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シィンの決意
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この隠れ里についての話を聞かされてから、シィンの様子にほとんど変わりはなかった。
相変らず、よく笑い、よく歌う。
ただ、時々、フッと何かを考え込むように黙り込んでいる姿を見かけると、カイネは微かな不安を抱いた。だが、それも、彼に気付けばすぐに彼女は朗らかな笑みを向けてくるのだ。
――きっと、何でもない。オレが気にし過ぎなんだ。
カイネは自分自身にそう言い聞かせ、以前とはわずかとはいえ変わってしまった何かから目を逸らしながら、日々を過ごす。
だが、いずれそれを直視しなければならない日が訪れることは、カイネも頭の奥底では判っていたのだ。
*
「わたし、神殿に行こうと思う」
ローグと一緒に獣除けの柵を直していたカイネの作業を見守っていたシィンは、彼が最後のひと打ちを終えて木づちを置くなり待ち構えていたようにそう切り出した。
「はあ? 何言ってんだ?」
笑いながらカイネは受け流し、道具をしまった袋を背に担ぎ上げて、シィンの横を通り抜けようとする。そんな彼の腕を捕らえて、彼女は繰り返した。
「ねえ、カイネ、ちゃんと聞いて? わたし、神殿に行くよ」
きっぱりと、もう迷いなどとうに振り切ってしまっているシィンの声に、カイネの頭にカッと血が昇る。
「何で!? お前はここで幸せなんだろ? だったら、行く必要なんかない! どうして、お前があんなところに戻らなきゃいけないんだよ!」
食らいつくように声を荒らげた彼に戻ってきたのは、静かな応《いら》えだった。
「わたしにも、やれることがあるかもしれないから」
カイネに注がれているシィンの眼差しは、穏やかで、強い。初めて見た時の茫洋としたところはどこにもなく、さりとて、薬に冒されていた時のような、熱に浮かされたようなものでもない。揺らぎなく、彼女はカイネの目を見つめていた。
シィンはカイネの腕に手を伸ばし、指先で触れる。彼はその手を振り払いたかった。振り払って、さっさと彼女から離れてしまいたかった。
だが、できない。
肩を強張らせ、シィンが口を開くのを、待つことしかできなかった。
彼女は唇を引き結んだカイネの服の袖をギュッと握り締め、続ける。
「あのね、カイネたちはこの国を、この国の人たちを変えようとしているんだよね? わたしは、ずっと、みんなを見ていた。神殿っていう、限られた場所だったけど、でも、ずっと、みんなが幸せになればいいなって思いながら見ていたの。それを放り出して、一人だけここで幸せにはなれないよ」
「でも、そんなの、お前が負うもんじゃないだろ!? 勝手に押し付けられてただけじゃないか!」
カイネは自分の腕を捕まえているシィンの手を振り払い、彼女の両肩を掴んだ。それはあまりに細くて脆そうで、アシクが課そうとしている重荷など、背負えそうにないと、背負えるわけがないと思った。そんなことをさせたら、きっと潰れてしまう、と。
だが、シィンは、カイネの胸にまでしか届かない頭を精一杯振り上げ、言い募る。
「押し付けられたものかもしれないけど、もう、わたしの中に染み込んでる。どうにもできないよ。それにね、この間、カイネはわたしには責任がないって、言ってくれたよね? でも、それは正しくない。わたしは『神の娘』として謳って、それをみんなは、信じた。みんながあんなにアーシャル様を信じているのは、わたしのせいかもしれないんだよ?」
「そんなの、お前の……」
何とか彼女の考えを変えようとするカイネを遮って、シィンは首を振る。
「『せいじゃない』なんて、言わなくていいよ。カイネだって、最初はわたしのことを怒ってたんでしょ? 神殿に仕返しをしようとして、わたしが神殿の力の象徴だと思って、だからわたしのことを攫ったんでしょ?」
「それは、シィンのことを知らなかったからだ! 奴らがお前に何をしたのか、知らなかったから……知ったら、お前のことなんか恨めない」
カイネはシィンの肩を掴む手に力を込めてしまいそうになって、慌ててそれを下ろす。固く握り込まれたその拳に、今度はシィンの方から手を伸ばしてきた。小さく柔らかなその手では硬く大きな彼の拳を包み込みきることができていなかったが、彼女はできる限り大きく広げて、そうしようとしている。
(こいつのこの手は、戦うためのものじゃない。誰にも傷付けられないように、守ってやらなきゃいけないものなんだ)
カイネはそう思うのに、そうしたいのに、シィンは彼から離れようとしている。
そんなの、ダメだ。
絶対に許容できない。
怒りにも似た強い気持ちが込み上げてきてカイネは奥歯をきつく噛み締めたが、そんな彼の憤りなどまるで気付いていないようにシィンは微笑む。
「カイネがわたしに怒ったのは、当たり前のことだよ。わたしがみんなの信じる気持ちを駆り立てた。それは間違いのない真実なんだもの」
「お前は、悪くない。お前の責任じゃない」
唸ったカイネに、シィンがかぶりを振る。
「ううん。わたしの責任でもあるよ。ここに来て解ったの。知らないということは、罪がないということじゃないんだって。責任を負わなくていいっていうことじゃないんだって。でもね、それだけじゃ――責任だけじゃ、ないの。わたしができることがあって、そうすればそれでみんなが傷付かないで済むかもしれないなら、わたしはやりたい。やってみたい。何よりもイヤなのは、カイネやローグや他のみんなが、傷付くことなの。この間のカイネとリュウさんを見て、本当に怖かった。あれは、ただの練習だったんでしょ? それでも怖かった。本当の戦いなんて、見たくない」
シィンは、一歩も引く気はないようだった。
カイネは、猛烈に腹が立った。せっかく直した柵を壊して回りたい気分だった。だが、それが何に対しての怒りかが判らない。
シィンにこんなことを負わせたアシクにだろうか。それとも、頑固なシィンに対してだろうか。あるいは、そもそも、こんな事態の元凶である『神』に対してだろうか。
とにかく、カイネは、腹が立って仕方がなかった。
その怒りに任せて、カイネはパッとシィンの手を振りほどく。いつもの彼なら絶対にしない乱暴なその仕草に彼女がふらついたが、謝る気にはならなかった。シィンを支えようと手を伸ばしたローグを視界の片隅に入れながら、クルリと彼女に背を向ける。
「カイネ……」
泣くのを抑えているような、少し震えたシィンの声にも、振り返ってはやらなかった。
カイネにも、何をどうしたらいいのか、判らない。ただ、シィンを再び神殿にやることだけは、したくなかった――彼女をあんな目に合わせた場所に、再び送り込むことなど。
カイネもシィンも一言も発せず、柔らかな風が髪を揺らすに任せていた。
(クソ、どうしたらいいんだ?)
カイネが、罵り混じりの自問を胸中で呟いた時だった。
その緊迫した場に感極まった声が響き渡ったのは。
相変らず、よく笑い、よく歌う。
ただ、時々、フッと何かを考え込むように黙り込んでいる姿を見かけると、カイネは微かな不安を抱いた。だが、それも、彼に気付けばすぐに彼女は朗らかな笑みを向けてくるのだ。
――きっと、何でもない。オレが気にし過ぎなんだ。
カイネは自分自身にそう言い聞かせ、以前とはわずかとはいえ変わってしまった何かから目を逸らしながら、日々を過ごす。
だが、いずれそれを直視しなければならない日が訪れることは、カイネも頭の奥底では判っていたのだ。
*
「わたし、神殿に行こうと思う」
ローグと一緒に獣除けの柵を直していたカイネの作業を見守っていたシィンは、彼が最後のひと打ちを終えて木づちを置くなり待ち構えていたようにそう切り出した。
「はあ? 何言ってんだ?」
笑いながらカイネは受け流し、道具をしまった袋を背に担ぎ上げて、シィンの横を通り抜けようとする。そんな彼の腕を捕らえて、彼女は繰り返した。
「ねえ、カイネ、ちゃんと聞いて? わたし、神殿に行くよ」
きっぱりと、もう迷いなどとうに振り切ってしまっているシィンの声に、カイネの頭にカッと血が昇る。
「何で!? お前はここで幸せなんだろ? だったら、行く必要なんかない! どうして、お前があんなところに戻らなきゃいけないんだよ!」
食らいつくように声を荒らげた彼に戻ってきたのは、静かな応《いら》えだった。
「わたしにも、やれることがあるかもしれないから」
カイネに注がれているシィンの眼差しは、穏やかで、強い。初めて見た時の茫洋としたところはどこにもなく、さりとて、薬に冒されていた時のような、熱に浮かされたようなものでもない。揺らぎなく、彼女はカイネの目を見つめていた。
シィンはカイネの腕に手を伸ばし、指先で触れる。彼はその手を振り払いたかった。振り払って、さっさと彼女から離れてしまいたかった。
だが、できない。
肩を強張らせ、シィンが口を開くのを、待つことしかできなかった。
彼女は唇を引き結んだカイネの服の袖をギュッと握り締め、続ける。
「あのね、カイネたちはこの国を、この国の人たちを変えようとしているんだよね? わたしは、ずっと、みんなを見ていた。神殿っていう、限られた場所だったけど、でも、ずっと、みんなが幸せになればいいなって思いながら見ていたの。それを放り出して、一人だけここで幸せにはなれないよ」
「でも、そんなの、お前が負うもんじゃないだろ!? 勝手に押し付けられてただけじゃないか!」
カイネは自分の腕を捕まえているシィンの手を振り払い、彼女の両肩を掴んだ。それはあまりに細くて脆そうで、アシクが課そうとしている重荷など、背負えそうにないと、背負えるわけがないと思った。そんなことをさせたら、きっと潰れてしまう、と。
だが、シィンは、カイネの胸にまでしか届かない頭を精一杯振り上げ、言い募る。
「押し付けられたものかもしれないけど、もう、わたしの中に染み込んでる。どうにもできないよ。それにね、この間、カイネはわたしには責任がないって、言ってくれたよね? でも、それは正しくない。わたしは『神の娘』として謳って、それをみんなは、信じた。みんながあんなにアーシャル様を信じているのは、わたしのせいかもしれないんだよ?」
「そんなの、お前の……」
何とか彼女の考えを変えようとするカイネを遮って、シィンは首を振る。
「『せいじゃない』なんて、言わなくていいよ。カイネだって、最初はわたしのことを怒ってたんでしょ? 神殿に仕返しをしようとして、わたしが神殿の力の象徴だと思って、だからわたしのことを攫ったんでしょ?」
「それは、シィンのことを知らなかったからだ! 奴らがお前に何をしたのか、知らなかったから……知ったら、お前のことなんか恨めない」
カイネはシィンの肩を掴む手に力を込めてしまいそうになって、慌ててそれを下ろす。固く握り込まれたその拳に、今度はシィンの方から手を伸ばしてきた。小さく柔らかなその手では硬く大きな彼の拳を包み込みきることができていなかったが、彼女はできる限り大きく広げて、そうしようとしている。
(こいつのこの手は、戦うためのものじゃない。誰にも傷付けられないように、守ってやらなきゃいけないものなんだ)
カイネはそう思うのに、そうしたいのに、シィンは彼から離れようとしている。
そんなの、ダメだ。
絶対に許容できない。
怒りにも似た強い気持ちが込み上げてきてカイネは奥歯をきつく噛み締めたが、そんな彼の憤りなどまるで気付いていないようにシィンは微笑む。
「カイネがわたしに怒ったのは、当たり前のことだよ。わたしがみんなの信じる気持ちを駆り立てた。それは間違いのない真実なんだもの」
「お前は、悪くない。お前の責任じゃない」
唸ったカイネに、シィンがかぶりを振る。
「ううん。わたしの責任でもあるよ。ここに来て解ったの。知らないということは、罪がないということじゃないんだって。責任を負わなくていいっていうことじゃないんだって。でもね、それだけじゃ――責任だけじゃ、ないの。わたしができることがあって、そうすればそれでみんなが傷付かないで済むかもしれないなら、わたしはやりたい。やってみたい。何よりもイヤなのは、カイネやローグや他のみんなが、傷付くことなの。この間のカイネとリュウさんを見て、本当に怖かった。あれは、ただの練習だったんでしょ? それでも怖かった。本当の戦いなんて、見たくない」
シィンは、一歩も引く気はないようだった。
カイネは、猛烈に腹が立った。せっかく直した柵を壊して回りたい気分だった。だが、それが何に対しての怒りかが判らない。
シィンにこんなことを負わせたアシクにだろうか。それとも、頑固なシィンに対してだろうか。あるいは、そもそも、こんな事態の元凶である『神』に対してだろうか。
とにかく、カイネは、腹が立って仕方がなかった。
その怒りに任せて、カイネはパッとシィンの手を振りほどく。いつもの彼なら絶対にしない乱暴なその仕草に彼女がふらついたが、謝る気にはならなかった。シィンを支えようと手を伸ばしたローグを視界の片隅に入れながら、クルリと彼女に背を向ける。
「カイネ……」
泣くのを抑えているような、少し震えたシィンの声にも、振り返ってはやらなかった。
カイネにも、何をどうしたらいいのか、判らない。ただ、シィンを再び神殿にやることだけは、したくなかった――彼女をあんな目に合わせた場所に、再び送り込むことなど。
カイネもシィンも一言も発せず、柔らかな風が髪を揺らすに任せていた。
(クソ、どうしたらいいんだ?)
カイネが、罵り混じりの自問を胸中で呟いた時だった。
その緊迫した場に感極まった声が響き渡ったのは。
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