凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<凍える夜の出逢い>

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「あんた、まだいるの!? マサキが来ちゃうでしょ! さっさと外行ってよ!」

 さして広くないリビング中に響いた、吐き捨てるような、ヒステリックな声。

 一番集中しなければならないラスボスとの戦いをその罵声で邪魔されて、颯斗はやとの手元が狂う。画面の中のキャラクターが悲鳴を上げて、テレビの画面にはデカデカと『YOU ARE DEAD』の文字が映し出された。

「ああ、もうこんな時間! 何グズグズしてんの!? 早く出てって!」
 見た目だけはキレイに化粧した母親の顔は、颯斗に向けられると醜く歪む。

 一瞬、またゲームを始めてやろうかと思った。
 だが、際限なく続く罵りでその気も失せる。

「アンタの所為であのバカと結婚する羽目になって、アンタの所為で別れられなかった。やっと別れられても、まだアンタがいる。父子そろってアタシの邪魔するのもいい加減にしてよね」
 母親は、キレるといつも同じことを言い始める。

 ウザい。

 テレビもゲームも点けっ放しでコントローラーを投げ出して立ち上がると、颯斗は黙って玄関に向かう。

「アタシはまだ三十なんだからね! アンタなんかに――」
 追いかけてくる母の声を、彼はドアと共にシャットアウトした。

 二月半ばの夜は凍えるようだ。
 温かな部屋を出てから、颯斗は自分が長袖Tシャツ一枚で出てきてしまったことに気付く。けれど、中に入ればまた母親のうっとうしい声を聞くことになるだろう。
 フウッと鼻先に息を吐き出し、その白い靄が消えるのを見てから、颯斗は歩き出した。

 今は夜の七時だ。
 小学生の颯斗にはこんな時間に転がり込む場所はない。いや、たとえ昼間だったとしても、クラスの中でも彼は浮いていて、急に訪ねていけるような友達もいなかった。
 財布も持たずに出てきたから、どこかの店に入るわけにもいかない。

 何も考えずに歩いていた颯斗は、虫が灯りに惹かれるかのように、いつの間にか明るい光が溢れる駅前に辿り着いていた。
 出入り口が一つしかない小さな駅でも、この時間はそれなりに人通りがある。仕事帰りの中年男の他に、今日はやけにいちゃつくカップルの姿が目立つ気がする。
 駅前にはやけにキラキラしいイルミネーションが飾られていて、颯斗はぼんやりとそちらに近付いた。これだけ電球があれば少しは温かくなってもいいだろうに、さっぱりだ。

(このままここで凍え死んでやるか)

 まばゆい灯りを見るともなしに眺める颯斗の頭の中に、そんな考えがチラリとよぎる。
 そうすれば、あの母は責められるだろう。もしかしたら、ネットのニュースとかにも載るかもしれない。

 そうなったら。

(ざまぁみろだ)

 寒さでブルリと身体を震わせながら、颯斗は胸の中でそう呟いた。

 ベンチに座り、膝に肘を突き、両脚の間に手を垂らす。頭の中を空っぽにしてアスファルトを見つめた。

 楽しげな声で交わされる、彼とは無関係な会話。
 絶え間なく行き交い、通り過ぎていく足音。
 通りにはざわめきが溢れかえっていた。

 颯斗はそんなものを耳から耳へと聞き流す。

 指先はかじかんで、何も感じない。
 頭も、胸も、どこもかしこも冷たく凍えて、もう何もかもどうでもいいような気持になってくる。

 ……どうでも。

 強張っていた肩から、フッと力が抜ける。
 と、狭い彼の視界に、彼の方に向いているつま先が入り込んできた。
 ピンク色――女物だ。

 すぐにどこかに行くだろうと思っていたら、頭の上から声が降ってくる。

「寒くない?」

 柔らかく朗らかで温かい。
 颯斗にはどこか場違いなように感じるその声を、彼は無視した。自分に向けられたものではないと思ったからだ。

 だが。

「ねえ、君、寒いでしょ?」

 またそんなふうに問いかけられて、颯斗は顔を上げる。
 声の主は、高校生かそこらくらいの女性だった。大きな目に、肩よりも少し下くらいの長さのふわふわとしたクセッ毛。
 高校生は、小学六年生の颯斗からすれば、充分『大人』の範疇に入る。

「なんか用ですか」
 ぶすっと彼がそう答えると、彼女はニッコリと笑顔になった。
「誰か待ってるなら、ここじゃ寒いでしょ? おいでよ」

 そう言うと、彼女は少し身体を屈めて颯斗の手を取った。つながれた手は驚くほど温かくて、その温かさに気を取られた彼は彼女に引かれるまま立ち上がる。

「ちょっとあんた――」
「わたしのウチ、あの喫茶店なの。ここよりはあったかいよ」

 歩き出しながら彼女が指差したのは、駅のすぐ横にあるこぢんまりとした店だ。颯斗の返事など聞かずにどんどん進んで、すぐにそこに着いてしまう。彼女が扉を押し開けると、カウベルがコロンコロンと音を立てた。

「連れてきたよ」

 店の中にいるのは、カウンターの向こう側に女性が一人、こちら側に男性が一人、だ。
 二人とも、颯斗をここに連れてきた彼女よりも更に年上に見える。

「連れてきたっていうか、拉致ってきたって言う方が正しくないか?」
 笑いを含んだ声で男が言うのへ、颯斗の手を握ったまま、彼をここまで引っ張ってきた女性が舌を出す。
「誘ったの! お姉ちゃん、ホットココアちょうだい。この子の手、すっごく冷たいの。氷みたい」
「まあ、この時期にそんなカッコじゃあね」
 肩をすくめながらも、カウンターの向こうの女性はてきぱきと動き始めた。

「あ、ほらほら、座って?」

 流されるままにここまで来てしまった颯斗は展開についていけてなくて、これまた促されるままにカウンターの椅子に腰を下ろしてしまう。呆気に取られていたこともあるけれど、一瞬でもこの店内の温かさを味わってしまっては、もう外で過ごすことなんてできそうもなかった。

「わたしは『あやね』よ。糸偏の綾――で判るかな、それに、音。それで『あやね』。あっちはわたしのお姉ちゃんの『りね』と、この人は『そういちろう』さん」
 トントンと指差しながら、綾音と名乗った彼女が紹介していく。そうして、首をかしげた。
「で、君は?」

 当然のように問いかけられて、颯斗は反射的に答えてしまう。

「颯斗」
「どういう字?」
「……立つ風の『はや』にこの『と』」
 なんでこんなことを、と思いつつ、最後の一文字はカウンターに指で書いて見せる。

「向かい風にも負けずに戦うっていう意味かな。いい名前だね」
 そう言って、綾音がまた笑った。そんなふうに笑いかけられる経験がなかった颯斗は、あまりにあけすけな笑顔に戸惑う。

 不愛想に押し黙ったままの彼にも、綾音のその満面の笑みは全く揺るがない。

「はいどうぞ」
 何もリアクションを見せられずにいる颯斗の前に、『りね』が明るい声で言いながらカップを置いた。

「俺、金ないですけど」

 甘い匂いが、カップからは立ち昇ってくる。その匂いのせいか、颯斗の腹が鳴った。考えてみたら、昼飯にポテトチップスを一袋開けたきりだ。

「あら、お腹も空いてるの? 夕飯は?」
「だから、金持ってないんですけど」
「いいのよ、綾音の小遣い兼給料から引いとくから。この子、すぐに何か拾ってくるのよね。もう何度犬やら猫やら拾ってきたことか。貰い手探すの大変だっての。ああ、ほら、冷めないうちに飲んで飲んで」
 笑ってそう言った『りね』は、もう何かを作り始めている。

(俺は捨て猫か何かかよ)
 胸の中でそうぼやきながらも、颯斗の手は誘惑に勝てずココアのカップに伸びていた。

 一口すする。

(うまい)

 それは、温かくて甘かった。
 こんなに美味しいものは、初めて口にするかもしれない。

 何故かジワリと浮かんできた涙を、颯斗は急いで瞬きをして消し去った。なんだかわからないけれど、彼の中の何かが緩みそうになる。

「颯斗君は中学生?」
「もうすぐ」
「あ、じゃあまだ小学生なんだ? 六年生?」

 小学生がこんな時間に何をしているのかと続くのかと思ったら、違った。身構えた颯斗に綾音が言う。

「もうちょっとで卒業だね」
 ニコニコと言われて、どう答えたらいいというのか。
「あ、ああ……」
 ココアを口に運びながらうなずくしかない。

「中学校って、宿題大変なんだよね。部活とかも」
「僕は勉強より部活だったんだよな。だから三年になったら大変で」
「ああ、あんたはしょっちゅう補習食らってたよねぇ」
『そういちろう』のぼやきに『りね』が突っ込んできた。
「僕は『やればできる子』だったんだよ。だから、結局お前と同じ高校に行けただろ?」
「まあねぇ。その代り、私があんたの為にどれだけ時間を割いたと思ってんの? こっちが解からない、あっちを教えてくれって」
 年長組二人は、颯斗と綾音そっちのけで、やり合っている。

 呑気で平和で――『普通』な会話だった。こんなのは、経験が無い。

「ごめんね、うるさくて」
 呆気に取られていた颯斗に、横から柔らかな声がかけられた。

 綾音だ。彼女は、苦笑しながら謝っている。けれど、謝っているのに、その声にも眼差しにも、『りね』や『そういちろう』に対して怒っているとか嫌悪しているとかいう感情は見られなかった。

「別に」
 颯斗はボソリと答える。

 こんなの、うるさいうちには入らない。母親が連れ込む男としょっちゅう繰り返しているケンカに比べれば、全然たいしたことなかった。最近彼女が付き合い始めたマサキというヤツとは、これまで以上に派手な喧嘩をやらかすし、下手にその場にいると颯斗にもとばっちりが飛んでくる。

(あれにくらべりゃ、な)

 半分ほどになってしまったカップの中身に目を落とした颯斗の頭に、不意に何かがフワフワと触れた。

 反応するのに、一拍遅れる。

「!」

 思わず身体をひねって避けると、彼の頭があった辺りに手をかざしたまま、綾音がパチリと瞬きをした。

 撫でられたのだ。

 颯斗がそう悟ると同時に、綾音が小さく首をかしげて手を下ろす。

「ごめんね」
「え……」
「触られたくなかったんだよね」
 申し訳なさそうな笑みを浮かべた綾音に、颯斗は慌てて首を振る。
「ちが――」

 いやでは、なかった。けっして。
 けれど、それ以上なんて続けたらよいのか判らず、颯斗はまたうつむいた。
 しばらくして、また頭に同じ感触。じんわりと、綾音の手のひらの温もりが伝わってくる。

(なんだ、これ)

 くすぐったいようなその触れ方に、颯斗の胸の奥がキュッと縮こまった。みぞおちから喉の辺りまで温かな綿が詰まっているような、奇妙な感覚。
 颯斗は、残ったココアを一気に飲み干した。

「もっといる?」
 綾音の柔らかな声が訊いてくる。
「……うん」

 それがココアのことなのか、それとも彼女が与えてくれる温もりのことなのか、颯斗にも判らなかった。

 少しして、また新しいカップが前に置かれる。チーズの載った、トーストと一緒に。
 両手のひらでカップを包み込むと、それはさっきよりも熱かった。

「やけどしないように気を付けてね」

 綾音の声に、颯斗はコクリと頷く。傍から見れば幼い子どものようだったろうその仕草に、彼女がふわりと微笑んだ。
 思わず、颯斗は息を詰める。

 その瞬間、彼は自分の中でカチリと小さな音がしたような気がしたのだ。

 ――その音と共に何かが動き出したような、気が。
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