと駆け出した。

「くそ」
 舌打ちをして、颯斗も走り出す。

 校内でも五本の指に入る百メートル走の記録を持っている颯斗と、ろくに運動らしい運動もしていない綾音とでは、あっという間にけりがつくのも当然だ。

 綾音が次の角で姿を消す前に、颯斗は彼女の腕を捉えていた。
 肘の辺りを掴んだ颯斗の手を、綾音がもがいて振り払おうとする。思わず腕を引くと、ほとんどぶつかるようにして、彼女の身体が彼の胸元に倒れ込んできた。
 とっさにそれを受け止めた颯斗は、反射的にその背中に腕をまわしてしまう。

 さして息を乱していない彼の腕の中で、綾音はゼイゼイと息を切らしている。激しく打っている鼓動も、厚手の服を通して伝わってきた。
 その余裕がないのか、それとも突然のことに反応できずにいるのか、綾音は固まっている。
 つい、ギュッと抱き締めてしまうと、頬の辺りを柔らかなクセ毛がくすぐった。

(ああ、まずい)

 ただ、くずおれそうな彼女を支えるだけのつもりだったのに。

 なにしろ、二週間ぶりなのだ。
 あの「答えはお預け」という不安に満ち満ちた状態のまま、声も聴けず、顔も合せられず、二週間。
 こんなふうに触れてはいけないことは解かっているのに、止められなかった。
 颯斗は、綾音の華奢な背中と腰に腕をまわし、片手を後頭部に広げて、自分の身体に押し付けるようにしてきつく抱きすくめる。
 小さなしゃっくりのような、鋭く息を吸い込む音が聴こえた。

「綾音……」

 無意識のうちに名前をこぼしたその瞬間、されるがままだった彼女は腕を突っぱねて身体を離そうと暴れ始める。

「は、やと、くん――放して!」

 その言葉に、束の間迷って、颯斗は腕を緩めた。が、完全に解放することはしない。両手は、彼女の腕を掴んだままだった。
 頭を少し下げ、綾音の目を覗き込むようにして、颯斗は訊いた。

「俺に、逢いに来たんだろう?」
 一瞬絡んだ視線は、すぐに外される。

「逢いにっていうか、元気かなって……。元気なのが判ったから、もう帰るよ。放して」
「いやだ」

 即座に返った答えに、綾音がパッと顔を上げた。
 そのチャンスを逃さず、颯斗は彼女の目をしっかり捉えた。

「さっきの子なら、付き合ってるとかじゃないからな。あの子は母親の再婚相手の子だよ。まだ中学生だ」
「え……」

 丸く見開かれたその目が、彼女が何を考えていたのか、はっきりと伝えていた。
 颯斗はため息をつきたい気分になる。

「綾音のこと好きだって言ったのはたった二週間前だろ? そんなにすぐに諦めたりするもんか」

 颯斗がそう言った途端、またパッと綾音が顔をそむける。両手が使えていたら、きっと耳を塞いでいたことだろう。
 グッと奥歯を噛み締めた颯斗は、彼女の頭の天辺を見下ろしながら説く。

「俺は何度でも言うからな。いいか、俺は、綾音を、好きだ、と言ったんだ」

 綾音は、彼の声を拒絶するように全身を強張らせた。
 もう頭半分以上、綾音よりも颯斗の方が背が高くなっているから、彼女に顔を伏せられるとどんな表情をしているのか全然判らなくなる。そのことにジリジリしながら、彼はキッパリと告げる。

「俺が綾音のことをそんなふうに思ってるってことが嫌なら、そう言ってくれ」

 綾音は、すぐには反応しなかった。
 ややして、うつむいたまま、言う。

「もし……もし、わたしがそう言ったら、わたしのこと好きって思わないでって言ったら、また前みたいになれる?」

 綾音が言う『前みたい』とは、姉弟のような状態のことなのだろう。それを望んでいることは、人間関係のことに敏くない颯斗にも、判る。

「――いや、なれない。綾音のこと好きだってことは変えようがないし、もう隠すつもりもないから」

 言い募る颯斗に、綾音は激しくかぶりを振る。まるで、彼の言葉をそうやって追いやろうとしているかのように。

「わたしは、颯斗くんのこと、そういうふうに見られないもの!」
「顔上げて、俺の目を見てそう言ってみろよ」
「ッ」
 綾音が、小さく息を呑んだ。が、顔はうつむいたままだ。

 颯斗は両手を使えないことをもどかしく思いつつ、更に攻撃を続ける。そう、ここまで来たらもう引っ込みがつかない。彼女を取り囲む壁を壊すまで、颯斗は退く気はなかった。

「前に綾音、桃子のおふざけで変な気持ちになったことがあっただろう? 俺のこと、男として見られないって言うなら、なんであの時あんな態度取ったんだ?」
「それ、は……だって……」
「今だって、尚子――義妹いもうとのこと見て、逃げ出したじゃないか。何でもないならいつも客にしてるみたくニコッと笑って『こんばんは』って言えばいいだろ」

 綾音の矛盾した行動を、颯斗はグイグイと突き付ける。

「別に、わたし、颯斗くんが誰とお付き合いしても、気になんてしてないし! 颯斗くんが女の子といたって、わたしには関係ないもの!」

 パッと顔を上げた綾音の目は、今まで見せたことがない光を放っていた。けれどそれは、『強さ』は感じさせない、むしろ追い詰められた小動物のような、切羽詰まった光だった。

 これ以上続けたら、もう引き返せなくなる。
 そんな警告の声が颯斗の頭の片隅で囁いていたけれど、もう止まれなかった。
 特に、彼女の最後の言葉を耳に入れてしまっては。

「関係なくない! 俺は綾音のことが好きなんだって言ってるだろ」
「わたし――わたし、は、わたしのこと好きになってなんて言ってない! わたしはそんな気持ちも、こんな気持ちも、欲しくなかった!」
「なろうとしてなったわけじゃない。いつの間にか……違う、最初に綾音が俺に気付いてくれた時から、ずっと好きだったんだ」
「だめ、わたしは……だって、わたしには、荘一郎さんがいるし――ッ」
 ほとんど悲鳴のような綾音の声は、唐突に封じられた。

 颯斗が、彼女の口を塞いだからだ。両手は彼女を捉えるのに使っていたから、他に唯一残された、自由になる場所で。

 カチン、と歯と歯がぶつかって、一瞬痛みが走る。ほんの少し顎を引いたけれど、やめはしなかった。やめられはしなかった。
 初めて重ね合わせた彼女の唇の柔らかさに、颯斗は頭の中で何かがはじけ飛んだような気がした。

「だ、め……」

 わずかにずれた唇の隙間から、綾音の小さな声がこぼれた。
 それをすり潰すように、また唇を押し付ける。
 言葉の代わりに抗議するように、彼のシャツの胸の辺りがギュウと握り締められた。
 颯斗は再び綾音を腕の中に閉じ込めて、ほんの少しも身動きが取れないように、全身で彼女を封じ込める。片手で包み込める細い首を掴んで、がむしゃらに温もりと柔らかさを求めた。
 どうやって息継ぎをしたらいいのかも判らない。その所為で酸欠なのか、それとも未知の感覚に酩酊しているのか、頭がくらくらしてくる。

 と、不意に、唇の端に塩辛い味を感じた。

 三秒遅れてその意味を理解して、瞬時に理性が復活する。思わず颯斗は肩を掴んで彼女を遠ざけた。

「あ、やね……」

 恐る恐る名前を呼ぶと、目を閉じ、静かに涙を頬に伝わせていた綾音が、パッと目蓋を上げた。
 潤んだ瞳に、颯斗の中にどっと罪悪感がこみ上げてくる。
 とてつもなく、とんでもないことをしでかしてしまったのだ。

 まずい。

 頭の中には、その言葉しか浮かばない。

「綾音……?」

 もう一度名前を口にした途端、彼女の肩に置いていた手をはねのけられた。浮いたその手の下をくぐるようにして、綾音が走り出す。
 よたよたと、心許ないその足取りでは、ほんの数歩で捕まえられただろう。
 けれど颯斗はそうしなかった――できなかった。

「ばかだろ、俺……」

 あれほど何年もの間、耐えてきたのに。
 まだあんなことをしてはいけないと、綾音にはまだ無理だと、判っていたのに。

「ああ、くそ!」
 颯斗はぐしゃぐしゃと髪を掻き回す。

(なんで、こんなことになったんだ?)

 答えは簡単。
 荘一郎の名前を出されたからだ。
 もういないのに、けっして彼女を手放そうとしてくれないその男の名前を、彼女の唇がこぼしたからだ。
 颯斗の中では段々薄らいできつつあった存在だったけれど、綾音の中では少しも色褪せることなく居座り続けているのか。

「くそ……」

 二度目の罵りは、力のないものだった。だが、どんなに自分を罵っても飽き足らない。
 目の前にある塀に、頭を打ち付けてやりたくなる。

(それで、同情票を買うとか?)

 額に怪我をした颯斗を見れば、綾音はキスのことなどなかったことにしてくれるだろう。
 彼は小さく嗤う。
 そして、そのまま、『全て』なかったことにされるのだ。
 颯斗は、塀に腕をついて顔を伏せる。額を打ち付けるのは、やめておいた。
 そうやって、どっぷりと自己嫌悪に浸り込む。

 ――部屋で待っている義妹のことを思い出したのは、それからたっぷり十五分は経ってからのことだった。
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