君が目覚めるその時に

トウリン

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神様はいない-1

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「出て行け!」
 怒声と共に、ベッドサイドに立つ清一郎せいいちろうにプラスチック製の吸い飲みが投げ付けられる。入れられてから数日経っているお茶は濃縮されており、彼の白衣に褐色の染みを付けた。
 吸い飲みを投げた男はギラギラと光る目で清一郎と睨み付け、唸るような声で憎々しげに言葉をぶつけてくる。
「どうせ死ぬなら、家で死なせてやりたかったんだ! それなのにお前が! こんな管だらけにしやがって!」
 そう言いながら男が腕を振って示した先に横たわっている肉体からは、すでに命は失われていた。鎮静剤を投与されたまま逝った顔に、苦痛の色はない。だが、腕にも首にも何本もの点滴の管が入れられ、口にはまだ挿管チューブが残っている。
「こいつは、自分の家の、自分のベッドの上で穏やかに逝かせてやる筈だったんだ。こいつは優しくて怖がりなんだ。だから、私たちで手を握って、怖くない、大丈夫だと、そう言いながら送り出してやらなきゃいけなかったんだ。それなのに――!」
「あなた……」
 激昂する男に、ベッドに顔を伏せていた女性が顔を上げた。その頬も、男と同じように涙で濡れている。

 亡くなったのは、山口聡やまぐちさとしという名の二十代半ばの患者だった。
 男は彼の父親、女は母親だ。二人が四十歳を過ぎてから授かった子どもだったから、彼らの年齢はもう七十近い。にも拘らず、男の感情は激しかった。
 清一郎は無言で深々と頭を下げると、怒りと――悲しみに燃える初老の男性の視線に背中を貫かれながらその部屋を出る。
 つい今しがた彼が臨終を宣告したのは、三週間ほど前から入院していた心房中隔欠損症を有したダウン症候群の男性だった。循環器内科外来を受診したのはその時が初めてだったが、すでにもう病状は進みきっていたのだ。

 心房中隔欠損症自体は、けっして致命的な疾患ではない。十年早く受診し、治療を受けていれば、何の問題もなく根治していた筈だ。だが、彼は定期的な診察を受けないまま放置され、清一郎が診た時にはもう手術ができないほどに合併症が進行してしまっていたのだ。
 両親は、彼を外来には連れてきたものの入院させる気はなく、そのまま帰ろうとした。それを引き止め、渋る二人を説得して入院させたのは清一郎だった。
 彼には、聡を黙って帰すことはできなかった。そうすれば数日ともたないのが明らかだったから。

 その後も病室や廊下で顔を合わせる度に退院を希望する父親を、その都度清一郎が説得した。治療を進めて、次第に効果が出始めていたのだが、入院から二週間強が過ぎた頃から容体が悪化し、そこからはあっという間に重度の心不全に陥った。
 清一郎は、できる限りの行為を彼に施した。そうして、何とか持ち直したと思えたのだ。だが、一時小康状態になったかと安堵して、丸二日間付きっ切りだった父母を家に帰した途端に、再び急変。慌てて引き帰してきた両親が病院に着くのと同時に、まるで彼らを待っていたかのように、息を引き取ったのだ。

 真っ直ぐに前を見つめながら、清一郎は廊下を歩く。
 そうしながら、自問した。

 自分の行動は最適のものだったのだろうか、と。

 外来で初めてこの患者と顔を合わせた時、彼はむくみで顔を腫らしながらも楽しげに笑っていた。両親も、幼い子どものように振る舞う大きな息子を、心配そうに、だが愛おしそうに見つめていた。
 彼の検査結果を目にした時、微かな迷いを覚えたことは、確かだ。
 入院させて徹底的に治療をするか。
 それとも、外来でごまかしごまかし最期の時が来るのを先延ばしにするか。
 一瞬迷い、決断した。

 彼を生かす為にできる限りのことをするべきだ、と。

 聡が八十歳の老人なら、家に帰していただろう。あるいは、親に疎まれていたりしていれば。
 だが、そうではなかった。
 彼はまだ二十五歳だったし、親にも愛されていた。
 まだ死ぬべきではないと思ったし、死なせてはいけないと思ったのだ。
 それなのに聡は死に、しかもその死は両親が望んでいた形にはならなかった。
(彼らにとって最も正しい道は、どうすることだったのだろう)
 そう自分自身に問いかけながらも、何度同じ場面に遭遇したとしても、やはり同じ決断を下すだろうという確信が清一郎にはあった。

 自分の決断に後悔は無い。
 後悔は無いが、疑問は湧いてくる。
 これは、選択をしたからには必ず付いてまわることだ。
 良くない結果になった時には、もっといい方法があったのではないだろうかと。
 良い結果になった時にも、更に良い結果を導く方法があったのではないだろかと。
 もちろん、その時点で清一郎が考え得るベストの治療を選ぶ。
 だから彼は自分が決めて実行したことを否定したことはない
 しかし、そうかと言って満足はできず、疑問を抱く。
 そうなるのは以前からのことだったが、その中に、最近はかつてとは違う何かが忍び込み始めているような気がする。
 彼が抱く疑問は、以前は、単純に、医療行為の正しさのみにたいしてのものだった。治療が正しかったのかどうかという、一点だけ。
 新たに混じり始めたその何かが何なのかは、モヤモヤとしていて掴めない。それだけに、清一郎はいっそう気になった。
 ――今回の結果は、望み得る範囲で最良のものだったのだろうか、と。

 患者や家族に検査の結果や疾患についての情報を伝え、選択できる道を提示して彼ら自身に選ばせるという手もある。同僚にも、「そう希望したから」と患者や家人が決断するに任せる者は多い。清一郎が自分の我を押し通すのを見て、「訴訟になったら大変だろう?」と言ってきたりもする。
 患者のニーズに応えるという点では、確かにその方法が良いのだろう。
 今回も、父親が帰らせろと言ったのだから、その時点で治療を中断して退院させていればあの怒りと悲嘆はなかったかもしれない。
 しかしそうしていたら、今度は息子の寿命を縮めた罪悪感に父親は苛まれていたかもしれない。
(どれが一番正しい選択なのだろう)
 黙々と考えながら、彼の足はその行先に迷うことなく動く。

 六階の病棟を出ると半ば習慣のように二階にある外来に顔を出して、問題がないことを確認するとそのまま踵を返して階段へ向かった。
 十一階分の階段を殆ど息を切らすことなく上りきり、少し重い扉を押し開ける。
 十月の秋晴れの空はイヤになる程蒼く透き通っていた。その下で起きている様々な事柄など天気とはまるで関係がないのだとは解かっていても、何となく腹が立つ。
 苛々する気持ちを紛らわせようと、清一郎は胸ポケットを探った。取り出した箱の底をトンと叩いて、跳び出してきた煙草を引っ張り出す。
 火を点けて、そこから立ち昇る細い煙を見つめた。

 紫煙を吸い込むのは、随分と久し振りだ。この屋上に来たことは何度かあったが、最後に煙草を喫《の》んだのは三、四ヶ月は前のことのような気がする。
 そう過去を振り返ってみて、その『最後』もあの少女に邪魔されたのだったという事に気が付いた。元々煙草の常用者ではないものの、それでも一月に一度くらいはやっていたものだったが、キラと初めてここで顔を合わせてからぱったり無くなっていた。
 ふと、聡が彼女だったら自分はどうしていただろうかと考えた。
 あるいは、彼女が聡だったら、清一郎に何を望んだだろうかと。
 聡自身が意思表示をすることができ、彼自身の口で退院を強く希望していたら、もしかしたら清一郎もそれを許可していたかもしれない。だが、実際は聡にその知的能力はなく、清一郎は親の考えよりも医者としての判断を優先した。

 けれど、もしもキラが相手だったら、どうするだろう。彼女はどうして欲しいと言うのだろう。
 とことんまで生きる為に足掻くのか、それとも最期の自由を望むのか。
 どちらも有り得そうだった。
 ――有り得そうだと思い、彼はブルリと身を震わせる。
 そんな選択など、したくはなかった。考えたくもなかった。
 だが、考えないわけにはいかないのだ。それは単なる仮定の話ではない。何十年と先の話でもない。いずれそう遠くない未来で起こり得る、現実なのだから。
 考えたくなくても、考えなければならない。

(その時、僕はどうするだろう)
『患者』に対してなら、『医師』として迷わず延命を図る。

(だが、キラはそれを望むのか?)
 そして、『医師』ではない『瀧清一郎』としては、どう考えるだろう。

 彼はキラが語る言葉を聞いてしまった。彼女の心を覗いてしまった。
 今までは、患者とそんなふうに近付いたことはなかったのだ。だからこそ、冷静で正しい判断を下せていた。
 キラも岩崎も、もっと患者と話をしろと言う。
 だが、そうすればするほど、医者としての判断に狂いが生じてきてしまう気がした。
 清一郎は二本の指で挟んだ煙草から、屋内へつながる扉へと目を移す。
 何故そちらを見てしまったのかは判らない。だが、ゆっくりと短くなっていく煙草をそのままに、彼はぼんやりとそこを見つめていた。

 と。

 清一郎は、微かに目を見張る。
 ゆっくりと開いた、扉に。
 そしてそこから顔を覗かせた、少女に。
 予想だにしていなかった彼女の登場だったけれど、何故かそれを待っていたような気がするのを、彼は否定できなかった。
 少女は――キラは、キョロリと屋上を見渡し、フェンスに寄りかかっている清一郎を見つける。そして、彼と目が合った瞬間、パッと笑顔になった。
 その笑みにトンと胸を突かれたような心持ちがして、清一郎は思わず身体を起こして真っ直ぐに立つ。
 そんな彼に、キラはゆっくりと近付いてきた。
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