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アストールの望み
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「第一王位継承者」
塔の最上階にある展望台で一人風に吹かれながら、フラウはその言葉を声に出して呟いた。
アストールがその立場にあるということをカイから聞かされてから丸一日が過ぎても、まだ、実感が持てない。
あの時のアストールの態度から、フラウにそのことを知って欲しくなかったのだろうことがひしひしと伝わってきた。フラウも、知らなければ良かったというのが、正直な気持ちだ。知らなければ、この先もずっと、変わらずに過ごせていたはずだから。
アストールが元々王都に住んでいたことはフラウも知っていたし、身分が高い人なのだろうということも、はっきりと教えられたことはなかったけれど、薄々察してはいた。アストールの日々の過ごし方を見ていれば、少なくとも、ルイ村の人たちのように日々身を粉にして働くような家の人ではないだろうということは容易に知れる。
(でも……)
「王子さま、だなんて」
あまりものを知らないフラウでも、さすがに、王が国で一番偉い人だということは判る。王子ということは、つまり、後々は王になるということで。
(本当に、お傍にいてもいいのかな)
アストールは、ここにいてもいい人なのだろうか。
フラウはため息をこぼして展望台の外へと目を向けた。
視界は、とても、広い。
塔が高台にあることもあって、天辺にあるこの展望からは黒の森を一望することができる。危ないからとアストールがあまりいい顔をしないこともあって滅多に出てくることはないのだけれど、フラウは、ここからの景色が好きだった。果ての見えないその光景を眺めていると、フラウはいつも不思議な気持ちになる。
この黒い森の向こうには、セイラム国とは別の国があるのだという。その向こうには、また別の国が。
フラウは、塔の中しか知らない。塔の中が、フラウの全てだ。
確かに広い世界に思いを馳せるとそわそわと胸が沸き立つけれど、フラウには塔での日々があればそれでいいと思っていた。ずっと、塔の中で暮らしていられれば、アストールと一緒に毎日を過ごしていければ、それで充分だった。
けれど、アストールにとってはそうではない。
アストールには、彼に相応しい、もっと広い世界があることを、フラウは知ってしまった。
ようやく、アストールに傍にいたいと伝えられ、いてもいいよと言ってもらえたのに。
「それは、正しくないことなのかもしれない」
そう、フラウが呟いたとき。
「何がだ?」
ふいに背後からかけられた声に、彼女はびくりと肩をはね上げる。
パッと振り返ると、いつからいたのか、アストールが戸口に立っていた。考え事をしていたせいで、扉が軋む音にも気づかなかったらしい。
「アストールさま」
名を囁いたフラウに、彼は無言で近づいてくると彼女の頬に手を伸ばした。そこに触れて、ムッと眉をしかめる。
「冷えているじゃないか。まだ気温が低いのだから、こんなところにいたら風邪をひく」
そう言って、フラウを自分の上着の中に抱き込んだ。
確かに、展望台を吹き抜ける風がいつの間にかフラウの体温を奪っていたようだ。アストールの温もりに包まれて、その心地良さに彼女はホッと息をつく。
耳を押し当てているアストールの胸からは、ゆったりとした鼓動が伝わってきた。寝台を共にしていた頃は毎晩耳にしていた音だ。フラウは目を閉じてそれに聴き入る。
この温もりもこの音も、本来、知ることがなかったはずのものだ。
とてつもない幸運に恵まれて得ることができたものなのだから、失うことになったとしても、仕方がないことなのかもしれない。
(失いたくない。失いたくない、けど……)
フラウがキュッと唇を噛んだとき、背中に回されているアストールの腕に力がこもった。
「何を考えている?」
ふいに問いかけられて、フラウは息を呑む。
フラウが答えられずにいると、また、アストールの腕の力が強くなる。少し苦しさを覚えるほどだったけれども、解いて欲しいとは思えなかった。
黙ったままのフラウに苛立ったのか、アストールが荒く息をつく。
「僕が何者でも、何も変わらないからな」
頭のてっぺんに口づけるようにしてぼそりと落とされたその言葉を、フラウは嬉しく思った。けれど、頭の片隅にこびりついた不安は消しきれない。
「でも、お城に戻ることは、アストールさまが『しなければならないこと』ではないのですか?」
アストールが放そうとしてくれないから、フラウは彼の胸元に向けてそう問いかけた。アストールは腕の力をほんの少しも緩めることなく彼女に答える。
「王位を継ぐ者は僕の他にもう三人いる。この十年、彼らが世継ぎとして公務を行ってきたんだ。今更僕が出る幕はない。今更僕がしゃしゃり出たところで、十年かけて培ったものを叩き壊してしまうだけだ」
「でも、アストールさま」
フラウの反論を、アストールは彼女の頭をギュッと彼の胸に押しつけることで封じてしまう。
「国に僕は必要ない。僕を必要としているのはお前で、僕もお前を必要としている。だから、僕はここに留まるし、お前を手放しもしない。それでいいんだ」
もう一度「それでいい」と囁きながら、アストールがフラウを全身で抱きすくめた。
それはまるで離れていこうとしているフラウを引き戻そうと――決して離れていかないように、彼の中に閉じ込めようとしているかのようだった。
(アストールさまも、不安なの?)
もしもそうなら、その不安を消し去ってあげたい。
絶対に離れないと繰り返しフラウが伝えれば、きっとそれは成し遂げられるだろう。
けれど、果たしてそれは、アストールにとって正しいことなのだろうか。アストールが、本当に心の底から望んでいることなのだろうか。
力を制御できるようになろうと頑張ったのは、家族の元へ帰るためだったはずだ。フラウが傍にいることで、アストールには本当の望みが見えなくなってしまっているのだということは、ないのだろうか。
もしも、そうならば。
(どうするのが、アストールさまにとって一番良い道になるのだろう)
フラウは小さなため息とともに押し付けられているアストールの胸に頬を摺り寄せ、彼の背中にそっと手を伸ばした。
塔の最上階にある展望台で一人風に吹かれながら、フラウはその言葉を声に出して呟いた。
アストールがその立場にあるということをカイから聞かされてから丸一日が過ぎても、まだ、実感が持てない。
あの時のアストールの態度から、フラウにそのことを知って欲しくなかったのだろうことがひしひしと伝わってきた。フラウも、知らなければ良かったというのが、正直な気持ちだ。知らなければ、この先もずっと、変わらずに過ごせていたはずだから。
アストールが元々王都に住んでいたことはフラウも知っていたし、身分が高い人なのだろうということも、はっきりと教えられたことはなかったけれど、薄々察してはいた。アストールの日々の過ごし方を見ていれば、少なくとも、ルイ村の人たちのように日々身を粉にして働くような家の人ではないだろうということは容易に知れる。
(でも……)
「王子さま、だなんて」
あまりものを知らないフラウでも、さすがに、王が国で一番偉い人だということは判る。王子ということは、つまり、後々は王になるということで。
(本当に、お傍にいてもいいのかな)
アストールは、ここにいてもいい人なのだろうか。
フラウはため息をこぼして展望台の外へと目を向けた。
視界は、とても、広い。
塔が高台にあることもあって、天辺にあるこの展望からは黒の森を一望することができる。危ないからとアストールがあまりいい顔をしないこともあって滅多に出てくることはないのだけれど、フラウは、ここからの景色が好きだった。果ての見えないその光景を眺めていると、フラウはいつも不思議な気持ちになる。
この黒い森の向こうには、セイラム国とは別の国があるのだという。その向こうには、また別の国が。
フラウは、塔の中しか知らない。塔の中が、フラウの全てだ。
確かに広い世界に思いを馳せるとそわそわと胸が沸き立つけれど、フラウには塔での日々があればそれでいいと思っていた。ずっと、塔の中で暮らしていられれば、アストールと一緒に毎日を過ごしていければ、それで充分だった。
けれど、アストールにとってはそうではない。
アストールには、彼に相応しい、もっと広い世界があることを、フラウは知ってしまった。
ようやく、アストールに傍にいたいと伝えられ、いてもいいよと言ってもらえたのに。
「それは、正しくないことなのかもしれない」
そう、フラウが呟いたとき。
「何がだ?」
ふいに背後からかけられた声に、彼女はびくりと肩をはね上げる。
パッと振り返ると、いつからいたのか、アストールが戸口に立っていた。考え事をしていたせいで、扉が軋む音にも気づかなかったらしい。
「アストールさま」
名を囁いたフラウに、彼は無言で近づいてくると彼女の頬に手を伸ばした。そこに触れて、ムッと眉をしかめる。
「冷えているじゃないか。まだ気温が低いのだから、こんなところにいたら風邪をひく」
そう言って、フラウを自分の上着の中に抱き込んだ。
確かに、展望台を吹き抜ける風がいつの間にかフラウの体温を奪っていたようだ。アストールの温もりに包まれて、その心地良さに彼女はホッと息をつく。
耳を押し当てているアストールの胸からは、ゆったりとした鼓動が伝わってきた。寝台を共にしていた頃は毎晩耳にしていた音だ。フラウは目を閉じてそれに聴き入る。
この温もりもこの音も、本来、知ることがなかったはずのものだ。
とてつもない幸運に恵まれて得ることができたものなのだから、失うことになったとしても、仕方がないことなのかもしれない。
(失いたくない。失いたくない、けど……)
フラウがキュッと唇を噛んだとき、背中に回されているアストールの腕に力がこもった。
「何を考えている?」
ふいに問いかけられて、フラウは息を呑む。
フラウが答えられずにいると、また、アストールの腕の力が強くなる。少し苦しさを覚えるほどだったけれども、解いて欲しいとは思えなかった。
黙ったままのフラウに苛立ったのか、アストールが荒く息をつく。
「僕が何者でも、何も変わらないからな」
頭のてっぺんに口づけるようにしてぼそりと落とされたその言葉を、フラウは嬉しく思った。けれど、頭の片隅にこびりついた不安は消しきれない。
「でも、お城に戻ることは、アストールさまが『しなければならないこと』ではないのですか?」
アストールが放そうとしてくれないから、フラウは彼の胸元に向けてそう問いかけた。アストールは腕の力をほんの少しも緩めることなく彼女に答える。
「王位を継ぐ者は僕の他にもう三人いる。この十年、彼らが世継ぎとして公務を行ってきたんだ。今更僕が出る幕はない。今更僕がしゃしゃり出たところで、十年かけて培ったものを叩き壊してしまうだけだ」
「でも、アストールさま」
フラウの反論を、アストールは彼女の頭をギュッと彼の胸に押しつけることで封じてしまう。
「国に僕は必要ない。僕を必要としているのはお前で、僕もお前を必要としている。だから、僕はここに留まるし、お前を手放しもしない。それでいいんだ」
もう一度「それでいい」と囁きながら、アストールがフラウを全身で抱きすくめた。
それはまるで離れていこうとしているフラウを引き戻そうと――決して離れていかないように、彼の中に閉じ込めようとしているかのようだった。
(アストールさまも、不安なの?)
もしもそうなら、その不安を消し去ってあげたい。
絶対に離れないと繰り返しフラウが伝えれば、きっとそれは成し遂げられるだろう。
けれど、果たしてそれは、アストールにとって正しいことなのだろうか。アストールが、本当に心の底から望んでいることなのだろうか。
力を制御できるようになろうと頑張ったのは、家族の元へ帰るためだったはずだ。フラウが傍にいることで、アストールには本当の望みが見えなくなってしまっているのだということは、ないのだろうか。
もしも、そうならば。
(どうするのが、アストールさまにとって一番良い道になるのだろう)
フラウは小さなため息とともに押し付けられているアストールの胸に頬を摺り寄せ、彼の背中にそっと手を伸ばした。
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