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SS:不意打ち
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目覚めてからエピローグまでの間
****
二月十四日。
それは、片思いの相手がいる女の子にとっては、クリスマスよりもお正月よりも大事な日。
循環器内科の外待合のソファに浅く腰掛けたキラは、鞄の中に入れてあるキレイにラッピングしたソレをジッと見つめた。
今日は清一郎の診察にキラの予約は入っていない。
だから、彼の患者が終わるまで、待つつもりだった。
キラは待合の静かなざわめきを聞くともなしに聞きながら、去年の今頃のことに思いを馳せる。もっとも、実際のところ、当時のことを彼女はほとんど覚えていなかったけれど。
手術が終わって、ある日ふと目覚めたらベッドサイドに清一郎がいて。ぼんやりとした頭で、何か言葉を交わしたと思う。
後で聞いたら、目覚めた丁度その日がヴァレンタインだったらしい。
その後また数日ウトウトして過ごして、頭がはっきりしたのは二月も下旬。
だから、去年のヴァレンタインは、清一郎に会ってから初めてのヴァレンタインだったけれど、何もできなかった。
(ベッド上で身体を起こせるようになってからは、毎日毎日勉強三昧だったしね)
――桃子のお陰で。
キラはクスリと笑う。
今、彼女は二年生のバッジを付けている。襟元に視線を落として、ジッとそれを見つめた。それがそこにあるということが、いまだに少し信じられない。
(本当なら、まだ一年生だった筈なんだよね)
そう、本当なら、ずっと学校を休んでいた彼女が進級できるわけがなかったのだ。出席日数なんて、半分もなかったのだから。
それが無事二年生になれたのは、キラが目覚めたと知るなり署名活動に駆け回ってくれた桃子の働きがあってのことだった。
見舞いに来た翌日から、彼女は一年生から三年生まで、全クラスに対して「キラに進級するチャンスを与えてくれるように学校を説得したい」と演説をして回り、署名を集め、二週間後には校長を頷かせてしまった。
条件は、テストで合格すること。
実際のところ、あの長い眠りに就く前にキラはもう高校二年生の領域まで勉強を終わらせてしまっていたので、テストで点数をクリアすることは、簡単だった。
必要だったのは、ただ、チャンスだけ。
だから、今キラがこのバッジを着けていられるのは、全て、挑戦する機会を作ってくれた桃子のお陰だった。
学校側の配慮なのか、それとも偶然なのか、二年生になっても桃子と同じクラスになれて、この一年間身体の調子も良くて、ほとんど休まずに登校もできた。
夏休みにはまた海にも行ったし、体育祭は流石に見学だったけれど、文化祭はちゃんと二日間丸々参加できた。
クリスマスも正月も桃子や他の友達とイベントを楽しんだ。
今まで十八年生きてきたけれど、この一年はその十八年間よりも濃い一年だった気がする。
そして、この二月十四日を迎えて。
――最初は、キラは何をする予定もつもりもなかったのだ。
(だって、先生は先生だし)
月に何度か、清一郎と病院の外で逢うことはある。
(でも……)
キラはそういう時の清一郎のことを頭に思い浮かべる。清一郎が何を考えてキラと逢おうと思うのかが判らない。
言い出すのは彼の方からで、映画に行ったり、食事に行ったり。
(ただの患者と思ってるなら、逢わないよね)
多分、外来でしか顔を合わさない他の患者さんよりは、少しくらいは『特別』なのだと思う――思いたい。
だったら、キラのことを多少なりとも『女性』と思ってくれているのだろうか。
――そうは思えない。
(どう考えても、女の『子』だよね)
実際問題、彼との間の十八歳の年の差は大きい。
病気のこと以外にも散々手を煩わせたから、何となくその延長で世話を焼いている気持ちで付き合ってくれているのだろうか。
(姪っ子とか妹とか、そんな感じ? サイアク――娘、とか?)
なんだか、落ち込む。
だから、ヴァレンタインでも、何も渡さないでおこうと思ったのだ。他の人に義理チョコを渡す時のようにニッコリ笑って「はい、どうぞ」なんて、とてもでは言えないと思ったから。
けれど。
その日が近付いてチョコを買いに行こうと桃子に誘われて、キラは一緒に行った。彼女が用意したのは、父と、数人の男友達と、担任と部活の顧問の先生用――比較的地味なチョコだけを手にしたキラに、桃子が目敏い視線を向けたのだ。
「あれ、先生のは?」
「え、買ったよ?」
言って、担任と顧問用の分を取り出して見せる。桃子の言う『先生』が誰のことかは判っていたけれど、キラは気付かないふりをした。
けれど、そう簡単にごまかせる桃子じゃない。
ジッと睨んでくる彼女の視線から、キラは目を逸らした。
諦めるのを待とうとするけれど、桃子は一歩も退かない。
「……だって、あげたらむしろ迷惑かなって」
清一郎にチョコなんて、何て言って渡したらよいのかが、判らない。
「そんなの、普通に、『先生、好きです!』ってやればいいじゃないのよ」
「そう簡単にはいかないよ」
気軽な桃子に、キラはため息をつく。
確かにキラは、清一郎のことが好きだ。男の人として。多分――いや、絶対。
言葉でそう教えたことはないけれど、キラ自身がはっきりと自覚する前から、清一郎に対する彼女の想いに、桃子はどうやら気付いていたらしい。
それなのに、傍から見ていても判ってしまうようなあからさまなキラの想いに、それを向けられている当の本人はさっぱり気付いていない。
つまりそれは、清一郎の方がそんなふうに考えていないからに違いない。
「先生は、わたしのこと、女の子だとも思ってないんじゃないかな」
「え?」
桃子が立ち止まっていぶかしげにキラを見つめる。その眼差しは、世にも珍しい動物を見るようなものだった。
キラは、それから逃れるように地面に目を落とした。
もしかしたら、キラの想いに気付いていないからこそ、清一郎は一緒にいてくれるのかもしれない。
うっかり自分の気持ちを知られてしまって、気まずくなった彼から避けられるようになってしまうのが、怖い。
だから、今のままの方がいいのかもしれないと思ってしまう。
「年だって違い過ぎるし……」
桃子から目を逸らしたまま言い訳を口にするキラに、彼女は呆れたようなため息をこぼした。そして、ボソリと呟く。
「アレに気付かないなんて、鈍すぎ……」
「え?」
「別に。こっちの話。とにかく、十歳と二十八歳だったらヤバいけど、十八歳と三十六歳なんて全然許容範囲内だって。確かにあんたの見た目じゃ十四くらいに見えちゃうかもしれないけど……まあ、問題ないって」
言いながら、キラの腕を掴んで可愛らしいチョコが並ぶショーケースの方に引っ張っていく。
「とにかく、当たって砕けるのよ。大丈夫、死にゃしないんだから」
桃子の勢いに引きずられるようにしてもう一つ、チョコを買って。
そして、キラは、今ここにいる。
数分前に診察室から呼ばれて入っていった男性が最後で、外待合で待っている人は、もういない。つまり、もうじき清一郎に逢えるというわけなのだけれども。
その時が近づいてくると、急にそわそわしてきた。
(どうしよう。やっぱりやめようかな)
キラが腰を浮かせた丁度そのタイミングで、受付から声がかかる。
「あ、キラちゃん、瀧先生の診察終ったから入っていいわよ」
にこやかにそう言われて、思わずまたストンとソファに腰を落としてしまった。
「は、はい……」
そのまま数回深呼吸をする。
きっともう、清一郎はキラが来ていることを聞かされている。入っていかなければおかしく思う筈だ。具合が悪いのかと、心配させてしまうかもしれない。
覚悟を決めて、キラは立ち上がった。
(別に、パパとか今井君とかと同じにしたらいいんだし。そう、これは義理チョコ。単なる、『いつもありがとうございます』っていうチョコなんだから)
ギュッと鞄を掴んで、歩き出す。
恐る恐る診察室の引き戸を開けて、そっと中を覗き込んだ。
いつもの診察なら、キラが部屋に入る時には、清一郎はカルテの画面を睨んでいる。
それが今日は、真っ直ぐに戸口の方に向けられていた。予想外に目が合ってしまって、思わずキラはビクリとしてしまう。
少し眉間にしわが寄せられた鋭い眼差しが、彼女を射抜いた。
「こんばんは」
にへっと笑いながら言うと、清一郎の眉の間に刻まれたしわがいっそう深まった。
「どうしたんだ? どこか良くないのか?」
詰問調でそう言う彼の手には、もう聴診器が握られている。
「あ、違います、体調は全然問題なしで」
「本当に?」
「もう、完璧です」
キラが深々と頷くと、少し、しわが浅くなった。清一郎は患者用の回転椅子を少し回して、彼女に座るように促してくる。
ここはもう、早く終わらせてしまうに限る。
椅子に座るなり、キラはえいやとばかりに鞄の中から例のブツを取り出した。
「先生、これ……」
また、しわが深まる。
「えっと、ヴァレンタインのチョコで……」
「ああ」
しわはほとんどなくなって、清一郎は納得したように表情を緩めた。そうして身を屈めると、机の脇から何やら紙袋を取り出す。
それが何かに気付いて、キラは固まった。
「先生、それって――全部、チョコ、ですか?」
それなりの大きさの袋の中に、溢れそうなほどに入っている、カラフルな包みたち。わざわざ確かめなくても、答えは明らかだ。
「ああ」
「誰から、ですか?」
「ナースや事務、それに患者からも」
取り立てて何でもない事のようにそう言う清一郎に、キラはホッとすると同時にがっくりする。
(わたしのチョコなんて、この中の一つだよね)
清一郎はキラからの包みを受け取り、それを手の上で見つめた。てっきり、すぐに袋の中に入れてしまうのかと思ったら、何故かそれを机の上に置く。
すぐに大量のパッケージの中に紛れ込んでしまわなかったことが、キラにはやけに嬉しく感じられた。
何となく、自分が渡した物だけが、特別な気がして。
頬を緩ませたキラに気付いているのかいないのか、清一郎は紙袋の中を探っている。ずいぶん下の方にあるものを取り出そうとしているらしい。
しばらくごそごそしてから、彼は細長い包みを取り出した。
「これ」
「え、わたし?」
「次の診察の時でいいかと思っていたが、ちょうど良かった」
受け取ると、チョコにしては軽い。
包みから顔を上げて清一郎を見ると、彼は目で開けるように促してくる。
ラッピングを丁寧にはがしていくと、中から現れたのは可愛らしい蝶のデザインのネックレスだった。
「これ、は?」
誕生日の前倒しかと思ったけれど、それにしては早い。
いぶかしむキラに、清一郎はもっといぶかしげな目を返してくる。
「ヴァレンタインは、本来は大事な人に何か贈る日なのだろう?」
サラリと、至極当然のことのように、彼は言った。
あまりにサラリと言われたから、キラは一瞬聞き流しそうになる。同じ台詞をもう一度頭の中でリピートさせて初めて、その内容が浸透してきた。
「え? だ、いじ……?」
(先生、今何言ったのか気付いてるの?)
いや、気付いていないかもしれない。
清一郎の顔をまじまじと見つめても、いつもの生真面目な目と鼻と口だ。甘さなんて、全然ない。
あまりにいつも通りな彼に対してどんな反応を見せたらよいのか判らず固まったままのキラの手の中から、そっとネックレスが持ち上げられた。
繊細な留め金を、清一郎の器用な手が外す。
何をするつもりなのかと息をひそめて見守っていたキラに、突然彼がグッと近づいた。すぐ目の前に、広い胸が壁のように被さってくる。
キラの耳元のくせ毛を清一郎の吐息が微かに揺らして、彼の体温が感じられる。
清一郎がネックレスを付けてくれようとしていることに気付いたのは、三秒ほど経ってからだった。
正面から首の横に腕を回されて、どこも触れてはいないけれど、ほとんど抱き締められているようで。
キラに覆い被さるようにして、清一郎は彼女の首の後ろの辺りを覗き込んでいる。
チェーンをくぐらせる為か、清一郎の長い指がキラの髪を持ち上げた。首筋を、彼の指先がかすめる。
(もう、先生って、なんでこうなの!?)
普段は素っ気ないのに、時々、とんでもない不意打ちを食らわせてくる。
キラが息を詰めたままでいるうちに彼はまた離れ、そして椅子に戻った。
清一郎は少し目を細めて、キラを見つめている。
その表情がどこか満足そうなのは気のせいだろうか。
彼の視線から逃れるように、キラは自分の胸元にとまっている淡いピンクの蝶に目を落とす。
親指の爪ほどの大きさの、どちらかと言うと可愛い感じ。
「えっと……先生?」
これは、どういう意味ですか?
わたしのことが『大事』って、患者としてですか?
それとも女性として見てくれているんですか?
訊きたいことはキラの頭の中に溢れているけれど、言葉になってくれない。
「その……」
口ごもるキラに、清一郎は肩をすくめた。
「それと花のと、どちらが良いか少し迷ったんだ。君は、ジッとしている花よりも、ひらひら動いてばかりの蝶のイメージだからな」
その台詞は、どう受け取ったらいいのだろう。
清一郎はもう『医者』の顔に戻っていて、次の予約の話なんて始めている。
彼の頭は、一体何を考えているというのか。
(もう、解からなさ過ぎるよ、先生)
ほとんど泣きたい気分で、キラは胸の中でそう呻いた。
――彼が何を考えどう想っているのかが解かるようになるのは、まだあと一年ほど先のお話。
****
二月十四日。
それは、片思いの相手がいる女の子にとっては、クリスマスよりもお正月よりも大事な日。
循環器内科の外待合のソファに浅く腰掛けたキラは、鞄の中に入れてあるキレイにラッピングしたソレをジッと見つめた。
今日は清一郎の診察にキラの予約は入っていない。
だから、彼の患者が終わるまで、待つつもりだった。
キラは待合の静かなざわめきを聞くともなしに聞きながら、去年の今頃のことに思いを馳せる。もっとも、実際のところ、当時のことを彼女はほとんど覚えていなかったけれど。
手術が終わって、ある日ふと目覚めたらベッドサイドに清一郎がいて。ぼんやりとした頭で、何か言葉を交わしたと思う。
後で聞いたら、目覚めた丁度その日がヴァレンタインだったらしい。
その後また数日ウトウトして過ごして、頭がはっきりしたのは二月も下旬。
だから、去年のヴァレンタインは、清一郎に会ってから初めてのヴァレンタインだったけれど、何もできなかった。
(ベッド上で身体を起こせるようになってからは、毎日毎日勉強三昧だったしね)
――桃子のお陰で。
キラはクスリと笑う。
今、彼女は二年生のバッジを付けている。襟元に視線を落として、ジッとそれを見つめた。それがそこにあるということが、いまだに少し信じられない。
(本当なら、まだ一年生だった筈なんだよね)
そう、本当なら、ずっと学校を休んでいた彼女が進級できるわけがなかったのだ。出席日数なんて、半分もなかったのだから。
それが無事二年生になれたのは、キラが目覚めたと知るなり署名活動に駆け回ってくれた桃子の働きがあってのことだった。
見舞いに来た翌日から、彼女は一年生から三年生まで、全クラスに対して「キラに進級するチャンスを与えてくれるように学校を説得したい」と演説をして回り、署名を集め、二週間後には校長を頷かせてしまった。
条件は、テストで合格すること。
実際のところ、あの長い眠りに就く前にキラはもう高校二年生の領域まで勉強を終わらせてしまっていたので、テストで点数をクリアすることは、簡単だった。
必要だったのは、ただ、チャンスだけ。
だから、今キラがこのバッジを着けていられるのは、全て、挑戦する機会を作ってくれた桃子のお陰だった。
学校側の配慮なのか、それとも偶然なのか、二年生になっても桃子と同じクラスになれて、この一年間身体の調子も良くて、ほとんど休まずに登校もできた。
夏休みにはまた海にも行ったし、体育祭は流石に見学だったけれど、文化祭はちゃんと二日間丸々参加できた。
クリスマスも正月も桃子や他の友達とイベントを楽しんだ。
今まで十八年生きてきたけれど、この一年はその十八年間よりも濃い一年だった気がする。
そして、この二月十四日を迎えて。
――最初は、キラは何をする予定もつもりもなかったのだ。
(だって、先生は先生だし)
月に何度か、清一郎と病院の外で逢うことはある。
(でも……)
キラはそういう時の清一郎のことを頭に思い浮かべる。清一郎が何を考えてキラと逢おうと思うのかが判らない。
言い出すのは彼の方からで、映画に行ったり、食事に行ったり。
(ただの患者と思ってるなら、逢わないよね)
多分、外来でしか顔を合わさない他の患者さんよりは、少しくらいは『特別』なのだと思う――思いたい。
だったら、キラのことを多少なりとも『女性』と思ってくれているのだろうか。
――そうは思えない。
(どう考えても、女の『子』だよね)
実際問題、彼との間の十八歳の年の差は大きい。
病気のこと以外にも散々手を煩わせたから、何となくその延長で世話を焼いている気持ちで付き合ってくれているのだろうか。
(姪っ子とか妹とか、そんな感じ? サイアク――娘、とか?)
なんだか、落ち込む。
だから、ヴァレンタインでも、何も渡さないでおこうと思ったのだ。他の人に義理チョコを渡す時のようにニッコリ笑って「はい、どうぞ」なんて、とてもでは言えないと思ったから。
けれど。
その日が近付いてチョコを買いに行こうと桃子に誘われて、キラは一緒に行った。彼女が用意したのは、父と、数人の男友達と、担任と部活の顧問の先生用――比較的地味なチョコだけを手にしたキラに、桃子が目敏い視線を向けたのだ。
「あれ、先生のは?」
「え、買ったよ?」
言って、担任と顧問用の分を取り出して見せる。桃子の言う『先生』が誰のことかは判っていたけれど、キラは気付かないふりをした。
けれど、そう簡単にごまかせる桃子じゃない。
ジッと睨んでくる彼女の視線から、キラは目を逸らした。
諦めるのを待とうとするけれど、桃子は一歩も退かない。
「……だって、あげたらむしろ迷惑かなって」
清一郎にチョコなんて、何て言って渡したらよいのかが、判らない。
「そんなの、普通に、『先生、好きです!』ってやればいいじゃないのよ」
「そう簡単にはいかないよ」
気軽な桃子に、キラはため息をつく。
確かにキラは、清一郎のことが好きだ。男の人として。多分――いや、絶対。
言葉でそう教えたことはないけれど、キラ自身がはっきりと自覚する前から、清一郎に対する彼女の想いに、桃子はどうやら気付いていたらしい。
それなのに、傍から見ていても判ってしまうようなあからさまなキラの想いに、それを向けられている当の本人はさっぱり気付いていない。
つまりそれは、清一郎の方がそんなふうに考えていないからに違いない。
「先生は、わたしのこと、女の子だとも思ってないんじゃないかな」
「え?」
桃子が立ち止まっていぶかしげにキラを見つめる。その眼差しは、世にも珍しい動物を見るようなものだった。
キラは、それから逃れるように地面に目を落とした。
もしかしたら、キラの想いに気付いていないからこそ、清一郎は一緒にいてくれるのかもしれない。
うっかり自分の気持ちを知られてしまって、気まずくなった彼から避けられるようになってしまうのが、怖い。
だから、今のままの方がいいのかもしれないと思ってしまう。
「年だって違い過ぎるし……」
桃子から目を逸らしたまま言い訳を口にするキラに、彼女は呆れたようなため息をこぼした。そして、ボソリと呟く。
「アレに気付かないなんて、鈍すぎ……」
「え?」
「別に。こっちの話。とにかく、十歳と二十八歳だったらヤバいけど、十八歳と三十六歳なんて全然許容範囲内だって。確かにあんたの見た目じゃ十四くらいに見えちゃうかもしれないけど……まあ、問題ないって」
言いながら、キラの腕を掴んで可愛らしいチョコが並ぶショーケースの方に引っ張っていく。
「とにかく、当たって砕けるのよ。大丈夫、死にゃしないんだから」
桃子の勢いに引きずられるようにしてもう一つ、チョコを買って。
そして、キラは、今ここにいる。
数分前に診察室から呼ばれて入っていった男性が最後で、外待合で待っている人は、もういない。つまり、もうじき清一郎に逢えるというわけなのだけれども。
その時が近づいてくると、急にそわそわしてきた。
(どうしよう。やっぱりやめようかな)
キラが腰を浮かせた丁度そのタイミングで、受付から声がかかる。
「あ、キラちゃん、瀧先生の診察終ったから入っていいわよ」
にこやかにそう言われて、思わずまたストンとソファに腰を落としてしまった。
「は、はい……」
そのまま数回深呼吸をする。
きっともう、清一郎はキラが来ていることを聞かされている。入っていかなければおかしく思う筈だ。具合が悪いのかと、心配させてしまうかもしれない。
覚悟を決めて、キラは立ち上がった。
(別に、パパとか今井君とかと同じにしたらいいんだし。そう、これは義理チョコ。単なる、『いつもありがとうございます』っていうチョコなんだから)
ギュッと鞄を掴んで、歩き出す。
恐る恐る診察室の引き戸を開けて、そっと中を覗き込んだ。
いつもの診察なら、キラが部屋に入る時には、清一郎はカルテの画面を睨んでいる。
それが今日は、真っ直ぐに戸口の方に向けられていた。予想外に目が合ってしまって、思わずキラはビクリとしてしまう。
少し眉間にしわが寄せられた鋭い眼差しが、彼女を射抜いた。
「こんばんは」
にへっと笑いながら言うと、清一郎の眉の間に刻まれたしわがいっそう深まった。
「どうしたんだ? どこか良くないのか?」
詰問調でそう言う彼の手には、もう聴診器が握られている。
「あ、違います、体調は全然問題なしで」
「本当に?」
「もう、完璧です」
キラが深々と頷くと、少し、しわが浅くなった。清一郎は患者用の回転椅子を少し回して、彼女に座るように促してくる。
ここはもう、早く終わらせてしまうに限る。
椅子に座るなり、キラはえいやとばかりに鞄の中から例のブツを取り出した。
「先生、これ……」
また、しわが深まる。
「えっと、ヴァレンタインのチョコで……」
「ああ」
しわはほとんどなくなって、清一郎は納得したように表情を緩めた。そうして身を屈めると、机の脇から何やら紙袋を取り出す。
それが何かに気付いて、キラは固まった。
「先生、それって――全部、チョコ、ですか?」
それなりの大きさの袋の中に、溢れそうなほどに入っている、カラフルな包みたち。わざわざ確かめなくても、答えは明らかだ。
「ああ」
「誰から、ですか?」
「ナースや事務、それに患者からも」
取り立てて何でもない事のようにそう言う清一郎に、キラはホッとすると同時にがっくりする。
(わたしのチョコなんて、この中の一つだよね)
清一郎はキラからの包みを受け取り、それを手の上で見つめた。てっきり、すぐに袋の中に入れてしまうのかと思ったら、何故かそれを机の上に置く。
すぐに大量のパッケージの中に紛れ込んでしまわなかったことが、キラにはやけに嬉しく感じられた。
何となく、自分が渡した物だけが、特別な気がして。
頬を緩ませたキラに気付いているのかいないのか、清一郎は紙袋の中を探っている。ずいぶん下の方にあるものを取り出そうとしているらしい。
しばらくごそごそしてから、彼は細長い包みを取り出した。
「これ」
「え、わたし?」
「次の診察の時でいいかと思っていたが、ちょうど良かった」
受け取ると、チョコにしては軽い。
包みから顔を上げて清一郎を見ると、彼は目で開けるように促してくる。
ラッピングを丁寧にはがしていくと、中から現れたのは可愛らしい蝶のデザインのネックレスだった。
「これ、は?」
誕生日の前倒しかと思ったけれど、それにしては早い。
いぶかしむキラに、清一郎はもっといぶかしげな目を返してくる。
「ヴァレンタインは、本来は大事な人に何か贈る日なのだろう?」
サラリと、至極当然のことのように、彼は言った。
あまりにサラリと言われたから、キラは一瞬聞き流しそうになる。同じ台詞をもう一度頭の中でリピートさせて初めて、その内容が浸透してきた。
「え? だ、いじ……?」
(先生、今何言ったのか気付いてるの?)
いや、気付いていないかもしれない。
清一郎の顔をまじまじと見つめても、いつもの生真面目な目と鼻と口だ。甘さなんて、全然ない。
あまりにいつも通りな彼に対してどんな反応を見せたらよいのか判らず固まったままのキラの手の中から、そっとネックレスが持ち上げられた。
繊細な留め金を、清一郎の器用な手が外す。
何をするつもりなのかと息をひそめて見守っていたキラに、突然彼がグッと近づいた。すぐ目の前に、広い胸が壁のように被さってくる。
キラの耳元のくせ毛を清一郎の吐息が微かに揺らして、彼の体温が感じられる。
清一郎がネックレスを付けてくれようとしていることに気付いたのは、三秒ほど経ってからだった。
正面から首の横に腕を回されて、どこも触れてはいないけれど、ほとんど抱き締められているようで。
キラに覆い被さるようにして、清一郎は彼女の首の後ろの辺りを覗き込んでいる。
チェーンをくぐらせる為か、清一郎の長い指がキラの髪を持ち上げた。首筋を、彼の指先がかすめる。
(もう、先生って、なんでこうなの!?)
普段は素っ気ないのに、時々、とんでもない不意打ちを食らわせてくる。
キラが息を詰めたままでいるうちに彼はまた離れ、そして椅子に戻った。
清一郎は少し目を細めて、キラを見つめている。
その表情がどこか満足そうなのは気のせいだろうか。
彼の視線から逃れるように、キラは自分の胸元にとまっている淡いピンクの蝶に目を落とす。
親指の爪ほどの大きさの、どちらかと言うと可愛い感じ。
「えっと……先生?」
これは、どういう意味ですか?
わたしのことが『大事』って、患者としてですか?
それとも女性として見てくれているんですか?
訊きたいことはキラの頭の中に溢れているけれど、言葉になってくれない。
「その……」
口ごもるキラに、清一郎は肩をすくめた。
「それと花のと、どちらが良いか少し迷ったんだ。君は、ジッとしている花よりも、ひらひら動いてばかりの蝶のイメージだからな」
その台詞は、どう受け取ったらいいのだろう。
清一郎はもう『医者』の顔に戻っていて、次の予約の話なんて始めている。
彼の頭は、一体何を考えているというのか。
(もう、解からなさ過ぎるよ、先生)
ほとんど泣きたい気分で、キラは胸の中でそう呻いた。
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