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<小さな世界の中での安寧>
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夏休みが始まってすぐの水族館は、大盛況だった。
平日なのでさすがに家族連れはそう多くないが、友人らしいグループや恋人同士と思しき二人連れ、そして幼稚園だか保育園だかの子どもの集団もいる。
「にぎやかだねぇ」
感心したようにというよりもほとんど呆気に取られているようにつぶやきながら、綾音が辺りを見渡す。そんな彼女に、後ろから走ってきた四、五歳の男の子がぶっつかった。
よろけた綾音の肩を颯斗が引き寄せても、周りに気を取られているらしい彼女はされるがままになっている。彼の鼻先くらいに綾音の頭の天辺が来るから、ふわりと甘いシャンプーの香りが漂った。
と、不意によみがえってしまったのは彼女を抱き締めて横たわった時のことだ。
あの時は熱のせいでいっそう綾音の体温が感じられて、彼女の方からしがみ付いてきたから、もっとぴったりと寄り添っていた。
向かい合わせで、綾音の熱い吐息が喉の辺りをくすぐって――
(まずい)
思いがけず食らってしまった綾音の感触にどぎまぎし、それを何とか吹き消そうと一瞬目を閉じた。けれど、視覚が遮断されれば他の感覚が鋭敏になるのは良くあることだ。
一層鮮明になった記憶に、颯斗の心臓が痛くなる。
(くそ)
心の中で呻いて、颯斗は不自然にならないように細心の注意を払って引き寄せていた華奢な肩を放す。こっそりと深呼吸して早くなってしまった鼓動を宥めながら、少し距離の開いた綾音を見下ろした。
「人が多いから気を付けろよ?」
「あ、うん。……何か、迷子になっちゃいそうだね。手、つないどこっか?」
たった今抱き寄せられたことなど――多分、綾音の方にはそんな感覚が皆無だったのだろうけれど――全く気にしたふうもなく、彼女はクスクス笑う。
綾音の無自覚の残酷さに、颯斗は唸りそうになった。
彼女に他意はない。
まったく、一欠片も。
颯斗は深呼吸をして頭の中を切り替え、無難な台詞を口から捻り出す。
「……平日だし、もっと少ないと思ったんだけどな」
「でも、夏休みだもん。仕方ないよ」
仕方ないよと言いつつ、綾音はむしろその人混みすら楽しんでいそうだった。目を見開いてキョロキョロと首を巡らす彼女は、しばらくぶりに輝いた笑顔を浮かべている。
「なんか、すごいよね」
この感嘆の声は、多分、人の多さに対してではないだろう。
颯斗は綾音から目を放し、彼女と同じように周囲を見渡した。
確かに、すごい。
入り口でもらったパンフレットによれば、今回の改装で、国内でも最新式と言ってもいい設備に総入れ替えしたらしい。
颯斗がイメージしていた水族館は、でかい水槽がいくつかあるという程度のものだった。
けれど、今彼がいるところからは、四角い水槽など一つも見当たらない。代わりに、ガラス張りの天井には大きな魚がゆったりと泳ぎ、小さな魚が霞のような群れを作っている姿があった。横に目をやれば、壁のあちこちにある窓の中にいろいろな水棲生物が見え隠れしている。
水槽がある、というよりも、水槽の中に作られた通路にいる、という感じだ。
多分、いくつも仕切りが設けられているのだろうけれど、まるで水族館が一つの巨大な水槽のようだった。
「ほら、行こ、颯斗くん」
颯斗の手を掴んだ綾音が、グイグイと引っ張る。そうやって彼の手を握っていることに、何のためらいも感じられない。
柔らかな彼女の手のひらの感触は心地良いけれど、颯斗は、そうやっていとも簡単に触れられてしまうことを喜んでいいものかどうなのか、いま一つ判断できなかった。
(なんかもう、色々解かってんのかな)
淡々とした少年とはしゃいだ少女の組み合わせは、傍からは、颯斗よりもむしろ綾音の方が、「連れて来てもらった」ように見えているに違いない。
「あ、ほら、見て、颯斗くん、ジンベイザメ! 大きいねぇ」
天井を見上げた綾音が、ひっくり返りそうなほどに頭を反らせたまま颯斗に笑いかける。
(まあ、いいけど)
楽しそうな綾音の様子に、颯斗は内心で苦笑しながらもホッとする。
彼女が良ければ、自分の中の諸々の葛藤などどうでもよいことのように思えてきた。
正直なところ、ここに入るまでは、水族館に来るということがあまり良い考えではなかったのかもしれないと颯斗は思い始めていた。いや、自宅を出るまでは、初めて綾音と二人きりで出かけるというシチュエーションに、緊張しながらも高揚していたのだけれども。
朝、店に綾音を迎えに行った時、彼女はやけにピリピリしていた。それこそ、触ったら静電気みたいにパチパチ火花が散るんじゃないかというほどに。電車の中でも肩に力が入っていて、ヒシヒシと緊張が伝わってきた。それが一変したのは水族館の前に着いた時だ。
科学館か何かかよと思うような近未来的な入口の前で彼女は立ち止まり、ポカンとそれを見つめた。と思ったら、みるみる張り詰めていた空気が和らいで、中に入ったらご覧のようなはしゃぎぶりだ。
それまでの緊張の反動のように弾けた綾音は、二十歳の成人女性には見えない。
(クラスの女子より子どもっぽい)
そう口にしたらきっと脹れるだろう。
けれど、颯斗の頬は緩んでしまう。
何となく、彼女が『手の届く』距離に下りてきたような、そんな気がして。
綾音は、普段から『大人っぽい』タイプではない。見た目は常に一、二歳は若く見られるし、物腰もやわらかい。
それにも拘わらずいつもどこか距離を感じてしまうのは、多分年齢の差が原因ではないのだろう。
彼女は颯斗の手をずっと握ったままで、魚や得体のしれない何かの生き物が姿を現す度に声を弾ませている。パンフレットにズラリと並べられた写真と見比べて、正体が判明すると嬉しげな笑顔で颯斗に教えてくる。
とても、自然な笑顔で。
水槽の中身などそっちのけで、颯斗の目は彼女に釘付けになっていた。
いつ彼を見上げても目が合うことに、綾音は全く気付いていない。
ふと、颯斗は歯噛みしたい気持ちがこみ上げた。
利音だって隆だって、颯斗が綾音にどういう想いを抱いているのか、判っているというのに。
常連客の中にすら、時々冷やかしてくる者がいる。
それなのに、肝心の綾音はまったく気付いていない。
その『鈍さ』は、とてもじゃないが、恋人もいた成人女性には思えなかった。
(まあ、普段から、あんまり『年上』って感じはしないもんな)
それが颯斗にとってプラスなのかマイナスなのか。
綾音は颯斗の心の柱のようなものではあるけれど、普段一緒にいて感じるのは頼りたいという気持ちよりも守りたい、頼られたいという気持ちだ。それは多分、『年上だ』と思っている相手に覚えるものではないだろう。
別に、実際に手を貸す必要はないのだけれど、彼女を見ているとつい色々手を差し伸べてやりたくなってしまう。どこか、もろく、頼りなさを感じさせる。
ふと、以前に利音に言われたことを思い出した。
何かの会話の流れで、颯斗は、綾音は年上に見えないと、利音に言ったことがあるのだ。その時彼女は
「荘一郎は、あの子を大事にし過ぎたのかもね」とポツリとこぼした。
そう言った利音の声は、『綾音のことを大事にし過ぎた』という荘一郎のことを完全に肯定するものではなかった気がする。何となく、否定的な響きが、感じられたのだ。
その時の颯斗は、利音の台詞を聞き流しただけだったのだけれども。
(荘一郎に守られてたから、成長しなかった、とか?)
けれど、颯斗は『この』綾音が好きだった。子どもっぽくて鈍くて全然颯斗の気持ちに気付いてくれない綾音だけれど、荘一郎が守っていた為に今の綾音があるならば、その役目を引き継ぎたいと、心の底から彼は思う。
優しく、温かな綾音のままでいさせたいと思う。
――このまま、変わらない、彼女のままで。
(『変わらない』……?)
ピタリと颯斗の足が止まった。
くい、と手が引っ張られて、綾音が振り返る。
「颯斗くん?」
訝しげな眼差しからは、ここしばらく見られていた陰が消え失せていた。
春先の、明るいばかりの彼女に、戻ったように。
屈託なくて、楽しげで。
けれど。
(これが、いつまた陰るか判らないんだ)
颯斗には判らない、綾音の中にだけあるスウィッチが入ると、また彼女は揺らいでしまう。
そんな不安定なままで、いいのだろうか。
綾音は、滅多に外に出かけない――物理的にも、精神的にも。
店の中だけの小さな世界に閉じ籠っている。
綾音の『安定』は、そんな限られた中だけで保たれる、もろいものだ。
確かに、彼女の世界を守っていてやれば、彼女の安定は守られる。
(けど、本当にそれでいいのか……?)
無意識のうちに、綾音と結んだ手に力がこもった。
「颯斗、くん?」
雑踏のざわめきに消されてしまいそうな小さな声で名前を呼ばれ、颯斗はハッと我に返る。
「あ、ゴメン、ボウッとしてた」
小さな笑みと共にそう伝えると、綾音がホッとしたように唇をほころばせた。
「人が多いから、疲れちゃったかな。ちょっと休もっか」
言いながら、額にかかった颯斗の前髪を指先で少しよけ、彼の目を覗き込んでくる。
小学生かそこらの子どもに対するような、心遣い。
(違う。俺が欲しいのは、そんなものじゃない)
急に、颯斗は綾音の細い肩を掴んでガタガタと揺さぶってやりたくなった。
(腹が立つ? 何に? 何で?)
抱いてはいけない、いだくべきではない荒い感情を胸の奥に押し込め、無理やり笑う。
「だな。どこか座れるとこに行こう」
「あ、ほら、ここお店がある。何か飲もうよ」
「ああ」
別に腹も空いていないし、喉も乾いてない。
けれど颯斗は、湧いてしまった小さな混乱を何とかする為に、少し仕切り直したかった。
平日なのでさすがに家族連れはそう多くないが、友人らしいグループや恋人同士と思しき二人連れ、そして幼稚園だか保育園だかの子どもの集団もいる。
「にぎやかだねぇ」
感心したようにというよりもほとんど呆気に取られているようにつぶやきながら、綾音が辺りを見渡す。そんな彼女に、後ろから走ってきた四、五歳の男の子がぶっつかった。
よろけた綾音の肩を颯斗が引き寄せても、周りに気を取られているらしい彼女はされるがままになっている。彼の鼻先くらいに綾音の頭の天辺が来るから、ふわりと甘いシャンプーの香りが漂った。
と、不意によみがえってしまったのは彼女を抱き締めて横たわった時のことだ。
あの時は熱のせいでいっそう綾音の体温が感じられて、彼女の方からしがみ付いてきたから、もっとぴったりと寄り添っていた。
向かい合わせで、綾音の熱い吐息が喉の辺りをくすぐって――
(まずい)
思いがけず食らってしまった綾音の感触にどぎまぎし、それを何とか吹き消そうと一瞬目を閉じた。けれど、視覚が遮断されれば他の感覚が鋭敏になるのは良くあることだ。
一層鮮明になった記憶に、颯斗の心臓が痛くなる。
(くそ)
心の中で呻いて、颯斗は不自然にならないように細心の注意を払って引き寄せていた華奢な肩を放す。こっそりと深呼吸して早くなってしまった鼓動を宥めながら、少し距離の開いた綾音を見下ろした。
「人が多いから気を付けろよ?」
「あ、うん。……何か、迷子になっちゃいそうだね。手、つないどこっか?」
たった今抱き寄せられたことなど――多分、綾音の方にはそんな感覚が皆無だったのだろうけれど――全く気にしたふうもなく、彼女はクスクス笑う。
綾音の無自覚の残酷さに、颯斗は唸りそうになった。
彼女に他意はない。
まったく、一欠片も。
颯斗は深呼吸をして頭の中を切り替え、無難な台詞を口から捻り出す。
「……平日だし、もっと少ないと思ったんだけどな」
「でも、夏休みだもん。仕方ないよ」
仕方ないよと言いつつ、綾音はむしろその人混みすら楽しんでいそうだった。目を見開いてキョロキョロと首を巡らす彼女は、しばらくぶりに輝いた笑顔を浮かべている。
「なんか、すごいよね」
この感嘆の声は、多分、人の多さに対してではないだろう。
颯斗は綾音から目を放し、彼女と同じように周囲を見渡した。
確かに、すごい。
入り口でもらったパンフレットによれば、今回の改装で、国内でも最新式と言ってもいい設備に総入れ替えしたらしい。
颯斗がイメージしていた水族館は、でかい水槽がいくつかあるという程度のものだった。
けれど、今彼がいるところからは、四角い水槽など一つも見当たらない。代わりに、ガラス張りの天井には大きな魚がゆったりと泳ぎ、小さな魚が霞のような群れを作っている姿があった。横に目をやれば、壁のあちこちにある窓の中にいろいろな水棲生物が見え隠れしている。
水槽がある、というよりも、水槽の中に作られた通路にいる、という感じだ。
多分、いくつも仕切りが設けられているのだろうけれど、まるで水族館が一つの巨大な水槽のようだった。
「ほら、行こ、颯斗くん」
颯斗の手を掴んだ綾音が、グイグイと引っ張る。そうやって彼の手を握っていることに、何のためらいも感じられない。
柔らかな彼女の手のひらの感触は心地良いけれど、颯斗は、そうやっていとも簡単に触れられてしまうことを喜んでいいものかどうなのか、いま一つ判断できなかった。
(なんかもう、色々解かってんのかな)
淡々とした少年とはしゃいだ少女の組み合わせは、傍からは、颯斗よりもむしろ綾音の方が、「連れて来てもらった」ように見えているに違いない。
「あ、ほら、見て、颯斗くん、ジンベイザメ! 大きいねぇ」
天井を見上げた綾音が、ひっくり返りそうなほどに頭を反らせたまま颯斗に笑いかける。
(まあ、いいけど)
楽しそうな綾音の様子に、颯斗は内心で苦笑しながらもホッとする。
彼女が良ければ、自分の中の諸々の葛藤などどうでもよいことのように思えてきた。
正直なところ、ここに入るまでは、水族館に来るということがあまり良い考えではなかったのかもしれないと颯斗は思い始めていた。いや、自宅を出るまでは、初めて綾音と二人きりで出かけるというシチュエーションに、緊張しながらも高揚していたのだけれども。
朝、店に綾音を迎えに行った時、彼女はやけにピリピリしていた。それこそ、触ったら静電気みたいにパチパチ火花が散るんじゃないかというほどに。電車の中でも肩に力が入っていて、ヒシヒシと緊張が伝わってきた。それが一変したのは水族館の前に着いた時だ。
科学館か何かかよと思うような近未来的な入口の前で彼女は立ち止まり、ポカンとそれを見つめた。と思ったら、みるみる張り詰めていた空気が和らいで、中に入ったらご覧のようなはしゃぎぶりだ。
それまでの緊張の反動のように弾けた綾音は、二十歳の成人女性には見えない。
(クラスの女子より子どもっぽい)
そう口にしたらきっと脹れるだろう。
けれど、颯斗の頬は緩んでしまう。
何となく、彼女が『手の届く』距離に下りてきたような、そんな気がして。
綾音は、普段から『大人っぽい』タイプではない。見た目は常に一、二歳は若く見られるし、物腰もやわらかい。
それにも拘わらずいつもどこか距離を感じてしまうのは、多分年齢の差が原因ではないのだろう。
彼女は颯斗の手をずっと握ったままで、魚や得体のしれない何かの生き物が姿を現す度に声を弾ませている。パンフレットにズラリと並べられた写真と見比べて、正体が判明すると嬉しげな笑顔で颯斗に教えてくる。
とても、自然な笑顔で。
水槽の中身などそっちのけで、颯斗の目は彼女に釘付けになっていた。
いつ彼を見上げても目が合うことに、綾音は全く気付いていない。
ふと、颯斗は歯噛みしたい気持ちがこみ上げた。
利音だって隆だって、颯斗が綾音にどういう想いを抱いているのか、判っているというのに。
常連客の中にすら、時々冷やかしてくる者がいる。
それなのに、肝心の綾音はまったく気付いていない。
その『鈍さ』は、とてもじゃないが、恋人もいた成人女性には思えなかった。
(まあ、普段から、あんまり『年上』って感じはしないもんな)
それが颯斗にとってプラスなのかマイナスなのか。
綾音は颯斗の心の柱のようなものではあるけれど、普段一緒にいて感じるのは頼りたいという気持ちよりも守りたい、頼られたいという気持ちだ。それは多分、『年上だ』と思っている相手に覚えるものではないだろう。
別に、実際に手を貸す必要はないのだけれど、彼女を見ているとつい色々手を差し伸べてやりたくなってしまう。どこか、もろく、頼りなさを感じさせる。
ふと、以前に利音に言われたことを思い出した。
何かの会話の流れで、颯斗は、綾音は年上に見えないと、利音に言ったことがあるのだ。その時彼女は
「荘一郎は、あの子を大事にし過ぎたのかもね」とポツリとこぼした。
そう言った利音の声は、『綾音のことを大事にし過ぎた』という荘一郎のことを完全に肯定するものではなかった気がする。何となく、否定的な響きが、感じられたのだ。
その時の颯斗は、利音の台詞を聞き流しただけだったのだけれども。
(荘一郎に守られてたから、成長しなかった、とか?)
けれど、颯斗は『この』綾音が好きだった。子どもっぽくて鈍くて全然颯斗の気持ちに気付いてくれない綾音だけれど、荘一郎が守っていた為に今の綾音があるならば、その役目を引き継ぎたいと、心の底から彼は思う。
優しく、温かな綾音のままでいさせたいと思う。
――このまま、変わらない、彼女のままで。
(『変わらない』……?)
ピタリと颯斗の足が止まった。
くい、と手が引っ張られて、綾音が振り返る。
「颯斗くん?」
訝しげな眼差しからは、ここしばらく見られていた陰が消え失せていた。
春先の、明るいばかりの彼女に、戻ったように。
屈託なくて、楽しげで。
けれど。
(これが、いつまた陰るか判らないんだ)
颯斗には判らない、綾音の中にだけあるスウィッチが入ると、また彼女は揺らいでしまう。
そんな不安定なままで、いいのだろうか。
綾音は、滅多に外に出かけない――物理的にも、精神的にも。
店の中だけの小さな世界に閉じ籠っている。
綾音の『安定』は、そんな限られた中だけで保たれる、もろいものだ。
確かに、彼女の世界を守っていてやれば、彼女の安定は守られる。
(けど、本当にそれでいいのか……?)
無意識のうちに、綾音と結んだ手に力がこもった。
「颯斗、くん?」
雑踏のざわめきに消されてしまいそうな小さな声で名前を呼ばれ、颯斗はハッと我に返る。
「あ、ゴメン、ボウッとしてた」
小さな笑みと共にそう伝えると、綾音がホッとしたように唇をほころばせた。
「人が多いから、疲れちゃったかな。ちょっと休もっか」
言いながら、額にかかった颯斗の前髪を指先で少しよけ、彼の目を覗き込んでくる。
小学生かそこらの子どもに対するような、心遣い。
(違う。俺が欲しいのは、そんなものじゃない)
急に、颯斗は綾音の細い肩を掴んでガタガタと揺さぶってやりたくなった。
(腹が立つ? 何に? 何で?)
抱いてはいけない、いだくべきではない荒い感情を胸の奥に押し込め、無理やり笑う。
「だな。どこか座れるとこに行こう」
「あ、ほら、ここお店がある。何か飲もうよ」
「ああ」
別に腹も空いていないし、喉も乾いてない。
けれど颯斗は、湧いてしまった小さな混乱を何とかする為に、少し仕切り直したかった。
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