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彼女の居場所
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アシクの家を出て、シィンはうつむきながら黙々と歩いていた。
「シィン……シィン!」
物思いに沈んだ彼女は、何度か名前を呼んで、ようやく振り返ってくれる。
「カイネ……」
頭一つ低い位置から、シィンは真っ直ぐに見上げてきた。
澄んだ瞳は、陽の光を受けて群青色に見える。もうじき夜が明けようとしている空の色だと、カイネは思った。
シィンを見返すカイネの頭の中に浮かぶのは、出逢ったばかりの彼女の姿だ。彼に眼を向けていても熱に浮かされたように視線は合わない、ガリガリに痩せていた彼女の姿を。
思い出すだけで、あの頃感じていた苛立ちと痛みが込み上げてくる。
(やっと、こんなふうに人の目を見るようになったってのに、アシクは!)
ようやく、明るく笑ってくれるようになった。
ようやく、楽しそうに歌ってくれるようになった。
それなのに、アシクはシィンに神殿へ戻れと言うのか。彼女を壊しかけていた、神殿へ。
(そんなの、許せるわけがないだろう)
奥歯と拳に力を込めたカイネに、不安そうな声が届く。
「えっと、カイネ?」
ハッと我に返った彼は、拳を解き、強張った両手を幾度か握ったり開いたりする。
「あ……その……ごめん、この里の事を黙っていて」
内心でアシクへの罵りを呟き続けながら、カイネはそれだけ言った。他に言わなければならないこと、訊かなければならない事がある筈なのに、それは口から出てこなかった。
口ごもりながらのカイネの謝罪に、シィンは軽く目を見張った後、笑う。
「ううん。あのね、驚いたことは驚いたんだけど、アシクとリュウさんのお話聞いて、『うん、そうなんだろうな』って思えたの」
「そう、なのか?」
眉根を寄せて問うと、彼女はふとあたりを見渡した。
「うん。だってね、ここの人たち、アーシャル様に何も願わないのだもの。全部、自分たちの力でやっちゃって、『アーシャル様、お願い』なんて、全然言わないの。わたしはこんななのに、誰も何も言わない。普通なものを見る目で、わたしを見てくれる。……わたしに、何も願ってこない。ここではね、わたしに、『お願い、お願い、何とかして!』っていう目を向けてくる人はいない」
そう言って、シィンは微笑む。それは晴れやかでいて、少し寂しげだった。
シィンは、何も乞われなくなったことを喜んでいるのか、それとも、悲しんでいるのだろうか。
目の前の彼女の笑みからは、どちらでもあるように思えた。
カイネは迷い、そして答える。
「……当たり前だろ。シィンには凄い力なんてないんだから。願ったって、叶うわけがない」
彼の言葉に、少し、シィンの笑顔が明るくなった。彼女はコクリと頷く。
「そうだね。……本当はね、わたし、自分に何の力もないことなんて、とうに判っていたんだと思う。でも、皆が望むから、『神の娘』でなければならなかったの。そうあろうとしていたの」
「ここにいたら、そんな必要ない」
口調が強過ぎて、怒っているような言い方になってしまったかもしれない。だが、カイネを後押しするように、ローグが深々と何度も頷いている。カイネは彼の頭をくしゃくしゃと撫でてもう一度繰り返した。今度は、もう少し柔らかい声を心掛けて。
「ずっと、ここにいたらいい」
返事までに、ほんの少しの間。
その間に、カイネは身構える。だが、シィンが返してくれたのは、頷きだった。
「……うん、ここに、いたいな。ここでなら、わたしは『神様』にならなくていい。わたしはただのシィンで、ただ、歌いたいように歌っていられる」
「シィン……」
彼女はカイネとローグにふわりと笑い返し、青く晴れ渡った空を見上げた。その目の色は、いつもよりも鮮やかに輝いている。
「神様はね、いて欲しいけど、いなくちゃならない、というわけではないの。ここの人たちを見ていて、そう思った。神様がいなくても、人はちゃんとやってけるんだって。きっと、他のみんなも同じ。みんなも……自分の力で立っていられる」
どこか、確かめるような、いや、自分自身に言い聞かせるような口調で、シィンは言った。そんなことを言うということは、神殿と縁を切るつもりだということなのだろう。
「じゃあ、アシクが言っていたことは、断るんだな?」
シィンは神殿に帰らない。
そう受け取ったカイネは、パッと顔を輝かす。嬉しそうな彼の笑顔に鼻白んだように、シィンはキュッと唇を引いた。
「シィン?」
「あ、うん……」
歯切れの悪いシィンに畳み掛けるように、カイネは続ける。
「イヤだって言ったらいいんだぜ? お前がやらなきゃいけないことじゃないんだから」
「そう……かな……」
「当たり前だろ? お前にどんな責任があるってんだよ。お前だって、神官たちに良いように使われた、ヒガイシャみたいなもんじゃないか」
カイネの言葉に、一瞬、ほんの一瞬だけ、シィンは微かな棘が刺さったかのように顔を歪める。
「シィン?」
「何でもない。何でもないよ」
そう言って、彼女は、カイネとローグに向けて、笑顔を見せた。
笑顔が返ってきたことに、カイネはホッとする。ローグを見れば嬉しそうに笑っていたから、彼もそう感じたに違いない。
シィンの居場所は、もうこの里だ。彼女が生き、帰る場所は、ここ以外に、ない。
――そう思うのに、そう確信したというのに、どうしてか、シィンとローグを連れてカイネの胸の中には、一握りの靄がわだかまっていた。
「シィン……シィン!」
物思いに沈んだ彼女は、何度か名前を呼んで、ようやく振り返ってくれる。
「カイネ……」
頭一つ低い位置から、シィンは真っ直ぐに見上げてきた。
澄んだ瞳は、陽の光を受けて群青色に見える。もうじき夜が明けようとしている空の色だと、カイネは思った。
シィンを見返すカイネの頭の中に浮かぶのは、出逢ったばかりの彼女の姿だ。彼に眼を向けていても熱に浮かされたように視線は合わない、ガリガリに痩せていた彼女の姿を。
思い出すだけで、あの頃感じていた苛立ちと痛みが込み上げてくる。
(やっと、こんなふうに人の目を見るようになったってのに、アシクは!)
ようやく、明るく笑ってくれるようになった。
ようやく、楽しそうに歌ってくれるようになった。
それなのに、アシクはシィンに神殿へ戻れと言うのか。彼女を壊しかけていた、神殿へ。
(そんなの、許せるわけがないだろう)
奥歯と拳に力を込めたカイネに、不安そうな声が届く。
「えっと、カイネ?」
ハッと我に返った彼は、拳を解き、強張った両手を幾度か握ったり開いたりする。
「あ……その……ごめん、この里の事を黙っていて」
内心でアシクへの罵りを呟き続けながら、カイネはそれだけ言った。他に言わなければならないこと、訊かなければならない事がある筈なのに、それは口から出てこなかった。
口ごもりながらのカイネの謝罪に、シィンは軽く目を見張った後、笑う。
「ううん。あのね、驚いたことは驚いたんだけど、アシクとリュウさんのお話聞いて、『うん、そうなんだろうな』って思えたの」
「そう、なのか?」
眉根を寄せて問うと、彼女はふとあたりを見渡した。
「うん。だってね、ここの人たち、アーシャル様に何も願わないのだもの。全部、自分たちの力でやっちゃって、『アーシャル様、お願い』なんて、全然言わないの。わたしはこんななのに、誰も何も言わない。普通なものを見る目で、わたしを見てくれる。……わたしに、何も願ってこない。ここではね、わたしに、『お願い、お願い、何とかして!』っていう目を向けてくる人はいない」
そう言って、シィンは微笑む。それは晴れやかでいて、少し寂しげだった。
シィンは、何も乞われなくなったことを喜んでいるのか、それとも、悲しんでいるのだろうか。
目の前の彼女の笑みからは、どちらでもあるように思えた。
カイネは迷い、そして答える。
「……当たり前だろ。シィンには凄い力なんてないんだから。願ったって、叶うわけがない」
彼の言葉に、少し、シィンの笑顔が明るくなった。彼女はコクリと頷く。
「そうだね。……本当はね、わたし、自分に何の力もないことなんて、とうに判っていたんだと思う。でも、皆が望むから、『神の娘』でなければならなかったの。そうあろうとしていたの」
「ここにいたら、そんな必要ない」
口調が強過ぎて、怒っているような言い方になってしまったかもしれない。だが、カイネを後押しするように、ローグが深々と何度も頷いている。カイネは彼の頭をくしゃくしゃと撫でてもう一度繰り返した。今度は、もう少し柔らかい声を心掛けて。
「ずっと、ここにいたらいい」
返事までに、ほんの少しの間。
その間に、カイネは身構える。だが、シィンが返してくれたのは、頷きだった。
「……うん、ここに、いたいな。ここでなら、わたしは『神様』にならなくていい。わたしはただのシィンで、ただ、歌いたいように歌っていられる」
「シィン……」
彼女はカイネとローグにふわりと笑い返し、青く晴れ渡った空を見上げた。その目の色は、いつもよりも鮮やかに輝いている。
「神様はね、いて欲しいけど、いなくちゃならない、というわけではないの。ここの人たちを見ていて、そう思った。神様がいなくても、人はちゃんとやってけるんだって。きっと、他のみんなも同じ。みんなも……自分の力で立っていられる」
どこか、確かめるような、いや、自分自身に言い聞かせるような口調で、シィンは言った。そんなことを言うということは、神殿と縁を切るつもりだということなのだろう。
「じゃあ、アシクが言っていたことは、断るんだな?」
シィンは神殿に帰らない。
そう受け取ったカイネは、パッと顔を輝かす。嬉しそうな彼の笑顔に鼻白んだように、シィンはキュッと唇を引いた。
「シィン?」
「あ、うん……」
歯切れの悪いシィンに畳み掛けるように、カイネは続ける。
「イヤだって言ったらいいんだぜ? お前がやらなきゃいけないことじゃないんだから」
「そう……かな……」
「当たり前だろ? お前にどんな責任があるってんだよ。お前だって、神官たちに良いように使われた、ヒガイシャみたいなもんじゃないか」
カイネの言葉に、一瞬、ほんの一瞬だけ、シィンは微かな棘が刺さったかのように顔を歪める。
「シィン?」
「何でもない。何でもないよ」
そう言って、彼女は、カイネとローグに向けて、笑顔を見せた。
笑顔が返ってきたことに、カイネはホッとする。ローグを見れば嬉しそうに笑っていたから、彼もそう感じたに違いない。
シィンの居場所は、もうこの里だ。彼女が生き、帰る場所は、ここ以外に、ない。
――そう思うのに、そう確信したというのに、どうしてか、シィンとローグを連れてカイネの胸の中には、一握りの靄がわだかまっていた。
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