君が目覚めるその時に

トウリン

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君が望むこと-2

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 今度こそ部屋を出て行こうとする清一郎せいいちろうを引き止めた時は、ただ単に、名残惜しくてそうしただけだった。
 ただ、もう少しだけ傍に居て欲しかっただけ。
 それだけだったはずなのに、振り返った彼を見た瞬間、キラの口からはポロリと言葉がこぼれてしまっていた。

「もう一つ、お願いがあるんです」と。

(やっぱり、やめておけばよかった)
 そんなふうに思ったところで、後の祭りだ。
 キラはもう一度ベッドサイドに戻ってこようとしている清一郎をジッと見つめながら、どうしよう、何て言おうと頭を回転させる。けれど、何も浮かんでこない。
 明け方から苦しさが急に増して、それまで入れられていた個室からこの観察室に移された時、来るべき時が来た、とキラの中には半ば諦めの境地があった。
(誕生日、楽しみだったんだけどな)
 キラにとっては、毎年の誕生日は『もう次にはないかもしれないこと』だった。
 この一年も半分以上が過ぎて、また誕生日を迎えられそうな気がしていたのだけれども。

(瀧先生に、『おめでとう』って言って欲しかった)

 それは、叶う願いだろうか、それとも叶わぬ望みだろうか。
 小さいことかもしれないけれど、キラにとっては大事なことだった。
 岩崎から人工呼吸器を着けることを告げられて、泣きそうな裕子ゆうこと彼女の肩を抱く正孝まさたかに、「まただね」と笑って見せて。
 父から友達を呼ぼうか、誰か逢いたい人がいるかと訊かれた時、キラは首を振った。
 桃子とうこたちが到着するのを待っている時間はないことは判っていたし、すぐに来てもらえる場所にいる逢いたい人は、呼び付ける理由などないことが判っていたから。

 だけど。

 両親も岩崎も看護師も、皆出て行って無機質な観察室の中に独り残されて、キラは後悔した。
 素直に、彼に――清一郎に逢いたいと、言えば良かった、と。
 だから、ナースステーションの話し声をキラに聞かせない為に閉ざされていた観察室のドアがそっと開く音がして、静かに近付いてくる足音が聞こえた時、彼女の胸は喜びに震えた。もう言葉を交わすことはできないだろうと思っていた人と逢える、喜びに。
 カーテンをよけて清一郎がその姿を見せた時、そして目と目が合った時、死にそうなほどのこの息苦しさも、和らいだような気がした。

 相変らず、彼は言葉が少なくて。
 だけど、たとえ少なくても、その声を聴けただけでも、嬉しかった。

 清一郎を呼んでくれたのは、岩崎に違いない。
 岩崎は、キラが胸にしまいこんでいるこの想いを、知らない筈だった。彼女が特別に清一郎に逢いたいと思っているなんて、知っている筈が無かった。
(でも、もしかして、気付かれちゃってるのかな)
 キラは胸の内で呟いた。
 どういう理由を付けてなのかはわからないけれど、キラの為に、ここに来るように言ってくれたのだろう。
 キラは、この時間、清一郎が溢れんばかりの外来患者の対応に追われていることを知っている。いつも遅い時間まで仕事をしているのだ。
 そんな彼を、キラの状態のことを相談するだけだったら病棟まで呼び出したりしない筈。電話で済ましてしまう筈だ。
 それなのに、岩崎は、わざわざ清一郎をここに呼んだ。

(多分、わたしが逢いたいと思っているのがわかったから)
 キラの胸の中が、ほわりと温かくなる。
 岩崎の気遣いが嬉しかった。こうやって、足を運んでくれた、清一郎の優しさも。
 確かにこの身体はポンコツだ。けれど、この身体のお陰で、キラはとても多くのものも、手に入れることができたのだと思う。
 人の思いやりとか、優しさとか。
 あるいは、同じようにそういう気持ちを注がれていたとしても、健康な身体では気付けなかったかもしれない。この身体だからこそ、実感できているのかもしれない。
 逢いたい人に逢える、ただそれだけのことがとても嬉しく感じられるのも、この身体だからこそなのかもしれない。
 多分、それは幸せなことだ。他の人は気付けない喜びを、感じられるのだから。

 思わず笑ってしまったキラに、清一郎はいぶかしげな顔をした。
 確かに、これから人工呼吸器を着けられようとしているのに、笑っている場合ではなかっただろう。
 怪訝な顔をしている清一郎に、あなたと逢えたから嬉しくて笑ってしまったなんて言えなくて、さっきまで自分の誕生日のことを考えていたキラは、何となく彼の誕生日について訊いたのだけれども。

 彼は、『来年』と言った。
 キラにそれが訪れることを、みじんも疑っていない声で。
 それが、嬉しかった。嬉しくて、キラは自分の未来を彼に委ねた。
 多分、嬉し過ぎて頭の中のネジが一本飛んでしまったのだと思う。

「もう一つ、お願いがあるんです」

 その台詞で律儀に戻ってきてくれた清一郎を見上げると、キラの胸はキュッと縮まった気がした。
「何だ? 岩崎たちが待っている。何かあるなら早く言え」
 眉間に皺を寄せて、彼はいつもと同じような顔、いつもと同じような口調で言う。
(やっぱりいいですって言ったら、黙って出て行ってくれる?)
 多分、清一郎は出て行くだろう。
(でも、それで後悔しない?)
 多分、キラは後悔するだろう。
 何も言わずに終わらせてしまっての後悔と、行動に移してしまっての羞恥。
 キラは、頭の中でその二つを天秤にかける。
(もう、ホントに、これで最期かもしれないし!)
 そんなふうに心の中で葛藤しているキラを、清一郎は無言で見下ろしてくる。
(もしもまた目を覚ますことができたら、あれは酸素不足と二酸化炭素中毒のせいでしたって逃げ切ろう)
 そんなふうに自分に逃げ道を与えておいて、キラは小さく深呼吸する。

 そうして、一、二の、三で切り出した。

「あの、……あの、キス、してくれ、ません、か?」

「――は?」
 思い切り怪訝な、清一郎の顔。

 もう、一度言ってしまったのだから、なかったことにはできない。突進あるのみのキラは、もうひと押しを付け加える。
「したいことの、一位、なんです」
 清一郎の凝視がイタイ。
(引いた? すっごい、引いてる? ……やっぱり、ムリだよね)
 けれど、もしも、もう、目を覚ますことが無いのかもしれないなら、経験しておきたい――好きな人との、キスくらい。
 その瞬間、キラの胸の中に、何かがストンとはまり込んだ気がした。

(そう、これが、きっと、『好き』という気持ちなんだ)

 キラは、はっきりとそう自覚する。何となく、既視感があるのは、もうだいぶ前からくすぶっていた気持ちだからなのだろうか。
 お手本があるわけではないから、もしかしたら違うのかもしれない。でも、今まで抱いたことのない気持ちは、特別な何かだ。名前を付けるとしたら、『好き』しかないのではないかと、キラは思う。
 好きだから、彼には他の人には話せないようなことを言えたのだろうか。
 それとも、他の人には話せないようなことを話していたから、好きになったのだろうか。
 どちらかは判らない。
 そのどちらでもないのかもしれない。
 けれど、キラにとって彼が『特別』なのは確かだった。
 きっと、清一郎が、キラが好きになった最初で最後の人になるのだろう。他に、こんなふうに想える相手ができるとは、思えなかった。

 ジッと清一郎の返事を待つ時間は、そんなに長いものではなかった筈。長ければ、岩崎なり看護師なりが、何をしているのかと覗きに来ただろうから。でも、その時間は、キラには一時間にも一日も感じられた。
 眉間に深いしわを刻んだ「何を言っているんだ」という声が聞こえんばかりの清一郎の眼差しに耐えられなくて、キラは顔を伏せる。

 と、そっと、頬が温もりに包まれた。その感触に、キラは「あれ?」と思う。

 清一郎がキラに触れるとしたら、抱き上げるとか、脈を取るとか、慰める為とか、そんな実際的な理由がある時ばかりだった。この触れ方は、そのどれとも違うような気がする。
(気のせい?)
 それはもっと、親密な感じだった。
 彼がこんなふうに触れてきたことはない筈だ。ない筈なのに――何故かキラは、前にも同じような温かさを感じた事があるような気がしてならない。しかも、ごく最近。

(だけど、いつ、どこで……?)
 そんな戸惑いを覚えていたから、頤を持ち上げられて、抵抗する間もなくスッとキラの顔が上がってしまった。
 清一郎の手は大きくて、片手で彼女の顔を覆いきれそうだ。
 優しい力なのに抗えなくて、キラは為す術もなく、真っ直ぐに清一郎の目を見つめた。
 いつも生真面目な、厳しいとすら思えそうな、彼の眼差し。
 不意に、それが、和らぐ。
 彫刻のような硬い顔が緩んで、どこか諦めを含んだような、何かが肩からするりと落ちたような、そんな感じで、引き結ばれていた彼の唇が微かにほころんだ。

(――笑った……?)

 キラはパチリと瞬きをする。
 清一郎の口元に浮かんだのは、確かに笑みだった。それは一瞬で消えてしまったけれど、キラには自分の思い違いだとは思えなかった。

 そして、彼が言う。
「……君が退院したら、してやる」

 幻聴かと、思った。

「え?」
 目を白黒させたキラが問い返す隙を与えず、彼は手を離し、振り返りもせずに出て行った。
 呆気に取られた彼女は、閉まったドアを見つめる。
 一瞬、『逃げ』のつもりで彼はそう言ったのかと思った。
 けれど、すぐにそれを打ち消す。清一郎は、けっしてごまかしたり逃げたりする人ではないから。

「あは」
 思わず、キラの口から笑いがこぼれた。そして、目からは涙が。

 清一郎が出て行くのを待っていたように、入れ替わりで岩崎たちが入ってくる。彼はクスクスと笑いながら泣いているキラに眉を微かに上げたけれど、何も言わずに処置の準備を進めていく。
 てきぱきと動く彼らを視界の隅に納めつつ、キラは清一郎との会話を思い返していた。
 キラは毎年誕生日が来るたびに、今年が最後かもしれないと思っていた。けれど清一郎はそれを易々と蹴飛ばした。
 キラは今眠りに就いたら、もう目覚めないかもしれないと思っていた。けれど清一郎は、彼女が退院する日が来ると至極当たり前のことのように考えている。

「じゃあ、眠る薬を入れるぞ」
「はい」
 岩崎の言葉に頷いて、キラは目を閉じる。
 点滴が入っているところが麻酔薬でチクチクと痛んだ。キラは唐突に遠のいていく意識の片隅で思う。
 誕生日のこともキスのことも、清一郎は必ず『次』があると思っている。

 キラは、決めた。
 彼がそう信じているのなら、わたしも信じよう。

 ――わたしは、また、目覚める、と。
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