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君が望むこと-3
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キラに人工呼吸器を装着してから、一時間が経過していた。
状態は、芳しくない。
観察室のベッドに横たわる彼女は、一見、とても穏やかだ。
口の中に挿入されている管さえなければ、ただ眠っているようにしか見えないだろう。
だが、それは鎮静剤と鎮痛剤によってもたらされている穏やかさだった。モニターに映し出されている低めながらも不自然なほど安定した生命兆候も、人工呼吸器の設定を最大限まで上げて保たれているに過ぎない。
今、清一郎と岩崎は、昏々と眠るキラを挟んで彼女の両親と向き合っていた。
裕子は憔悴を隠せず、その手に握り締められているハンカチは絞ればぼたぼたと涙の雫を垂らしそうだ。正孝は妻の肩に手を回し、気丈に彼女を支えてはいるが、やはりその心の内は明らかだった。
「呼吸器を着けてからも、キラさんの容体は良くありません」
岩崎のシンプルで明確な言葉に、元々白かった裕子の顔から、更に血の気が引く。彼女の手を取った正孝を見返すことなく彼の手を握り返して、裕子はヒクリと喉を鳴らした。
「彼女の呼吸状態が悪くなった直接の原因は肺に水が溜まったことですが、その大元は心臓なんです」
そう言うと、岩崎はクリップボードに挟んだ紙に絵を描き始めた。それを見せながらキラの両親に説明を試みる。
「今までの説明の繰り返しになりますが――心臓というのは筋肉の塊で、血を送り出す為のポンプになっています。右と左の部屋に別れていて、全身を巡ってきた血が右の部屋に戻り、そこから肺に流れ、肺から左の部屋に戻ってくる。そして左の部屋から全身に送り出され、そしてまた右の部屋に戻ってくる。血がきちんと一方向に流れるように、その要所要所に逆流防止の弁が付いています」
岩崎はそこで一度言葉を切り、二人が理解していることを確認するように、両者の目を覗き込んだ。裕子も正孝も、解かっているというふうに岩崎に頷きを返す。
「キラさんの心臓は、この左の部屋の弁が閉まりきらなくなっている状態です。そうすると、全身に血を送れないばかりか肺の方へ血液が戻ってしまって、呼吸にも影響が出てくるわけです」
「だけど、その逆流というのは以前からあったのでは?」
青ざめた顔で、抑えた声でそう訊いてきたのは正孝の方だ。
岩崎は彼に向けて頷き、答えた。
「確かにありました。ですが、これまでは薬でまずまずコントロールができていたのです」
「それが、風邪のせいで悪くなってしまったということですか?」
「そうです」
「でも……治るんですよね? 今までだって、二回も呼吸器を着けたことがあったわ。もっとずっと小さくて、弱かった時に。でも、いつもキラは元気になったもの」
今回も大丈夫ですよね、と目で訴えてくる裕子に、岩崎は渋い顔を返した。
「状況は、難しいです」
彼のその言葉と共に、裕子の顔がクシャリと歪んだ。
「でも……だって……」
絶句する裕子の握り拳を、正孝の手が優しく、しっかりと包み込む。だが、彼女はそれにも気付いていないようだった。
「昨日から今日にかけて、心臓の機能が急激に落ちているのです。呼吸だけではなくて、心臓の方も補助をしてやらなければならないでしょう」
「じゃあ、早く――」
「準備をしているところです」
裕子の顔が、ホッと緩んだ。だが、岩崎は厳しい顔を崩さず、続ける。
「しかし、今をしのいでも、また以前の生活レベルに戻れるという保証もないのです。感染が落ち着いて肺から水を無くすことができれば、呼吸は改善するでしょう。ですが、心臓は――最悪、ベッドから起き上がれない状態になるかもしれません」
「そんな」
裕子が悲鳴のような声を上げる。彼女の思考は、もうろくに働きそうになかった。固まってしまった妻の肩に腕を回した正孝が、緊張した面持ちで岩崎を見つめる。
「この子が寝たきりだなんて……今までだって、散々我慢させてきたんだ。そんなのは……」
唇を噛んだ正孝を、岩崎は微かに目元を歪ませて見る。
「人工心肺装置を用いれば、心臓と肺の両方の機能を機械に肩代わりさせることができます。今のところは、それが最善の策です」
「なのに、それをしても、治らない?」
「治るかどうかは、彼女次第です。少なくとも、機械を着ければその為の時間を稼げます」
言外にある、それをしなければ死ぬという台詞を、両親は確かに聞き取ったのだろう。
実際のところ、生きられる確率を十%から二十%に引き上げる程度の代物ではあるが、それでもしないよりはマシだ。
「では、他に選びようがない」
即座に言った正孝に、岩崎は少しためらってから、続ける。
「ただし、合併症も多々あります。太い血管の中に管――異物を入れることになるので、その為に色々な問題が出てきます。今の風邪ではない、その機械を着けることで生じる感染症や、血栓で身体のどこかの血管が詰まったり、逆に血が固まりにくくなるので大事な臓器に大きな出血が起きることもあります。もしもそれが脳で起これば、脳梗塞や脳卒中を起こし、そのまま意識を取り戻さないということもあり得ます」
そこで岩崎の顔が曇りが一層深くなる。
「特に、今のキラさんの心臓はギリギリの状態ですから……感染が落ち着いて人工心肺から離脱したとしても、彼女自身の心臓に戻した途端に急激に状態が悪化する可能性もあります」
「危険、ですか」
肩を落とした父親に対して、岩崎は頷いた。医者としての仮面を身に着けた彼の表情はほとんど変わらない。だが、その目には苦悩がにじんでいた。
「危険です――正直言って、非常に。ですが、現状では、キラさんの命を救う可能性が一番高い方法です」
束の間、モニターと呼吸器の立てる規則的な音だけが部屋の中を支配する。
岩崎は身体の両脇で硬く両手を握り締め、裕子は焦点の定まらない目でキラの寝顔を見つめていた。正孝は右腕で妻の肩を抱き、左手で彼女の手首の辺りを撫でている。
沈黙は、長くは続かなかった。無駄にできる時間は無いからだ。
「あるいは、もう一つ」
再び口を開いた岩崎は、苦いものを噛みつぶしているような声で、もう一つの道を提示する。躊躇いがちなその口調は、提示はするが薦めはしないという心情がにじみ出ていた。
「――もう一つの手段は、このまま、待つことです。一番自然な形で、成り行きを見守る、という選択肢もあります」
清一郎はハッと岩崎の顔を見る。
それは、遠回しな看取りの薦めに他ならない。
彼がそんなことを切り出したことが、清一郎には信じられなかった。
確かに、今のキラは限りなく死に近い所にいる。だが、まだ諦めるには早過ぎる。
「岩崎――!」
声を荒らげた清一郎を、岩崎は目だけで制する。そうして、ベッドの柵に両手を突いてキラの両親の方へ少し身を乗り出して、告げた。
「キラさんは、これまでとても頑張ってきました。今の彼女は苦痛を感じていません。あくまでも選択肢の一つに過ぎませんが――」
「それなら、この子は、もう、苦しい思いをしなくて済むんですか……?」
か細い、裕子の声。
清一郎は突かれたように顔を彼女に向ける。
彼の鋭い眼差しには全く気付いていない様子で、裕子はキラの頬へと手を伸ばした。
「この三日――いえ、一週間は、多分、本当に苦しかったんだと思います。なのに、この子は私を見ると笑顔になって……。いつも、そう。私にはつらいところを見せないようにって、頑張って頑張って……私が、弱いせいで……」
「雨宮さん」
清一郎が呼びかけると、悲痛で虚ろな目が見返してくる。それは、まるで何年も、何十年も歩き続けてきたような、疲れ切っている者の目だった。
そして、岩崎の目の中にあるものは、労わりと同情だ。
(キラが言っていたのは、これか?)
岩崎は苦しむキラを見守る二人を、気遣っているのだろうか――キラの命よりも。あまりに家族に近付きすぎて、彼は客観的で冷静な判断ができなくなっているのだろうか。
(十六年耐えてきた家族を、もう解放してやるべきだと?)
今、この場を乗り切れば、また五年、あるいは十年、同じ日々が続くだろう。
いや、同じではない。
より悪い状態になる確率の方が、高い。
キラは、両親を彼女という錨から解き放つことを望んでいるのだろうか。彼女を諦め、次の一歩を踏み出すことを。
清一郎には、それが正しい事だとは思えなかった。
奥歯を噛み締めた彼の耳に、震える囁きが忍び込む。
「私は、私は――どんな形でもいいから、この子に生きていて欲しいんです。でも……」
裕子の声は、全く起伏が無かった。その声のまま、続ける。
「この子にとっては、どうなんでしょう。今をやり過ごしても、ベッドの上だけで暮らすようになることをこの子は望むでしょうか」
「そうなるかもしれないというだけだ」
強い口調で清一郎は彼女の頭の中にあるものを打ち消そうとする。
だが、裕子の気持ちが揺らいでいるのは、はっきりと伝わってきた。
清一郎は焦った。保護者である二人がそれを選択してしまえば、覆すことはできない。
(違う、まだ、他に選択肢はある)
そう思った時には、言葉が口を突いて出ていた。
「手術をすればいい」
「瀧?」
声を上げた岩崎を無視して、清一郎は裕子を、そして正孝を見た。
「今、キラの状態に一番強い影響を及ぼしているのは弁の逆流だ。人工心肺を装着し、その間に弁に対する手術を行えばいい」
「手術……それをすれば、この子はまた元のようになるんですか?」
正孝のその問いには、清一郎もすぐには答えられなかった。
「確証はない。ですが、そうなる可能性が一番高い方法だ」
「ならば、是非――」
勢い込んで頷きかけた正孝に、岩崎が割って入る。
「ちょっと待て――待ってください。確かに回復する可能性も高いが、今の彼女にはリスクも大きいだろう!?」
「どういう意味ですか?」
顔を引きつらせた正孝が岩崎と清一郎を交互に見やる。裕子も大きく目を見開いていた。
岩崎はわずかな逡巡の後、慎重に切り出す。
「今のキラさんの状態は、かなり悪い。手術をすれば、その間に命を落とすこともある、いや、むしろその危険の方が大きいかもしれません。手術をすることが命を縮めることも有り得るのです」
「成功すれば、またある程度動けるようにはなるけれど、ですか?」
確かめるような正孝の言葉に、岩崎は首を縦に振った。
上の空で夫婦が互いの手を探り、そしてきつく握り合わせる。
「どうするのが、キラにとって一番いいことなのでしょう」
震える声で、正孝が問うてきた。それに対して、岩崎は言い淀む。
「私は、人工心肺で彼女の回復を待つというのがベストだと思っています」
そこに確かな自信が無いことは、隣にいる清一郎にも伝わってきた。食い入るように岩崎を見つめている正孝と裕子も、当然気付いただろう。
二人の視線が、清一郎に移る。
「私には、もう何が一番良い方法なのか、判りません。何がキラにとって一番良い事なのか、どうするのが良い事なのか、私には判らないんです。私は、この子の母親なのに……」
裕子の声は途方に暮れていた。
清一郎は彼女の言葉を頭の中で繰り返す。
何が、キラにとって一番良い事なのか。
いや、違う。
清一郎は胸の中でかぶりを振った。
選ぶべきは――
(キラが一番望むことは、何なのか、だ)
仮に、岩崎が言うように積極的な手を打たずに回復を待つとしよう。
無事に今を乗り切れたとして、キラには大きな制限が課せられることになるだろう。いつか心臓移植ができればまた動けるようになるだろうが、その保証はどこにもない。
裕子が言ったように、何年続くか判らない、狭いベッドの上だけでの人生。
最悪、それで終わる。
もちろん、そうならないかもしれない。だが、そうなる可能性が、非常に高い。
(キラが、それを望むのか?)
そうは思えなかった。
では、手術をしたらどうだろう。
成功すれば、走り回ることはできないかもしれないが、少なくとも、ベッドからは起き上がることができるようになる。退院して家に帰り、もしかしたら、いや、きっと、学校にだって行けるようになるだろう。休日には、友達と遊びに行けるようにもなるかもしれない。
(だが、失敗すれば――?)
もしも手術中にキラが命を落とせば、あるのは、唐突な別れだ。何もかもが、突然終わる。看取る為の穏やかな時間も与えられず。
キラが眠りに入る直前、束の間言葉を交わしたあの時、彼女は何をどうするのかを清一郎に選んで欲しいと言った。
自分のわがままを通したいのだ、と。
(君は、僕に何を期待しているんだ?)
清一郎は静かに眠るキラを見つめて心の中で問う。
もちろん、返事はない。
彼女がどの選択肢を望んでいるのかが判らないから、ひたすら今までのキラの全てを思い出そうとした。
彼女が、今までどんなふうに言っていたのか。どんな時に笑っていたのか。
キラの喜び。
キラの哀しみ。
キラの嫌うこと。
キラの、望むこと。
清一郎も、裕子や正孝と同じように、キラに生きていて欲しい。
患者が生きていること、医者としての彼が重きを置いていたのも、そこだった。
(だが、キラにとっては、どうなんだ?)
キラにとっての、『生きる』ということ。
今、目の前にいる彼女も生きてはいる。心臓が動き、呼吸をして。
だが、こんな状態が続くことを、意識を取り戻した彼女が望むだろうか。
ベッドの上でただ命を繋ぐだけの生き方で、キラは輝きを失わずにいられるのだろうか。
清一郎は目を閉じ、そしてまた開け、穏やかな寝顔を見せているキラを見つめた。
キラが、望むこと。
それは――
すがるような眼差しを注いでいる正孝と裕子に目を向け、清一郎は自分の考えを告げた。
状態は、芳しくない。
観察室のベッドに横たわる彼女は、一見、とても穏やかだ。
口の中に挿入されている管さえなければ、ただ眠っているようにしか見えないだろう。
だが、それは鎮静剤と鎮痛剤によってもたらされている穏やかさだった。モニターに映し出されている低めながらも不自然なほど安定した生命兆候も、人工呼吸器の設定を最大限まで上げて保たれているに過ぎない。
今、清一郎と岩崎は、昏々と眠るキラを挟んで彼女の両親と向き合っていた。
裕子は憔悴を隠せず、その手に握り締められているハンカチは絞ればぼたぼたと涙の雫を垂らしそうだ。正孝は妻の肩に手を回し、気丈に彼女を支えてはいるが、やはりその心の内は明らかだった。
「呼吸器を着けてからも、キラさんの容体は良くありません」
岩崎のシンプルで明確な言葉に、元々白かった裕子の顔から、更に血の気が引く。彼女の手を取った正孝を見返すことなく彼の手を握り返して、裕子はヒクリと喉を鳴らした。
「彼女の呼吸状態が悪くなった直接の原因は肺に水が溜まったことですが、その大元は心臓なんです」
そう言うと、岩崎はクリップボードに挟んだ紙に絵を描き始めた。それを見せながらキラの両親に説明を試みる。
「今までの説明の繰り返しになりますが――心臓というのは筋肉の塊で、血を送り出す為のポンプになっています。右と左の部屋に別れていて、全身を巡ってきた血が右の部屋に戻り、そこから肺に流れ、肺から左の部屋に戻ってくる。そして左の部屋から全身に送り出され、そしてまた右の部屋に戻ってくる。血がきちんと一方向に流れるように、その要所要所に逆流防止の弁が付いています」
岩崎はそこで一度言葉を切り、二人が理解していることを確認するように、両者の目を覗き込んだ。裕子も正孝も、解かっているというふうに岩崎に頷きを返す。
「キラさんの心臓は、この左の部屋の弁が閉まりきらなくなっている状態です。そうすると、全身に血を送れないばかりか肺の方へ血液が戻ってしまって、呼吸にも影響が出てくるわけです」
「だけど、その逆流というのは以前からあったのでは?」
青ざめた顔で、抑えた声でそう訊いてきたのは正孝の方だ。
岩崎は彼に向けて頷き、答えた。
「確かにありました。ですが、これまでは薬でまずまずコントロールができていたのです」
「それが、風邪のせいで悪くなってしまったということですか?」
「そうです」
「でも……治るんですよね? 今までだって、二回も呼吸器を着けたことがあったわ。もっとずっと小さくて、弱かった時に。でも、いつもキラは元気になったもの」
今回も大丈夫ですよね、と目で訴えてくる裕子に、岩崎は渋い顔を返した。
「状況は、難しいです」
彼のその言葉と共に、裕子の顔がクシャリと歪んだ。
「でも……だって……」
絶句する裕子の握り拳を、正孝の手が優しく、しっかりと包み込む。だが、彼女はそれにも気付いていないようだった。
「昨日から今日にかけて、心臓の機能が急激に落ちているのです。呼吸だけではなくて、心臓の方も補助をしてやらなければならないでしょう」
「じゃあ、早く――」
「準備をしているところです」
裕子の顔が、ホッと緩んだ。だが、岩崎は厳しい顔を崩さず、続ける。
「しかし、今をしのいでも、また以前の生活レベルに戻れるという保証もないのです。感染が落ち着いて肺から水を無くすことができれば、呼吸は改善するでしょう。ですが、心臓は――最悪、ベッドから起き上がれない状態になるかもしれません」
「そんな」
裕子が悲鳴のような声を上げる。彼女の思考は、もうろくに働きそうになかった。固まってしまった妻の肩に腕を回した正孝が、緊張した面持ちで岩崎を見つめる。
「この子が寝たきりだなんて……今までだって、散々我慢させてきたんだ。そんなのは……」
唇を噛んだ正孝を、岩崎は微かに目元を歪ませて見る。
「人工心肺装置を用いれば、心臓と肺の両方の機能を機械に肩代わりさせることができます。今のところは、それが最善の策です」
「なのに、それをしても、治らない?」
「治るかどうかは、彼女次第です。少なくとも、機械を着ければその為の時間を稼げます」
言外にある、それをしなければ死ぬという台詞を、両親は確かに聞き取ったのだろう。
実際のところ、生きられる確率を十%から二十%に引き上げる程度の代物ではあるが、それでもしないよりはマシだ。
「では、他に選びようがない」
即座に言った正孝に、岩崎は少しためらってから、続ける。
「ただし、合併症も多々あります。太い血管の中に管――異物を入れることになるので、その為に色々な問題が出てきます。今の風邪ではない、その機械を着けることで生じる感染症や、血栓で身体のどこかの血管が詰まったり、逆に血が固まりにくくなるので大事な臓器に大きな出血が起きることもあります。もしもそれが脳で起これば、脳梗塞や脳卒中を起こし、そのまま意識を取り戻さないということもあり得ます」
そこで岩崎の顔が曇りが一層深くなる。
「特に、今のキラさんの心臓はギリギリの状態ですから……感染が落ち着いて人工心肺から離脱したとしても、彼女自身の心臓に戻した途端に急激に状態が悪化する可能性もあります」
「危険、ですか」
肩を落とした父親に対して、岩崎は頷いた。医者としての仮面を身に着けた彼の表情はほとんど変わらない。だが、その目には苦悩がにじんでいた。
「危険です――正直言って、非常に。ですが、現状では、キラさんの命を救う可能性が一番高い方法です」
束の間、モニターと呼吸器の立てる規則的な音だけが部屋の中を支配する。
岩崎は身体の両脇で硬く両手を握り締め、裕子は焦点の定まらない目でキラの寝顔を見つめていた。正孝は右腕で妻の肩を抱き、左手で彼女の手首の辺りを撫でている。
沈黙は、長くは続かなかった。無駄にできる時間は無いからだ。
「あるいは、もう一つ」
再び口を開いた岩崎は、苦いものを噛みつぶしているような声で、もう一つの道を提示する。躊躇いがちなその口調は、提示はするが薦めはしないという心情がにじみ出ていた。
「――もう一つの手段は、このまま、待つことです。一番自然な形で、成り行きを見守る、という選択肢もあります」
清一郎はハッと岩崎の顔を見る。
それは、遠回しな看取りの薦めに他ならない。
彼がそんなことを切り出したことが、清一郎には信じられなかった。
確かに、今のキラは限りなく死に近い所にいる。だが、まだ諦めるには早過ぎる。
「岩崎――!」
声を荒らげた清一郎を、岩崎は目だけで制する。そうして、ベッドの柵に両手を突いてキラの両親の方へ少し身を乗り出して、告げた。
「キラさんは、これまでとても頑張ってきました。今の彼女は苦痛を感じていません。あくまでも選択肢の一つに過ぎませんが――」
「それなら、この子は、もう、苦しい思いをしなくて済むんですか……?」
か細い、裕子の声。
清一郎は突かれたように顔を彼女に向ける。
彼の鋭い眼差しには全く気付いていない様子で、裕子はキラの頬へと手を伸ばした。
「この三日――いえ、一週間は、多分、本当に苦しかったんだと思います。なのに、この子は私を見ると笑顔になって……。いつも、そう。私にはつらいところを見せないようにって、頑張って頑張って……私が、弱いせいで……」
「雨宮さん」
清一郎が呼びかけると、悲痛で虚ろな目が見返してくる。それは、まるで何年も、何十年も歩き続けてきたような、疲れ切っている者の目だった。
そして、岩崎の目の中にあるものは、労わりと同情だ。
(キラが言っていたのは、これか?)
岩崎は苦しむキラを見守る二人を、気遣っているのだろうか――キラの命よりも。あまりに家族に近付きすぎて、彼は客観的で冷静な判断ができなくなっているのだろうか。
(十六年耐えてきた家族を、もう解放してやるべきだと?)
今、この場を乗り切れば、また五年、あるいは十年、同じ日々が続くだろう。
いや、同じではない。
より悪い状態になる確率の方が、高い。
キラは、両親を彼女という錨から解き放つことを望んでいるのだろうか。彼女を諦め、次の一歩を踏み出すことを。
清一郎には、それが正しい事だとは思えなかった。
奥歯を噛み締めた彼の耳に、震える囁きが忍び込む。
「私は、私は――どんな形でもいいから、この子に生きていて欲しいんです。でも……」
裕子の声は、全く起伏が無かった。その声のまま、続ける。
「この子にとっては、どうなんでしょう。今をやり過ごしても、ベッドの上だけで暮らすようになることをこの子は望むでしょうか」
「そうなるかもしれないというだけだ」
強い口調で清一郎は彼女の頭の中にあるものを打ち消そうとする。
だが、裕子の気持ちが揺らいでいるのは、はっきりと伝わってきた。
清一郎は焦った。保護者である二人がそれを選択してしまえば、覆すことはできない。
(違う、まだ、他に選択肢はある)
そう思った時には、言葉が口を突いて出ていた。
「手術をすればいい」
「瀧?」
声を上げた岩崎を無視して、清一郎は裕子を、そして正孝を見た。
「今、キラの状態に一番強い影響を及ぼしているのは弁の逆流だ。人工心肺を装着し、その間に弁に対する手術を行えばいい」
「手術……それをすれば、この子はまた元のようになるんですか?」
正孝のその問いには、清一郎もすぐには答えられなかった。
「確証はない。ですが、そうなる可能性が一番高い方法だ」
「ならば、是非――」
勢い込んで頷きかけた正孝に、岩崎が割って入る。
「ちょっと待て――待ってください。確かに回復する可能性も高いが、今の彼女にはリスクも大きいだろう!?」
「どういう意味ですか?」
顔を引きつらせた正孝が岩崎と清一郎を交互に見やる。裕子も大きく目を見開いていた。
岩崎はわずかな逡巡の後、慎重に切り出す。
「今のキラさんの状態は、かなり悪い。手術をすれば、その間に命を落とすこともある、いや、むしろその危険の方が大きいかもしれません。手術をすることが命を縮めることも有り得るのです」
「成功すれば、またある程度動けるようにはなるけれど、ですか?」
確かめるような正孝の言葉に、岩崎は首を縦に振った。
上の空で夫婦が互いの手を探り、そしてきつく握り合わせる。
「どうするのが、キラにとって一番いいことなのでしょう」
震える声で、正孝が問うてきた。それに対して、岩崎は言い淀む。
「私は、人工心肺で彼女の回復を待つというのがベストだと思っています」
そこに確かな自信が無いことは、隣にいる清一郎にも伝わってきた。食い入るように岩崎を見つめている正孝と裕子も、当然気付いただろう。
二人の視線が、清一郎に移る。
「私には、もう何が一番良い方法なのか、判りません。何がキラにとって一番良い事なのか、どうするのが良い事なのか、私には判らないんです。私は、この子の母親なのに……」
裕子の声は途方に暮れていた。
清一郎は彼女の言葉を頭の中で繰り返す。
何が、キラにとって一番良い事なのか。
いや、違う。
清一郎は胸の中でかぶりを振った。
選ぶべきは――
(キラが一番望むことは、何なのか、だ)
仮に、岩崎が言うように積極的な手を打たずに回復を待つとしよう。
無事に今を乗り切れたとして、キラには大きな制限が課せられることになるだろう。いつか心臓移植ができればまた動けるようになるだろうが、その保証はどこにもない。
裕子が言ったように、何年続くか判らない、狭いベッドの上だけでの人生。
最悪、それで終わる。
もちろん、そうならないかもしれない。だが、そうなる可能性が、非常に高い。
(キラが、それを望むのか?)
そうは思えなかった。
では、手術をしたらどうだろう。
成功すれば、走り回ることはできないかもしれないが、少なくとも、ベッドからは起き上がることができるようになる。退院して家に帰り、もしかしたら、いや、きっと、学校にだって行けるようになるだろう。休日には、友達と遊びに行けるようにもなるかもしれない。
(だが、失敗すれば――?)
もしも手術中にキラが命を落とせば、あるのは、唐突な別れだ。何もかもが、突然終わる。看取る為の穏やかな時間も与えられず。
キラが眠りに入る直前、束の間言葉を交わしたあの時、彼女は何をどうするのかを清一郎に選んで欲しいと言った。
自分のわがままを通したいのだ、と。
(君は、僕に何を期待しているんだ?)
清一郎は静かに眠るキラを見つめて心の中で問う。
もちろん、返事はない。
彼女がどの選択肢を望んでいるのかが判らないから、ひたすら今までのキラの全てを思い出そうとした。
彼女が、今までどんなふうに言っていたのか。どんな時に笑っていたのか。
キラの喜び。
キラの哀しみ。
キラの嫌うこと。
キラの、望むこと。
清一郎も、裕子や正孝と同じように、キラに生きていて欲しい。
患者が生きていること、医者としての彼が重きを置いていたのも、そこだった。
(だが、キラにとっては、どうなんだ?)
キラにとっての、『生きる』ということ。
今、目の前にいる彼女も生きてはいる。心臓が動き、呼吸をして。
だが、こんな状態が続くことを、意識を取り戻した彼女が望むだろうか。
ベッドの上でただ命を繋ぐだけの生き方で、キラは輝きを失わずにいられるのだろうか。
清一郎は目を閉じ、そしてまた開け、穏やかな寝顔を見せているキラを見つめた。
キラが、望むこと。
それは――
すがるような眼差しを注いでいる正孝と裕子に目を向け、清一郎は自分の考えを告げた。
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