君が目覚めるその時に

トウリン

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青天のへきれき

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 鏡の中から、まだ半信半疑の色を浮かべた眼差しが見返している。
 半分――いいや、四分の三くらいは疑いが占めているだろう。
 キラは最後に制服のリボンを結んで、もう一度、鏡で自分の姿を確認した。とは言っても、病室の入り口に備え付けられた洗面台では胸から上しか見えないけれど。

 高校の制服は、グレイのブレザーに、タータンチェックのプリーツスカートだ。襟には大きめの藤色のリボンを結ぶことになっていて、キラは一番このリボンが気に入っていた。
 今の高校を選んだ理由の一つは、制服にある。私服の高校もあるけれど、中学校の制服もほとんど着られなかったから、絶対、制服がある高校にしようと決めていた。

(まあ、それもあんまり着られなかったけど)
 内心でそう呟いて、キラは小さく苦笑する。

 この前着たのは、夏服だった――入院してからも、しばらくの間は、もう一度着られると思っていた。それがだんだん、「着られるといいな」になって、「無理かもしれないな」になって、いつの間にか「無理だろうな」になっていたのはずいぶん前のことだ。
(あの頃は、プリーツスカートって暑いなって、思ってたんだよね)
 今はもうとっくに衣替えは済んでいて、そろそろ、ブレザーだけでは風が冷たく感じられる時期にも差し掛かっている。
 冬服はいつものパジャマとカーディガンよりもズシリと重くて少し怠くもあるけれど、それでも、この上下を身に着けられて、嬉しかった。
 この制服をもう一度着られるとは、思っていなかったから。

 もしかしたら、今、夢を見ているのかもしれない。
 この期に及んでもまだ信じきれなくて、キラは鏡の中の自分をしげしげと見つめる。
 そう、また制服を着られるとは思っていなかったし、文化祭に出られるとも思っていなかったし、ましてや――
「キラ、支度はできた? たき先生がお見えになっちゃうわよ?」
 そう、清一郎せいいちろうが付いてくるなんて。
 ベッドサイドにいた裕子ゆうこがいつの間にかすぐ傍まで来ていて、キラを見下ろしていた。
「あら、後ろ、少しハネてるわよ?」
「え、うそ」
 裕子に言われて頭の後ろに手をまわして触ってみるけれど、キラの髪は腰がないのでそうしてみても手ごたえがなくてあまりよく判らない。

「ベッドにお座りなさい、直してあげる」
 クスクスと笑いながら、裕子が手招きした。ベッドサイドには父の正孝まさたかもいて、久し振りのキラの制服姿に目を細くする。
「前よりも似合ってるな」
「それは、ちょっとは大人っぽくなったっていうこと?」
「あら、元々良く似合ってたわよ」
 娘をからかう正孝を冗談半分で睨み付けた裕子がまとう空気は、朗らかだった。

 母は、ここ最近、表情が明るい。
(この間の検査結果の説明のお陰かな)
 少し前まではむしろ沈みがちというか、何か考え込んでいるように見えていたのが、ちょうどその頃から、不意に軽くなった。元々気分の浮き沈みが激しい人だからその一環なのかと思っていたけれど、それとは少し違う気がする。
 裕子が無理に明るくしていると、ピリピリした空気が漂ってきてキラは何となく落ち着かない気分になるのだ。
 今の母の明るさは、それとは違っていた。

 横目で窓の外を見やると、きれいに晴れ渡った秋空が見える。裕子の笑顔は、その空のようだった。
(なんか、変な感じ)
 母が嬉しそうだとキラももちろん嬉しいのだけれど、文化祭への許可といい、変わらない日常に突如入り込んできた変化に、少々戸惑ってもいた。
「結構、髪が伸びたわね」
「あ、うん。前に切ってからずいぶん経つから……」
 そう言ってしまって、キラは「あ」と思った。立っている正孝の身体も、心持ち強張る。
 美容院に行けずにいたというのは、それはすなわち、入院していたからで。

 いつもなら、ここで裕子の「ごめんね」がやってくる。
 入院させてごめんね。
 病気にさせてごめんね。
 裕子のせいではないのに、母はいつも自分を責めるのだ。

 身構えたキラの耳に、しかし、予想していたものではない台詞が届く。
「今度、ママが切ってあげる。あ、でも、伸ばしてもいいかもね」
「え……あ、うん、そうだね、伸ばしたらちょっとはオトナっぽく見えるかな」
 キラの毛先をもてあそびながらのその言葉に拍子抜けしつつもそう返すと、裕子の笑みが深くなる。
「今でも充分可愛いわ」
「目指してるのは、『可愛い』よりも『美人』なんだけどな」
 唇を尖らせたキラに、裕子は、クスクスと笑った。
 その笑い声はとても穏やかで、キラの胸の中がほわりと温かくなる。そちらに目をやらなくても、正孝の肩からも力が抜けたのが感じられた。
 不意に、涙腺が緩みそうになって、キラは忙しなく瞬きをする。そうして、少し伏せたまつ毛の陰から、そっと裕子を窺った。

 母のことは大好きだけれども、一緒にいると、必ず微かな緊張がまとわりついてしまうことも、否定はできなかった。自分の何気ない一言が、大きな傷をもたらしてしまうかもしれないから。
 キラが少しでも否定的なことを口にすると、裕子にはそれら全て「私のせいだ」と言われてしまう。決してそんなことはないのに、キラはほんの少しもそんなふうに思ったことはないのに、裕子にとって、キラに起きた――あるいはこれから起きる全ての悪いことは、『私のせい』なのだ。
 大好きな人にそんなふうに思わせてしまうことが、キラは嫌だった。
 だから、『地雷』を踏んでしまわないように、いつも気を張っていたのだけれど。

 そう言えば、思い返す限り、ここしばらく裕子の口からの「ごめんね」の一言を聞いておらず、その表情もいつになく明るく、軽い。
(文化祭のことと言い、何かあったのかな。この間だって、何にも言わなかったし)
 ムースをつけながら優しく髪を撫でつける裕子の手を感じながら、キラは三日前のことを思いだしていた。

 それは、いつものように検査の結果を説明し、今後の方針について話し合うものだった。キラとしては、それほど期待はしていなかったのだ。まあ、悪くなってなければいいな、というくらいのもので。
 何回となく訪れた結果説明を受ける為の部屋に入った時、そこにいつものメンバー――岩崎と病棟の看護師――以外の者がいることに気付いて、キラは思わず首をかしげてしまった。
「何で、瀧先生?」
 思わず、素直な気持ちが口からポロリとこぼれてしまって、「あ」と口を塞いだ。
「まあ、ちょっとな。いいから座りなさい。お母さんが入れないだろう」
 岩崎に苦笑混じりにそう言われ、慌てて彼女は椅子に腰を下ろしたのだった。

 こんなふうに『いつもと違うこと』があると、裕子は不安定になる。隣に座った母をキラはそっと窺ってみたけれど、全然変わった様子のない、至極落ち着いた微笑みを返されて、これまたキョトンとしてしまう。
「特に変わり映えのしない事だからさっさと言ってしまうけどな、結果は変化なし、だったよ」
 岩崎はキラには言葉でそう告げて、裕子には穏やかな笑顔を向けた。
「退院はできないけどな、外出は、許可しようと思う」
「……え?」
 予想外な台詞を聞かされ、キラは眉根を寄せる。そんな彼女に、岩崎は真面目な顔で続けた。
「文化祭、行きたいんだろう? 外出許可を出すから、行っておいで」
「でも、だって……いいんですか?」

 検査結果は横ばいだとしても、普段の生活での感触から、まず無理だろうなと思っていたのだ。キラは岩崎を見て、母を見て、チラリと清一郎に目を走らせた。
 そんな彼女に、岩崎が付け加えた――どことなく、愉快がる色をその目に潜ませて。
「いいよ。ただし、付き添いありだ」
 それは、そうだろう。
 キラはコクリと頷いた。何の疑問もなく。
 と、岩崎はにっこりと笑って隣の席の人物を示したのだ。
「彼が、付いていってくれるから、安心してください」
 彼のその言葉は、今度は裕子に向けたものだ。目と口を丸くしているキラには、いたずらが成功した子どものように輝く眼差しを注ぎながら。

「え、でも――」
「僕が同行するのは迷惑か?」
 オタオタと口ごもるキラに、それまで黙っていた清一郎がむっつりとした口調でそう訊いてくる。
 そうではなかった。そんなことは、ない。
 けれど、あまりに想定外の話の流れに、キラの思考は停止してしまっていた。
「だって、お仕事は――」
「その日は当直ではないし、午後からならば行ける」
「でも、せっかくの日曜日なのに――」
「構わない」
 ぶっきらぼうな清一郎の言い方からは、果たして迷惑がっているのか、そうでないのか、その真意を読み取ることは難しかった。
 それを素直に受け取ってしまってもいいものか決めかねて、キラは岩崎に目を向けた。そうすると、彼は笑って、言ったのだ。

「何、こう見えても、彼は好奇心が旺盛なんだ。今どきの学生の文化祭を覗いてみたいんだとさ」
 ――信じられない。とてもではないけれど、その言葉を鵜呑みにしてはいけない気がする。
 キラはもう一度岩崎を見て、そして清一郎を覗き見たのだけれど。
 結局――

「ねえ、キラ?」
 不意に背中から声をかけられて、キラはハッと物思いから引き戻された。
 気付けば裕子の手が止まっていて、いつの間にかキラの寝癖直しは終わっていたようだ。
「あ、ありがとう。……何?」
 つっかえ気味に言いながら振り向いたキラが見たのは、ブラシをもてあそんで俯いている裕子の姿だった。
(やっぱり、今更心配になってきたのかな)
 そもそも、この文化祭参加を母が許してくれたのが、キラには信じられなかった。岩崎や清一郎が良いと言ってくれても、裕子は絶対にダメだと言うだろうと思っていたから。

 母にごねられたら、それを押し切れるほどの意志を、キラは持てない。
(仕方ない、か)
 諦めで肩が落ちてしまうのは、隠せなかった。

 けれど。

 手の中のブラシから顔を上げて、裕子がキラを見る。そうして、小さく息をついてから切り出した。
「ねえ、キラ、ママが……ごめんねって言うの、嫌だった?」
「え?」
 話のつながりが全然見えなくて、キラは目を瞬かせる。裕子の口元に淡い微笑みが刻まれているけれど、目は沈んでいる。
「裕子、何を――」
 妻のパニックが始まる前に取り成そうとする正孝を目で制して、裕子はジッとキラを見つめてきた。

「あのね、ママ、いつもあなたに謝ってたでしょう? あれ、嫌だった?」
 裕子が、もう一度訊いてくる。
 何故、今さらそんなことを。
 キラは戸惑った。
 裕子の「ごめんね」は、ほとんど枕詞のようなものだ。少なくとも、三日に一度は耳にする。
 もう、すっかり耳慣れてしまったものだ。

「そんなこと――」

 ないよ。

 そう続けようとして、キラの舌が止まる。
 確かに母親のその言葉はもうすっかり耳には馴染んでしまったけれど、心には、そうではなかった。
 裕子が「ごめん」と言うたびに、それを受け止めるキラにはチクチクと何かが刺さるような疼きがもたらされる。いつも、謝られているのに、同時に責められているような気がしていたのだ。
 キラは目を上げた。母は両手でブラシを握り締めて、キラを見つめている。
 ごまかして、なだめるのは、簡単なことだ。いつも、そうしてきた。

 でも――
「ちょっと、いやだったな」
 小さく笑いながら、キラはそう答えた。
 その返事に、裕子は微かに息を呑み、そして、吐いた。正孝が彼女の両肩に手をのせて包み込む。
「そう……」
 コロリと零れるように、裕子がそう呟く。

 少しうつむいている母の目を見ることは、できなかった。
 裕子が何を思っているのか察することもできなくて、キラはシーツを握り締めて息をひそめる。その拳に力が入っているのに気付いたように、ふと裕子の顔が上がった。
「変なこと、言っちゃったわね。ごめ――あ……」
 言いかけて、母は苦笑する。
「つい、出ちゃうわね」
 裕子は苦笑を柔らかな微笑みに変えて、キラの髪に手を伸ばしてくる。そうして、彼女の猫っ毛をそっと撫でつけた。
 その優しさに胸が締め付けられて、思わずキラの口が開いてしまう。言うつもりのなかったことを、こぼしてしまう。

「ごめんねって言いたいのは、わたしの方なんだよ? わたしが病気だから――」
 彼女の言葉に、裕子は大きく目を見開いて聞き入っていた。言い淀んでやめようとしたキラを、その眼差しで促してくる。
「わたしが元気な子だったら、もっとママを笑わせていられたのかなって……ママがわたしにごめんねって言いたくなるのは、わたしのせいでもあるんだよね」
 それは、自分がそんなふうに思っているという事を知られたら、裕子を傷付けてしまうだろう。そう思って、胸の中に閉じ込めていたことだった。

 きっと、今にも母は泣き出す筈だ。そうして、「ごめんね」を連発して。
 キラは唇を噛んで身構える。
 裕子が漏らす、嗚咽に。

 が。

 くすり。

 キラの耳に届いたのは、小さな忍び笑い。それはくすくすと続いて、彼女はポカンと裕子を見返した。正孝も、その両肩を握り締めたまま、予想外の妻の反応に呆気に取られている。
 そんな二人の前で裕子は微かな吐息を漏らし、そして呟く。

「私なんかよりも、まだ出会って数ヶ月の人の方が、よほどあなたのことを解かってくれてるのね」
「え?」
(誰のこと?)
 キラの頭の中は疑問符でいっぱいになったけれども、その奥深くに、裕子が言っている人物の姿がおぼろげながら浮かんでいた。裕子の呟きで、何となく、その人が脳裏に現れたのだ。

 続いた裕子の言葉にキラは気を取られてしまって、その影のような姿は確かなものになる前にかき消されてしまった。
 裕子は明るい苦笑を浮かべながら、言う。

「ううん。ごめんね――って、やっぱり出ちゃうわね。でも、もう私自身を責める為には、使わないようにするわ」
「ママ……」
「嫌だわ。私、あなたに申し訳ないと思いながら、きっとそれ以上に私自身を憐れんでたのね。……あなたは、頑張ってくれてたのに、私は逃げちゃってたんだわ。皆優しいから、そのぬるま湯にどっぷり浸ってしまっていたのね」
 囁きは、悲しそうでもあり、何かを吹っ切ったようでもあった。
「裕子」
 正孝が、彼女を力付けるように、肩の上の手にギュッと力を込める。彼の手に自分の手を重ねて、裕子はキラを見つめた。
「すぐには変われないけど、変わるように努力するわ」

 初めて、母とちゃんと目を合わせた気がする。
 キラは滲んだ視界を強い瞬きですっきりさせた。
「ママは、ママでいいよ。……でも、うん……笑顔をもっと見られると、嬉しいかな」
「そう……そうね、ええ」
 そう答えて、裕子が唇をほころばせる。まだ少しぎこちなさはあるけれど、それは紛れもなく、笑顔だった。
 キラもつられるようにして笑みを返す。
 と、裕子の視線がキラから外れて、彼女の後ろへと向けられた。
「ああ、ほら、来てくださったわ」
 母の言葉で振り向いて、病室の入り口に佇む大きな姿を目にしたキラの胸が、何故がキュッと締め付けられた。

「用意はいいのか?」
 そう言いながら、広い歩幅で彼が――清一郎がベッドに近寄って来る。
「あ、はい、いい、です……」
 答えるキラの声は、ドンドン尻すぼみになってしまった。
 そう言えば、制服姿を見られるのは初めてだ。清一郎の目を真っ直ぐに見ることができなくて、何となく顔を伏せてしまう。
(何でこんなにドキドキするんだろう)
 文化祭に行けるという興奮のせいかもしれない。きっと、そうだ。
 そんなふうに、自分を納得させる。いや、納得させようとしたけれど、あまり成功したとはいえなかった。
「支度ができているなら、行くぞ」
 ベッドサイドまで来た清一郎は、そう言って座ったままのキラに向けて手を差し出した。ごくごく自然な仕草で。

(これは、その手を取れっていうこと?)
 どう動いたらいいのか判断に困って固まったままでいるキラに、彼は眉をひそめる。
「どうした?」
「あ、いえ、何でもない、です」
 答えつつ、キラは清一郎の手に自分のそれを重ねた。彼はまるで卵でも包み込もうとしているかのように、やんわりとキラの手を握り締めてくる。そうしてそっとその手を引かれた彼女は、ふわりとベッドから立ち上がらされた。
 清一郎といると、キラはいつも思う。
 こんなに大きくてごつくて無愛想なのに、どうしてこんなに優しく触れられるのだろう、と。
 ――何だか、急に頬が熱くなってきた。
 それをごまかすように振り返ると、裕子が嬉しそうに微笑んでいる。

「いってきます」
 自由な方の手を上げて、キラは両親に向けて小さく振った。
「いってらっしゃい」
「キラを、お願いします」
 頭を下げる裕子と正孝に、清一郎は小さな会釈を返す。
「お預かりします」
 その言葉と共に、キラの手を包む彼の手に、心持ち力が込められる。
 ――それに対してどう反応したらいいのか、彼女には判らなかった。
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