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<三歩前進、二歩後退……?>
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午後二時という中途半端な時間の為か、館内にあるカフェでは待つことなく席に着くことができた。
「良かったね、席空いてて」
椅子に座って綾音が、にっこりと颯斗に笑いかける。屈託のない笑顔は、この上なく楽しそうに見えた。
(楽しんでるのかな)
外見通りに受け取っていいのかどうか、颯斗には今一つ確信が持てない。
と、
「楽しい?」
「え?」
颯斗の心の声を聞き取ったかのような綾音の問いかけに、彼は思わず目を瞬かせた。
「わたしばっかり楽しんじゃってるみたいだけど、颯斗くんもちゃんと楽しい? 来て良かった?」
首をかしげた綾音が、もう一度訊いてくる。
「ああ、楽しいよ」
綾音が心の底から楽しんでくれているのなら、颯斗は彼女のそんな姿を見られることが、嬉しくて楽しい。
彼の返事にパッと顔を輝かせた綾音が、メニューを差し出してくる。
「このお店は前と同じなんだね。わたしはここのリンゴのケーキが好きなんだ。颯斗くんは何にする? 結構お腹空いてる?」
綾音はメニューを開いて料理の説明を始めた。
「お腹空いてるんなら、パスタセットとかは? 日替わりで何が出てくるか判らないけど、外れることないよ?」
一つ一つについて薀蓄する綾音は、楽しそうだった。しかし、日替わりセットのメニューについてそんなふうに言えるということは、それだけしょっちゅう来ている――来ていたということだ。
「良く知ってるんだな」
颯斗の口から、ついそんな台詞がこぼれた。
綾音が、こういう場所に一人で来るわけがない。その時の相手が誰なのかなんて、訊かなくても判る。
颯斗は「しまった」と思ったけれど、出してしまった言葉はもう戻らない。
彼の台詞を受けて、綾音は自然に頷く。
「うん、荘一郎さんとよく来るんだ」
さらっと口にしたその言い回しに、颯斗は一瞬違和感を覚えた。そして、すぐにその理由を理解する。
彼女は気付いているのだろうか。
(よく『来る』と言った)
――『来た』ではなくて。
これからも何度も彼と来ることがあるかのように、まるで今でも彼がすぐ近くにいるかのように、ごくごく自然に現在形を使った。きっと、彼女自身はそうしたことに全く気付いていないに違いのだ。
颯斗は、膝の上に置いた両手をきつく握り締めた。
今この瞬間も、荘一郎が綾音との間に立ちはだかっているような気がする。
腹が立つ、と思ってはいけないのだ。綾音にとって荘一郎がそう簡単に消し去れない存在なのだということは、颯斗にもよく解かっているのだから。
けれど、やっぱり、もう存在しないのに否応なしに綾音の中での存在感を突き付けてくる男に対して、苛立ちを覚えてしまう。
(くそ)
颯斗は胸の中で罵った。
百もの罵声が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
記憶に残る限り、彼は癇癪というものを起こしたことはない。
けれど、今は、大声で喚き立てて綾音の肩を掴んで首が外れそうになるほどに揺すってやりたくてならなかった。
荘一郎は、もういないのだ。
もう二度と綾音に笑いかけることも話しかけることも触れることも、ここに連れてくることもないのだと、綾音の頭と心に叩き込んでやりたい。
どんなに彼女が目と耳を閉じてその事実を拒んでも、揺るぎないその現実を解からせてやりたかった。
それを実行してしまわないように、颯斗は拳に力を入れた。手のひらに食い込む爪の痛みの方に、意識を集中する。
そんな彼の心中には全く気付いた様子なく、綾音はにこにこしながら続ける。
「あ、午後どうしよっか? わたし、ペンギンの行列とイルカショー観たいな。ほら、これ、三時と三時半からだって。それ観てからだったら店に帰るの五時ちょっと前くらいかな。ちょうどいいくらいの時間だよね」
(もう『帰る』話かよ)
些細なことが、いちいち颯斗の胸の中をチクチクと刺激した。
綾音は、颯斗とでは、時間も義務も忘れて一緒に居たいとは思ってくれないのだ。きっと、相手が荘一郎なら、何もかも放って一緒に過ごす時間に没頭するだろうに。
(クソ、当たり前だろ)
颯斗と荘一郎とでは、比べ物にならないのだから。
バカなことを考えていると、彼も自分で判っている。が、解かっていても、止められない。
綾音に目を見られたら、颯斗の胸の中でくすぶっている苛立ちに気付かれてしまうだろう。彼はメニューに視線を落として、注文を選んでいるふりをした。写真も文字もろくに見ずに、適当に決めてしまう。
その間も、綾音は明るい声でしゃべり続けていた。
見てきた奇妙な生き物についてや、普通に可愛らしい生き物について、すごく、楽しそうに。
(綾音は今、俺といるんだ)
――荘一郎ではなく。
やがて届いた料理を口に運びつつ、綾音の話に相槌を打ちながら、颯斗は自分自身にそう言い聞かせる。実際、荘一郎の名前が出てきたのは、その一度きりだった。彼女自身、口にしたことに気付いていなかったのかもしれない。
(別に、今は、荘一郎の事を思い出して楽しんでいるわけじゃない。綾音は、俺といて、楽しく思っているんだ)
そう自分を納得させ、颯斗は綾音の声に耳を傾けた。
無理に笑顔を作れば引きつってしまうのが目に見えていたから、笑いかけてくる彼女に、敢えて素っ気なく頷きを返す。普段の颯斗もそんなものだからだろう、綾音が彼の態度を不審がる様子はない。
じきに届いた料理もきれいになくなり、綾音の話のネタも尽きてくる。
「言ってたとおり、美味かったよ。じゃあ、そろそろ行こうか? ペンギンとイルカだっけ?」
食後のコーヒーも飲み終えて、しばらくしてから颯斗は切り出した。
綾音が取ってしまう前に会計伝票を掴んで立ち上がりかける。
が。
「あ、颯斗くん、え、と」
パッと顔を上げた綾音が何か言いかけて止めるのを目にして、また椅子に腰を落とした。
彼女は先ほどまでの饒舌さを引っ込め、どこか気まずげにテーブルの上を見つめている。
「まだなんか注文したい?」
颯斗はパスタを頼んだけれど、綾音が注文したのはリンゴのケーキと紅茶だけだから、まだ小腹が空いているのかもしれない。
けれど、そう問いかけた颯斗に、綾音は小さくかぶりを振る。
「じゃぁ、何?」
機嫌良くしていたところからこの瞬間まで、自分が何かしただろうかと颯斗は行動を振り返った。パスタの食べ方が汚かったとか、綾音の話に対する反応が鈍すぎたとか。
(でも、いつもとそうたいして変わらないよな?)
食事は毎日一緒にしていて別に文句が出たことはないし、話の聞き方だって、いつもと同じだ。
もじもじしている綾音はらしくなくて、颯斗は眉をひそめる。取り敢えず、何もないのに席を占拠しているのも悪いので、彼は片手を上げてウェイトレスを呼ぶとコーヒーと紅茶を追加した。
しばらくしてそれが届いても、まだ綾音は話を切り出さない。颯斗は黙ってコーヒーを口に運びながら、彼女が話し出すのを待った。
綾音は紅茶にも手を出さず、ひたすらカップの中身を見つめている。コーヒーも半分ほど減ってしまったところで、颯斗はこのままではコーヒーを五杯は飲む羽目になるのではなかろうかと思い始めた。
「綾音、何か言いたいことがあるんだろ?」
ついに空になってしまったカップをソーサーに戻し、颯斗はあまり急かしたくないとは思いつつ、促した。
そうしてから頭の中でゆっくり数を数えはじめると、六まで行ったところで綾音が顔を上げる。
視線はやや颯斗からずれているが、唇が開いて音を出さないままで閉じ、また開く。
「えっと、あの、ね……あの、わたしが熱を出した時のことなんだけど……」
(これはまた気まずいネタを持ってきたな)
胸の中で呻きつつ、颯斗は努めて軽い態度で頷きを返す。
「ああ、あれが何?」
腕の中にいた綾音の感触はくっきりはっきり鮮明だが、そんなことはおくびにも出さない。
そんな『何でもないような』颯斗の態度で気が楽になったのか、綾音小さく息を吸ってから続ける。
「その、途中で目を覚ました時に、颯斗くん、が……えっと」
(目を覚ましてたのか)
綾音の温もりがあまりに心地良くてつい颯斗も爆睡してしまったのだ。一度彼女が起きていたなんて、全然気が付かなかった。
それ以上はなんと言っていいのか判らなくなったようで、綾音が口ごもる。また視線がテーブルの表面に戻ってしまった。
顔を伏せた綾音を見つめながら、颯斗は少し目を細める。
ここは、なんと答えるのが『正解』なのだろうかと考えながら。
綾音との間の何かを変えたければ、自分のことを意識させるような答えを口にするべきだ。颯斗はもう『男の子』ではなく、『男』なのだ。綾音を抱き締めたのは彼女のことを『女性』として好きだからなのだ、と。
けれど、そうすれば、また――いや、いっそう、彼女とぎくしゃくしてしまうかもしれない。
(いや、間違いなく百パーそうなるな)
そのうちどこかで綾音が颯斗のことを男として意識してくれるようになるかもしれないが、サイアク、避けられ続けるようになるかもしれない。
そんなことになるくらいなら、死んだ方がマシだ。
一方、綾音の気を楽にするような台詞を言えば、きっと彼女はホッとできる。綾音は、何も変えないことを望んでいるだろうから。何も変わらないことを望んでいるだろうから。
けれど、そうすることを選んだら、また長い停滞の始まりだ。
待った挙句に、結局そのままということは――
(有り得るな)
なんだか、どちらに転んでも颯斗には得るものがないように思われて、テーブルに突っ伏したくなる。
そうやって悶々と考えていた颯斗は結構長い時間黙りこくっていたと見え、綾音がおずおずと声をかけてくる。
「颯斗、くん……?」
覗き込むように見つめてくる大きな目。
(ああ、クソ、ズルいヤツ)
綾音は、颯斗の彼女に対する気持ちを知っているのではないか、彼が彼女のことを毛筋ほども苦しめたくないと思っていることも、決して手に入らないからと言って彼女を諦めることもできないことも、全て知っているのではないかと勘繰ってしまう。
そんなことは、有り得ないけれど。
結局、颯斗は、彼自身ではなく、綾音が望む答えを返すしかないのだ。
「しばらく一緒に寝てたよ」
胸の内の葛藤など欠片も見せず、颯斗はサラリと言った。
「え、あ、うん……」
もごもごと言って絶句した綾音に、肩をすくめてみせる。
「だって綾音、毛布かけてやっても寒い寒いって」
「え? 寒い?」
彼女がキョトンと颯斗を見つめてきた。
「多分、熱のせいだろ? そのうちガタガタ震えだしてさ。布団しまってある所なんか知らないし、勝手に家じゅう漁るわけにもいかないだろ? 他に温める方法なかったし」
少々無理がある説明だ。
が、呆気には取られていたものの、目に見えて、綾音の顔がホッとしたように緩んでいく。
――しかし、そうなる一瞬、彼女の目の中に安堵以外の何かがよぎったような気がしたのは、気のせいだろうか。
本当にわずか、かすめるようなものだったので、颯斗はその正体を掴めなかった。
その、在ったのか無かったのかすら判らないような何かが、やけに気にかかる。それを胸の片隅に引っかけたまま、颯斗は軽い口調で言う。
「なんだよ、俺に襲われたとか思った?」
「え!?」
「意識がない時になんかされたかも、とか?」
むしろそう思ってくれと思いつつ、颯斗は茶化す。「まさかぁ」とか、そんなふうに彼と同じく軽い返事になるだろうと思っていたが、予想外に綾音が喰い付いてきた。
「違う、違うよ! そんなこと、颯斗くんは絶対にしないし!」
信頼に満ち満ちた眼差しで力いっぱい全否定する綾音に、一瞬、今この場でキスの一つもかましてやろうかと思ってしまう。
あの日と同じように、いや、あの日よりも力を込めて抱き締めて、キスをする。
何度も。
――離れた後に真っ赤になってポカンとしている彼女の顔まで、想像できた。
「颯斗くん?」
名前を呼ばれて、彼は妄想から抜け出す。
「俺だって、男だよ」
悪あがきでボソッと呟いてみたら、満面の笑みが返ってきた。
「え、でも、颯斗くんだし」
(それは、俺が永遠の安全牌ってことか?)
思わず、ため息がこぼれる。
「颯斗くん?」
「何でもない。じゃあ、もう行こう」
立ち上がり、ふと思い立って綾音に手を差し出した。彼女はほんのわずかなためらいもなくそれを取る。
傍からは、仲睦まじい恋人同士に見えるかもしれない。
けれどけっしてそうではないことを、颯斗は嫌というほど理解している。
「ペンギン、だったよな?」
彼の手のひらに重ねられた華奢な指先を握り締めつつそう言うと、嬉しそうな笑顔が返ってきた。
「良かったね、席空いてて」
椅子に座って綾音が、にっこりと颯斗に笑いかける。屈託のない笑顔は、この上なく楽しそうに見えた。
(楽しんでるのかな)
外見通りに受け取っていいのかどうか、颯斗には今一つ確信が持てない。
と、
「楽しい?」
「え?」
颯斗の心の声を聞き取ったかのような綾音の問いかけに、彼は思わず目を瞬かせた。
「わたしばっかり楽しんじゃってるみたいだけど、颯斗くんもちゃんと楽しい? 来て良かった?」
首をかしげた綾音が、もう一度訊いてくる。
「ああ、楽しいよ」
綾音が心の底から楽しんでくれているのなら、颯斗は彼女のそんな姿を見られることが、嬉しくて楽しい。
彼の返事にパッと顔を輝かせた綾音が、メニューを差し出してくる。
「このお店は前と同じなんだね。わたしはここのリンゴのケーキが好きなんだ。颯斗くんは何にする? 結構お腹空いてる?」
綾音はメニューを開いて料理の説明を始めた。
「お腹空いてるんなら、パスタセットとかは? 日替わりで何が出てくるか判らないけど、外れることないよ?」
一つ一つについて薀蓄する綾音は、楽しそうだった。しかし、日替わりセットのメニューについてそんなふうに言えるということは、それだけしょっちゅう来ている――来ていたということだ。
「良く知ってるんだな」
颯斗の口から、ついそんな台詞がこぼれた。
綾音が、こういう場所に一人で来るわけがない。その時の相手が誰なのかなんて、訊かなくても判る。
颯斗は「しまった」と思ったけれど、出してしまった言葉はもう戻らない。
彼の台詞を受けて、綾音は自然に頷く。
「うん、荘一郎さんとよく来るんだ」
さらっと口にしたその言い回しに、颯斗は一瞬違和感を覚えた。そして、すぐにその理由を理解する。
彼女は気付いているのだろうか。
(よく『来る』と言った)
――『来た』ではなくて。
これからも何度も彼と来ることがあるかのように、まるで今でも彼がすぐ近くにいるかのように、ごくごく自然に現在形を使った。きっと、彼女自身はそうしたことに全く気付いていないに違いのだ。
颯斗は、膝の上に置いた両手をきつく握り締めた。
今この瞬間も、荘一郎が綾音との間に立ちはだかっているような気がする。
腹が立つ、と思ってはいけないのだ。綾音にとって荘一郎がそう簡単に消し去れない存在なのだということは、颯斗にもよく解かっているのだから。
けれど、やっぱり、もう存在しないのに否応なしに綾音の中での存在感を突き付けてくる男に対して、苛立ちを覚えてしまう。
(くそ)
颯斗は胸の中で罵った。
百もの罵声が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
記憶に残る限り、彼は癇癪というものを起こしたことはない。
けれど、今は、大声で喚き立てて綾音の肩を掴んで首が外れそうになるほどに揺すってやりたくてならなかった。
荘一郎は、もういないのだ。
もう二度と綾音に笑いかけることも話しかけることも触れることも、ここに連れてくることもないのだと、綾音の頭と心に叩き込んでやりたい。
どんなに彼女が目と耳を閉じてその事実を拒んでも、揺るぎないその現実を解からせてやりたかった。
それを実行してしまわないように、颯斗は拳に力を入れた。手のひらに食い込む爪の痛みの方に、意識を集中する。
そんな彼の心中には全く気付いた様子なく、綾音はにこにこしながら続ける。
「あ、午後どうしよっか? わたし、ペンギンの行列とイルカショー観たいな。ほら、これ、三時と三時半からだって。それ観てからだったら店に帰るの五時ちょっと前くらいかな。ちょうどいいくらいの時間だよね」
(もう『帰る』話かよ)
些細なことが、いちいち颯斗の胸の中をチクチクと刺激した。
綾音は、颯斗とでは、時間も義務も忘れて一緒に居たいとは思ってくれないのだ。きっと、相手が荘一郎なら、何もかも放って一緒に過ごす時間に没頭するだろうに。
(クソ、当たり前だろ)
颯斗と荘一郎とでは、比べ物にならないのだから。
バカなことを考えていると、彼も自分で判っている。が、解かっていても、止められない。
綾音に目を見られたら、颯斗の胸の中でくすぶっている苛立ちに気付かれてしまうだろう。彼はメニューに視線を落として、注文を選んでいるふりをした。写真も文字もろくに見ずに、適当に決めてしまう。
その間も、綾音は明るい声でしゃべり続けていた。
見てきた奇妙な生き物についてや、普通に可愛らしい生き物について、すごく、楽しそうに。
(綾音は今、俺といるんだ)
――荘一郎ではなく。
やがて届いた料理を口に運びつつ、綾音の話に相槌を打ちながら、颯斗は自分自身にそう言い聞かせる。実際、荘一郎の名前が出てきたのは、その一度きりだった。彼女自身、口にしたことに気付いていなかったのかもしれない。
(別に、今は、荘一郎の事を思い出して楽しんでいるわけじゃない。綾音は、俺といて、楽しく思っているんだ)
そう自分を納得させ、颯斗は綾音の声に耳を傾けた。
無理に笑顔を作れば引きつってしまうのが目に見えていたから、笑いかけてくる彼女に、敢えて素っ気なく頷きを返す。普段の颯斗もそんなものだからだろう、綾音が彼の態度を不審がる様子はない。
じきに届いた料理もきれいになくなり、綾音の話のネタも尽きてくる。
「言ってたとおり、美味かったよ。じゃあ、そろそろ行こうか? ペンギンとイルカだっけ?」
食後のコーヒーも飲み終えて、しばらくしてから颯斗は切り出した。
綾音が取ってしまう前に会計伝票を掴んで立ち上がりかける。
が。
「あ、颯斗くん、え、と」
パッと顔を上げた綾音が何か言いかけて止めるのを目にして、また椅子に腰を落とした。
彼女は先ほどまでの饒舌さを引っ込め、どこか気まずげにテーブルの上を見つめている。
「まだなんか注文したい?」
颯斗はパスタを頼んだけれど、綾音が注文したのはリンゴのケーキと紅茶だけだから、まだ小腹が空いているのかもしれない。
けれど、そう問いかけた颯斗に、綾音は小さくかぶりを振る。
「じゃぁ、何?」
機嫌良くしていたところからこの瞬間まで、自分が何かしただろうかと颯斗は行動を振り返った。パスタの食べ方が汚かったとか、綾音の話に対する反応が鈍すぎたとか。
(でも、いつもとそうたいして変わらないよな?)
食事は毎日一緒にしていて別に文句が出たことはないし、話の聞き方だって、いつもと同じだ。
もじもじしている綾音はらしくなくて、颯斗は眉をひそめる。取り敢えず、何もないのに席を占拠しているのも悪いので、彼は片手を上げてウェイトレスを呼ぶとコーヒーと紅茶を追加した。
しばらくしてそれが届いても、まだ綾音は話を切り出さない。颯斗は黙ってコーヒーを口に運びながら、彼女が話し出すのを待った。
綾音は紅茶にも手を出さず、ひたすらカップの中身を見つめている。コーヒーも半分ほど減ってしまったところで、颯斗はこのままではコーヒーを五杯は飲む羽目になるのではなかろうかと思い始めた。
「綾音、何か言いたいことがあるんだろ?」
ついに空になってしまったカップをソーサーに戻し、颯斗はあまり急かしたくないとは思いつつ、促した。
そうしてから頭の中でゆっくり数を数えはじめると、六まで行ったところで綾音が顔を上げる。
視線はやや颯斗からずれているが、唇が開いて音を出さないままで閉じ、また開く。
「えっと、あの、ね……あの、わたしが熱を出した時のことなんだけど……」
(これはまた気まずいネタを持ってきたな)
胸の中で呻きつつ、颯斗は努めて軽い態度で頷きを返す。
「ああ、あれが何?」
腕の中にいた綾音の感触はくっきりはっきり鮮明だが、そんなことはおくびにも出さない。
そんな『何でもないような』颯斗の態度で気が楽になったのか、綾音小さく息を吸ってから続ける。
「その、途中で目を覚ました時に、颯斗くん、が……えっと」
(目を覚ましてたのか)
綾音の温もりがあまりに心地良くてつい颯斗も爆睡してしまったのだ。一度彼女が起きていたなんて、全然気が付かなかった。
それ以上はなんと言っていいのか判らなくなったようで、綾音が口ごもる。また視線がテーブルの表面に戻ってしまった。
顔を伏せた綾音を見つめながら、颯斗は少し目を細める。
ここは、なんと答えるのが『正解』なのだろうかと考えながら。
綾音との間の何かを変えたければ、自分のことを意識させるような答えを口にするべきだ。颯斗はもう『男の子』ではなく、『男』なのだ。綾音を抱き締めたのは彼女のことを『女性』として好きだからなのだ、と。
けれど、そうすれば、また――いや、いっそう、彼女とぎくしゃくしてしまうかもしれない。
(いや、間違いなく百パーそうなるな)
そのうちどこかで綾音が颯斗のことを男として意識してくれるようになるかもしれないが、サイアク、避けられ続けるようになるかもしれない。
そんなことになるくらいなら、死んだ方がマシだ。
一方、綾音の気を楽にするような台詞を言えば、きっと彼女はホッとできる。綾音は、何も変えないことを望んでいるだろうから。何も変わらないことを望んでいるだろうから。
けれど、そうすることを選んだら、また長い停滞の始まりだ。
待った挙句に、結局そのままということは――
(有り得るな)
なんだか、どちらに転んでも颯斗には得るものがないように思われて、テーブルに突っ伏したくなる。
そうやって悶々と考えていた颯斗は結構長い時間黙りこくっていたと見え、綾音がおずおずと声をかけてくる。
「颯斗、くん……?」
覗き込むように見つめてくる大きな目。
(ああ、クソ、ズルいヤツ)
綾音は、颯斗の彼女に対する気持ちを知っているのではないか、彼が彼女のことを毛筋ほども苦しめたくないと思っていることも、決して手に入らないからと言って彼女を諦めることもできないことも、全て知っているのではないかと勘繰ってしまう。
そんなことは、有り得ないけれど。
結局、颯斗は、彼自身ではなく、綾音が望む答えを返すしかないのだ。
「しばらく一緒に寝てたよ」
胸の内の葛藤など欠片も見せず、颯斗はサラリと言った。
「え、あ、うん……」
もごもごと言って絶句した綾音に、肩をすくめてみせる。
「だって綾音、毛布かけてやっても寒い寒いって」
「え? 寒い?」
彼女がキョトンと颯斗を見つめてきた。
「多分、熱のせいだろ? そのうちガタガタ震えだしてさ。布団しまってある所なんか知らないし、勝手に家じゅう漁るわけにもいかないだろ? 他に温める方法なかったし」
少々無理がある説明だ。
が、呆気には取られていたものの、目に見えて、綾音の顔がホッとしたように緩んでいく。
――しかし、そうなる一瞬、彼女の目の中に安堵以外の何かがよぎったような気がしたのは、気のせいだろうか。
本当にわずか、かすめるようなものだったので、颯斗はその正体を掴めなかった。
その、在ったのか無かったのかすら判らないような何かが、やけに気にかかる。それを胸の片隅に引っかけたまま、颯斗は軽い口調で言う。
「なんだよ、俺に襲われたとか思った?」
「え!?」
「意識がない時になんかされたかも、とか?」
むしろそう思ってくれと思いつつ、颯斗は茶化す。「まさかぁ」とか、そんなふうに彼と同じく軽い返事になるだろうと思っていたが、予想外に綾音が喰い付いてきた。
「違う、違うよ! そんなこと、颯斗くんは絶対にしないし!」
信頼に満ち満ちた眼差しで力いっぱい全否定する綾音に、一瞬、今この場でキスの一つもかましてやろうかと思ってしまう。
あの日と同じように、いや、あの日よりも力を込めて抱き締めて、キスをする。
何度も。
――離れた後に真っ赤になってポカンとしている彼女の顔まで、想像できた。
「颯斗くん?」
名前を呼ばれて、彼は妄想から抜け出す。
「俺だって、男だよ」
悪あがきでボソッと呟いてみたら、満面の笑みが返ってきた。
「え、でも、颯斗くんだし」
(それは、俺が永遠の安全牌ってことか?)
思わず、ため息がこぼれる。
「颯斗くん?」
「何でもない。じゃあ、もう行こう」
立ち上がり、ふと思い立って綾音に手を差し出した。彼女はほんのわずかなためらいもなくそれを取る。
傍からは、仲睦まじい恋人同士に見えるかもしれない。
けれどけっしてそうではないことを、颯斗は嫌というほど理解している。
「ペンギン、だったよな?」
彼の手のひらに重ねられた華奢な指先を握り締めつつそう言うと、嬉しそうな笑顔が返ってきた。
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