28 / 38
君の目覚めを待ちながら-2
しおりを挟む
もうじき、除夜の鐘が鳴る。
キラの容体が急変したクリスマスイブのあの日、慌ただしく人工心肺を装着した。彼女の状態の悪さに渋る心臓外科と麻酔科の医者を説き伏せ、許容できるレベルにまで感染症が落ち着くのを待って手術を行ってから、五日。
キラは、集中治療室にいた。
まだ五日というべきだろうか、それとも、もう五日というべきだろうか。
キラが収容されているブースの入り口に立った清一郎は、束の間そこで立ち止まり、ベッドの上に横たわる彼女を見つめた。
小さい。
ここに来るたび真っ先に感じるのは、それだ。
周りを様々な機器で埋め尽くされたベッドの上で眠る彼女は、とても小さく見える。
小さくて、華奢で、もろそうで。
心臓外科医も麻酔科医も――岩崎も、清一郎以外の者は皆、キラが手術を乗り越えられるとは思っていなかった。手術の最中にその命の灯が消えてしまうだろうと、半ば以上覚悟しながらの、手術だった。
多分、両親も少なからぬ諦めの念を抱いていただろう。
キラが必ず生き延びると信じていたのは、恐らく清一郎だけだったに違いない。いや、『信じる』というよりも、それが確かな事実だと、判っていたのだ。
そして、彼が思っていたとおり、キラは生き延びた。
小さく脆弱な肉体の中に潜む、強靭な生命力。
清一郎がキラの中に感じていたそれは、見事彼女をこの世に引き止めてくれたのだ。
(君がそう簡単に死ぬわけがない――違うか?)
心の中でそう呟いて、清一郎は彼女に歩み寄る。
清一郎は、彼女の周りに所狭しと置かれたモニターや計器の数値を淡々とチェックしていく。
何も問題はない。
キラの生命兆候も、彼女に接続している機器の設定も、良くも悪くも、変りが無かった。
(今は、変化がない事が一番だ)
チリ、と胸を焦がした焦燥を、清一郎はそう自分に言い聞かせて押し潰す。
改善していない事よりも、悪化していないことを喜ぶべきだ。悪化さえしなければ、希望を持ち続けることができるのだから。
今のところは何の合併症も認めておらず、術前のキラの状態の悪さを考えれば、それはほとんど奇跡といってもいいほどのものだった。
まだ人工心肺装置は外せていないが、経験から言えば、遅くとも一週間以内には呼吸器だけにできる筈だ。このまま何も悪いことが起きず、彼女自身の力で肉体が回復することを妨げられなければ。
「年を越してしまうな」
ベッドサイドに立ち、キラの寝顔を見下ろしながら、清一郎はそっと呟く。
きっとキラは、紅白を見て、除夜の鐘を聴いて、初詣をして、お節を食べて――そういった『俗っぽい』ことをしたかったのだろうと、清一郎は小さく笑った。
「昨日から、雪も降っている。外はすごく寒い」
思い付くまま、彼は返事がない相手に向けて語りかける。
「交通機関は混乱している。たいして積もってはいないが、一応、『雪化粧』の範疇には入っている。君が目覚めていたら、こんな窓のない部屋は嫌だと言うだろうな」
その文句を聴きたいと、清一郎は思った。切実に。
あれをしたい、これをしたいと目を輝かせて『わがまま』を口にするキラを、見たかった。そんな彼女を見ている時に感じていたものが『喜び』という感情だったのだと、清一郎は今さらながらに気付かされていた。
彼はベッドの柵に両手を置いて、キラを見つめる。
機械の力を借りて眠りの中で命をつないでいるその顔は、とても穏やかだった。
最後に言葉を交わした時のような苦しさは、微塵も感じさせない。首や口に様々なチューブが取り付けられていなければ、とても心地よい眠りの中にいるように見えるだろう。
そんなふうに考えて、彼は眉根を寄せた。
『眠る』という言葉に、『睡眠』ではなく、もう一つの含みの方がふと頭をよぎってしまったからだ。
清一郎は、目蓋を閉じたキラを見下ろす。
(キラが眠っているのは、薬のせいだ)
昏々と眠り続けているのは強い鎮静剤のせいで、それさえ切れば、また目覚める。睫毛の先、指の一本も動かないほどの深い眠りは、敢えてそうする為に薬を用いているからだ。
清一郎は自分自身にそう言い聞かせたが、一度心に引っかかってしまうと、無性に落ち着かない気分になってしまう。鎮静をかけている相手を揺さぶって起こしたくなる衝動に駆られるなど、初めてのことだった。
栄養は点滴からだけだから、丸かった頬は少し薄くなった。清一郎は無意識のうちにその頬に手を伸ばしかけていたことに気付いて、それを抑えこむように指先を握り込んだ。
(別に、何もおかしいことはない。定型的な治療だ)
だから、いつも通りにしていれば、キラだって他の患者のように目を覚ます。
(必ず)
彼は半ば脅しつけるように、自分の胸に向けてそう呟いた。そうしないと、妙な胸騒ぎが込み上げてきて、何でもいいから大声で喚いてしまいそうだった。
清一郎には知識があって、彼女の中で起きていることも、彼女に対して行っていることがどんな効果があってどんな経過を辿るのかも、解かっている。
解かっているのに、こうやって目を閉じたまま微動だにしないキラを見下ろしていると何かジリジリと焼けるような不快感が腹の底から這いあがってくる。
(これが、不安というやつなのだろうか)
清一郎には馴染みのない感覚だった。
知識がある者ですらこんなふうに感じるのなら、知識がない者は、いったいどれほどの不安を抱え込むことだろう。
清一郎は苦笑する。
「まったく、君と出逢ってから、自分が何を知らなかったのかを随分と突き付けられた」
きっと、まだまだたくさんある筈だ。
少しためらってから、彼女に手を伸ばした。指先で額の髪をそっとどかす。
「早く、君の声が聴きたい」
そうして、また、様々な事を気付かせて欲しい。
自分の声がキラに届いているとは思わない。理屈的には、解かっている。
けれども清一郎は、そう囁かずにはいられなかった。
キラの容体が急変したクリスマスイブのあの日、慌ただしく人工心肺を装着した。彼女の状態の悪さに渋る心臓外科と麻酔科の医者を説き伏せ、許容できるレベルにまで感染症が落ち着くのを待って手術を行ってから、五日。
キラは、集中治療室にいた。
まだ五日というべきだろうか、それとも、もう五日というべきだろうか。
キラが収容されているブースの入り口に立った清一郎は、束の間そこで立ち止まり、ベッドの上に横たわる彼女を見つめた。
小さい。
ここに来るたび真っ先に感じるのは、それだ。
周りを様々な機器で埋め尽くされたベッドの上で眠る彼女は、とても小さく見える。
小さくて、華奢で、もろそうで。
心臓外科医も麻酔科医も――岩崎も、清一郎以外の者は皆、キラが手術を乗り越えられるとは思っていなかった。手術の最中にその命の灯が消えてしまうだろうと、半ば以上覚悟しながらの、手術だった。
多分、両親も少なからぬ諦めの念を抱いていただろう。
キラが必ず生き延びると信じていたのは、恐らく清一郎だけだったに違いない。いや、『信じる』というよりも、それが確かな事実だと、判っていたのだ。
そして、彼が思っていたとおり、キラは生き延びた。
小さく脆弱な肉体の中に潜む、強靭な生命力。
清一郎がキラの中に感じていたそれは、見事彼女をこの世に引き止めてくれたのだ。
(君がそう簡単に死ぬわけがない――違うか?)
心の中でそう呟いて、清一郎は彼女に歩み寄る。
清一郎は、彼女の周りに所狭しと置かれたモニターや計器の数値を淡々とチェックしていく。
何も問題はない。
キラの生命兆候も、彼女に接続している機器の設定も、良くも悪くも、変りが無かった。
(今は、変化がない事が一番だ)
チリ、と胸を焦がした焦燥を、清一郎はそう自分に言い聞かせて押し潰す。
改善していない事よりも、悪化していないことを喜ぶべきだ。悪化さえしなければ、希望を持ち続けることができるのだから。
今のところは何の合併症も認めておらず、術前のキラの状態の悪さを考えれば、それはほとんど奇跡といってもいいほどのものだった。
まだ人工心肺装置は外せていないが、経験から言えば、遅くとも一週間以内には呼吸器だけにできる筈だ。このまま何も悪いことが起きず、彼女自身の力で肉体が回復することを妨げられなければ。
「年を越してしまうな」
ベッドサイドに立ち、キラの寝顔を見下ろしながら、清一郎はそっと呟く。
きっとキラは、紅白を見て、除夜の鐘を聴いて、初詣をして、お節を食べて――そういった『俗っぽい』ことをしたかったのだろうと、清一郎は小さく笑った。
「昨日から、雪も降っている。外はすごく寒い」
思い付くまま、彼は返事がない相手に向けて語りかける。
「交通機関は混乱している。たいして積もってはいないが、一応、『雪化粧』の範疇には入っている。君が目覚めていたら、こんな窓のない部屋は嫌だと言うだろうな」
その文句を聴きたいと、清一郎は思った。切実に。
あれをしたい、これをしたいと目を輝かせて『わがまま』を口にするキラを、見たかった。そんな彼女を見ている時に感じていたものが『喜び』という感情だったのだと、清一郎は今さらながらに気付かされていた。
彼はベッドの柵に両手を置いて、キラを見つめる。
機械の力を借りて眠りの中で命をつないでいるその顔は、とても穏やかだった。
最後に言葉を交わした時のような苦しさは、微塵も感じさせない。首や口に様々なチューブが取り付けられていなければ、とても心地よい眠りの中にいるように見えるだろう。
そんなふうに考えて、彼は眉根を寄せた。
『眠る』という言葉に、『睡眠』ではなく、もう一つの含みの方がふと頭をよぎってしまったからだ。
清一郎は、目蓋を閉じたキラを見下ろす。
(キラが眠っているのは、薬のせいだ)
昏々と眠り続けているのは強い鎮静剤のせいで、それさえ切れば、また目覚める。睫毛の先、指の一本も動かないほどの深い眠りは、敢えてそうする為に薬を用いているからだ。
清一郎は自分自身にそう言い聞かせたが、一度心に引っかかってしまうと、無性に落ち着かない気分になってしまう。鎮静をかけている相手を揺さぶって起こしたくなる衝動に駆られるなど、初めてのことだった。
栄養は点滴からだけだから、丸かった頬は少し薄くなった。清一郎は無意識のうちにその頬に手を伸ばしかけていたことに気付いて、それを抑えこむように指先を握り込んだ。
(別に、何もおかしいことはない。定型的な治療だ)
だから、いつも通りにしていれば、キラだって他の患者のように目を覚ます。
(必ず)
彼は半ば脅しつけるように、自分の胸に向けてそう呟いた。そうしないと、妙な胸騒ぎが込み上げてきて、何でもいいから大声で喚いてしまいそうだった。
清一郎には知識があって、彼女の中で起きていることも、彼女に対して行っていることがどんな効果があってどんな経過を辿るのかも、解かっている。
解かっているのに、こうやって目を閉じたまま微動だにしないキラを見下ろしていると何かジリジリと焼けるような不快感が腹の底から這いあがってくる。
(これが、不安というやつなのだろうか)
清一郎には馴染みのない感覚だった。
知識がある者ですらこんなふうに感じるのなら、知識がない者は、いったいどれほどの不安を抱え込むことだろう。
清一郎は苦笑する。
「まったく、君と出逢ってから、自分が何を知らなかったのかを随分と突き付けられた」
きっと、まだまだたくさんある筈だ。
少しためらってから、彼女に手を伸ばした。指先で額の髪をそっとどかす。
「早く、君の声が聴きたい」
そうして、また、様々な事を気付かせて欲しい。
自分の声がキラに届いているとは思わない。理屈的には、解かっている。
けれども清一郎は、そう囁かずにはいられなかった。
0
お気に入りに追加
132
あなたにおすすめの小説
旦那様には愛人がいますが気にしません。
りつ
恋愛
イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

【完結】王太子殿下が幼馴染を溺愛するので、あえて応援することにしました。
かとるり
恋愛
王太子のオースティンが愛するのは婚約者のティファニーではなく、幼馴染のリアンだった。
ティファニーは何度も傷つき、一つの結論に達する。
二人が結ばれるよう、あえて応援する、と。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。
ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。
彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。
「誰も、お前なんか必要としていない」
最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。
だけどそれも、意味のないことだったのだ。
彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。
なぜ時が戻ったのかは分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。
私は、私の生きたいように生きます。
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
君のためだと言われても、少しも嬉しくありません
みみぢあん
恋愛
子爵家の令嬢マリオンの婚約者、アルフレッド卿が王族の護衛で隣国へ行くが、任期がながびき帰国できなくなり婚約を解消することになった。 すぐにノエル卿と2度目の婚約が決まったが、結婚を目前にして家庭の事情で2人は…… 暗い流れがつづきます。 ざまぁでスカッ… とされたい方には不向きのお話です。ご注意を😓

【完結】今世も裏切られるのはごめんなので、最愛のあなたはもう要らない
曽根原ツタ
恋愛
隣国との戦時中に国王が病死し、王位継承権を持つ男子がひとりもいなかったため、若い王女エトワールは女王となった。だが──
「俺は彼女を愛している。彼女は俺の子を身篭った」
戦場から帰還した愛する夫の隣には、別の女性が立っていた。さらに彼は、王座を奪うために女王暗殺を企てる。
そして。夫に剣で胸を貫かれて死んだエトワールが次に目が覚めたとき、彼と出会った日に戻っていて……?
──二度目の人生、私を裏切ったあなたを絶対に愛しません。
★小説家になろうさまでも公開中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる