君が目覚めるその時に

トウリン

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SS:約束

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 厳かなパイプオルガンが鳴り響く中、父の腕に手を置いて、長いドレスの裾をさばきながら、キラはゆっくり歩みを進める。正孝まさたかが小さく鼻をすする音が聞こえて、彼女はチラリとそちらへ目を走らせた。

 正孝の目と鼻は赤い。
 そんな父に、ついつい、キラはくすりと笑ってしまう。

 結婚式で泣きじゃくるのは、てっきり、母の裕子ゆうこの方だと思っていた。
 けれど、実際にその日になったら裕子はてきぱきとキラの準備を手伝って、何かというと涙に暮れて全然手助けにならなかったのは正孝の方だったのだ。

「笑うなよ。これは悔し涙なんだ。世の父親は、皆、娘を嫁に出すときには泣くものだ」
 正孝がひそひそと囁いた。
「ごめんね」

 本当は、キラも知っている。
 こんな日が来ることを、父は夢にも思っていなかったのだと。一年一年、薄氷を踏むように年を重ねるキラのこんな姿を、夢想することすらできなかった――許されなかったのだと。
 キラだけでなく、精神的に不安定だった裕子も支えなければいけなかった正孝は、きっと色々な思いを胸に秘めていたに違いない。
 そうやって自分の不安は押し隠し、雨宮家を支える柱になってくれていた。

「ねえ、パパ」
 また、鼻をすする音。
「何だい?」
「わたしね、すごく幸せだよ。今ここにいるこのわたしで良かったって、心の底から思うの」

 一際大きな、鼻をすする音。
 そして。

「そうか」
 短い一言。完全な鼻声で。
 それからは、もう言葉は交わさずに。

 やがて、キラは彼女を待つ人の下へ辿り着く。
 大きな身体に、いつも少しだけ残っている眉間のしわ。
 瀧清一郎――ちょっと不愛想だけれども、とても優しい、キラの旦那さま。

 正孝がキラの手を自分の腕から持ち上げた。
「清一郎君、キラのことを頼んだ」
 怖いほど真剣な眼差しでのその言葉に、武骨な彼は、ただ頷いた。
 そうして、今まで彼女を支えて来てくれた人から、これから一緒に生きていく人へ。

 キラの手が、正孝よりも大きな手に包まれて、彼女と清一郎は並んで祭壇の前に立つ。
 体格も、年齢も、生活も、何もかも違う二人だけれど、この先ずっと一緒にいたいという気持ちは同じだ。

 宣誓に、指輪の交換。
「誓います」の声も、指輪をはめる時の手も、少しだけ震えてしまった。

 そして、清一郎の大きな手がキラのベールをそっと摘まむ。それを持ち上げられて、今日初めて、彼の顔を間近で直接見ることができた。
 ベールを後ろにやった清一郎の手が、そのままキラの肩を包み込む。
「誓いのキスを」
 その一言で、清一郎の顎にグッと力が入った。
 今日は踵の高い靴でほんの少しだけその差が縮まっているけれど、それでも、キラと清一郎は背丈がずいぶん違う。できるだけ彼に近づこうと、キラはハイヒールが許してくれる範囲で精一杯背伸びする。

 清一郎はほんの一瞬だけためらう素振りをしてから、ゆっくりと頭を下げてきた。

 重なり合う、唇。

(ああ、やっとだ)

 触れて、ほんの少しだけ力がこもって、そして離れる。

「やっと、約束を果たしてくれましたね」
 清一郎の唇が浮いた時、キラは彼にだけ聴こえる声で囁いた。
「約束?」
 彼も、囁き声で返してくる。いぶかしげに眉をひそめて。

「あの時、わたしが退院したらしてくれるって言ったのに、結局してくれなかったんですよ」
「……ああ」
 答えた清一郎の頬が、ほんの少しだけ赤らんだ。
 そして、ボソリと一言。

「忘れていたわけじゃない」

「え?」
 目を瞬かせたときには、もう清一郎はまっすぐ前を向いてしまっていた。まじまじ彼を見つめているキラに、小さな咳払いが届く。ハッと我に返って首を正面に向けると、司祭が小さく頷いた。

「では、ここにお二人の結婚が成立したことを宣言いたします」
 厳かな声が響き、会場に微かなざわめきが走る。
「こちらにサインを」
 そう言って司祭が差し出したのは、婚姻届けだ。

 まずは清一郎から。
 彼はあまり字が上手ではない。かろうじて、キラにも『瀧清一郎』と読めるけど。

 そして、清一郎が差し出すペンをキラが受け取る。彼が押さえていてくれる用紙に、ペン先を付けた。

 と、その時。

「僕も約束が欲しい」
 キラの耳の間近で、彼が言った。

「え?」
「約束してくれ」
 低い声でもう一度繰り返した清一郎に、キラは首をかしげるようにして目で促した。

「できるだけ長く、僕の傍に居て欲しい。できるだけ、長く」

 彼女に注がれる清一郎の眼差しは、切羽詰まっていると言っていいほど、真剣な光を帯びている。

 キラは瞬きを一つして、微笑んだ。
「もちろんです。そう簡単には、離れませんから」
 そう返してから、作業を再開する。

『雨宮キラ』は、今日を最後にいなくなる。
 これからは『瀧キラ』だ。

(ちょっと、強そうな名前だよね)
 思わずクスリと笑うと、清一郎が眉根を寄せた。

「何だ?」
「何でもないですよ」
 澄まして返したキラに清一郎はまだ憮然とした顔をしていたけれど、彼の不満や疑問をよそに式は先へと進んでしまう。

 衣擦れの音がして、招待客が一斉に立ち上がる。奏でられ始めた讃美歌を聴きながら、キラはもう一度隣に立つ清一郎をこっそりと見上げた。

 わたしは、この人と生きていく。
 それが十年なのか、二十年なのか、もっともっと長く続けられることになるのかは、判らない。
 けれど、それがどんな長さになるとしても、いつか別れが訪れた時に、二人で生きたことを彼が悔やまないようにしたいと思う。

 キラは右手を上げて清一郎の手を握った。彼はチラリとキラを見下ろし、握り返してくれる。ほんの少しだけ仏頂面が強いのは、きっと照れているからなのだろう。
 ジッと見つめていると、清一郎がまたキラに視線を寄越す。すかさずそれを捉えて、彼女はにっこりと笑った。

 そして、告げる。

「わたし、今、すごく幸せです。これから、もっと幸せになりましょうね」
「もちろんだ」
 簡潔で明瞭な返事と共に、キラの手を包む彼の手に力がこもる。

 その温もりと力強さをしっかりと心に刻んで、彼女は真っ直ぐに前を見つめた。
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