塔の魔王は小さな花を慈しむ

トウリン

文字の大きさ
上 下
8 / 41

フラウの居場所

しおりを挟む
(そういえば、ここに来てからもう十年になるんだな)

 ルイ村に行くための身支度をしながら、フラウはふと思った。
 ここに来て、アストールを主としてから、もう十年。

 フラウたちが住む塔は、セイラム王国の東にある――らしい。
 そう言われても、フラウが知っているのは孤児院とこの塔だけで、王国の東にあると言われてもあまりピンとこない。以前にゼスが地図を広げて説明してくれたけれども、やっぱり良く判らなかった。孤児院にいた頃は幼過ぎて自分がどこにいるのかなんて考えたこともなかったから、実質、彼女が知っている『世界』はこの塔と最寄りのルイ村くらいのものだ。

 セイラム王国と東の隣国との境には、黒の森と呼ばれる森がある。昼でも陽が遮られるほどうっそうと木々が茂っていることからつけられた呼び名だ。アストールが住む塔はここから一番近いところにあるルイ村とその黒の森との間にあって、元々は森を――隣国からの侵入を監視するための望楼として建てられたものなのだとか。塔が見張り台としての役割を終えたのは、およそ五十年前、セイラム王国が隣国と同盟を結んだときだ。

 一番近くにあるルイ村でさえも簡単に赴くことができないような辺鄙なところにアストールが住んでいる理由を、フラウは知らない。
 アストールは十歳そこそこでここに来たらしいが、彼の両親は存命で、遠く離れた王都にいるのだとか。
 それをフラウが知ったのは五年ほど前のことだっただろうか。どういう流れだったかは覚えていないけれども、何かの話の流れで、さらりと知らされた。

 フラウは、親を知らない。だから、親を恋しがる気持ちを実感として持っているわけではないけれども、普通、子どもは親を求めるものらしい。

 だから、その時アストールに訊いたのだ。

「ご両親のところに帰りたくはないのですか?」

 と。

 フラウのその問いに、けれど、アストールは素っ気なく肩をすくめて返しただけだった。
「僕にはお前がいるからね」
 そう言って膝の上の本に目を戻してしまったアストールは、それ以上の追及を拒んでいるように見えて、フラウは、それきり彼の家族のことを訊くことはしなかった。なので、彼がここに来た理由は、今も知らないままだ。

(でも、別にどうでもいいことだもの)
 フラウにとってはアストールとゼスの傍にいられることが全てだったから、それらを知る必要は感じられず、知りたいとも思わなかった。
 それは、今でも変わらない。
 何年経っても、フラウにとって、アストールといることだけが大事なのだ。

(一緒にいられるなら、それでいいの)

 自分は幾つまで両親と一緒にいたのかも、どうして別れることになったのかも、フラウは知らない。
 孤児院に入るまでのことで薄っすらと記憶に残っているのは、少しでも雨や風をしのぐため、狭い路地裏で縮こまっていたことくらいだ。
 孤児院に入れられてからは、寒さに震えることはなくなった。あの頃は、それで充分だと思っていた。
 眠るときに雨に打たれることもなく、飢えながらさまようこともなく。
 物置小屋でただ独り、誰とも言葉を交わすこともなく、誰とも触れ合うこともなく一日を終えたとしても、凍えることがなく、飢えることもない日々を送れるなら、それで充分幸せなのだと思っていた。

(でも、そうじゃなかった)

 今、フラウは幸せだ。
 アストールと、ゼスがいて。

 孤児院での生活は、手放すことに何のためらいも感じなかった。失っても、惜しいとは思わなかった。

 けれど。

 もしも、ここでの日々を諦めろと言われたら、自分はどうするだろう。もうフラウのことは要らなくなったからよそへ行けと言われたら。
 すんなりと頷くことができるだろうか。

 判らない――そうできる自信がない。

 キュッとフラウが唇を噛み締めたとき。

「フラウ!」
 その声に、彼女はピクンと肩をはねさせる。

 呼んだのは、アストールだ。
 彼に呼ばれるのは、孤児院で呼ばれていた時とは、何かが違う。あの頃は、ただ名前を呼ばれるだけで、こんなふうに胸が温かくなることはなかった。名前は、ただのフラウを他の子どもと識別するための呼称に過ぎなくて。
 けれど、彼やゼスの声で呼ばれると、それが自分の名前だと、ただの『フラウ』という音ではなく、特別な意味を持つ何かだと、感じさせる。

 屋根があるだけではなくて。
 食事が出るだけではなくて。
 名前を呼ばれるだけではなくて。

 そこにはアストールがいなければいけない。
 アストールがいて初めて、ここはフラウの居場所になるのだ。

「フラウ? まだか? 時間が無くなるぞ?」
 部屋の入り口から、焦れた表情を浮かべたアストールが覗きこんでくる。自分が寝起きにぐずぐずしていたことなど、すっかり棚に上げて。

 アストールは、わがままだ。
 いつだって自分の思う通りにしないと気が済まない、わがままな、けれども何より大切なフラウの主。

「もう行けます」
 答えながら巾着の物入れを取って小走りで向かうと、彼は当然のようにフラウに手を差し伸べてきた。そこにのせた彼女の手が、すっぽりと包み込まれる。
 自ずと浮かんだフラウの微笑みに、アストールが眉を上げた。
「何だ?」
「なんでも、ないです」
 小さくかぶりを振ったフラウを怪訝そうに見返してから、彼は歩き出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

子持ちの私は、夫に駆け落ちされました

月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?

雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。 最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。 ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。 もう限界です。 探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。

将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです

きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」 5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。 その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?

君は妾の子だから、次男がちょうどいい

月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、彼女は片田舎で遠いため会ったことはなかった。でもある時、マリアは妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。

処理中です...