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<知ろうとすること>
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二人で水族館に行ってから、綾音の様子はすっかり元に戻った。
颯斗と目が合っても速攻で逸らすことはなくなったし、傍に行っても身を引かなくなったし、何かの拍子に触れてしまっても肩を強張らせることもなくなった。
――端的に言ってしまえば『意識されなくなった』ということではあるのだが、仕方がない。
(地道に進んでいくしかないよな)
そう悟りはしても一生綾音にとって『安心できる人』でいるつもりは更々ない颯斗は、確実な一歩を積み重ねていくことに決めたのだ。
取り敢えず、綾音を外に連れ出すこと。
マンネリ化してしまっている店の中から場所を変え、色々なシチュエーションで彼女に逢う。
幸い、颯斗には『人生を楽しむ』ことに長けている知り合いがいた。隆経由で知り合いになった木下桃子という少女だ。クラスメイトだが、隆が間にいなければ決して知り合いになることはないだろうというタイプの女子で、色々な趣味趣向を持っている。社交的なオタクと呼ぶべきか、その妙な勢いには時々颯斗も押されそうになる。
その桃子に情報を得て次にチャレンジしたのは、映画、だった。
綾音を映画に誘って連れ出すところまでは首尾よく行った。映画館と言っても綾音たちの店がある通りにある小さなもので、歩いて五分、というところだ。
相変わらず店の事を気にして出渋る綾音も、そこならば、と誘いを受け入れてくれて。
店が空く時間を見計らって出かけたのだが――
「利音、綾音帰ってる!?」
甲高くカウベルを鳴らしながら店の扉を開けて飛び込んできた颯斗が開口一番そう言うのへ、利音は目を丸くして頷いた。
「帰ってるけど、アンタたち、映画に行ったのよね? 一緒に?」
言外に何があったのかと問いかけてくる利音に、颯斗は苛々と髪をかきむしる。
「行ったよ。行ったけど――」
映画が上映されている間、綾音は食い入るようにスクリーンを見つめていた。身じろぎもせず観ていたぐらいだから、多分映画自体は楽しんでいたのだろうと思う。
それが、エンドロールが終わるなり席を立って、駆け出していったのだ。てっきりトイレにでも行ったのかと思って待っていても、戻って来ない。迷った挙句に女子トイレに行って、連れがいないかと、出てきた女性に訊ねたのだ。怪訝な顔でかぶりを振られ、そこに至って、ようやく先に帰られてしまったのだと判った。
その件をざっと説明すると、利音は眉をひそめて首をかしげた。
「何でそんな……と、ちょっと待って。映画、どんなのだったの?」
問われて、颯斗はタイトルを答える。
それを聞いた利音は、思い切り顔をしかめた。
「あんた、それ、滅茶苦茶グロ描写がキツイSFホラーじゃないの?」
「まあ、そんな感じ」
颯斗も、あらかじめ内容を知っていたわけじゃない。女子はどんな映画が好きなのかと、木下に訊いたら返ってきたタイトルだった。
「いや、もう、盛り上がること間違いなしだって。カップルには超おススメ!」
満面の笑みで、彼女は、そんなふうに言っていた。
颯斗自身は、実際観ていて、何でそんな展開になるのかと首をかしげていたのだが。
利音は、ため息混じりに首を振った。
「アヤ、そういうのダメなんだよね。テレビのチョロい心霊特集とかも、目と耳を塞ぐタイプ。サスペンスドラマで死体が出てくるだけで逃げ出すの。スプラッタなんて、意識保ててただけでも進歩したって感じ」
「マジかよ」
颯斗は愕然とする。今更、そんなことを言われても、だ。
「何がいいかって訊いたら、何でもいいって言うから……」
蒼くなっている颯斗に、利音は苦笑した。
「まあ、荘一郎はあの子の好み完全に把握してたし、何をするにもあの子の望むものを第一に選んでたから、今まではそもそも選択するってことがなかったんじゃないかな。そうする必要がなかったのよ。荘一郎に任せておけば間違いなかったっていうか」
また、荘一郎だ。
いつまで経っても彼には遠く及ばないという事実が突き付けられてしまう。
「クソ」
呻いてガックリと肩を落とした颯斗に、利音はケラケラと笑った。
颯斗にとっては、笑いごとじゃない。
キッと顔を上げて利音を睨み付けようとした颯斗が目にしたのは、予想外に温かな彼女の笑みだった。
「いいんじゃないの、それで? あんたは、そうやって、いちいちアヤに確かめてったらいいじゃない。試行錯誤でたまには失敗しながらさ。何が嫌で何が好きなのか、一つ一つ知っていく――それがコミュニケーションってものよ」
利音は磨いていたグラスを置いて、また次のグラスを取る。そうして、それをもてあそびながら少し言葉を選んでいるようにゆっくりと、続ける。声はいつもよりも少し低かった。
「荘一郎とは、そういうことが必要じゃなかった。綾音は、二人の関係を築く努力をする必要が、全くなかったのよね。荘一郎が、一方的に与えてくれた――あの子にとって心地良い関係を、無条件に作り上げてくれた。二人は、ある意味うまくいってたけど……」
利音の声はだんだん小さくなって、最後は途切れた。
「何も言わずに理解できている関係なら、それに越したことはないんじゃないのか」
「ん、まあ、ね。『楽』ではあるだろうね」
利音の台詞には、含みがあった。
何が言いたいのかと口を開きかけた颯斗に先んじて、彼女が肩をすくめる。
「取り敢えず、あんたはアヤの所に行ったら? 多分、部屋で布団被ってガタガタ震えてるから」
利音の言わんとしていたことは気になったが、今の内容の方がよりいっそう気になった。
「ガタガタ震えて?」
「そ。それが何かあった時のあの子のしのぎ方だから。放っておいても、三十分もしたらケロッとした顔で出てくるし、変なところ見栄っ張りだから、むしろ放っておいて欲しいだろうけど」
どうする? と、利音は少し意地の悪い笑みを浮かべて颯斗を見つめてくる。
「荘一――」
――荘一郎なら、どうしてる?
そう問いかけかけて、颯斗は口を閉ざした。
「俺、行ってくる」
「ご自由に」
グルリとカウンターを回って店の奥にある自宅へと向かう颯斗に、利音がひらひらと手を振った。彼はそれを横目で受け流す。
颯斗は静かに階段を上り、以前に一度だけ開いたことのあるドアの前に立った。ためらいがちにノックをしたが――返事はない。
けれど、綾音が中にいるのは確かなのだ。
答えないということは入って欲しくないということなのか、それとも答えることもできないほど怯えきっているということなのか。
颯斗は少しだけドアを開け、声をかける。
「……綾音?」
やはり、無言だ。
少し逡巡した後、颯斗は覚悟を決めて足を踏み入れる。
部屋の中はシンと静まり返っていて、ヒトの姿も無くて、一瞬、誰もいないのかと思った。が、室内をグルリと見回した颯斗の目に、ベッドの上に不自然なほどにこんもりと丸まった毛布の塊が入る。
(あれか)
利音は、綾音は部屋で布団を被っているだろうと言っていたが、本当にその通りだとは思わなかった。
まるで、小さい子どもだ。
いや、颯斗は、幼稚園児の頃でさえ、何かあってもこんなことはしなかった。
(これって、『普通』なのかな)
颯斗は自分が色々な意味で『普通』とはかけ離れていると知っているから、物事の基準を彼自身には置いていない。だが、それにしても、綾音の行動はやっぱり時々ちょっと標準から外れているのではないかと思う。
――良くも、悪くも。
どう変なのかと問われると、答えられないのだが。
綾音と出逢った頃は、颯斗自身が他の人間と関わりを持ってこなかったから、自分以外にどんな人間がいるのかということを知らなかった。だが、彼女と出逢って、他人と関わるようになって、いわゆる『普通』の人を知るようになった。
多分、普通の人間はベンチにぽつんと座っている子どもに声をかけて引っ張り込んだりしないし、赤の他人にあんなに気を掛けたりしない。せいぜい、どこかに虐待通告でもしておしまいになるくらいだろう。
綾音は、時々見ている方が心配になる程、無防備だ。
それでいて、壁がある。
世話焼きで怪我した動物やら捨て猫捨て犬を放っておけないほど庇護欲が強いのに、彼女自身、誰かが守っていてやらないといけない気にさせるような幼さを感じさせる。
一言で表せば、アンバランス、だろうか。
(そう思うのは、俺だけなのか?)
そんなことを考えながらベッドに近付いた颯斗は、毛布の塊に手が届く場所まで来て、次はどうしようかと考えた。
考えて、ベッドの脇の床にしゃがみこむ。
ベッドに腰を掛けるのはまずい気がしたし、立ったままで見下ろしているのは居心地が悪かったから。
「……綾音?」
ピクリと、毛布の塊が震えた。
「颯斗くん?」
くぐもった声が返ってくるが、それだけだ。
よくよく見ると、毛布の塊は小刻みに震えている。
(どうしたらいいんだ?)
颯斗自身は物心ついてから何かに怯えた経験もないし、何かあっても誰かに慰められた経験もない。
こんな時、どんな態度を取ればいいのか、さっぱりわからない。
触れるべきなのだろうか、そっとしておくべきなのだろうか。
(荘一郎なら、どうする?)
――撫でるとか、抱き締める、とか……?
だが、それは、恋人だから、荘一郎だから、許されていたことだろう。
迷った挙句、颯斗はベッドの高さまで目線を下げて、毛布の塊の隙間を覗き込む。
「あのさ……ゴメン。ああいうの苦手だって、知らなかったんだ」
毛布の塊が、もそもそと動いた。中から、きらりと光るものが覗く。毛布の陰から見える綾音の目は、まるで怯えた仔猫か何かだ。
「わたしの方こそ、ごめんね」
か細い声は、微かに震えていた。
「え?」
「誘ってくれてうれしかったし、颯斗くんが好きな映画なんだし、がんばって観ようと思ったんだけど、ダメだったの」
その声にあるのは、恐怖心だけではない気がする。後はなんだろう――自己嫌悪、だろうか。
「俺は、別にああいうのが好きなわけじゃ……」
言いかけて、やめた。
「綾音はどんなのが好きなんだ?」
「え? えっと――……怖くない、やつ」
「それ以外なら何でもいいわけ?」
「多分」
ということは、ピンポイントでダメな奴を持ってきてしまったわけだ。
「じゃあ、今度は怖くないの、観に行こう」
毛布の塊が起き上がる。少しはだけて、くせ毛をくしゃくしゃにもつれさせた頭が出てきた。大きな目の上の眉は、情けなさそうに八の字になっている。
「また、一緒に行ってくれるの?」
「また、行きたいんだ。綾音と」
必要以上に力のこもった声になってしまった。もっと自然で軽い口調の方が良かった筈だと歯噛みする颯斗の前で、綾音が笑った。ふにゃりと、溶けるように。
「良かった。うれしい」
台詞が無くても、綾音の心の内が伝わってくるような笑みだった。素直極まりない笑顔に絶句する颯斗に、彼女のその笑顔には照れくさそうな色が加わる。
「逃げ出すなんてバカみたいなことしちゃったから、呆れられちゃったかと思ってたの。もう二十歳なのに、ホントに、ダメだよね。もっとしっかりしないといけないって、わかってるんだよ。……わかってるん、だけど……」
うなだれながらの綾音のその台詞に、颯斗は頷けなかった。
「……綾音は、そのままでいいよ」
「え?」
「そのままでいいから、それより――」
もっと、俺にも頼ってくれ。荘一郎にそうしていたように。
そう言いそうになって、颯斗は口を閉ざす。
何かというと荘一郎を引き合いに出してしまう自分が、嫌だった。
(違う。荘一郎は、関係ないんだ。俺、なんだ)
荘一郎は、幼い頃から綾音をずっと見ていて、彼女のことを誰よりも良く知るようになった。
その月日の積み重ねには、どう足掻いても敵わない。
だったら、どうすればいいか。
利音が言ったことをするしかない。
颯斗は颯斗で、綾音のことを知っていくしかないのだ。ただ漠然と眺めて綾音が伝えてくるものだけで判断しようとするのではなくて、もっと、知ろうとして近付いていかなければ。
「俺は、綾音のことをもっと知りたい。綾音が好きなこととか、嫌いなこととか。我慢しないでちゃんと教えて欲しいんだ。教えてもらわないと、俺はわからないから」
綾音は、キョトンとしている。キョトンとしたまま颯斗の言葉を聞いて、そしてまたふわりと微笑んだ。甘い香りが漂うようなそれを目にした途端、颯斗のみぞおちがギュッと何かに掴まれる。
一瞬、彼女の方に手が伸びそうになった。それを固く拳を握って押しとどめる。
無心に頭の中で九九を唱えて妙な熱を冷まそうとする颯斗の努力をあざ笑うかのように、綾音が身を乗り出して顔を近付けてくる。
「じゃあ、颯斗くんも教えてね? 颯斗くんの好きなこと、わたしもちゃんと知りたいから」
「綾音……俺……」
柔らかな笑顔に目を奪われて、颯斗は危うく正直なところを口にしてしまいそうになる。
好きなもの――欲しいものは、たった一つだけだ、と。
が、すんでのところで正気を取り戻した。
「ああ、そうだな。俺のことも、ちゃんと知って欲しい」
いつか、この想いも。
心の中でそう付け足した颯斗に、綾音がにっこりと笑う。屈託なく、この上なく嬉しそうに。
こんなふうに笑ってくれる綾音を失うことなく二人の関係を変えていく方法が、颯斗にはまだ見つかっていなかった。
颯斗と目が合っても速攻で逸らすことはなくなったし、傍に行っても身を引かなくなったし、何かの拍子に触れてしまっても肩を強張らせることもなくなった。
――端的に言ってしまえば『意識されなくなった』ということではあるのだが、仕方がない。
(地道に進んでいくしかないよな)
そう悟りはしても一生綾音にとって『安心できる人』でいるつもりは更々ない颯斗は、確実な一歩を積み重ねていくことに決めたのだ。
取り敢えず、綾音を外に連れ出すこと。
マンネリ化してしまっている店の中から場所を変え、色々なシチュエーションで彼女に逢う。
幸い、颯斗には『人生を楽しむ』ことに長けている知り合いがいた。隆経由で知り合いになった木下桃子という少女だ。クラスメイトだが、隆が間にいなければ決して知り合いになることはないだろうというタイプの女子で、色々な趣味趣向を持っている。社交的なオタクと呼ぶべきか、その妙な勢いには時々颯斗も押されそうになる。
その桃子に情報を得て次にチャレンジしたのは、映画、だった。
綾音を映画に誘って連れ出すところまでは首尾よく行った。映画館と言っても綾音たちの店がある通りにある小さなもので、歩いて五分、というところだ。
相変わらず店の事を気にして出渋る綾音も、そこならば、と誘いを受け入れてくれて。
店が空く時間を見計らって出かけたのだが――
「利音、綾音帰ってる!?」
甲高くカウベルを鳴らしながら店の扉を開けて飛び込んできた颯斗が開口一番そう言うのへ、利音は目を丸くして頷いた。
「帰ってるけど、アンタたち、映画に行ったのよね? 一緒に?」
言外に何があったのかと問いかけてくる利音に、颯斗は苛々と髪をかきむしる。
「行ったよ。行ったけど――」
映画が上映されている間、綾音は食い入るようにスクリーンを見つめていた。身じろぎもせず観ていたぐらいだから、多分映画自体は楽しんでいたのだろうと思う。
それが、エンドロールが終わるなり席を立って、駆け出していったのだ。てっきりトイレにでも行ったのかと思って待っていても、戻って来ない。迷った挙句に女子トイレに行って、連れがいないかと、出てきた女性に訊ねたのだ。怪訝な顔でかぶりを振られ、そこに至って、ようやく先に帰られてしまったのだと判った。
その件をざっと説明すると、利音は眉をひそめて首をかしげた。
「何でそんな……と、ちょっと待って。映画、どんなのだったの?」
問われて、颯斗はタイトルを答える。
それを聞いた利音は、思い切り顔をしかめた。
「あんた、それ、滅茶苦茶グロ描写がキツイSFホラーじゃないの?」
「まあ、そんな感じ」
颯斗も、あらかじめ内容を知っていたわけじゃない。女子はどんな映画が好きなのかと、木下に訊いたら返ってきたタイトルだった。
「いや、もう、盛り上がること間違いなしだって。カップルには超おススメ!」
満面の笑みで、彼女は、そんなふうに言っていた。
颯斗自身は、実際観ていて、何でそんな展開になるのかと首をかしげていたのだが。
利音は、ため息混じりに首を振った。
「アヤ、そういうのダメなんだよね。テレビのチョロい心霊特集とかも、目と耳を塞ぐタイプ。サスペンスドラマで死体が出てくるだけで逃げ出すの。スプラッタなんて、意識保ててただけでも進歩したって感じ」
「マジかよ」
颯斗は愕然とする。今更、そんなことを言われても、だ。
「何がいいかって訊いたら、何でもいいって言うから……」
蒼くなっている颯斗に、利音は苦笑した。
「まあ、荘一郎はあの子の好み完全に把握してたし、何をするにもあの子の望むものを第一に選んでたから、今まではそもそも選択するってことがなかったんじゃないかな。そうする必要がなかったのよ。荘一郎に任せておけば間違いなかったっていうか」
また、荘一郎だ。
いつまで経っても彼には遠く及ばないという事実が突き付けられてしまう。
「クソ」
呻いてガックリと肩を落とした颯斗に、利音はケラケラと笑った。
颯斗にとっては、笑いごとじゃない。
キッと顔を上げて利音を睨み付けようとした颯斗が目にしたのは、予想外に温かな彼女の笑みだった。
「いいんじゃないの、それで? あんたは、そうやって、いちいちアヤに確かめてったらいいじゃない。試行錯誤でたまには失敗しながらさ。何が嫌で何が好きなのか、一つ一つ知っていく――それがコミュニケーションってものよ」
利音は磨いていたグラスを置いて、また次のグラスを取る。そうして、それをもてあそびながら少し言葉を選んでいるようにゆっくりと、続ける。声はいつもよりも少し低かった。
「荘一郎とは、そういうことが必要じゃなかった。綾音は、二人の関係を築く努力をする必要が、全くなかったのよね。荘一郎が、一方的に与えてくれた――あの子にとって心地良い関係を、無条件に作り上げてくれた。二人は、ある意味うまくいってたけど……」
利音の声はだんだん小さくなって、最後は途切れた。
「何も言わずに理解できている関係なら、それに越したことはないんじゃないのか」
「ん、まあ、ね。『楽』ではあるだろうね」
利音の台詞には、含みがあった。
何が言いたいのかと口を開きかけた颯斗に先んじて、彼女が肩をすくめる。
「取り敢えず、あんたはアヤの所に行ったら? 多分、部屋で布団被ってガタガタ震えてるから」
利音の言わんとしていたことは気になったが、今の内容の方がよりいっそう気になった。
「ガタガタ震えて?」
「そ。それが何かあった時のあの子のしのぎ方だから。放っておいても、三十分もしたらケロッとした顔で出てくるし、変なところ見栄っ張りだから、むしろ放っておいて欲しいだろうけど」
どうする? と、利音は少し意地の悪い笑みを浮かべて颯斗を見つめてくる。
「荘一――」
――荘一郎なら、どうしてる?
そう問いかけかけて、颯斗は口を閉ざした。
「俺、行ってくる」
「ご自由に」
グルリとカウンターを回って店の奥にある自宅へと向かう颯斗に、利音がひらひらと手を振った。彼はそれを横目で受け流す。
颯斗は静かに階段を上り、以前に一度だけ開いたことのあるドアの前に立った。ためらいがちにノックをしたが――返事はない。
けれど、綾音が中にいるのは確かなのだ。
答えないということは入って欲しくないということなのか、それとも答えることもできないほど怯えきっているということなのか。
颯斗は少しだけドアを開け、声をかける。
「……綾音?」
やはり、無言だ。
少し逡巡した後、颯斗は覚悟を決めて足を踏み入れる。
部屋の中はシンと静まり返っていて、ヒトの姿も無くて、一瞬、誰もいないのかと思った。が、室内をグルリと見回した颯斗の目に、ベッドの上に不自然なほどにこんもりと丸まった毛布の塊が入る。
(あれか)
利音は、綾音は部屋で布団を被っているだろうと言っていたが、本当にその通りだとは思わなかった。
まるで、小さい子どもだ。
いや、颯斗は、幼稚園児の頃でさえ、何かあってもこんなことはしなかった。
(これって、『普通』なのかな)
颯斗は自分が色々な意味で『普通』とはかけ離れていると知っているから、物事の基準を彼自身には置いていない。だが、それにしても、綾音の行動はやっぱり時々ちょっと標準から外れているのではないかと思う。
――良くも、悪くも。
どう変なのかと問われると、答えられないのだが。
綾音と出逢った頃は、颯斗自身が他の人間と関わりを持ってこなかったから、自分以外にどんな人間がいるのかということを知らなかった。だが、彼女と出逢って、他人と関わるようになって、いわゆる『普通』の人を知るようになった。
多分、普通の人間はベンチにぽつんと座っている子どもに声をかけて引っ張り込んだりしないし、赤の他人にあんなに気を掛けたりしない。せいぜい、どこかに虐待通告でもしておしまいになるくらいだろう。
綾音は、時々見ている方が心配になる程、無防備だ。
それでいて、壁がある。
世話焼きで怪我した動物やら捨て猫捨て犬を放っておけないほど庇護欲が強いのに、彼女自身、誰かが守っていてやらないといけない気にさせるような幼さを感じさせる。
一言で表せば、アンバランス、だろうか。
(そう思うのは、俺だけなのか?)
そんなことを考えながらベッドに近付いた颯斗は、毛布の塊に手が届く場所まで来て、次はどうしようかと考えた。
考えて、ベッドの脇の床にしゃがみこむ。
ベッドに腰を掛けるのはまずい気がしたし、立ったままで見下ろしているのは居心地が悪かったから。
「……綾音?」
ピクリと、毛布の塊が震えた。
「颯斗くん?」
くぐもった声が返ってくるが、それだけだ。
よくよく見ると、毛布の塊は小刻みに震えている。
(どうしたらいいんだ?)
颯斗自身は物心ついてから何かに怯えた経験もないし、何かあっても誰かに慰められた経験もない。
こんな時、どんな態度を取ればいいのか、さっぱりわからない。
触れるべきなのだろうか、そっとしておくべきなのだろうか。
(荘一郎なら、どうする?)
――撫でるとか、抱き締める、とか……?
だが、それは、恋人だから、荘一郎だから、許されていたことだろう。
迷った挙句、颯斗はベッドの高さまで目線を下げて、毛布の塊の隙間を覗き込む。
「あのさ……ゴメン。ああいうの苦手だって、知らなかったんだ」
毛布の塊が、もそもそと動いた。中から、きらりと光るものが覗く。毛布の陰から見える綾音の目は、まるで怯えた仔猫か何かだ。
「わたしの方こそ、ごめんね」
か細い声は、微かに震えていた。
「え?」
「誘ってくれてうれしかったし、颯斗くんが好きな映画なんだし、がんばって観ようと思ったんだけど、ダメだったの」
その声にあるのは、恐怖心だけではない気がする。後はなんだろう――自己嫌悪、だろうか。
「俺は、別にああいうのが好きなわけじゃ……」
言いかけて、やめた。
「綾音はどんなのが好きなんだ?」
「え? えっと――……怖くない、やつ」
「それ以外なら何でもいいわけ?」
「多分」
ということは、ピンポイントでダメな奴を持ってきてしまったわけだ。
「じゃあ、今度は怖くないの、観に行こう」
毛布の塊が起き上がる。少しはだけて、くせ毛をくしゃくしゃにもつれさせた頭が出てきた。大きな目の上の眉は、情けなさそうに八の字になっている。
「また、一緒に行ってくれるの?」
「また、行きたいんだ。綾音と」
必要以上に力のこもった声になってしまった。もっと自然で軽い口調の方が良かった筈だと歯噛みする颯斗の前で、綾音が笑った。ふにゃりと、溶けるように。
「良かった。うれしい」
台詞が無くても、綾音の心の内が伝わってくるような笑みだった。素直極まりない笑顔に絶句する颯斗に、彼女のその笑顔には照れくさそうな色が加わる。
「逃げ出すなんてバカみたいなことしちゃったから、呆れられちゃったかと思ってたの。もう二十歳なのに、ホントに、ダメだよね。もっとしっかりしないといけないって、わかってるんだよ。……わかってるん、だけど……」
うなだれながらの綾音のその台詞に、颯斗は頷けなかった。
「……綾音は、そのままでいいよ」
「え?」
「そのままでいいから、それより――」
もっと、俺にも頼ってくれ。荘一郎にそうしていたように。
そう言いそうになって、颯斗は口を閉ざす。
何かというと荘一郎を引き合いに出してしまう自分が、嫌だった。
(違う。荘一郎は、関係ないんだ。俺、なんだ)
荘一郎は、幼い頃から綾音をずっと見ていて、彼女のことを誰よりも良く知るようになった。
その月日の積み重ねには、どう足掻いても敵わない。
だったら、どうすればいいか。
利音が言ったことをするしかない。
颯斗は颯斗で、綾音のことを知っていくしかないのだ。ただ漠然と眺めて綾音が伝えてくるものだけで判断しようとするのではなくて、もっと、知ろうとして近付いていかなければ。
「俺は、綾音のことをもっと知りたい。綾音が好きなこととか、嫌いなこととか。我慢しないでちゃんと教えて欲しいんだ。教えてもらわないと、俺はわからないから」
綾音は、キョトンとしている。キョトンとしたまま颯斗の言葉を聞いて、そしてまたふわりと微笑んだ。甘い香りが漂うようなそれを目にした途端、颯斗のみぞおちがギュッと何かに掴まれる。
一瞬、彼女の方に手が伸びそうになった。それを固く拳を握って押しとどめる。
無心に頭の中で九九を唱えて妙な熱を冷まそうとする颯斗の努力をあざ笑うかのように、綾音が身を乗り出して顔を近付けてくる。
「じゃあ、颯斗くんも教えてね? 颯斗くんの好きなこと、わたしもちゃんと知りたいから」
「綾音……俺……」
柔らかな笑顔に目を奪われて、颯斗は危うく正直なところを口にしてしまいそうになる。
好きなもの――欲しいものは、たった一つだけだ、と。
が、すんでのところで正気を取り戻した。
「ああ、そうだな。俺のことも、ちゃんと知って欲しい」
いつか、この想いも。
心の中でそう付け足した颯斗に、綾音がにっこりと笑う。屈託なく、この上なく嬉しそうに。
こんなふうに笑ってくれる綾音を失うことなく二人の関係を変えていく方法が、颯斗にはまだ見つかっていなかった。
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早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
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しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
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