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あなたが何と言おうとも

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 束の間優人ゆうとに向けられたその眼は、すぐに膝の上に置かれた唯香ゆいかの手に落ちる。彼女は眼差しからこぼれる何かを受け止めようとするかのように、ギュッとそれを握り込んだ。

「もちろん、妹の死がわたしのせいだなんて思うほど、短絡的じゃありません。要らないって言っただけで人が死んでいたら、人類が滅びちゃいますからね」
 唯香は小さく笑った。愉快そうな響きが欠けた声で。
 そんな笑い方を彼女にして欲しくなくて、優人は苛立ちを覚える。
「それが判っているなら、どうして……」

 認知の歪みに気付いているのなら、修正したらいいではないか。
 彼にとっては自明極まりないことだ。
 だが、唯香は小さくかぶりを振る。

「思っていることや考えていることと、感じてしまうことは、別でしょう? わたしも、同じことを言う人が目の前にいたら、あなたは悪くないって、言うと思う。でも、わたしはあの子のことを恨んで、妬んで、ひどいことを言って……あの子はいなくなってしまった。それは事実。あの時、あの瞬間、たとえほんの一瞬だったとしても、わたしが妹のことを拒絶してしまったということは、わたしの頭の中から決して消えないんです。あんなことを言ったわたしを、わたしは、赦せない」
 そこまで淡々とこぼされていた唯香の声が、最後の一言で、わずかに震えた。それを止めようとするかのように、彼女は大きく息を吸い込む。

 優人は、何か言葉を返したかった。
 あるいは、言葉以外の何か――彼女を温められるような、それに近い何らかの行動を取りたかった。

 が、手も口も、動かせない。

 そんな自分に苛立つ優人の前で、唯香が唐突に伏せ気味だった顔を上げる。発せられた声は、少し高くて、不自然に、明るい。
「多分、両親はまだ立ち直っていないんです」
「……もう十年も経つのに?」

 急な話題転換への違和感と、この話はこれからどこに向かうのだろうという若干の戸惑いで眉をひそめつつ返した優人に、唯香がうなずく。
「十年も経つのに。今でも、実家の食卓には、妹の分の食事が並びます。優人さん、前に、わたしに何でもっと楽しもうとしないのかって言ったことがあったでしょう? あれは、わたしの両親にこそ向けたい言葉なんです。わたしの両親の人生は、妹がいなくなった時に終わっちゃったの……わたしに、あの子の代わりはできなかった」
 最後にポツリとそう言った唯香の顔に浮かんでいるのは、泣いているような、笑みだ。

 優人は、それを見たくなかった。
 見たくなかったから、彼女の腕を掴んで引き寄せ、その丸い頭の後ろに手を当て自分の胸に押し付ける。

「優人さ……」
 腕の中に引き入れた直後は硬直していた唯香が、一拍遅れてもがき出した。それを逃がすまいと、無意識のうちに優人の腕に力がこもる。

 彼が断固として手放さずにいると、次第に唯香の力が抜けてきた。
 寄り掛かるように身を預けてきた彼女の身体は、小刻みに震えている。

 寒いのか、それとも、別の要因なのか。

 優人には判断がつかなかったが、唯香がそんなふうに震えていることが、嫌だった。伝わってくるその感覚に、みぞおちの辺りにある何かがギュウギュウと締め付けられているような、痛みとも苦しみともつかない何かに襲われる。とにかく彼女のその震えを止めたくて、優人はいっそう深く懐の中にくるみ込んだ。

 そうやって唯香を抱き締める彼の脳裏に、彼女が話した光景が浮かぶ。

 家族の団欒の場であるべき食事の席に、欠けた家族の存在を強調するように、誰も手をつけない料理が置かれている。
 自分の罪を、いや、自分の罪だと思い込んでいることをまざまざと思い起こさせるその状況に、唯香はどんな気持ちで臨んでいたのだろう。

 優人は奥歯を食いしばった。
(この人の親は、娘がそんなふうに感じているということに気付いていないのか?)
 ――きっと、気付いていないのだ。
 唯香が明るい笑顔で隠してしまうから、きっと、誰もボロボロになった彼女の内面に気付いていない。両親さえも、自分たちの傷に囚われているから、もう一人の子どもの笑顔が虚勢だということが判らないのだ。

 優人も、子どもの頃に大事な家族を、母を、亡くした。ちょうど、唯香が妹を亡くしたのと同じような年ごろに。
 あの時の彼は、不安と悲しみと怒りと疑問――そんなものに頭の中を掻き混ぜられていた。
 そこから抜け出せたのは、兄の聖人まさとの存在が大きかったのだと思う。聖人と、そして、蛍の存在が。
 母が突然喪われたとき、父の勝之かつゆきはほぼ廃人と化した。己の中に閉じこもり、子どもたちの存在を忘れてしまったかのようだった。そう、唯香の両親のように。
 その父に代わって、聖人が舘家の支柱になってくれたのだ。そして、その彼を、多分、蛍が支えてくれていた。
 二人の遣り取りで、具体的な何かを目にしたわけではない。だが、蛍がいると兄の表情から張り詰めたものが失せ、彼女に向ける彼の眼差しには名状しがたい何かがあって、あの年下の少女が兄にとって重要な存在なのだということが察せられたのだ。

(兄さんにとっての蛍のような存在が、この人には必要なんだ)

 誰にもすがろうとしない唯香を、支える人が。
 いや、違う。支えられてまで立っていなくていいのだ。それよりも必要なのは、唯香を守る人だ。何よりも、誰よりも、彼女自身の罪悪感から、守ってやらなければならない。

『何かをしている拍子に、ふと、申し訳なくなるの』
 いつか、酔った唯香がこぼしたその台詞。
 そんなことを言わせておいては、感じさせておいては、いけないのだ。

 唯香の身体は、優人の腕の中にすっぽりと収まっている。それほど、華奢だ。
 放っておいたら、ありもしない罪に追い立てられて、彼女はその細い肩に世界の全てを背負おうとしかねない。

 唯香のその罪の意識が理不尽極まりないものであるということは明らかだ。
 だが、理不尽であるということを彼女も自覚しているのだから、厄介この上ない。
 優人は唯香に回した腕に力を籠める。

「周りを見てみたらいい。ヒトというものは、生きているというだけでありとあらゆるものに迷惑をかけている種なんですよ。寝る場所を作るためにそこにあるものを破壊し、一方的に他の生物から搾取して死んだ後に食物連鎖の輪にも入らない。皆一分一秒ごとに罪を重ねていく。でも、そんなものでしょう? 殆どの者は、何も感じない。皆、ふてぶてしく生きているんです。なのにどうして、あなたはそんな子どもの頃についこぼした一言に縛られているんですか」
 もやもやとした苛立ちと共に吐き出すように、優人は一気にそう言い切った。そうして、大きく息をつく。
 一息入れたところで、唯香から伝わってくる振動がさっきまでとは違うものになっていることに気付いた。

 これは、震えているというよりも――
「何を笑っているんですか?」
 腕を緩め、彼女の顔を覗き込んだ優人は眉間にしわを刻んだ。まだ頬は濡れているし、声を上げてもいないが、確かに、笑っている。

 憮然とした顔をしている優人を、唯香は揺れてしまう肩を抑えながら、申し訳なさそうに見上げた。
「だって、スケール大きい……」
 その台詞を言い終えるか終えないかといううちに、まるで発作に襲われたかのように彼女がまた笑いだす。

 優人はムッと唇を引き結んだが、ハタと自分がまだ唯香を腕の中に入れたままだったことを思い出した。渋々ながら彼女を放し、ベンチに座り直す。
 唯香は解放されてからもまだクスクスと笑っていた。その声は、優人の耳に心地良く届く。

「あなたには、そんなふうに笑っていて欲しいんです」

 衝動的に彼が口にしたその言葉に、唯香がキョトンと目を丸くした。
「え?」
「僕には、あなたの『良い面』だけを見せようとしなくていいんです。僕は、本物ではない笑顔は、要らないから。あなたが笑いたくなった時だけ、笑えばいい」

(あなたが心の底から笑っていられるようにするためだったら、僕は何でもできる――何でもする)
 天から降ってきたようにそんな決意を胸に抱いた優人の前で、彼女は一つ二つ目をしばたたかせ、そしてふわりと微笑んだ。それは、固く閉じていた花の蕾が綻ぶのにも似て。

「ありがとう。うん……そうしたい、な」
 唯香は軽く頭を傾け、束の間考え込んでから、うなずいた。

 柔らかな表情を浮かべている彼女に手を伸ばしたくなるのを堪え、代わりにその視線で触れんばかりにジッと見つめ、言う。
「あなたが何と言おうとも、あなた自身のことをどう考えていようとも、あなたに出逢えたことは、僕の人生の中での最大の僥倖です」

「ぎょう……?」
 ポカンと目と口を丸くした唯香は、まさにハトが豆鉄砲を食らったようなという表現がぴったりだった。それは、恐らく他の者には見せない、無防備な姿で。

 そんな彼女を見ていると、優人の胸はどうしようもなく苦しくなる。
 彼女のことを包み込んでどこかに隠しておきたいような、そんな奇妙な思いが込み上げる。

 優人が何を言おうと、唯香がそれにどう答えようと、きっと、彼女はそう簡単には変わらない。ヒトは、そう簡単に変われるものではない。これからも、やはり人には笑顔を振りまくのだろうし、自分は二の次にして他人に手を貸さずにはいられないのだろう。

(それでも、僕は彼女の傍にいる)

 そしていつか、彼女を支えている存在になりたい――彼女に必要とされる存在に。

 その道のりは、かなり長いものになるだろうし、相当の紆余曲折があるはずだ。
 だが、優人が望んだもので、これまで手に入らなかったものはない。

(絶対、辿り着いてやる)
 声には出さず、そう心に決めて、彼はまだ目を丸くしたままの唯香に笑みを返した。
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