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<世界を変えてくれるひと>
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玄関の方から聞こえたカチャリという微かな音に、自分の部屋にいた颯斗は動きを止めて耳を澄ませた。足音は一つだけだ。
彼は机の上から目当ての物を取り、居間に向かう。姿を現した彼に、そこにいた母親はサッと目を細くした。
「あんた、何してんの? 学校は?」
「一週間前から夏休み」
彼女にチラリとも目を走らせることなく、颯斗はさっさと玄関に向かう。どうせ不快な会話にしかならないのだから、言葉は少ないに限る。
母親と顔を合わせるのは、だいぶ久し振りだ。多分、前回三語以上の言葉を交わしてからひと月は経っているだろう。一週間に一回居間のテーブルに置かれている金だけが、母親が颯斗のことを忘れてはいないという証になっていた。
夜の仕事をしている母親は、いつも昼過ぎまで眠っている。それから夕方に仕事へ出るまで、自宅にいるか男の家にいるかのどちらかだ。
十分前に颯斗が帰ってきた時に家にいなかったから、てっきり今日は男の家に行っていて夕方まで戻らないと思っていたのに、こんなふうに鉢合わせするとは。
夏休みに入ってから、颯斗は朝から夜まで綾音たちのところで課題をしたり手伝いをしたりして過ごしている。いつもは朝まだ母親が寝ているうちに家を出てからずっと行きっ放しなのだけれども、今日は辞書を忘れてしまったのだ。
無事に玄関まで辿り着いた颯斗の背中に、刺々しい声が投げかけられた。
「アンタ、アイツに似てきたわね」
『アイツ』が誰を示しているかなんて、確かめなくても判る。
父親だ。
見てくれは上等の部類に入っていたらしいけれど、彼女のその台詞が誉め言葉でないことは颯斗にもよく解かっていた。
「ホント、そっくり」
颯斗が扉を閉める直前に聞こえてきた、吐き捨てるような声。それが鼓膜にこびり付いて剥がれない。
真夏の午後二時の日差しは肌を焦がすほどに照り付けてきたけれど、颯斗は肌寒ささえ覚えていた。
機械的に脚を動かして、道を進む。
普通なら一番近しい存在がこんなに毒々しく感じられるのは、よくあることなのだろうか。
今の世の中、離婚する夫婦は少なくないらしい。
その親から生まれた子どもは、みんなこんなふうに感じるものなのだろうか。
鳩尾の辺りが疼く。
何故だろう、以前は母親の言葉など耳から耳へと聞き流せていたのに、いやに後を引く。
そんなふうに考えながら黙々と歩いていたら、いつの間にか店の前に着いていた。
颯斗は小さな扉を見つめて、小さく息をつく。
家の戸を開ける時にはどうしても息を止めてしまうが、この店の扉を開ける時にはその時に止めた息がまた戻ってくるような心持ちになる。
颯斗はノブに手をかけ、押し開けた。
カウベルの音と同時に、朗らかな声。
「あ、颯斗くん、おかえり。辞書あった?」
いつもと変わらない綾音に、やけにホッとする。何となく目の奥が熱くて、颯斗は幾度か瞬きをした。
「あった」
言いながら、彼女から顔を背け加減でいつもの席に向かう。
そんなにあからさまにしたつもりはなかったのに、綾音は何かに気付いたらしい。
「どうかした?」
カウンターの椅子に座った颯斗は、ヒョイと顔を覗き込まれた。
「別に」
ぼそっと答えても、綾音は立ち去ろうとしない。利音が何か用事を言いつけたらいいのに、彼女は全くこちらに注意を向けることなく、カウンターにいる他の客に笑顔を振りまいている。
しばらく無言でいても綾音が動く気配はなくて、颯斗は言う。
「……親がいた」
その一言で、綾音は理解したらしい。
「そっか」
そう言って、さわさわと颯斗の頭を撫でる。
いい加減子ども扱いはやめてくれよと思うのに、何故かいつも彼女の手は振り払えないのだ。
彼女の優しい感触に、目を閉じる。
最近は隆や他の友人もできて何となく自分が『普通』な気になってきていたけれど、久し振りにあの憎悪に触れるとそれらを全否定されてしまったようだった。
いつから、自分はこんなに弱くなってしまったのだろう。
かつては、母親の言葉など何でもなかった。何を言われても、颯斗の心には全く届かなかった。
彼を守ってくれる、どんなに鋭い刃を突き刺されても何も感じなくさせてくれる、目には見えない強固な鎧があったのだ。
それなのに――
「親は選べないもんねぇ」
ポツリと綾音が呟いた。颯斗がチラリと横に目を走らせると、彼女の目が真っ直ぐに彼に向けられている。
あまりに真っ直ぐに注がれているその視線から、颯斗は目を逸らせそびれた。
彼の頭にあった綾音の手が、頬に下ろされる。柔らかく小さな両手で顔を挟まれ、いっそう目を逸らせなくなった。そのまま綾音は顔を近づけてきて、額が触れ合いそうになる。
ふわりと彼女のシャンプーの香りがして、颯斗はなんだかまた泣きたくなった。
親からあんなふうに言われるのが自分のせいではないということは、解かっている。
颯斗が彼を作ってくれと両親に頼んだわけじゃない。
産んでくれと母親に頼んだわけじゃない。
出ていってくれと父親に頼んだわけじゃない。
――憎しみ合えと念じたわけでもない。
だが、自分には何の責任もないのだと解かっていても、それを受け入れられるわけじゃない。
ギュッと目蓋を閉じた彼の額に、こつんと温かなものが触れた。目を開ければ、綾音の大きな瞳がすぐ傍にあった。
そうやって額を触れ合わせて、綾音が静かに続ける。
「でもね、この世界にいるのはご両親だけじゃないでしょ? 親とか兄弟以外は、颯人くんが自分で選べるんだよ? いろんな人に会って、颯斗くんが大事に想える人を、颯人くんを大事に想ってくれる人を探したらいいよ」
そんな人が、いるのだろうか。
「俺なんかと付き合ったっていいことないよ」
こんなふうに記憶に残る限り憎しみしか注がれてこなかった自分が真っ当に育っているとは思えない。きっと、どこか歪んでいる。
ずっと胸の中にわだかまっていた懸念を吐き出してしまうと、目からも熱い滴がこぼれ落ちた。
綾音の親指が、そっとそれを拭い去る。
「だいじょうぶ、颯斗くんの中には、『なりたい自分』がちゃんといるでしょう? どんなふうになりたいか――どんなふうになりたくないか、ちゃんと判ってる。だから、だいじょうぶだよ」
「だけど、その『なりたい自分』がそれでいいのかどうか、判らないじゃないか」
そう答えると、綾音はくすりと笑った。
「自分が信じられなかったら、他の人を信じたらいいよ」
「他の人?」
「そう、颯斗くんのことを好きな人たち。わたしは颯斗くんのことが好き。お姉ちゃんも、荘一郎さんも。お友達だって、颯斗くんのことを好きだから一緒にいるんだもの」
そこまで言って、綾音は少し顔を離した。
そうして、ジッと颯斗の目を覗き込んでくる。
「颯斗くんがみんなにそうする事を許してくれさえすれば、もっともっと、颯斗くんを好きだって言ってくれる人は出てくるよ」
『そうする事』?
『許す』?
彼は綾音の言葉に眉をひそめた。
「意味解からないよ」
「……今まで、颯斗くんは他の人を近づけようとしてこなかったでしょう?」
颯斗は唇を結んだ。別に、他人を拒んだわけじゃない。
目の中にそんな反感が浮かんだのか、綾音は淡く微笑んだ。
「人はね、人に拒まれるのが怖いの。……ほとんどの人は、この人は自分を受け入れてくれるかなって、内心びくびくしながら最初の一歩を踏み出すんだよ。だから、『近寄るな』オーラを出してたら、近付かない。――本当に強い人は、そんなこと恐れずに近付いてきてくれるけど」
「綾音みたいに?」
綾音は、『他の人を近づけようとしていなかった』颯斗に、構わず声をかけてくれた。手を差し伸べてくれた。
つまり、綾音は『強い』ということだ。
けれど、颯斗の台詞に彼女は頭を振る。
「わたし自身は、強くないよ。この強さは、荘一郎さんがくれたものなの」
「荘一郎が?」
「うん。……わたしね、わたしが十四歳の時にお父さんとお母さんが死んじゃったの。すっごく優しい人たちで、わたしは大好きだったよ。大好きだったから、喪ったことが耐えられなかったの。だから、だから――失くした時にこんなに悲しい気持ちになるのなら、最初からいなければ良かったのにって、思った」
綾音は颯斗を見て、「ごめんね」と囁いた。
「贅沢だよね。最高の両親のもとに生まれたのに、それをいなければ良かっただなんて。だけど、その時は苦しくて苦しくて、そんなふうにしか思えなかった」
その苦しい思いを吐き出すように、彼女は小さく息をこぼす。
「だからね、もう大事な人は作りたくないって、思ったの。誰も好きになりたくないから、もう誰もわたしに近付かないでって」
颯斗は食い入るように綾音を見つめた。彼女の言葉を、たった一文字でも聞き逃さないように。
「たぶん、全身に立ち入り禁止マークがくっついているのが見えてたんじゃないかな。学校にいても黙りこくっていて、そんなわたしに誰も話しかけてこなかった」
「全然、想像できない」
颯斗が思わずそう呟くと、綾音は小さく笑った。
「でしょ? だけど、そうだったの」
ふと、彼女の笑みが変わる。
「あの頃、人を拒んでいたわたしに話しかけてきたのは、二人だけだったの。お姉ちゃんと――荘一郎さん」
「荘一郎?」
「うん。荘一郎さんはお姉ちゃんの中学校からの友達で、わたしの両親が亡くなる前からしょっちゅううちに来てたの。その頃の荘一郎さんは、何ていうか、そう……『お兄ちゃん』っていう感じだった」
「最初は利音の彼氏だったのか?」
利音は綾音より七歳上だから、当時でも二十歳を越えていた筈だ。中学からといったら、五年以上の付き合いになる。恋人だとしても、かなり長い。
颯斗の当然の疑問に、綾音はかぶりを振った。
「ううん、違うと思う。たぶん、本当に、『友達』。『恋人』になったことは、一回もなかったと思うな」
どうしてそんなふうに感じたのか、人間関係について熟知しているわけではない颯斗には、よく解からなかった。とにかく、何かがそう綾音に確信させたのだろう。
「荘一郎さんはめげなかったの。どんなにわたしが突っぱねても、構わずわたしに話しかけて笑いかけてあちこち連れ回したんだ」
その頃のことを思いだしたのか、綾音の眼差しが少し遠くなる。
「そんな荘一郎さんをずっと拒んでいることなんて、できなかった。だんだんわたしはまた笑えるようになって、気付いたら、荘一郎さんが『大事な人』になってたの。あんなに、もう作りたくないって思ってたのに。……だけど、きっとあの時、新しいわたしが生まれたんだと思うんだ。また、ちゃんと『ひとの中』で生きて行こうと思えるわたしが」
また、綾音の視線が颯斗に戻ってくる。
そうして、笑った。
大輪の花が開くように。
「颯斗くんにも、きっとそういう人がいるんだよ」
「そういう人?」
彼女の笑顔に心を奪われていた颯斗は、ぼんやりとその言葉を繰り返した。
「うん。颯斗くんの、世界を変えてくれる人。荘一郎さんがわたしの世界を変えてくれたように、颯斗くんにもそうしてくれる人がきっといる」
(それなら、もういる)
綾音こそが、その人だ。
そう思った瞬間、颯斗の胸が締め付けられるような痛みを訴える。
綾音は颯斗の世界を変えた。
荘一郎が綾音にそうしたように。
けれど、綾音が荘一郎を手にしたように、颯斗が綾音を手にすることはできない。
綾音と荘一郎は颯斗の両親とは違う。二人が仲違いをすることは、決して起こり得ないだろう。きっと、どちらかが死ぬまで一緒だ。もしも綾音と荘一郎が離れる時が来るとしたら、それは彼女に大きな悲しみをもたらすに違いない。
――颯斗に、そんなことは願えない。
(綾音は、俺のものにはならない)
それは、揺らぎようのない現実。
颯斗は綾音の笑顔を見つめた。彼女は小さく首をかしげて、温かな眼差しで彼を見返してくる。
屈託のない、幸せな綾音。
今の彼女を作ったのは、荘一郎なのだ。
荘一郎を失えば、この綾音は失われてしまうのかもしれない――彼女の幸せと共に。
それならば、このままでいい。
颯斗が綾音を手に入れることと、綾音自身の幸せ。
それを両立できないのならば、後者の方を守る方が大事だ。
そう自分に言い聞かせた颯斗の頭の奥で鋭い抗議の声が上がる。わがままで温もりに飢えた自分の一部が、そんなのイヤだと吼えている。
颯斗は目を閉じ、そしてまた綾音を見た。
目が合って、彼女がニコリと笑う。
それだけで、彼の中には何か心地良いものが拡がった。
(これで、充分なんだ)
これで、満足していなければならないのだ。
(俺は、これでいいんだ)
颯斗は声に出さずにそう呟いた。
彼は机の上から目当ての物を取り、居間に向かう。姿を現した彼に、そこにいた母親はサッと目を細くした。
「あんた、何してんの? 学校は?」
「一週間前から夏休み」
彼女にチラリとも目を走らせることなく、颯斗はさっさと玄関に向かう。どうせ不快な会話にしかならないのだから、言葉は少ないに限る。
母親と顔を合わせるのは、だいぶ久し振りだ。多分、前回三語以上の言葉を交わしてからひと月は経っているだろう。一週間に一回居間のテーブルに置かれている金だけが、母親が颯斗のことを忘れてはいないという証になっていた。
夜の仕事をしている母親は、いつも昼過ぎまで眠っている。それから夕方に仕事へ出るまで、自宅にいるか男の家にいるかのどちらかだ。
十分前に颯斗が帰ってきた時に家にいなかったから、てっきり今日は男の家に行っていて夕方まで戻らないと思っていたのに、こんなふうに鉢合わせするとは。
夏休みに入ってから、颯斗は朝から夜まで綾音たちのところで課題をしたり手伝いをしたりして過ごしている。いつもは朝まだ母親が寝ているうちに家を出てからずっと行きっ放しなのだけれども、今日は辞書を忘れてしまったのだ。
無事に玄関まで辿り着いた颯斗の背中に、刺々しい声が投げかけられた。
「アンタ、アイツに似てきたわね」
『アイツ』が誰を示しているかなんて、確かめなくても判る。
父親だ。
見てくれは上等の部類に入っていたらしいけれど、彼女のその台詞が誉め言葉でないことは颯斗にもよく解かっていた。
「ホント、そっくり」
颯斗が扉を閉める直前に聞こえてきた、吐き捨てるような声。それが鼓膜にこびり付いて剥がれない。
真夏の午後二時の日差しは肌を焦がすほどに照り付けてきたけれど、颯斗は肌寒ささえ覚えていた。
機械的に脚を動かして、道を進む。
普通なら一番近しい存在がこんなに毒々しく感じられるのは、よくあることなのだろうか。
今の世の中、離婚する夫婦は少なくないらしい。
その親から生まれた子どもは、みんなこんなふうに感じるものなのだろうか。
鳩尾の辺りが疼く。
何故だろう、以前は母親の言葉など耳から耳へと聞き流せていたのに、いやに後を引く。
そんなふうに考えながら黙々と歩いていたら、いつの間にか店の前に着いていた。
颯斗は小さな扉を見つめて、小さく息をつく。
家の戸を開ける時にはどうしても息を止めてしまうが、この店の扉を開ける時にはその時に止めた息がまた戻ってくるような心持ちになる。
颯斗はノブに手をかけ、押し開けた。
カウベルの音と同時に、朗らかな声。
「あ、颯斗くん、おかえり。辞書あった?」
いつもと変わらない綾音に、やけにホッとする。何となく目の奥が熱くて、颯斗は幾度か瞬きをした。
「あった」
言いながら、彼女から顔を背け加減でいつもの席に向かう。
そんなにあからさまにしたつもりはなかったのに、綾音は何かに気付いたらしい。
「どうかした?」
カウンターの椅子に座った颯斗は、ヒョイと顔を覗き込まれた。
「別に」
ぼそっと答えても、綾音は立ち去ろうとしない。利音が何か用事を言いつけたらいいのに、彼女は全くこちらに注意を向けることなく、カウンターにいる他の客に笑顔を振りまいている。
しばらく無言でいても綾音が動く気配はなくて、颯斗は言う。
「……親がいた」
その一言で、綾音は理解したらしい。
「そっか」
そう言って、さわさわと颯斗の頭を撫でる。
いい加減子ども扱いはやめてくれよと思うのに、何故かいつも彼女の手は振り払えないのだ。
彼女の優しい感触に、目を閉じる。
最近は隆や他の友人もできて何となく自分が『普通』な気になってきていたけれど、久し振りにあの憎悪に触れるとそれらを全否定されてしまったようだった。
いつから、自分はこんなに弱くなってしまったのだろう。
かつては、母親の言葉など何でもなかった。何を言われても、颯斗の心には全く届かなかった。
彼を守ってくれる、どんなに鋭い刃を突き刺されても何も感じなくさせてくれる、目には見えない強固な鎧があったのだ。
それなのに――
「親は選べないもんねぇ」
ポツリと綾音が呟いた。颯斗がチラリと横に目を走らせると、彼女の目が真っ直ぐに彼に向けられている。
あまりに真っ直ぐに注がれているその視線から、颯斗は目を逸らせそびれた。
彼の頭にあった綾音の手が、頬に下ろされる。柔らかく小さな両手で顔を挟まれ、いっそう目を逸らせなくなった。そのまま綾音は顔を近づけてきて、額が触れ合いそうになる。
ふわりと彼女のシャンプーの香りがして、颯斗はなんだかまた泣きたくなった。
親からあんなふうに言われるのが自分のせいではないということは、解かっている。
颯斗が彼を作ってくれと両親に頼んだわけじゃない。
産んでくれと母親に頼んだわけじゃない。
出ていってくれと父親に頼んだわけじゃない。
――憎しみ合えと念じたわけでもない。
だが、自分には何の責任もないのだと解かっていても、それを受け入れられるわけじゃない。
ギュッと目蓋を閉じた彼の額に、こつんと温かなものが触れた。目を開ければ、綾音の大きな瞳がすぐ傍にあった。
そうやって額を触れ合わせて、綾音が静かに続ける。
「でもね、この世界にいるのはご両親だけじゃないでしょ? 親とか兄弟以外は、颯人くんが自分で選べるんだよ? いろんな人に会って、颯斗くんが大事に想える人を、颯人くんを大事に想ってくれる人を探したらいいよ」
そんな人が、いるのだろうか。
「俺なんかと付き合ったっていいことないよ」
こんなふうに記憶に残る限り憎しみしか注がれてこなかった自分が真っ当に育っているとは思えない。きっと、どこか歪んでいる。
ずっと胸の中にわだかまっていた懸念を吐き出してしまうと、目からも熱い滴がこぼれ落ちた。
綾音の親指が、そっとそれを拭い去る。
「だいじょうぶ、颯斗くんの中には、『なりたい自分』がちゃんといるでしょう? どんなふうになりたいか――どんなふうになりたくないか、ちゃんと判ってる。だから、だいじょうぶだよ」
「だけど、その『なりたい自分』がそれでいいのかどうか、判らないじゃないか」
そう答えると、綾音はくすりと笑った。
「自分が信じられなかったら、他の人を信じたらいいよ」
「他の人?」
「そう、颯斗くんのことを好きな人たち。わたしは颯斗くんのことが好き。お姉ちゃんも、荘一郎さんも。お友達だって、颯斗くんのことを好きだから一緒にいるんだもの」
そこまで言って、綾音は少し顔を離した。
そうして、ジッと颯斗の目を覗き込んでくる。
「颯斗くんがみんなにそうする事を許してくれさえすれば、もっともっと、颯斗くんを好きだって言ってくれる人は出てくるよ」
『そうする事』?
『許す』?
彼は綾音の言葉に眉をひそめた。
「意味解からないよ」
「……今まで、颯斗くんは他の人を近づけようとしてこなかったでしょう?」
颯斗は唇を結んだ。別に、他人を拒んだわけじゃない。
目の中にそんな反感が浮かんだのか、綾音は淡く微笑んだ。
「人はね、人に拒まれるのが怖いの。……ほとんどの人は、この人は自分を受け入れてくれるかなって、内心びくびくしながら最初の一歩を踏み出すんだよ。だから、『近寄るな』オーラを出してたら、近付かない。――本当に強い人は、そんなこと恐れずに近付いてきてくれるけど」
「綾音みたいに?」
綾音は、『他の人を近づけようとしていなかった』颯斗に、構わず声をかけてくれた。手を差し伸べてくれた。
つまり、綾音は『強い』ということだ。
けれど、颯斗の台詞に彼女は頭を振る。
「わたし自身は、強くないよ。この強さは、荘一郎さんがくれたものなの」
「荘一郎が?」
「うん。……わたしね、わたしが十四歳の時にお父さんとお母さんが死んじゃったの。すっごく優しい人たちで、わたしは大好きだったよ。大好きだったから、喪ったことが耐えられなかったの。だから、だから――失くした時にこんなに悲しい気持ちになるのなら、最初からいなければ良かったのにって、思った」
綾音は颯斗を見て、「ごめんね」と囁いた。
「贅沢だよね。最高の両親のもとに生まれたのに、それをいなければ良かっただなんて。だけど、その時は苦しくて苦しくて、そんなふうにしか思えなかった」
その苦しい思いを吐き出すように、彼女は小さく息をこぼす。
「だからね、もう大事な人は作りたくないって、思ったの。誰も好きになりたくないから、もう誰もわたしに近付かないでって」
颯斗は食い入るように綾音を見つめた。彼女の言葉を、たった一文字でも聞き逃さないように。
「たぶん、全身に立ち入り禁止マークがくっついているのが見えてたんじゃないかな。学校にいても黙りこくっていて、そんなわたしに誰も話しかけてこなかった」
「全然、想像できない」
颯斗が思わずそう呟くと、綾音は小さく笑った。
「でしょ? だけど、そうだったの」
ふと、彼女の笑みが変わる。
「あの頃、人を拒んでいたわたしに話しかけてきたのは、二人だけだったの。お姉ちゃんと――荘一郎さん」
「荘一郎?」
「うん。荘一郎さんはお姉ちゃんの中学校からの友達で、わたしの両親が亡くなる前からしょっちゅううちに来てたの。その頃の荘一郎さんは、何ていうか、そう……『お兄ちゃん』っていう感じだった」
「最初は利音の彼氏だったのか?」
利音は綾音より七歳上だから、当時でも二十歳を越えていた筈だ。中学からといったら、五年以上の付き合いになる。恋人だとしても、かなり長い。
颯斗の当然の疑問に、綾音はかぶりを振った。
「ううん、違うと思う。たぶん、本当に、『友達』。『恋人』になったことは、一回もなかったと思うな」
どうしてそんなふうに感じたのか、人間関係について熟知しているわけではない颯斗には、よく解からなかった。とにかく、何かがそう綾音に確信させたのだろう。
「荘一郎さんはめげなかったの。どんなにわたしが突っぱねても、構わずわたしに話しかけて笑いかけてあちこち連れ回したんだ」
その頃のことを思いだしたのか、綾音の眼差しが少し遠くなる。
「そんな荘一郎さんをずっと拒んでいることなんて、できなかった。だんだんわたしはまた笑えるようになって、気付いたら、荘一郎さんが『大事な人』になってたの。あんなに、もう作りたくないって思ってたのに。……だけど、きっとあの時、新しいわたしが生まれたんだと思うんだ。また、ちゃんと『ひとの中』で生きて行こうと思えるわたしが」
また、綾音の視線が颯斗に戻ってくる。
そうして、笑った。
大輪の花が開くように。
「颯斗くんにも、きっとそういう人がいるんだよ」
「そういう人?」
彼女の笑顔に心を奪われていた颯斗は、ぼんやりとその言葉を繰り返した。
「うん。颯斗くんの、世界を変えてくれる人。荘一郎さんがわたしの世界を変えてくれたように、颯斗くんにもそうしてくれる人がきっといる」
(それなら、もういる)
綾音こそが、その人だ。
そう思った瞬間、颯斗の胸が締め付けられるような痛みを訴える。
綾音は颯斗の世界を変えた。
荘一郎が綾音にそうしたように。
けれど、綾音が荘一郎を手にしたように、颯斗が綾音を手にすることはできない。
綾音と荘一郎は颯斗の両親とは違う。二人が仲違いをすることは、決して起こり得ないだろう。きっと、どちらかが死ぬまで一緒だ。もしも綾音と荘一郎が離れる時が来るとしたら、それは彼女に大きな悲しみをもたらすに違いない。
――颯斗に、そんなことは願えない。
(綾音は、俺のものにはならない)
それは、揺らぎようのない現実。
颯斗は綾音の笑顔を見つめた。彼女は小さく首をかしげて、温かな眼差しで彼を見返してくる。
屈託のない、幸せな綾音。
今の彼女を作ったのは、荘一郎なのだ。
荘一郎を失えば、この綾音は失われてしまうのかもしれない――彼女の幸せと共に。
それならば、このままでいい。
颯斗が綾音を手に入れることと、綾音自身の幸せ。
それを両立できないのならば、後者の方を守る方が大事だ。
そう自分に言い聞かせた颯斗の頭の奥で鋭い抗議の声が上がる。わがままで温もりに飢えた自分の一部が、そんなのイヤだと吼えている。
颯斗は目を閉じ、そしてまた綾音を見た。
目が合って、彼女がニコリと笑う。
それだけで、彼の中には何か心地良いものが拡がった。
(これで、充分なんだ)
これで、満足していなければならないのだ。
(俺は、これでいいんだ)
颯斗は声に出さずにそう呟いた。
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