塔の魔王は小さな花を慈しむ

トウリン

文字の大きさ
上 下
13 / 41

相反する思い

しおりを挟む
 夕食後、物問いたげなフラウの視線から逃れるようにして書斎にこもったアストールだったが、机上に広げた魔術書に記されている文字を眼で追ったところで内容はさっぱり頭に入ってこない。
 昼間ルイ村で目にしたものは、日が暮れ、夜が更けてもアストールの心に重くのしかかっていた。

 人が溢れる賑やかな村の中にいる、フラウ。
 アストールが知らない者らと言葉を交わしている、フラウ。

 それは、ごくごく自然な光景だった。
 アストールは、頭の中のどこかで、他者から距離を置かれ、そしてそれ以上に、他者とは距離を置くフラウの姿を期待していたのだと思う。塔の外では生きていけないフラウの姿を。
 だが、今日ルイ村で見たフラウは、そうではなかった。

 フラウは、ここで、この塔の中で、幸せなはずだ。
 十年間、アストールはそう思ってきた。彼女が人と触れ合うのも、人形めいた表情を和らげるのも、この塔の中だけのことなのだと。
 フラウが外の世界でも普通にやれているのなら、それは喜ばしいことのはずだというのに、アストールの中に湧いたものは暗く鬱屈した思いだけだった。

 アストールの中に今も鮮明に残っているのは、この塔に来たばかりのフラウだ。
 喜怒哀楽いずれの表情も欠いていて、愛らしいけれども人形のようだった、少女。
 ただ名を呼ばれるだけ、ただ触れられるだけで戸惑いに満ちた喜びを見せていた、少女。
 アストールだけのものだと言えるのは、そんなフラウだ。フラウの中でアストールだけが特別だから、彼は彼女を独占することが許されるのだと、悠長に構えていた。

 なのに、あの光景で、それが揺らいでしまった。

 帰路の馬車の中でも夕食の間も押し黙ったままのアストールに、ゼスは呆れたような、フラウは案ずるような眼差しを向けてきていたことには気付いていたが、彼はそれに応えることはしなかった。いや、できなかったのだ。
 塔の中には、アストールとゼスとフラウの三人だけ。
 安寧に満ちた――しかし、閉ざされた空間だ。

 目を閉じたアストールの脳裏に、八百屋の親子と語らうフラウの姿がよみがえる。通りすがりに声をかけてくる者にも、彼女は自然に応じていた。ごく、自然に。
 きっと、この塔から解放し、あそこに行かせてやることが正しい道なのだろう。
 ゼスが言う通り、他者から魔力を奪うというフラウの特性を解決する方法を見つけて、外の世界に解き放ってやることが、彼女の幸せになるのだろう。
 そうは思っても、自分以外の誰かに笑いかけているフラウを思い浮かべるだけで、アストールは胸が悪くなるのだ。

 不機嫌な自分をフラウに見せているのが耐え難く、夕食を終えた後は早々に書斎に閉じこもったものの、気持ちの立て直しをできぬまま就寝時間を迎えつつある。
 フラウと顔を合わせたくないなど、十年間で初めてだ。
 アストールはイライラと黒髪を掻き乱した。
(今日はあの子を呼ばないでおこうか)
 フラウといたくないのではない。こんなみっともない自分を彼女に見られるのが嫌なのだ。

 迷うアストールの耳に、そっと扉を叩く音が届く。
 その叩き方から扉の外にいるものが誰なのか、容易に知れた。
 アストールはグッと奥歯を食いしばり、表情を整えてから応える。
「入れ」
 彼の返事で入ってきたのは、予想違わずフラウだ。近づいてくると、初めて嗅ぐ良い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。香りのもとは、彼女が手にしているカップのようだ。
「どうぞ」
 言いながら、フラウはアストールの前にカップを置く。中身は柑橘類の皮と思しき物が沈んだ金色の液体だ。

「これは?」
「ユズ茶と言うそうです。東の方の飲み物で、行商の人が持ってきたんだって、八百屋の女将さんが言ってました。身体が温まるから、寝る前に飲むと良いそうです」
「へぇ……」
 アストールは一口含んでみる。心地良い香りと、蜂蜜らしい甘さが満ちた。
「美味いな」
 思わず呟くと、フラウの顔が綻んだ。
「良かった」
 心底から嬉しそうなその笑顔に、アストールのみぞおちの奥がギュッと締め付けられる。
「お前は飲んでいないのか。ほら」
 アストールはフラウの手を引き自分の膝の上に座らせた。そのまま彼女の口元にカップを運ぶ。そこまでしてしまってから、自分の行動に気がついた。

(何をやっているんだ、僕は)
 ついさっきまで、フラウの為には彼女を手放すべきではないかと葛藤していたというのに。
 フラウの笑顔一つで、いとも簡単に天秤がカタンと傾いてしまう。
 アストールは己の堪え性のなさに歯噛みをしたが、そんなことなど露知らぬのフラウは彼の手に小さな手を重ね、そのままカップを傾けた。こくりと喉を鳴らした彼女は、束の間目を丸くし、パッと顔を輝かせる。
「おいしいです!」
 アストールの膝の上にいると、フラウとはちょうど視線の高さが同じになる。青灰色の瞳と間近で真っすぐ目が合った。彼は、その中に安堵の色を見つけてしまう。
 きっと、アストールの妙な態度がフラウを不安にさせていたのだろう。

(ああ、クソ)

 本当に、どうするのが正しい答えなのかが、判らない。
 取るべき行動を決めかねて、アストールはカップを置いた。するべきこと、したいことが彼の中でクルクルと入れ替わり、定まらない。

 と。

 一瞬、何が起きたのか解らなかった。
 アストールの肩に回された華奢な腕。
 耳をくすぐる柔らかな白銀の髪。
 柔らかな身体が、まるで強張ったアストールを温めようとしているかのように、ぴたりと押し付けられていた。

 ――フラウに抱き締められている。
 そう認識できたのは、数回呼吸をしてからのことだ。
 アストールがフラウを抱き締めるのは毎日のようにしてきたが、その逆は――フラウがアストールを抱き締めるのは、記憶に残る限り初めてだった。

「フラウ、どうした」
 困惑しかない声でどうにかそれだけを口にすると、フラウがアストールの肩口に埋めていた顔を上げた。鼻先が触れ合いそうな距離で、春の早朝の色を映した瞳が彼を見つめている。
「わたしの気持ちをどうしたらお伝えできるのかなって」
「口で言えばいいだろう」
 何かを伝えるために言葉というものがあるのだから。
 だが、フラウは小さくかぶりを振る。
「伝えたいのは考えてることじゃなくて気持ちです」
 そう言って、また、ぎゅぅとしがみついてきた。その言葉の通り、触れ合う場所からアストールへ何かを染み渡らせようとしているかのように。

 フラウから伝わってくるものは、温もりと柔らかさだ。それは、取りも直さず彼女そのもので。
 殆ど条件反射で抱き締め返そうとしたアストールの脳裏に再び昼間の光景がよみがえり、彼はぎくりと身を強張らせた。
「アストールさま?」
 彼を見るためか、フラウの腕が解かれ、離れようとする気配があった。
 今の自分の顔を、彼女に晒したくはない。
 フラウが動くより先にアストールは彼女の腰と頭の後ろに手を回し、グッと引き寄せた。と同時にこみあげてくる、充足感。フラウを抱き締めると、いつもそうだった。小さな身体が胸の中にすっぽりと納まると、正しいことなどどうでも良いように思えてくる。

「アストールさま?」
 くぐもった声が胸元から届いたが、返事を拒んで一層腕の力を強くする。
(このまま、この腕の中に閉じ込めておけたらいいのに)
 アストールは押し黙ったままフラウをきつく抱きすくめ、白銀の髪に頬を埋める。息をすれば、甘い花のような香りが胸を満たした。
 ややして、もぞもぞとフラウが身じろぎをし、再び彼女の手がアストールの背に回った。それが、慰撫するようにそっと撫でてくる。そこからアストールが感じ取ったフラウの想いは、きっと、彼女が伝えたいと思っているものと相違ないのだろう。

 だが。

 自分は、フラウに慕われるに値しない。
 彼女の幸せを求めつつ、それを実現するための道は選ぼうとしない卑怯な男には。

 自嘲と共に胸中でそう呟いたとき、ふいに、それに被せるように頭の中で小さな声が囁いた。
 ――この無垢な少女に相応しくない理由は、他にもあるだろう、と。
 刹那、記憶の底で揺らめいた深紅。消したくても、決して消せない――消してはならない、罪の色。
 
 それを押し潰すように固く目を閉じても、その色がアストールの眼裏から消え去ることは、なかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

子持ちの私は、夫に駆け落ちされました

月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

【完結】今世も裏切られるのはごめんなので、最愛のあなたはもう要らない

曽根原ツタ
恋愛
隣国との戦時中に国王が病死し、王位継承権を持つ男子がひとりもいなかったため、若い王女エトワールは女王となった。だが── 「俺は彼女を愛している。彼女は俺の子を身篭った」 戦場から帰還した愛する夫の隣には、別の女性が立っていた。さらに彼は、王座を奪うために女王暗殺を企てる。 そして。夫に剣で胸を貫かれて死んだエトワールが次に目が覚めたとき、彼と出会った日に戻っていて……? ──二度目の人生、私を裏切ったあなたを絶対に愛しません。 ★小説家になろうさまでも公開中

探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?

雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。 最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。 ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。 もう限界です。 探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。

将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです

きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」 5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。 その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?

処理中です...