凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<時は流れる>

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 いつもよりも高い位置に、綾音あやねの頭が見える。
 どうやら、上の方の棚に入っている物を取ろうとしているらしい。踏み台に乗っているのだろうけれど、何だかふらついて危なっかしい。一番上の棚のさらにその奥の物を取ろうとして――届かないようだ。
 左手を棚の縁にかけて、右手を懸命に伸ばしている綾音は、颯斗はやとが入ってきたことにも気付いていない。代わりに、カウンターに座っていた常連客が振り返り、ニヤニヤしながら立てた人差し指を唇に当てた。

 彼のことは利音りねや綾音がはやしと呼んでいるのを聞いたことがある。四十半ばの少し丸い体型をした男だ。近所で写真屋をやっていて、いつも十一時半ころにやってきて、昼飯時で店が混み始める前に帰っていく。颯斗が彼と顔を合わせるのは休日くらいだが、三年もすればさすがに顔馴染みになった。

 林は口だけで「落っこちそう」と颯斗に告げる。
 だったら代わりに取ってやればいいのに、と思ったが、多分綾音が大丈夫だとでも言ったのだろう。
 確かに、驚かせたら落ちてしまいそうで、颯斗は林に無言で頷きを返すと彼女に気付かれないようにそっとカウンターを回る。
 案の定、綾音は颯斗の膝くらいの高さの足台の上で、更につま先立ちをしていた。しかも、片足は浮いている。

(俺を待ってたらいいだろうが)

 今日、彼が昼前にはここに来ることは綾音にもわかっていた筈だ。昨日の夕飯の時にちゃんとそう言っておいたのだから。
 颯斗はカウンターに鞄を置いて、足音を忍ばせて綾音に近付く。
 彼女のすぐ後ろに立つと、無言でその腰を両手でつかんだ。

「ぅひゃッ!?」
 間の抜けた悲鳴。
 それと同時に綾音はそっくり返って、背中が颯斗の肩に落ちてきた。

 ほんの一瞬、彼女の身体が腕の中に納まる。背中の真ん中ほどまである髪が今は一本の三つ編みになっていて、白くて細い首筋が颯斗の頬に触れそうになった。鼻先をくすぐるシャンプーの甘い香りと、見た目の細さからは予想できないウェストあたりの柔らかさに、彼の理性が危うく遠のきそうになる。

 ――抱き潰したい。
 ギュッと、渾身の力で。

 危うく華奢な身体に腕をまわしてしまいそうになったが、それをやめさせたのは綾音のとがめるような声だ。

「颯斗くん! びっくりするじゃない!」

 首だけ捻じって振り向いた綾音がそう言うのを無視して、そのまま彼女を持ち上げ、床に下ろす。自分の足で立たせると、綾音の頭はいつもの場所へ――颯斗の鼻より下へと戻った。

 途端、思う。

(もう、三年経ったんだ)

 ――綾音と初めて会った日から。

 毎度のことながら、こんなふうに彼女を見下ろすと流れた年月を実感する。
 こうやって目に見えて変わったことと、そして、変わらないものを。
 どんどん成長していく自分の身体は嬉しいが、一方でこう着状態に陥っているものもある。変えたい、変わって欲しいと願いつつ、結局何もできずにただただ見守るだけとなってしまっているものが。
 時たま、颯斗はジリジリと焦がされるような思いに駆られることがある。

 早く、早く、早く、と。

 けれどそれは抽象的なもので、実際に何をどうしたらよいのかはさっぱりだ。
 だからいっそう、焦燥感は強くなる。

(くそ)

 実際に声に出すわけにはいかず、颯斗はそれを向ける対象もはっきりしないまま、胸の中で罵りの声をあげるのだ。

 そんな彼の心中など知らず、颯斗の手から解放されると、その『変わらないもの』である綾音は、すぐさまクルリと振り返った。
 と、憤然と颯斗に向き直った彼女のその顔が、不意に強張る。
 怒っている時でも柔らかさを失わない綾音なのに、今の彼女は硬かった。

「綾音?」

 そんなに怒らせるようなことだったろうかと颯斗は首を捻ったけれど、綾音の顔は、怒っているのとは少し違う気がする。どちらかと言うと――

(……怯えてる?)
 まさか。
 綾音が颯斗を怖がるなんてことは、あり得ない。

「……綾音?」
 もう一度名前を呼ぶと、彼女はハッと我に返ったように大きく瞬きをした。
「どうかした?」
「え?」
「なんかすごく――驚いてたみたいだ」

『怯えていたみたいだ』と言いたかったが、颯斗は言葉を選んで指摘する。少しそれとは違うような気がしたし、綾音が自分に怯えているのだとも思いたくなかったからだ。
 颯斗の台詞に、綾音は、どこからどう見ても不自然な笑顔を浮かべた。それが心の内をごまかす為の笑顔であることがバレバレで、颯斗は内心で歯噛みする。
 綾音が笑うのは颯斗を心配させない為で、それは彼女の中に彼を頼る気持ちがないからなのだ。それが判るから、時折綾音の笑顔が腹立たしくなる。

「そりゃ、びっくりするよ。急にお腹つかまれたら、誰だって」
 言いながら、綾音が一歩後ずさる。
 そうして、颯斗をまじまじと見つめた。大きな目を、更に見開いて。

「何だよ?」
 なんだか、いつもと違う。

 ムッとした気持ちが去って、颯斗の中には不安の方が濃くなってきた。
 そんな彼の表情を読んだのか、綾音は作り笑いを深くする。そうされると余計に違和感が強くなるのを、彼女は解かっていない。

「あ、えっと、それ……」

 綾音の目線が少し下に下がる。釣られて見下ろすと、颯斗の視界に入るのは自分が着ているものだ。

「それ、制服? 高校の?」
「ああ……変?」

 中学校は学ランだった。入学した時はかなりダブダブだったものが、卒業間近にはきついくらいになっていたので、高校に入って新しい制服になるのが待ち遠しかった。まだ身長が伸び続けているので、また少し大きめなものにしている。
 これから通う高校の制服は、ブレザータイプのものだ。高校を選ぶのに、制服も多少は考慮した。学ランよりもブレザーの方が少しは大人びて見えるのではないか、そんなふうに思ったからだ。ネクタイの結び方もネットで調べて結構練習した。歪まずちゃんとできていると思うのだが。

 眉をしかめた颯斗に、綾音が慌てて首を振る。

「変、じゃないよ。すごく、似合ってる。……すごく、大人っぽい……」

 綾音が、微笑む。
 陰のある、微笑み。
 目論み通りになったのだから、綾音から『大人っぽい』と言われるのは、嬉しいことの筈だ。それなのに、颯斗は彼女の表情が引っかかって素直に受け取れない。
 なので、ムスッと言う。

「そこ、どいて」
「え?」
「なんか取りたかったんだろ? 何?」

 さっきまで綾音が立っていた踏み台に足をかけ、颯斗は彼女を見下ろす。綾音には難儀していた高さでも、颯斗には楽々と棚の奥まで見通せた。

「あ……カップ……白いのに花柄がついてるやつ――わかる?」
「これ?」
 言いながら、取り出したカップを綾音に渡す。
「そう、これ。午前中に、一個割っちゃってね。出しとかなくちゃって、思って……」

(全然、急ぎじゃないじゃないか)

 颯斗が来るまで待っていても、まったく、問題ない筈だった。また腹立たしさがぶり返して、踏み台から下りた颯斗は無言でそれを片付ける。
 店の奥の小部屋に踏み台を持っていって、一度深呼吸をしてから、綾音の元に戻った。

「今度から、俺か利音にさせろよ。どうやったって届かないもんは届かないんだから」
「あはは、うん、そうだね」

 そうして、綾音は颯斗を見上げた。どこか遠くを見ているような、微かな陰を帯びた目が、彼に向けられている。

(なんでそんな目をするんだ?)

 訊きたいけれど、訊けない。
 多分、彼女自身、答えを持っていないだろうから。
 そんな目をしているのだと気付かせたら、彼女の中の何かが壊れてしまうような気がしたから。

 颯斗が口をつぐんだままでいると、綾音がポツリと呟いた。

「いつの間にか、わたしよりも大きくなってたんだね」
「は? 何を今さら」

 思わず彼は眉をひそめた。
 颯斗が綾音の背を追い抜いたのは、二年は前のことだ。そして、日ごとにその差は大きくなっている。今では女性としては長身の利音ですら、少し見下ろすくらいになっていた。

「うん……今さら、だよね……そっか……」
 うつむいて綾音は呟き、そして、パッと顔を上げた。そこにはもういつも通りの笑顔が浮かんでいる。
「や、なんか、高校の制服が大人っぽくてびっくりしちゃった。だけど、颯斗くんの高校って、わたしの頃も進学校で有名だったよ。合格した時に教えてもらって、ちょっと驚いた。制服着てるの見たら、実感するね。頑張ったんだなぁ」

 その言い方は、いかにも、『子どもの頑張りを褒めるお姉さん』の風情だ。

(綾音の為に勉強だって運動だってやってきたのに……全然、気付いていないのか? 鈍すぎるだろ)

 そんな颯斗の心の声は綾音には全く届かず、彼女は続ける。

「なんか、ほら、わたしって、学校とかお勤めとかじゃないから、時間の流れっていうのに気づきにくいんだよね。いつの間にか月日が流れちゃってたっていうか……もう、そんなに経ってたのっていうか……」

 だんだん小さくなっていく声。密かに握り締められた、小さな拳。

 不意に、颯斗は気付く。
『いつ』からそんなに経っていたのか。

 彼女が言葉にしないその『いつ』は、『あの時』だ――荘一郎《そういちろう》が、いなくなった時。

(もう、二年以上経ったのに)

 いや、その前から荘一郎は綾音から離れていたのだから、彼を目にしなくなって、もう三年にはなるのだ。

 荘一郎が『行方不明』となってから、綾音の口から彼の名前が出たことは、颯斗が知る限り一度もない。けれど、彼女の中から彼のことが消えてしまっているわけではないのだ。
 二年以上行方不明で――正直言って、誰もが皆、荘一郎は死んだと思っている。

(だけど、綾音は?)
 颯斗は、俯いている綾音の頭のてっぺんを見下ろした。

 すぐ目の前にいるのに、触れられない――触れてはいけない壁があるような気がする。
 肉体には手を触れることができても、彼女の心には、届かない。

(いったい、いつまでだ?)

 あと三年待てばいいのか?
 それとも、六年? 十年?
 待てばいいだけならば、颯斗はいつまでだって待てる――そうしていて、いつか、綾音の気持ちが変わることがあるのであれば。

(だけど、ただ待っているだけでいいのか?)

 こうやって、綾音の中の時を凍らせておくだけで、いいのだろうか。

 颯斗には、判らない。

 時が流れ、外見的には何もかもが変わっていっているように見えても、綾音だけは変わっていない気がする。
 変えたいと思っても、どうすればいいのか、自分にそうする権利があるのか、颯斗には判らない。
 だから、ただ彼女の傍で日々が流れていくのを見ているだけなのだ。

 ――彼女を変えるのが自分でありたいと思いながらも。
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