塔の魔王は小さな花を慈しむ

トウリン

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アストールを捕らえる鎖

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 フラウの手を掴んだまま、アストールは大股に歩いていく。半ば引きずられるようにして彼についていきながら、フラウはどうにか声を上げる。
「待って……待ってください、アストールさま」
 彼が足を止めてくれたのは、言葉の内容よりもフラウの息の荒さ故だろう。
 振り返ったアストールは、フラウを見ると眉根を寄せて手を放した。少しの間彼女を見つめてから、ふいと踵を返して一人で塔の中へ戻ろうとする。
「アストールさま!」
 とっさに手を伸ばしてアストールの服の裾を掴んだフラウを、彼は眉間にしわを刻んだまま見下ろしてきた。フラウはその視線にひるむことなく、むしろ裾を握る手に力を込める。

 脳裏によみがえるのは、今しがたの一件だ。ひどく傷ついたカイの手が、フラウが触れて治って欲しいと願っただけで癒えた光景。

 思い返しても信じがたいことだけれども。

「本当に、わたしがしていたのですか?」
 何を、と言わずとも、アストールには判ったはずだ。その証拠に、彼は嫌そうに目元を歪め、フラウから視線を逸らす。
 何も返事がないことが、フラウの問いを肯定していた。

 どうしてアストールは癒しの力を彼のものだと思わせていたのか。
 フラウの中にそんな疑問は沸いたが、小さなものだった。それよりも大事なことがある。

「もしも、本当にわたしがしていたことなら、ゼスさんたちのお母さんを治しに――」
 先ほど衝動的に口走ってしまったことを、今度は確かな意思を持ってフラウは再び口にする。しかし、アストールの返事は変わらなかった。
「その必要はない」
 フラウの言葉を遮るように、アストールが一言で切って捨てた。
「どうしてですか?」
 ゼスからアストールが怪我をさせてしまった人のことを聞かされた時、癒しの力を持っているのに、何故、アストールは彼女のことを治さなかったのだろうと、フラウはちらりと思った。カイからアストールが彼女のことを気にかけているという話を聞かされて、その思いは一層強くなった。
 けれど、アストールが決めたことにフラウが口出しできるものではないから、何も言わなかった。アストールが彼の力をどう使うかは彼自身が決めることで、使用人のフラウが口を挟むことではないのだから。

(でも、あれがわたしの力なら)
 アストールの大事な人を、助けたい。
 フラウはギュッとアストールの服の裾を握り締める。
 何かをしたいとこんなに強く望むのは、初めてだった。

 だが。

「お前は何もするな」
 降ってきたのは、アストールのそんな素っ気ない言葉。
 フラウはさらに食い下がる。
「アストールさま! わたしはやりたいです。やらせてください」
「だめだ」
 そう言って、アストールはフラウの手が服を掴んでいるのを無視して歩き出そうとする。フラウは彼を行かせるまいと足を踏ん張った。服を引っ張られて、アストールが嫌そうな顔で振り返る。

「フラウ、放せ」
「いやです。お話を聞いてくださるまで放しません」
「話は聞いた。駄目だと言った。これで終わりだ」
 アストールは頑なに言い張って、上着を脱いで諸ともにフラウを置いていこうとする。彼が歩き出すより先に、フラウは上着を手放しアストールの胴に両手を回してしがみついた。

「フラウ」
 アストールが、苦さを含んだ声で彼女の名前を呼んだ。しかしフラウは、一歩も引かぬとばかりに彼の背中に顔を押し付ける。
 ややして、ため息が落ちてくる。フラウが顔を上げると、くしゃくしゃと頭を撫でられた。
 アストールはフラウの手をそっと引き剥がし、彼女に向き直る。

「お前のその力は、隠しておくべきものだ。もしも癒しの力を使えるということが広まれば、お前の身に危険が及ぶ」
「知られないようにこっそりすれば……」
「彼女は――エマは、王都でもそれなりに地位を持つ人だ。そんな彼女が突然癒えれば、どうしたって人の目を引く。皆――特に『黒檀の塔』の魔術師たちは、躍起になって調べるだろう」
 フラウの頭に置かれていたアストールの手が滑り降り、彼女の頬を包み込む。
「その危険は、冒せない」
 そう言って、アストールはふわりとフラウを抱き締めた。

「確かにエマは僕にとって大事な人だ。だが、彼女以上に、お前のことが大事なんだ」
 低い声で囁いたアストールの腕に、力がこもる。
 それは苦しさを覚えるほどで、抱き締められるというよりも縋り付かれているようだった。
「僕はお前とここにいられればいい。お前がいれば、それでいい」
 アストールはフラウよりも頭一つ分は大きいのに、今の彼はお気に入りの毛布を手放そうとしない小さな子どものように見える。

 アストールは怯えている。

 それはひしひしと伝わってくるけれど、フラウにとっては神さまにも等しいこの人が何をそんなに恐れているのかが、解からない。
 アストールの言葉通りに受け止めれば、フラウを奪われることを、だ。
(でも、都の偉い魔術師の人たちだって、アストールさまには敵わないって)
 万一癒しの力のことが知られてしまって、フラウを寄こせと押し寄せてきても、手の一振りで退けてしまいそうだ。

(もしかしたら、わたしとは別のところにも、理由があるのかも)
 フラウを都に行かせたくない理由――アストールがここから出ようとしない、理由が。
 アストールが塔から出ることは、ほとんどない。
 ずっと、アストールが外に興味を持たないからだとフラウは思っていたけれど、他の理由はないのだろうか。
 出たくないのか、出てはいけないのか。
 出てはいけないのであれば、それは、誰によって定められていることなのか。

「わたし、ゼスさんから怪我をしてしまったお母さんのことをお聞きしたとき――アストールさまが怪我をさせてしまったのだとお聞きしたとき、もしかして、この塔に来させられたのはお仕置きの意味もあったのかなって、ちょっとだけ思いました」
 フラウを抱きすくめているアストールの腕が震えたが、彼はフラウを放そうとはしていない――まだ。
 フラウはこれから彼女が話すことでアストールが逃げてしまわないように、彼の背中に手を回す。

「でも違うのですよね。最初から、誰もアストールさまのことを責めてなんかいなかったのですもの」
 エマの話をしたときにゼスがはっきりとそう言っていたし、先ほどの話の中で、カイも同じように言っていた。アストールにはどうしようもないことだったのだと。

 幼かったアストールのことを、誰も責めてはいなかった。
 彼を責めているのは――

「アストールさまをここに閉じ込めているのは、やっぱり、アストールさまご自身なんですね」

 フラウがポツリとこぼしたその言葉に、アストールはビクリと反応した。
「何を……」
 腕を開いて離れようとしたアストールを、今度はフラウが放さない。
「ゼスさんが言っていました。アストールさまは、エマさんを怪我させてしまったことでご自身を責めているんだって。他の人は許してるのに――最初から、責めてなんていなかったのに、アストールさまだけがご自分を許されていないんです」
 アストールを抱き締めたまま、顔だけを精一杯上げてフラウは言った。
「何を、バカなことを」
 彼はそう答えたけれども、合わない視線がフラウの言葉が正しいのだと教えてくれる。
「じゃあ、アストールさま、エマさんにお会いできますよね?」
「僕はここから出るつもりはない」
「出ちゃいけないって、言われているわけでもないのに」
 フラウが畳みかけると、アストールはギリリと奥歯を食いしばった。
「僕は……」
 アストールの言葉は続かない。
 こんなふうにアストールを追い詰めたくはなかったけれど、彼が何かに囚われているのなら、それで心の底から笑うことができないのであれば、フラウはその何かから解放されて欲しかった。

「わたしと一緒に、エマさんのところへ行きましょう?」
 フラウはアストールを解放し、一歩下がって、そう問うた。フラウが無理やり連れていくのではなく、アストール自身の意思でそれを選んで欲しかった。
 エマの傷を癒しても、アストールが彼女を傷付けたという過去が消えるわけではない。それでも、今なお残る傷をなくすことができたなら、時間はかかっても、いつかアストールが自分を許せるようになるかもしれない。
 傷を治すことができたなら、アストールも、自分を許そうという気持ちになってくれるかもしれない。

 そんな期待を込めて、フラウはアストールを見上げる。
 しかし、彼は。

「僕は、行かない。お前も行くな」
 唸るようにそう告げて、行くなと言い終えると同時にアストールは踵を返して歩き出してしまう。

「アストールさま」
 呼びかけても彼の歩みは鈍らない。
 見る見る遠ざかっていくアストールの背中が、何よりも雄弁にフラウのいざないを拒んでいる。
 その頑なな背中を見つめながら、フラウは、自分にできること、すべきことを考えた。
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