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記憶の底に沈むもの
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――そんなつもりではなかった。
――あんなことをするつもりは、なかった。
誰もいない空間でうずくまるアストールの頭に繰り返し浮かんでくるのは、懺悔ばかりだ。
自分の鼻先も見えないような暗闇の中、両手を染める鮮やかな紅色だけがはっきりと見て取れる。それが滑った感触を持つ液体であることも、鉄錆の臭いをしていることも知っていた。だが、今五感が認識しているものは、色だけだ。
握り締めたアストールの拳は、小さかった――まるで幼い子どものもののように。
自分がいるのは『今』、いや、現実ですらない。
アストールには、それが夢だと判っていた。
何故なら、しゃがみこんで顔を伏せている小さなアストールを俯瞰しているもう一人のアストールが存在しているから。
佇むアストールの足元で縮こまっているのは、まだ十かそこらのアストールだ。
どちらが本物のアストールなのかは判らない。だが、悔恨と、それと同じくらいの自己憐憫に浸っている子どもに、彼は苛立ちを覚える。
(お前に、誰かの憐れみを受け取る権利があると思っているのか)
たとえそれを与える者が己自身であっても、アストールは、一切の憐情に値しない人間だというのに。自分がしたことから逃げ出し、被害者面をしている子どもに、同情の余地などなかった。
アストールは舌打ちと共に手を伸ばし、うつむいたままの子どもを立ち上がらせようとした。が、指先が彼の腕に触れた瞬間、スゥッと子どもに引き込まれてしまう。
すぐさまもがいて逃れようとしたアストールに、どっと思念の網が絡みついてくる。
お前が悪い。
僕のせいじゃない。
お前のせいで『彼女』は全てを失った。
わざとやったわけじゃない。あんなことは、欠片も望んでいなかった。
堂々巡りの自責と自己弁護がぐるぐる廻ってアストールを雁字搦めにする。
ふいに目の前に現れた、倒れ伏す一人の女性の姿。
アストールは奥歯を食いしばる。
確かにあれは、故意ではなかった。だが、何より重要なのは、彼が何をしてしまったのか、だ。
(僕には、幸福を手に入れる資格がない)
ゼスと二人きりでの塔の暮らしは、アストールに相応しいものだった。
まずい食事に不便な生活。
ゼスは、犯した罪をアストールに忘れさせないための存在。アストールの世話人として他にもっと適任者がいたにも関わらずゼスがこの塔についてくることに名乗りを上げたのも、きっとそのためだったはずだ。
(僕に、『味方』など必要ない)
ずっと独りでいい――そうであるべきなのだ。
アストールは光も温もりも、手に入れてはならない。それに相応しい者ではないのだから。
そのはず、だったのに。
あの子さえ、現れなければ。
アストールにとって善きものとして想起されるのは、輝く白銀の髪に春の空の色の瞳だ。
彼が名前を呼べばその瞳が嬉しそうに輝き、唇は微かに綻ぶ。
何よりも大事な、希少な宝玉のような――いや、アストールにとってはそれ以上に価値ある唯一無二のもの。
(だが、僕は、あの子を得るに値しない)
自明の事実に、アストールの腹の底が冷えた。無意識のうちに暖を求めて、腕の中の温もりをきつく抱き締める。
十年前にアストールの前に現れてから、ずっと、彼を照らし温めてくれていた、光。
その温もりは、アストールにとってなくてはならないものだった。
ずっと、その温かさに甘えてきた。
(あの子のために変わろうと思った)
変わることができたなら、過去の罪を清算し、幸福を――あの子を求めても許されると思った。
けれど、罪は消えることはない。ただ、忘れただけ。
失いたくはない。
失いたくはない、が。
頭で手放さなくてはならないと思えば思うほど、身体はそれに抗った。
と、ふいに。
ふわりと、頭に何かが触れた。そこから優しさに満ちた慰撫が与えられ、閉じていたアストールの心が緩んだ。
その隙間から、声がしみ込んでくる。
『どんなあなたでも、あなたが何をしたとしても、わたしはアストールさまのお傍にいます』
まだ幼さを感じさせる甘い声で告げられるそれは、一度だけでは終わらなかった。
傍にいたい。
傍にいさせて欲しい。
二度、三度と繰り返される声からは、何が何でもアストールに届けたいという想いが伝わってきた。
(どうして、こんなに愛おしい)
その声が聴こえてくるたびアストールの中にこみあげてくるのは、狂おしいほどの愛おしさだ。
自分はそれに相応しくない、手に入れてはならないと理解しながら、どうしてもその声を、その温もりを、拒めない。
(僕には、無理だ)
アストールは、それを――フラウを、手放せない。
微かな絶望めいた思いがにじんだ、諦念。
ふいに、彼は眠りから覚めた。
「夢……」
アストールはポツリと呟いた。
しかし、確かに何か夢を見ていたことは覚えているが、その内容は思い出せない。
「なんだか、疲れた」
眠っていたはずだというのに、まるで全力で走り回っていたかのような疲労感がある。
ため息をついた時、アストールは、自分の背中に小さな手が回されていることに気が付いた。良く眠っているのか、フラウの手に力は入っていない。けれども、いつもはただアストールの胸の中に納まっているだけのフラウが、彼を抱き締めようとするかのようにその腕を伸ばしていた。
アストールは柔らかな白銀の髪に指を潜らせ、そっと梳く。ふわふわとしたくせ毛だというのに、それはするりと零れ落ちた。
幼かった頃でさえ、フラウの方からアストールにしがみついてきたことはない。だが、態度で表したことはなくても、彼女が彼を慕っていることは、否が応でも伝わってきた。
それはきっと、ひな鳥の刷り込みのようなものだったのだろう。
初めて彼女に触れ、初めて想いを込めて彼女の名前を呼んだのが、アストールだったから。
ずっと、フラウに触れる者はアストールだけで、フラウの居場所はこの塔だけのはずだった。
しかし、ひな鳥はいずれ育ち親元から巣立っていくものだ。現に、今のフラウは塔の外にもつながりを持っている。いつでもここから飛び立てる。
ルイ村での光景が、フラウが帰る場所がこの塔だけではなくなったのだという現実を、アストールに突き付けた。
だが。
アストールはそっとフラウを引き寄せ、つむじに口づける。
「お前は、僕のものだ」
今まで何度も繰り返してきたその言葉を吐いたとき、アストールのこめかみがズキリと痛みを訴えた。
――まるで、彼の主張に異議を唱えるかのように。
――あんなことをするつもりは、なかった。
誰もいない空間でうずくまるアストールの頭に繰り返し浮かんでくるのは、懺悔ばかりだ。
自分の鼻先も見えないような暗闇の中、両手を染める鮮やかな紅色だけがはっきりと見て取れる。それが滑った感触を持つ液体であることも、鉄錆の臭いをしていることも知っていた。だが、今五感が認識しているものは、色だけだ。
握り締めたアストールの拳は、小さかった――まるで幼い子どものもののように。
自分がいるのは『今』、いや、現実ですらない。
アストールには、それが夢だと判っていた。
何故なら、しゃがみこんで顔を伏せている小さなアストールを俯瞰しているもう一人のアストールが存在しているから。
佇むアストールの足元で縮こまっているのは、まだ十かそこらのアストールだ。
どちらが本物のアストールなのかは判らない。だが、悔恨と、それと同じくらいの自己憐憫に浸っている子どもに、彼は苛立ちを覚える。
(お前に、誰かの憐れみを受け取る権利があると思っているのか)
たとえそれを与える者が己自身であっても、アストールは、一切の憐情に値しない人間だというのに。自分がしたことから逃げ出し、被害者面をしている子どもに、同情の余地などなかった。
アストールは舌打ちと共に手を伸ばし、うつむいたままの子どもを立ち上がらせようとした。が、指先が彼の腕に触れた瞬間、スゥッと子どもに引き込まれてしまう。
すぐさまもがいて逃れようとしたアストールに、どっと思念の網が絡みついてくる。
お前が悪い。
僕のせいじゃない。
お前のせいで『彼女』は全てを失った。
わざとやったわけじゃない。あんなことは、欠片も望んでいなかった。
堂々巡りの自責と自己弁護がぐるぐる廻ってアストールを雁字搦めにする。
ふいに目の前に現れた、倒れ伏す一人の女性の姿。
アストールは奥歯を食いしばる。
確かにあれは、故意ではなかった。だが、何より重要なのは、彼が何をしてしまったのか、だ。
(僕には、幸福を手に入れる資格がない)
ゼスと二人きりでの塔の暮らしは、アストールに相応しいものだった。
まずい食事に不便な生活。
ゼスは、犯した罪をアストールに忘れさせないための存在。アストールの世話人として他にもっと適任者がいたにも関わらずゼスがこの塔についてくることに名乗りを上げたのも、きっとそのためだったはずだ。
(僕に、『味方』など必要ない)
ずっと独りでいい――そうであるべきなのだ。
アストールは光も温もりも、手に入れてはならない。それに相応しい者ではないのだから。
そのはず、だったのに。
あの子さえ、現れなければ。
アストールにとって善きものとして想起されるのは、輝く白銀の髪に春の空の色の瞳だ。
彼が名前を呼べばその瞳が嬉しそうに輝き、唇は微かに綻ぶ。
何よりも大事な、希少な宝玉のような――いや、アストールにとってはそれ以上に価値ある唯一無二のもの。
(だが、僕は、あの子を得るに値しない)
自明の事実に、アストールの腹の底が冷えた。無意識のうちに暖を求めて、腕の中の温もりをきつく抱き締める。
十年前にアストールの前に現れてから、ずっと、彼を照らし温めてくれていた、光。
その温もりは、アストールにとってなくてはならないものだった。
ずっと、その温かさに甘えてきた。
(あの子のために変わろうと思った)
変わることができたなら、過去の罪を清算し、幸福を――あの子を求めても許されると思った。
けれど、罪は消えることはない。ただ、忘れただけ。
失いたくはない。
失いたくはない、が。
頭で手放さなくてはならないと思えば思うほど、身体はそれに抗った。
と、ふいに。
ふわりと、頭に何かが触れた。そこから優しさに満ちた慰撫が与えられ、閉じていたアストールの心が緩んだ。
その隙間から、声がしみ込んでくる。
『どんなあなたでも、あなたが何をしたとしても、わたしはアストールさまのお傍にいます』
まだ幼さを感じさせる甘い声で告げられるそれは、一度だけでは終わらなかった。
傍にいたい。
傍にいさせて欲しい。
二度、三度と繰り返される声からは、何が何でもアストールに届けたいという想いが伝わってきた。
(どうして、こんなに愛おしい)
その声が聴こえてくるたびアストールの中にこみあげてくるのは、狂おしいほどの愛おしさだ。
自分はそれに相応しくない、手に入れてはならないと理解しながら、どうしてもその声を、その温もりを、拒めない。
(僕には、無理だ)
アストールは、それを――フラウを、手放せない。
微かな絶望めいた思いがにじんだ、諦念。
ふいに、彼は眠りから覚めた。
「夢……」
アストールはポツリと呟いた。
しかし、確かに何か夢を見ていたことは覚えているが、その内容は思い出せない。
「なんだか、疲れた」
眠っていたはずだというのに、まるで全力で走り回っていたかのような疲労感がある。
ため息をついた時、アストールは、自分の背中に小さな手が回されていることに気が付いた。良く眠っているのか、フラウの手に力は入っていない。けれども、いつもはただアストールの胸の中に納まっているだけのフラウが、彼を抱き締めようとするかのようにその腕を伸ばしていた。
アストールは柔らかな白銀の髪に指を潜らせ、そっと梳く。ふわふわとしたくせ毛だというのに、それはするりと零れ落ちた。
幼かった頃でさえ、フラウの方からアストールにしがみついてきたことはない。だが、態度で表したことはなくても、彼女が彼を慕っていることは、否が応でも伝わってきた。
それはきっと、ひな鳥の刷り込みのようなものだったのだろう。
初めて彼女に触れ、初めて想いを込めて彼女の名前を呼んだのが、アストールだったから。
ずっと、フラウに触れる者はアストールだけで、フラウの居場所はこの塔だけのはずだった。
しかし、ひな鳥はいずれ育ち親元から巣立っていくものだ。現に、今のフラウは塔の外にもつながりを持っている。いつでもここから飛び立てる。
ルイ村での光景が、フラウが帰る場所がこの塔だけではなくなったのだという現実を、アストールに突き付けた。
だが。
アストールはそっとフラウを引き寄せ、つむじに口づける。
「お前は、僕のものだ」
今まで何度も繰り返してきたその言葉を吐いたとき、アストールのこめかみがズキリと痛みを訴えた。
――まるで、彼の主張に異議を唱えるかのように。
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