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毎朝の恒例行事
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小鳥の鳴き声が、聴こえる。
その囀りと窓から差し込む朝日に、フラウの眠りが浅くなった。微かに身じろぎをすると、フラウに巻き付いていた腕に力がこもった――いつものように。
「アストールさま、朝です。放してください」
その声掛けで放してもらえたためしがないが、一応、フラウはピタリと背中にくっついているアストールにお願いしてみる。トントンと、お腹のあたりにある二の腕を叩きながら。フラウのものと違う硬くて重いそれは、持ち上げようとしてもびくともしないし、うっかりするといっそうきつく締め付けられてしまうから、外すことはとうに諦めている。
「……まだいいだろう」
案の定返ってきたのはまだ半分眠りの中にいるような声でのその一言で、フラウはふぅと息をついた。
フラウが暮らすこの塔は、一番近くにあるルイ村に行くにも馬車で半日近くかかる辺鄙な場所にある。
住んでいるのは、彼女の他に、主のアストールと料理人のゼスだけだ。
フラウは洗濯と掃除を任されているけれど、数年前にアストールが魔術で動く洗濯装置を作ってくれて、洗濯はすることがなくなった。それがフラウの仕事だったから、ちゃんと自分ですると言ったのに、彼女の手が荒れるのが気に入らないと、禁止されてしまったのだ。
掃除にしても、ある程度の大きさがあるものはアストールが魔力を使って動かしてしまえるから、フラウに残されているのは細かいところの埃をきれいにするくらい。
何度か「わたしの存在意義がなくなってしまう」とアストールに訴えたことがあるけれど、毎回すげなく一蹴された。フラウの一番大きな役割は、彼の抱き枕になることなのだから、と。
(でも、それって、ただ寝ているだけなんだよね)
アストールに最優先事項だと言われても、やっぱり、それが仕事だとは思えない。
せめて、目覚まし時計としては役に立とうと朝が来るたび頑張ってはみるのだが。
「あんまりお寝坊だとまたゼスさんに怒られますよ?」
そうたしなめても、アストールの腕の力は強まるばかりだ。
「……放っとけ」
どうにかこうにか半分身を起こせたところだったのに、その台詞と共にまた彼の胸の内に引きずり込まれてしまう。
フラウが来る前はあまり眠れない人だったらしいけれども、こんなアストールを見ていると、そんなふうには思えない。
(仕方がないな)
アストールにすっぽりと包み込まれて、フラウは諦めの境地に至った。力を抜くと、アストールが満足したように小さく笑う。
これも、いつものこと。
毎朝毎朝、フラウが目覚めてからアストールから解放されるまで、四半刻はかかってしまうのだ。
フラウがここに来てからもう十年になる。孤児で確かな記録は残っていないそうだけれども、来た時の彼女の年齢は五、六歳だったらしい。
当時はまだ小さかったせいで、ここに来る前のことや、来たばかりの頃のことは、あまり覚えていない。どうして主であるアストールと一緒に眠ることになったのかも。
この塔にはフラウの部屋もあるし、そこに彼女用の寝台もある。にもかかわらず、それを使ったことは、多分、ない。少なくとも記憶に残る限りでは、毎晩、眠るときにはアストールの腕の中だ。
フラウの前にも、ゼス以外の使用人を雇ったことがあるらしい。
いつだったか、その人たちのこともこうやって抱き締めて眠っていたのかとアストールに訊いてみたけれど、思いきり変な顔が返ってきただけだった。その後しばらく彼が不機嫌になってしまったから、尋ねたのはその一度きりだ。
(なんであんな顔をしたのかな)
アストールが考えていることは、良く解らない。
そもそも、使用人であるフラウに仕事をさせようとしないのが、おかしい。
アストールは、フラウが常に彼の視界の中にいることを要求してくるのだ。それを叶えようとしていたら、何もできないではないか。
フラウが小さくため息をこぼしたとき、荒っぽく扉が叩かれた。と、返事を待つことなく、勢い良く開け放たれる。
「アストール様! 朝ですよ、起きてください!」
大股で歩み寄ってきたゼスは、そんな掛け声とともにバサリと布団を剥ぎ取った。
「ゼス……朝からうるさい」
「こうしないとあなたが起きないからですよ。ほら、さっさとフラウを放してやってくださいよ」
「いやだ」
「嫌だじゃないです。今日は買い出しの日ですから、さっさとしてください。あなたを置いて行ってもいいならいいですけど?」
「ゼス一人で行ったらいいだろ。フラウは置いていけ」
「年頃の女の子が必要とするものを、三十路の男に買わせる気ですか。それに久しぶりに都からの行商人が来るんですから、新しい服くらい見繕ってやりたいでしょう」
「……都から……?」
その言葉に触発されたらしく、不満そうに唸りながらも、ようやくアストールがフラウを解放してくれた。身を起こした彼女に、ゼスが一転笑顔になる。
「おはよう、フラウ」
「おはようございます、ゼスさん」
「いつもいつも、図体ばかりデカくなった子どもの相手、すまないね。着替えておいで。朝飯食ったら出発しないと」
「はい」
ゼスとフラウの会話の中に、アストールが不満そうな声で割って入ってくる。
「誰が子どもだ」
「大人なら、毎朝人に起こさせないでくださいよ。まったく」
肩をすくめながら言ったゼスに、アストールが舌打ちを返す。
これもまた、飽きもせず毎朝繰り返されている遣り取りだった。
一応、アストールが主、ゼスが従のはずだけれども、そうは見えない。
(村で見る兄弟みたい)
フフッと小さく笑ったフラウに、二人が揃って怪訝そうな眼を向けてきた。
その囀りと窓から差し込む朝日に、フラウの眠りが浅くなった。微かに身じろぎをすると、フラウに巻き付いていた腕に力がこもった――いつものように。
「アストールさま、朝です。放してください」
その声掛けで放してもらえたためしがないが、一応、フラウはピタリと背中にくっついているアストールにお願いしてみる。トントンと、お腹のあたりにある二の腕を叩きながら。フラウのものと違う硬くて重いそれは、持ち上げようとしてもびくともしないし、うっかりするといっそうきつく締め付けられてしまうから、外すことはとうに諦めている。
「……まだいいだろう」
案の定返ってきたのはまだ半分眠りの中にいるような声でのその一言で、フラウはふぅと息をついた。
フラウが暮らすこの塔は、一番近くにあるルイ村に行くにも馬車で半日近くかかる辺鄙な場所にある。
住んでいるのは、彼女の他に、主のアストールと料理人のゼスだけだ。
フラウは洗濯と掃除を任されているけれど、数年前にアストールが魔術で動く洗濯装置を作ってくれて、洗濯はすることがなくなった。それがフラウの仕事だったから、ちゃんと自分ですると言ったのに、彼女の手が荒れるのが気に入らないと、禁止されてしまったのだ。
掃除にしても、ある程度の大きさがあるものはアストールが魔力を使って動かしてしまえるから、フラウに残されているのは細かいところの埃をきれいにするくらい。
何度か「わたしの存在意義がなくなってしまう」とアストールに訴えたことがあるけれど、毎回すげなく一蹴された。フラウの一番大きな役割は、彼の抱き枕になることなのだから、と。
(でも、それって、ただ寝ているだけなんだよね)
アストールに最優先事項だと言われても、やっぱり、それが仕事だとは思えない。
せめて、目覚まし時計としては役に立とうと朝が来るたび頑張ってはみるのだが。
「あんまりお寝坊だとまたゼスさんに怒られますよ?」
そうたしなめても、アストールの腕の力は強まるばかりだ。
「……放っとけ」
どうにかこうにか半分身を起こせたところだったのに、その台詞と共にまた彼の胸の内に引きずり込まれてしまう。
フラウが来る前はあまり眠れない人だったらしいけれども、こんなアストールを見ていると、そんなふうには思えない。
(仕方がないな)
アストールにすっぽりと包み込まれて、フラウは諦めの境地に至った。力を抜くと、アストールが満足したように小さく笑う。
これも、いつものこと。
毎朝毎朝、フラウが目覚めてからアストールから解放されるまで、四半刻はかかってしまうのだ。
フラウがここに来てからもう十年になる。孤児で確かな記録は残っていないそうだけれども、来た時の彼女の年齢は五、六歳だったらしい。
当時はまだ小さかったせいで、ここに来る前のことや、来たばかりの頃のことは、あまり覚えていない。どうして主であるアストールと一緒に眠ることになったのかも。
この塔にはフラウの部屋もあるし、そこに彼女用の寝台もある。にもかかわらず、それを使ったことは、多分、ない。少なくとも記憶に残る限りでは、毎晩、眠るときにはアストールの腕の中だ。
フラウの前にも、ゼス以外の使用人を雇ったことがあるらしい。
いつだったか、その人たちのこともこうやって抱き締めて眠っていたのかとアストールに訊いてみたけれど、思いきり変な顔が返ってきただけだった。その後しばらく彼が不機嫌になってしまったから、尋ねたのはその一度きりだ。
(なんであんな顔をしたのかな)
アストールが考えていることは、良く解らない。
そもそも、使用人であるフラウに仕事をさせようとしないのが、おかしい。
アストールは、フラウが常に彼の視界の中にいることを要求してくるのだ。それを叶えようとしていたら、何もできないではないか。
フラウが小さくため息をこぼしたとき、荒っぽく扉が叩かれた。と、返事を待つことなく、勢い良く開け放たれる。
「アストール様! 朝ですよ、起きてください!」
大股で歩み寄ってきたゼスは、そんな掛け声とともにバサリと布団を剥ぎ取った。
「ゼス……朝からうるさい」
「こうしないとあなたが起きないからですよ。ほら、さっさとフラウを放してやってくださいよ」
「いやだ」
「嫌だじゃないです。今日は買い出しの日ですから、さっさとしてください。あなたを置いて行ってもいいならいいですけど?」
「ゼス一人で行ったらいいだろ。フラウは置いていけ」
「年頃の女の子が必要とするものを、三十路の男に買わせる気ですか。それに久しぶりに都からの行商人が来るんですから、新しい服くらい見繕ってやりたいでしょう」
「……都から……?」
その言葉に触発されたらしく、不満そうに唸りながらも、ようやくアストールがフラウを解放してくれた。身を起こした彼女に、ゼスが一転笑顔になる。
「おはよう、フラウ」
「おはようございます、ゼスさん」
「いつもいつも、図体ばかりデカくなった子どもの相手、すまないね。着替えておいで。朝飯食ったら出発しないと」
「はい」
ゼスとフラウの会話の中に、アストールが不満そうな声で割って入ってくる。
「誰が子どもだ」
「大人なら、毎朝人に起こさせないでくださいよ。まったく」
肩をすくめながら言ったゼスに、アストールが舌打ちを返す。
これもまた、飽きもせず毎朝繰り返されている遣り取りだった。
一応、アストールが主、ゼスが従のはずだけれども、そうは見えない。
(村で見る兄弟みたい)
フフッと小さく笑ったフラウに、二人が揃って怪訝そうな眼を向けてきた。
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