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最悪の事態
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アストールがこの冬の間手掛けてきた転移の魔術の改良も、もうじき仕上がりそうだった。
転移先の目印になるものをどうするかが最後の課題で、魔力を用いるところまでは定まったのだが、今一つ汎用性に難が残っている。
フラウにアストールの魔力を充填したものを持たせておけば、視認できなくても彼女のもとに跳ぶことができる――理論上は。まだ実験していないが、可能なはずだ。
アストールとしてはいつでもフラウの傍に行けるというだけで充分なのだが、これまでも、開発した魔術具や新たな術式は『黒檀の塔』に送っていた。そうして塔の研究成果として実用化し、市井の生活の利便性を上げてきたのだが、この転移の術は、まだ、民の生活に転用するのは難しい。目印にするにはかなりの量の魔力が必要で、時間経過で損耗するから三日かそこらで再補充する必要があるのだ。それをまかなうには、宮廷魔術師くらいの力量がなければならないだろう。
アストールは紙面にあらわした術式をざっと眺める。今考案しているものは、携帯できることを前提としているのだが。
「個人持ちは諦めて、町や都市をつなぐ門のような形にして、それぞれに宮廷魔術師を置くとか……?」
それなら実現可能だが、そうなると、ほぼ全ての宮廷魔術師を地方に派遣することになってしまうだろう。
「やっぱり、現実的ではないな」
アストールがため息混じりに呟いたとき、ふいに、身体の奥から何かがグイグイと巻き取られていく感覚に襲われる。
アストールは衝かれたように顔を上げた。
これはフラウに触れたときに感じるものだ――彼女に触れて、魔力の授受が行われているときに。
だが、いつもであれば、じんわりと、乾いた砂地に雫が染みていくような穏やかな移行だった。それが今は、まさに『奪われる』としか言いようがない強引なものになっている。
触れることなく魔力がフラウに流れていくのは例の指輪の効果に違いないが、あれを与えてからもう何ヶ月も経つ。その間、こんなふうに指輪の効力が発動したのは初めてだ。
嫌な予感に、アストールの胸がざわつく。
(まさか……)
アストールは魔力の流れに引かれるようにして窓際に駆け寄る。魔力が向かう先にフラウがいるのは、その姿を目にする前から判っていた。
窓を開けて下を覗き込むと、塔の壁際にしゃがみこむフラウとカイがいた。アストールはそのまま身を乗り出す。身体が宙に浮くと同時に浮遊の術をかけ、猫のようにくるりと一回転をして地面に下り立った。
「アストールさま!?」
突然現れたアストールに、フラウが飛び跳ねるように立ち上がった。その手の中に、何かが包まれている。
アストールは、彼が訪れるまでに起きていただろうことを瞬時に悟る。どうやら、間違っていて欲しかった予想が、的中してしまったらしい。
「フラウ」
苦い声で名を呼ぶと、彼女の手の中に納まっていたものがバタバタともがいた。
鳥だ。この時期よく見かける、黒い渡り鳥。
毎年のように塔にぶつかるものがいて、そのたび、治して欲しいとフラウはアストールのもとへ連れてきていた。
今日も、そうしてくれていたら良かったものを。
アストールは胸の内で呻いて歯噛みする。
癒しの力はカイには秘密だと念を押したことが、仇になったようだ。
チチッという鳴き声にフラウがハッと手を開くと、鳥は慌てたように飛び去って行く。彼女の手に囚われていたのが不思議なくらい、力強い羽ばたきで。
チラリとカイに目を走らせたが、例のごとく彼の顔に表情はなく、何を思っているのかは読み取れない。だが、何が起きたのか、これからどういう展開が待っているのかは、火を見るよりも明らかだ。
(クソ)
アストールは声に出さずに罵った。こんなことになる前にさっさと帰らなかったカイに向けて、そしてこうなることを防げなかった自分に対して。
(やっぱり、どうにかして封じておけば良かったんだ)
何度も試みて、どうしても成し遂げられず、塔の中にいる限り――アストールの庇護下にいる限りは何も起こるはずがないからと投げ出してしまった。
だが、やはり、他の何を置いても、何としても成し遂げておくべきだったのだ。フラウの中にあるフラウの知らないあの力は、彼女自身にとっては百害あって一利なしの代物なのだから。
フラウが塔に来て初めて迎えた春。
まだ、今のように小鳥さえ包み込めないほどフラウの手が小さかった頃、彼女が目を潤ませて怪我をしたウサギを胸に抱えて運んできたのが始まりだった。何かをねだることがない彼女が目に涙を浮かべて助けて欲しいと願ったから、アストールは拒むことができなかった。誰にも――ゼスにも内緒だと重々言い含めて、ウサギを癒してやったのだ。
あの最初の行為がなければ、掻き消えそうになっている命の火を前にして、フラウもそれは自然の摂理だからと素直に諦めるようになっていたかもしれない。
(……いや、そうはならなかっただろうな)
そう思って、アストールはため息をついた。諦めのため息を。
きっと、アストールがどう介入しようが、いずれは起きていた事態なのだろう。
傷付いたものを前にして、フラウが何も思わずにいられるはずがないのだから。きっとアストールがいない場で幾度も助かるように願い、そして、遅かれ早かれいつか知ることになっていたはずだ。
アストールによるものだと彼女が信じていた、癒しの力の真実を。
だが。
(指輪は、外させておくべきだった)
そうすれば、今の状況は回避できていたはずだ。アストールがいない場でカイに見られるという、この状況だけは。
うっかりカイに触れて彼の魔力を奪うようなことがあれば、フラウに興味を持つかもしれない。
それを危惧して、はめさせたままにしていたのだ。
指輪は、他者に触れても魔力を奪うことがない程度に、必要最低限の魔力をフラウに供給し続けるはずのものだった。そんなふうに、作ったはずだった。だが、アストールは目算を誤った。
「あの、アストールさま……」
恐らく、険しい顔をしているのだろう、肩を強張らせたアストールに、フラウがおずおずと声をかけてくる。
アストールの表情を見て、フラウは、自分がマズいことをしでかしたと思っているに違いない。実際、この上なくマズい事態だった。
無駄な足掻きと判りきった上でアストールはこの場を取り繕う言葉を探したが、彼がそれを見つけ出すより先に、カイが口を開く。
「彼女は治癒の魔術が使えるのですね」
眉一つ動かすことなく彼が発したのは、ただ事実だけを述べたような淡々とした声だった。
転移先の目印になるものをどうするかが最後の課題で、魔力を用いるところまでは定まったのだが、今一つ汎用性に難が残っている。
フラウにアストールの魔力を充填したものを持たせておけば、視認できなくても彼女のもとに跳ぶことができる――理論上は。まだ実験していないが、可能なはずだ。
アストールとしてはいつでもフラウの傍に行けるというだけで充分なのだが、これまでも、開発した魔術具や新たな術式は『黒檀の塔』に送っていた。そうして塔の研究成果として実用化し、市井の生活の利便性を上げてきたのだが、この転移の術は、まだ、民の生活に転用するのは難しい。目印にするにはかなりの量の魔力が必要で、時間経過で損耗するから三日かそこらで再補充する必要があるのだ。それをまかなうには、宮廷魔術師くらいの力量がなければならないだろう。
アストールは紙面にあらわした術式をざっと眺める。今考案しているものは、携帯できることを前提としているのだが。
「個人持ちは諦めて、町や都市をつなぐ門のような形にして、それぞれに宮廷魔術師を置くとか……?」
それなら実現可能だが、そうなると、ほぼ全ての宮廷魔術師を地方に派遣することになってしまうだろう。
「やっぱり、現実的ではないな」
アストールがため息混じりに呟いたとき、ふいに、身体の奥から何かがグイグイと巻き取られていく感覚に襲われる。
アストールは衝かれたように顔を上げた。
これはフラウに触れたときに感じるものだ――彼女に触れて、魔力の授受が行われているときに。
だが、いつもであれば、じんわりと、乾いた砂地に雫が染みていくような穏やかな移行だった。それが今は、まさに『奪われる』としか言いようがない強引なものになっている。
触れることなく魔力がフラウに流れていくのは例の指輪の効果に違いないが、あれを与えてからもう何ヶ月も経つ。その間、こんなふうに指輪の効力が発動したのは初めてだ。
嫌な予感に、アストールの胸がざわつく。
(まさか……)
アストールは魔力の流れに引かれるようにして窓際に駆け寄る。魔力が向かう先にフラウがいるのは、その姿を目にする前から判っていた。
窓を開けて下を覗き込むと、塔の壁際にしゃがみこむフラウとカイがいた。アストールはそのまま身を乗り出す。身体が宙に浮くと同時に浮遊の術をかけ、猫のようにくるりと一回転をして地面に下り立った。
「アストールさま!?」
突然現れたアストールに、フラウが飛び跳ねるように立ち上がった。その手の中に、何かが包まれている。
アストールは、彼が訪れるまでに起きていただろうことを瞬時に悟る。どうやら、間違っていて欲しかった予想が、的中してしまったらしい。
「フラウ」
苦い声で名を呼ぶと、彼女の手の中に納まっていたものがバタバタともがいた。
鳥だ。この時期よく見かける、黒い渡り鳥。
毎年のように塔にぶつかるものがいて、そのたび、治して欲しいとフラウはアストールのもとへ連れてきていた。
今日も、そうしてくれていたら良かったものを。
アストールは胸の内で呻いて歯噛みする。
癒しの力はカイには秘密だと念を押したことが、仇になったようだ。
チチッという鳴き声にフラウがハッと手を開くと、鳥は慌てたように飛び去って行く。彼女の手に囚われていたのが不思議なくらい、力強い羽ばたきで。
チラリとカイに目を走らせたが、例のごとく彼の顔に表情はなく、何を思っているのかは読み取れない。だが、何が起きたのか、これからどういう展開が待っているのかは、火を見るよりも明らかだ。
(クソ)
アストールは声に出さずに罵った。こんなことになる前にさっさと帰らなかったカイに向けて、そしてこうなることを防げなかった自分に対して。
(やっぱり、どうにかして封じておけば良かったんだ)
何度も試みて、どうしても成し遂げられず、塔の中にいる限り――アストールの庇護下にいる限りは何も起こるはずがないからと投げ出してしまった。
だが、やはり、他の何を置いても、何としても成し遂げておくべきだったのだ。フラウの中にあるフラウの知らないあの力は、彼女自身にとっては百害あって一利なしの代物なのだから。
フラウが塔に来て初めて迎えた春。
まだ、今のように小鳥さえ包み込めないほどフラウの手が小さかった頃、彼女が目を潤ませて怪我をしたウサギを胸に抱えて運んできたのが始まりだった。何かをねだることがない彼女が目に涙を浮かべて助けて欲しいと願ったから、アストールは拒むことができなかった。誰にも――ゼスにも内緒だと重々言い含めて、ウサギを癒してやったのだ。
あの最初の行為がなければ、掻き消えそうになっている命の火を前にして、フラウもそれは自然の摂理だからと素直に諦めるようになっていたかもしれない。
(……いや、そうはならなかっただろうな)
そう思って、アストールはため息をついた。諦めのため息を。
きっと、アストールがどう介入しようが、いずれは起きていた事態なのだろう。
傷付いたものを前にして、フラウが何も思わずにいられるはずがないのだから。きっとアストールがいない場で幾度も助かるように願い、そして、遅かれ早かれいつか知ることになっていたはずだ。
アストールによるものだと彼女が信じていた、癒しの力の真実を。
だが。
(指輪は、外させておくべきだった)
そうすれば、今の状況は回避できていたはずだ。アストールがいない場でカイに見られるという、この状況だけは。
うっかりカイに触れて彼の魔力を奪うようなことがあれば、フラウに興味を持つかもしれない。
それを危惧して、はめさせたままにしていたのだ。
指輪は、他者に触れても魔力を奪うことがない程度に、必要最低限の魔力をフラウに供給し続けるはずのものだった。そんなふうに、作ったはずだった。だが、アストールは目算を誤った。
「あの、アストールさま……」
恐らく、険しい顔をしているのだろう、肩を強張らせたアストールに、フラウがおずおずと声をかけてくる。
アストールの表情を見て、フラウは、自分がマズいことをしでかしたと思っているに違いない。実際、この上なくマズい事態だった。
無駄な足掻きと判りきった上でアストールはこの場を取り繕う言葉を探したが、彼がそれを見つけ出すより先に、カイが口を開く。
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眉一つ動かすことなく彼が発したのは、ただ事実だけを述べたような淡々とした声だった。
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