凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<空港にて>

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 人が溢れる空港で、荘一郎そういちろう綾音あやねが抱き合っている。

 いや、それは正しくない

 実際は、荘一郎は綾音を抱き締めようとしているけれど、人目をはばかる綾音は腕を突っ張ってそれから逃れようとしているのだ。

「もう、荘一郎さん、やめてくださいってば!」
 顔を真っ赤にしている綾音に対して、へらへら笑っている荘一郎は実に楽しげだ。

「荘一郎、いい加減にしときなさいよ!」
 利音りねの鋭い平手が見事に彼の頭にヒットして、ベシッとイイ音が響く。

「まったくもうアンタは! 嫌がってんのが判らないの?」
「嫌がるところが可愛くて、つい」
「ついじゃないわよ、ついじゃ!」

 利音と荘一郎の遣り取りは、どんなところでも変わらない。多分、十年前からこんな感じで、十年後もこんな感じなのだろう。

 二人のそんな掛け合いを、颯斗はやとは微妙に距離を取って眺めていた。

 颯斗は、しばらくの間、彼らが恋人同士なのだと思っていたのだ。年齢も近いし、見るからに親しげだったから。

 ――それが間違いであることに気が付いたのは、一緒に過ごすようになってから二週間ほど経ってからのことだった。

 そもそも颯斗が今この場にいるのは、綾音に拾われた夜から毎日のように綾音たちの店に通うようになったからで、そうなったのは、利音の厳命によるものだ。

「小学生男児って確かに痩せてるのが標準装備なんだろうけど、アンタはちょっと痩せすぎじゃないの?」

 綾音に出逢ったあの日、ココアを飲んでトーストも一瞬でペロリと平らげた彼に、眉をひそめながら利音が訊いてきた。

「普段、何食べてるの?」

 主食はスナック菓子だと答えると、利音の目付きが変わった。

「あんた、学校終ったらうちに来て皿洗いやら掃除やらやりなさいよ」
「何で俺が?」
「代わりに夕飯食べさせてあげるから」

 要らねぇよ、と颯斗が口を開くよりも先に、綾音がパッと笑顔になった。

「わぁ、それ名案。お姉ちゃんのご飯、おいしいから。絶対、それがいいよ。ね?」

 首をかしげて満面の笑みで顔を覗き込まれて、颯斗の脳みそは活動を停止した。
 やけに顔が熱かったのは、気のせいだ。

「うちは六時半に閉まるんだ。それまでここで宿題とかしててもいいよ?」
 また、笑顔。
 綾音の笑顔は、利音の言葉の何倍も威力がある。

 ――結局、颯斗が拒否する暇もなく、あっという間にその取り決めは確定してしまったのだ。

 振り返って考えてみると、普通なら、まだ小学生の颯斗が親の同意もなくそんな事をしたら結構な問題になる筈だ。けれど、その場にいた大人たちは、誰一人として彼の親の事を口にしなかった。
 多分、あの時期にあの格好であの時間にあの場所にいたことで、颯斗の親にそんな気遣いは不要だと判断したのだろう。
 とは言え、颯斗は同意していなかったのだから、次の日、彼が店に行く義理はなかったのだ。
 あれはその場のノリだけで、あんなふうに言ったことなど、きっと彼らは忘れているに決まっている。颯斗はそう確信していたけれど、放課後、気付いたら足が駅前に向かっていて、一瞬のためらいの後に店の扉を押し開けていた。
 カランコロンとカウベルが鳴って、パッと綾音が振り返り、不安そうだった彼女の顔が颯斗の姿を認めて心の底から嬉しそうな笑顔になって――彼の日常が変わった。

 あの店が、颯斗が『ただいま』を言い『お帰り』を返してくれる場所になったのだ。

 そんなふうに店通いが始まって、ある日、委員会の仕事でいつもよりも遅い時間に店に到着した颯斗は、綾音の頬に触れる荘一郎を見た。

 一目で、彼は理解した。
 二人は『特別』なのだ。と。

 もう閉店間際だったから、カウンターの奥に利音の姿はなくて、他の客の姿もなくて、綾音と荘一郎だけがカウンターの椅子に座っていた。

 颯斗は入口の扉のガラス越しに二人の姿を目にして、ノブに伸ばしかけた手が勝手に止まった。

 綾音は最初カウンターの方に向いていて、見えるのは背中だけだった。多分、帳簿を付けるとか、そんな事務仕事をやっていたのだろう。
 そんな綾音を肘をついて眺めていた荘一郎が手を伸ばし、クセ毛に指を絡めるようにして頬に触れると、彼女は顔を上げて彼の方を向いた。

 綾音と荘一郎は、母と彼女が連れ込む『彼氏』のように、辺り構わずキスをするとか、ベタベタ触りまくるとか、露骨にいちゃついていたわけではない。

 ただ、頬に触れて、視線を交わし合っているだけ。

 けれど、その時の綾音の頬は薄らと染まっていて、荘一郎が彼女に向ける眼差し、そして彼女が彼に向ける眼差しが、何よりも雄弁に二人の間にあるものを語っていたのだ。

 荘一郎が、綾音に一言二言何か言い、彼の手がほんの少しだけ動く。
 綾音が首をすくめて、はにかんだ笑みを彼に返す。見るだけで心が温かくなるような、笑顔を。

 実際、寒い外に立っているにも拘らず、その瞬間、颯斗のみぞおちの辺りがほわりと温かくなった。けれど、一方で、何故か同じ場所がチクリと痛んだ。

 颯斗は眉をしかめながらそこをさすり、また店内の二人に目を戻した。
 綾音に向けている荘一郎の眼差しは、颯斗がいる時に見せるものとはまったく違っていた。

 二人は、いつでも仲がいい。
 荘一郎は綾音をからかうことが多いけれど、その根本には優しさがある。

 それは、颯斗にも判っていた。

 けれどその時の荘一郎には、優しさだけではなくて、颯斗には解からない、もっと胸の奥がムズムズするような何かがあった。
 そして、そんな彼に応える綾音の顔も、どこか普段とは違っていて。

 その時自分の中に湧き上がった感情が何なのか――彼には判らなかった。ただ、無意識のうちに、鳩尾の辺りを掴んでいた。熱いような、痛いような、奇妙な感覚に襲われて。

 荘一郎のことは好きだ。
 綾音のことは、もちろん好きだ。
 二人とも好きなのに、何故、その二人が仲良くしているところを見ると、変な気持ちになるのだろう。

 あの時から、颯斗は喉の途中に何かが引っかかっているような感覚が消えなくて、今も、じゃれ合う二人を目にしていると、何だかモヤモヤする。

 彼らから目を逸らし、颯斗は空港の雑踏を眺めるふりをした。目の前を通り過ぎていく人々を、意味なく数えた。

 たくさんの人が行き来している。
 背広を着たサラリーマン。
 小さな子どもを連れた夫婦。
 恋人らしい二人連れ。

 雑踏は賑やかで明るくてどこか温かで――それなのに、颯斗は、ふと自分は独りだと思った。

 自分には誰もいない。
 自分はこの空間に属していない。
 自分の手には、何もつながるものが無い。

 家に実際に独りきりでいる時には、そんなふうに感じたことがなかったのに。

 颯斗は、思わず胸元をきつく握り締めた。
 と、不意に頭が大きな手で鷲掴みにされる。そのまま、クシャクシャと髪をかき乱された。

「!?」
 ばっと振り返ると、明るい、裏も表もないような荘一郎の笑顔が向けられていた。

 颯斗の頭の上に置かれた手が、ポンポンと軽く叩いてくる。ニコニコと見下ろしてくる顔は、晴れやかだ。
 その瞬間、ふっと、颯斗の中にあった得体の知れない何かは跡形もなく掻き消される。

「やめろよ」

 身体を捻ってその手から逃れて、颯斗は胸を反らして荘一郎を見上げた。ほぼ平均、やや小さめな彼と大柄な荘一郎では、頭一つ以上の差がある。自分の体型のことなど今まで考えたこともなかったが、最近はやけに気になって仕方がない。

 ――特に、荘一郎と綾音が一緒にいるところを見ると。

「僕がいない間、アヤのこと、頼んだぞ」
「アンタに言われるまでもないよ」
 颯斗はモヤモヤした気分のまま、ムスッと答えた。

「あはは、そうだな。でも、アヤは可愛すぎるから置いていくと気が気じゃないんだよ。僕がいない間に悪い虫がつかないか、心配で心配で」

 言うなり、荘一郎は近寄ってきた綾音の隙を突いて抱き寄せ、サッと彼女の頭のてっぺんにキスをする。

「きゃ!?」
「あ痛ッ!」
 綾音と荘一郎が、同時に声をあげた。
 とっさに、颯斗は彼のすねを蹴飛ばしてしまっていたのだ。

 すかさず荘一郎の腕から逃れた綾音が、顔を真っ赤にして受付の方を指差して彼に詰め寄る。

「もう、荘一郎さんてばふざけてないで、搭乗手続きしてきてください! 乗り遅れますよ!」
 言いながら綾音はソソッと颯斗の方に寄ってきて、彼の腕を握ってきた――まるで、彼を盾にするかのように。

 強い力ではない。ただ、服越しにジワリと温もりが伝わってくる。

(うわ)

 何故か、颯斗の鼓動が五割増しになる。妙に気持ちが高ぶった。
 バカげているけれど、今なら、羽が無くても空を飛べそうな気がする。

「まったく、アヤは照れ屋さんなんだから……恋人同士の長の別れなんだから、ちょっとくらい大目に見てくれたっていいじゃないか」

 ボウッとしていた颯斗は、荘一郎のため息混じりの声で我に返った。

「い、い、か、ら、さっさと行ってこい! アナウンスが始まってるだろうが」

 今度は利音だ。流石に彼女相手にふざけることはできないのだろう。

「ああ……一年も逢えなくなるのに……」
 肩を落とし、首を振りつつ、それでも荘一郎は受付カウンターの方へと向かっていった。

 その背中を見送りつつ、颯斗はポツリとつぶやく。
「一年、なんだな」

 その言葉に、彼の腕を掴んでいた綾音の手に、ほんの少しだけ力がこもった。
「うん……」

 荘一郎は、建築関係の企業に勤めている。その会社は発展途上国の支援にも力を入れていて、毎年、社員を東南アジアの各地域に派遣しているらしい。
 荘一郎は入社してから三年間、それに参加してきて、今回が最後の出向になるのだと言っていた。
 今日この四月一日から、来年の二月一日まで。
 十ヶ月――およそ一年間、彼は戻って来ない。

「……寂しい?」

 答えが判りきっている颯斗の問いに、綾音がコクリと頷く。
「…………うん」

(俺がいても?)
 喉から出かけたその台詞を、颯斗は呑み下す。そんなのは、意味のない質問だった。

 彼が荘一郎の代わりになんて、なれる筈がないのだから。
 颯斗ごときが、荘一郎不在という大きな穴を、埋められるわけがない。
 当然のことなのに、怒鳴り散らしたくなるほど、悔しさを覚える。

 と。

「だけどね」
 綾音が小さな声で続ける。
「今年は颯斗くんがいるからね」
 そう言って、彼女はニコッと笑った。小さくて温かな手が、颯斗の左手を握ってくる。

 その瞬間、颯斗は、胃袋がズンと重みを増したような気がした。

 荘一郎に向けるものとは違う、笑顔。
 その小さな笑顔が嬉しくて、そして、特別な相手に向けるものとは違うということに否応なしに気付かされて、胸がジリジリする。

 荘一郎に与えるような笑顔を、向けて欲しい。
 荘一郎を見るような眼差しを、向けて欲しい。

 そんなバカげた望みを、颯斗は頭の中から追い出した――追い出そうとした。

「颯斗くん?」
 強張っているだろう颯斗の顔を、綾音が心配そうに覗き込んでくる。

「俺はいるよ、ずっと」

 綾音の温もりが染み込んでくる手を意識しながら、颯斗はぼそりとそう答えた。
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