凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<卒業式>

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 三月二十五日――まだ肌寒いとは言えずいぶんと春めいてきたその日、颯人はやとはたいした感慨もなく小学校を卒業した。

 卒業生は彼を含めて百十五人。
 子どもが減ったという割に、それなりの人数がいる。
 体育館には椅子が並べられ、前から順に、卒業生、保護者、在校生が座っていて、ほんの少しのざわめきがあった。
 校歌斉唱も終わり、次は卒業証書授与だ。

 まだまだ先が長くて、颯斗は欠伸を噛み殺した。と、彼の名前が呼ばれる。

「有田颯斗君」
「はい」

 やる気がない声になってしまうのは、何度も同じことをさせられてきたせいもある。

 颯斗は壇上に立ち、礼をして、卒業証書を受け取り、壇から下りて席に戻る。
 うんざりするほど予行練習を繰り返して、目をつぶっていてもこなせるようになったその一連の所作の最後で、何気なく会場を見渡した颯斗は、けつまずきそうになった。怠い足取りで下りていた数段だけの階段の残りを転げ落ちかける。

(何で、彼女が?)

 目を見開いて、有り得ない筈のその姿を凝視する。
 途中で足を止めた彼の視界の中に入ったことに気付いたらしいその人物は、保護者席から能天気に手をひらひらと振ってよこした。

 母親、ではない。
 彼女が来るはずがない。
 きっと今頃新しい彼氏を部屋に引っ張り込んでいる。

 彼女よりも遥かに若く、彼女が颯斗に決して向けることのない満面の笑みを浮かべているのは――

綾音あやね
 固まったまま思わずその名を呟くと、壁側に並んだ教頭が小さく咳払いをした。
 その音でハッと我に返り、颯斗はまた歩き出す。

(何でこんなとこにいるんだ?)

 見た目は淡々と、内心は疑問符だらけで席に戻りながら、彼ははたとある場面を思い出した。

 あれは確か、七日ほど前のこと。

 ――颯斗が綾音と彼女の姉の利音りねが営む喫茶店に入り浸るようになってから、ひと月ほどが過ぎた。
 放課後から寝るまでの間はほとんどそこで過ごしているのだが、唐突に、綾音が卒業式の日程を訊いてきたのだ。

「保護者以外は行っちゃいけないのかな」
「さあ? 学校のホームページかなんかに書いてあるんじゃないの?」
「最近の小学校はそんなで連絡するんだ?」
「子どもがプリント渡したとか渡さないとか、そういうのが面倒なんだろ? ホームページに出しときゃ、いちゃもん付けられても『ここに書いてあるだろ』って言えるじゃん」
「うわぁ……」

 ――そんなやり取りをした記憶が、颯斗の脳裏に微かによみがえる。

 まさか、本当に来るとは。

 颯斗の母親は運動会なども見に来たことはないから、こういう行事で誰か知り合いの顔を見る、というのは彼にとって初めての経験だった。

 なんだか、やけに心臓がバクバクする。
 背中がムズムズしてたまらない。
 振り返ってまた彼女の姿を確認したい衝動に駆られたけれど、そんなことをしたらバカみたいに見えるだろう。

(ああ、くそ)

 周りの生徒はシクシクと泣き始めているというのに、颯斗は何だかニヤ付きそうになってしまって慌てて顔を引き締めた。

 颯斗以外にとちる者はいなくて、式は粛々と進行する。
 祝辞やら答辞やら、ダラダラと変わり映えのしないことが流れていって、ようやく式が閉じた。その後は、教室に移動だ。
 列を作って退席する時に、また綾音が手を振ってきた。颯斗はとっさに目を逸らしてしまう。

 教室に戻って担任の話やら何やら、全てが終わって解放されると、大泣きしながら写真を撮り合う同級生たちをしり目に、颯斗は教室を飛び出した。
 もう足を踏み入れることもないだろう、六年間出入りしてきた玄関を何の感慨もなく後にして、彼は卒業式のアーチが飾ってある校門を駆け抜けた――駆け抜けようとした。

 が。

「颯斗くん」
 柔らかな声で名前を呼ばれて、颯斗はつんのめる。

「綾音」

 校門の陰にいた彼女に、気付かなかった。式からもう二時間近く経っているから、とっくに帰っていると思っていたのだ。
 ポカンと彼女を見つめる颯斗に、綾音は首をかしげる。
「急いでる? あ、そっか、この後みんなと一緒に集まるのかな」
「そんなの、ないけど……」
「あれ、そうなんだ? じゃあ、もう帰れるの?」
「ああ……」
「なら、うちに来て来て。お姉ちゃんが卒業のお祝いするんだって、ケーキ焼いてくれたんだ」
 そう言うと、綾音はさっと颯斗の手を取った。そうして、歩き出す。

 彼女の速さに合わせてゆっくりと足を運びながらも、颯斗の目はついついすぐ隣に並ぶ細い肩に向いてしまう。

 颯斗と綾音は、同じくらいの背丈だ。
 ――見栄を張らずに言えば、ほんの少しだけ、颯斗の方が小さい。

 こうやって手をつないで歩いていれば、傍からはどう見えるのだろう。

(やっぱり、姉弟、か?)

 どんなふうに見られたいのか、颯斗にもよく判らない。けれど、姉弟というのは、不本意な気がする。

 颯斗はチラリと目を走らせて、上機嫌な綾音の横顔を窺った。と、その視線に気付いたように、彼女がクルッと彼の方に向く。

 綾音は、誰かと目が合うとほとんど条件反射のように笑顔になる。誰に対しても、そうだ。
 今も彼女は、パッと花が開いたように破顔した。

(ああクソ可愛いな)

 颯斗の息が一瞬詰まる。
 クラスの女子がいくら笑顔を見せようとも、そんなふうに感じた事はない。それなのに、綾音の笑顔は颯斗をおかしくさせる。
 何度同じものを向けられても、それが彼だけに向けられるものではないのだということは重々承知していても、綾音が彼に笑いかけるのを目にするたびに颯斗のみぞおちの辺りはギュッと苦しくなってしまう。
 綾音の笑顔だけが、颯斗の中の何かを動かすのだ。

(なんで、なんだろう)

 彼にも疑問だ。
 綾音と利音は姉妹で顔立ちも似ているけれど、どちらかというと、利音の方が美人だ。それなのに、利音に笑いかけられてもこんなふうには感じない。
 綾音は確かに可愛いけれど、テレビや何かでもてはやされるようなとびきりの美少女とかいうわけではないのだ。
 にも拘らず、彼女の笑顔は特別だった。

 もしかしたら、鳥の雛が最初に見たものを親だと思うという、刷り込みに似たようなものなのかもしれない。
 あの二月の日に至るまで、颯斗は誰かから『ただの』笑顔を向けられるということがなかったから。

 母親から与えられるのは、罵声と嫌悪の嘲笑だった。
 教師たちから注がれるのは、同情と戸惑いに歪んだ笑みだった。

 あの日綾音からもらったのは、シンプルな笑顔とその手の温もりと柔らかさ。
 笑顔が温度を持っているなど、颯斗はあの時まで知らなかった。笑いかけられて温かく感じるなんて、知らなかった。

 今も、つないだ手が、温かい。
 その心地良さを、颯斗は知ってしまった。もう、知ってしまったのだ。

 ――今さらこれを失ったら、どんな気持ちになるのだろう。

 そんな考えが頭をよぎっただけで、サッと目の前が暗くなったような気がした。

「あ、イタ」

 不意に綾音が漏らした小さな声で、颯斗は彼女の手を握っていた自分の手に必要以上の力がこもってしまったことに気付く。

「ごめ……」
 思わず振り払いかけた彼の手を、綾音はそっと捉えた。そして、また、笑う。
「ふふ、颯斗くんってやっぱり男の子だよね。腕とかわたしとおんなじくらいの太さなのに、力は強いもん。ほら、この間も瓶の蓋、開けてくれたでしょ?」
 言いながら、指を組み合わせる形で二人の手を握り直す。颯斗の方が一回りくらい大きいけれど、綾音の方がふわりと柔らかかった。

 組んだその手を、彼女はグッと目の高さまで振り上げる。

「颯斗くん、中学生かぁ。カッコ良くなりそう。頭良いし優しいし背だってどんどん伸びるし、きっとモテモテになるよ。彼女とか、すぐできちゃうんだろうな」
 ね、と首をかしげて、綾音は颯斗を覗き込んでくる。

 屈託のない眼差しは、いつもなら向けられると嬉しくなる。けれど、この時の彼の胸の中には何故かモヤモヤとしたものがわだかまった。

「俺は――!」
 荒らげた声で言いかけて、口をつぐんだ。

(俺は、――なんだ?)
 何を言おうとしたのか、何を言いたかったのか、颯斗自身にも判らなかった。
 判るのは、彼が綾音から離れて行ったとしても、彼女は全然頓着しないだろうということ。むしろ、それを望んでいるかもしれないということ。

 颯斗は、綾音以外の他の誰かなんて欲していないのに、綾音は颯斗の目が他に向くことを望んでいるのだ。
 その事実に、何故か彼はいら立ちを覚えた。

 口も足も止まった彼に、綾音がいぶかしげに眉根を寄せる。

「颯斗くん? どうかした?」
 真っ直ぐに覗き込んでくる大きな目には、颯斗を案じる色が濃い。

「――何でもない」

 ぼそっと答えて、胸の中のモヤモヤはそのままに、つないだ手を少し引っ張るようにして彼は歩き出した。
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