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卑怯なことだと判っているが

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 十二月も半ばになると、街中は妙な活気を帯びてくる。
 人通りが増えることは判りきっているから、優人ゆうとも例年この時期の外出は避けるようにしていた。

 だが、今、すっかり日が沈んだ夕の六時過ぎ。
 彼は忙しなく人が行き交う駅前に佇んでいる――唯香ゆいかを待って。

 クリスマス会が終わった翌日、優人は今後について考えた。
 結局、子どもたちが大喜びする顔を眺めてみても唯香が言うところの『ボランティアの醍醐味』は感じられず、継続する理由は見いだせなくなった。正直、元々薄かったボランティアそのものに対する興味は完全に失せている。とは言え、彼がいないところで唯香がいいように使われているのかと思うとそれは何だか嫌なので、引き続き、顔を出そうかとは思っていた。
 そんなふうに一区切りついたところで、ひとまずボランティアをするという経験は積め、その過程で色々気付いたことや知ったこと、得たものはあったため、そういう意味合いで、優人は唯香に礼をしたいと思ったのだ。

 だがしかし、いったい何をすれば良いのかがさっぱり判らない。
 女性を喜ばせたいとき、一番有用なアドバイスをくれると思われるのは、岩崎だ。

「――というわけなのだが、何がいいのか」
 相談を持ち掛けた優人に彼が教えてくれたのは一軒の店で、そこは料理もアルコールも、女性に人気なのだそうだ。確かに唯香としても、何か物を渡されるよりも気が楽だろうし、彼女と落ち着いた時間を過ごせるという優人的なメリットもある。
 唯香とは連日のように顔を合わせていても、そこには常に第三者の姿があった。逢わないよりはマシとは言え、若干の不全感というか物足りなさというか、そんな感じのものが彼の中にくすぶっていたことは否定できない。
 どうしてそんなふうに感じるのかと問われても、答えを返すことはできないのだが。

「優人さん」
 不意に呼ばれて、彼はスマホの画面から目を上げた。いつの間に来たのか、唯香がすぐ間近から覗き込んでいる。
 彼女が視界に入った途端、人混みに張り詰めていた優人の神経がふわりと解れた。スマホをしまいながら寄り掛かっていた壁から身を起こす。
「すみません。気づきませんでした」
「優人さんは目立つからすぐわかりました。お待たせしちゃいましたか?」
「いや、二十分ほどです」
 ぼんやり突っ立っていると通行人から何かと声をかけられるので、こういった待ち合わせの際には、優人はいつも時間通りに着くようにしているのだが、今日は妙に落ち着かず、早めに家を出てしまった。その余分な二十分間に二人の女性に声をかけられたものの、スマホから目を上げずに生返事をしていたら、去って行った。

 優人の返事に、唯香は目をしばたたかせる。次いで眉根を寄せた。
「それは、待たせちゃったんだと思いますけど」
「時間より早く来たのは僕の都合ですから。行きましょうか」
 肩をすくめてそう返し、人混みではぐれないようにと優人は唯香の背に手を添えて歩き出す。

 岩崎が教えてくれた店はいつぞやのバーと同じく、裏通りの目立たない所にある。優人は頭の中に入れておいた地図を辿りながら、そこを目指した。
「こんな道、初めて入ります」
 本通りから外れ、更にその路地に足を踏み入れた時、物珍しそうに唯香が言った。普段見せることのない好奇心溢れる彼女のその様は、子どものようだ。横目でその様を窺う優人がもっと色々な顔を見てみたいと思ううち、二人は目的の店に到着する。

「えっと……ここ、ですか?」
 唯香がためらいがちに訊いてきた。
「はい」
 一応居酒屋らしいが、打ち上げに用いた店とは違って、落ち着いた佇まいだ。確かに、ここなら快適に飲み食いできそうだ。
 優人はそう思ったが、唯香は少々彼とは違うように感じたらしい。微妙にその顔を曇らせている。

「あの、高そうですよ?」
 彼女の基準は、先日のような会費二千円の飲み放題だろうか。確かに、それに比べると三ないし四倍ほどはするかもしれない。
 なので、優人は頷く。
「そうですね」

「……わたし、お金が……」

(そこか)
 彼女の不安が理解でき、優人は眉間のしわを消した。
「僕が出すと言ってあったでしょう?」
「や、そういう訳にもいきませんから」
 頭が外れそうな勢いでかぶりを振る唯香を、優人は首をかしげて見下ろす。
「今日のこれはお礼の為だと言いませんでしたか?」
 もっとも、礼という名目がなくても、唯香に払わせるつもりは更々なかったが。
 彼女は店の構えからまた優人に目を移し、口ごもる。
「聞きましたけど、でも……」
「じゃあ、入りましょう。予約に遅れたら迷惑です」
 きっぱり告げて、優人は唯香の背を押し、促した。引き戸を開けてしまうと諦めがついたのか、それとも迷惑という一言が効いたのか、彼女もおとなしく中に足を踏み入れる。

 店内は居酒屋というよりも料亭といってもいいような造りになっていた。カウンターの他は五、六人が入れる程度の個室ばかりで、大騒ぎしている客はいない。
「いらっしゃいませ」
「予約していた舘ですが」
「ああ、どうぞ、こちらへ」
 店員についていくと、奥にある部屋へ案内された。多分二人用なのだろう。入ってみると、中はそれほど広くない。障子の入り口とは反対側に花が活けられた小さな出窓があって、中庭らしきものがうかがえた。
 落ち着かなそうな唯香より先に優人が座布団の上に腰を下ろしてしまうと、まだためらいがちではあるものの、彼女も彼に倣った。
「では、ご注文がお決まりになったら、そちらを押してお呼びください」
 卓上の呼び鈴を示してそう言うと、店員は障子の向こうに姿を消す。

 二人きりになると、唯香がほぅと小さく息をついた。
「個室、なんですね。こんなところ、初めてです」
 座ってしまえば流石に吹っ切れたのか、感心しきりで目を輝かせ、唯香がぐるりと部屋の中に視線を巡らせた。どうやら彼女は、気に入ってくれたようだ。優人はここをチョイスしてくれた岩崎に心の中で感謝する。
「友人に教えてもらいました。女性に人気なのだそうです。料理はコースで頼んであるので、飲み物を決めてください」
「あ、はい。じゃぁ、えっと――これにしようかな」
 唯香が指さしたのは、杏の果実酒だった。

 呼び鈴を押すと、すぐに店員がやってくる。優人は彼女の為の杏酒と、自分には烏龍茶をオーダーした。
「優人さんは飲まないんですか? もしかして、まだ未成年?」
「いえ、先日成人しました」
「あ、じゃあ、わたしの方が一つお姉さんですね。優人さん大人っぽいから、年上かと思ってました」
「よく言われます」
『子どもらしくない』は五歳の頃から言われてきた台詞だ。優人の返事に「ですよね」と笑い、唯香は小首をかしげる。
「舘先生は研修医二年目だから、二十五、六?」
「多分、二十六になりました。もう一人、二歳上の兄がいます」
「三人兄弟かぁ」
 唯香は、何に対してなのかは判らないが、感心した様子だ。そんな彼女に、優人は何げなく質問を返す。

「藤崎さんの兄弟は?」
 刹那、ほんの一瞬、唯香の顔が強張った。それはまさに瞬きをするほどの間のことで、すぐに笑顔に置き換わる。
「えっと、妹が一人、です」
 あまり仲が良くないのか、それ以上の説明はない。突っ込んでもいいものなのか、それともやめておいた方がいいものなのか、優人が決めかねていると障子の外から声がかかる。

「失礼します」

 流れが、途切れた。

 優人は安堵と残念さの入り混じった思いで返事をする。
「はい」
 障子を開けて入ってきた店員は端正な所作で先付けと飲み物を座卓に並べると、すぐにまた姿を消した。

「うわぁ、キレイ」
 小さな盆の上に並ぶ彩り鮮やかな細々した料理に、唯香は目を輝かせている。そこには、先ほどの妙な表情は欠片も残っておらず、優人は尋ねるタイミングを完全に逸してしまった。
「……食べましょうか」
「はい」
 箸を取った唯香は、もう料理のことしか頭にないように見える。

 だが――

(そう見せているだけか?)
 優人はついそんなふうに勘繰ってしまったが、判らない。能面のような顔の下で本気で悩む彼の心中などつゆ知らず、唯香は淡いオレンジ色をした酒を口に運んでいる。

「お酒も美味しいです。普通のジュースみたい」
 その台詞が優人の記憶の何かに引っかかり、彼は眉をひそめた。

 しかし。

「優人さん、食べないんですか?」
 小首をかしげて問われると、微かな疑問は頭の奥へと追いやられる。優人は小鉢の一つを突き、頷く。
「ああ、いえ、――美味しいですね」
 ね、と目を細めて返されれば、頭をよぎったその何かは、完全に優人の思考から消え去った。
 料理はタイミングよく運ばれてこられ、それに伴い、唯香のグラスも入れ替わる。揚げ物、蒸し物が届いたあたりから、紅く染まった彼女の顔はフワフワとした笑みを浮かべっ放しになっていた。主にボランティアで起きたことを、壊れたレコードのように取り留めなくしゃべり続けている。
 楽しげではあるのだが、少々優人は心配になった。

「藤崎さん、大丈夫ですか?」
「なにが?」
 クスクスと笑う唯香の目は、トロンと甘い。
「その、だいぶ酔ってませんか?」
「だいじょうぶです。わたし、今まで酔ったことないですから。お酒、強いんです」
 微妙に舌足らずな唯香のその口調からは、そうは思えない。振り返ってみると、彼女はすでに三種類ほどの果実酒を身体に入れていた。

 どこからどう見ても、酔っている。
 そこで我が身に起きたことを思いだした。先ほど、頭の中に浮かんで消えたことだ。

(僕も、最初はジュースのようだと思ったんだよな……)
 その挙句に酔い潰れ、岩崎に醜態をさらしてしまった。

(この辺でやめさせた方が、いいか)
 そう思ったとき、ふと、優人に魔が差した。

 今の唯香なら、何でも話してくれるかもしれない。素面の時には、笑顔でごまかされてしまうようなことも。
 彼自身、岩崎に飲まされた時、妙に抑制を欠いて気分も口も軽くなったことを覚えている。まあ、その記憶も、途中でフツリと切れてはいるのだが。

 優人は唯香を見た。寛ぎ切った、幸せそうな、笑み。
 酔いに付け込むなど、本当はしてはいけないことだ。それは判っている。判っているが――彼は欲求に負けた。彼女のことを知りたいという、欲求に。

「藤崎さんは、ヒトの為に動くことが好きですよね」
「え……うん」
 唯香は茫洋とした眼差しを優人に向け、コクリと頷いた。何も隠そうとしていない――そうできそうもないその瞳に、彼はほんの一瞬ためらい、そして結局続ける。

「どうしてでしょう」
「どうして?」
 その一言をオウム返しにして目をしばたたかせた彼女が、小鳥のように首をかしげる。
「どうして、他の人がしているようにしないのですか? もっと、皆が楽しんでいるようなことをしたいと思いませんか? 他の、同年代の人たちがするように、普通に遊びに行ったり、自分自身の為に時間を使いたいとは思いませんか? 他人ではなく、自分自身を楽しませるようなことの為に」
 低い声で穏やかに問う優人に、唯香の眼差しが心許なく揺れた。

「わたし、を……? 」
「そう」
 優人が促すように頷くと、彼女はフルフルとかぶりを振る。

 そうして続いた唯香の台詞は、彼の予想を大きく外れるものだった。
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