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手放し難い小さなぬくもり
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(何だか、眠れないな)
寝台に入ってから四半時ほど。
幾度か寝返りを打った末に、アストールはもぞもぞと起き上がった。
点け、と念じれば、枕元に置いた洋灯に火がともる。
眠れない理由は、判っている。
あの少女のことが気になるせいだ――初めてのこの場所で、ちゃんと眠れているだろうかと。
夕食の席に呼んだとき、フラウはとても驚いた様子だったとゼスは言っていた。孤児院では、ずっと独りで食事をしていたらしいと。
どうにか引っ張り出した夕食の席で、ゼスは口数が少ないフラウからずいぶんと多くのことを引き出した。知った事実を頭の中で思い返すと、アストールの腹の底はジリジリと炙られるような感覚に襲われる。
彼女は、寝る時だけでなく、食べる時も、それ以外の時も、いつでも独りだったのだ。
孤児院からの身上書ではフラウは八歳だということになっているが、それもどうも疑わしい。
フラウが孤児院に来たのが三年前だということは、確かな記録として残されている。だが、その時に五歳だったというのは、どうだろう。
孤児院に連れてこられた時、彼女は自分の名前を言えなかったらしい。名前も年齢も答えられない彼女に、孤児院はフラウという名前をつけたのだとか。ゼス曰く、普通、五歳にもなっていれば自分の名前や年齢は言えたはずだろう、と。今現在の体格からしても八歳というには無理があり、小柄な方だとしても、やはりせいぜい五、六歳というところではないかと、ゼスは結論付けた。
フラウは物置で寝起きをして、食事は独りでとって、洗濯をさせられていた。
三年間、そんな生活を送ってきた。
彼女は、それをおかしいとも思っていない――思えないのだ。そうではない生活を知らないから。
アストールは、この二年間、自分を不幸だと思っていた。
(でも、そうなのか?)
胸の中で自問し、彼は拳を握り締める。
アストールは、『独り』になったことなどない。常に、誰かがいてくれた。彼のことを愛し、心配してくれる人たちが。幸せだった頃を知っているから、今の状態を『不幸』だと感じることができるのだ。
二年前にこの塔には追いやられたけれども、この力を制御できるようになれば、帰れる場所がある。自分が待たれているということも、本当は、解かっているのだ。
(僕は、拗ねてただけだ)
責任転嫁のために無視していたその事実を、ようやく認める気になった。
アストールはため息をつき、寝台を出る。
足音を忍ばせて階段を下り、一階の、フラウの部屋に向かった。
(ちゃんと眠れていることを確認したら、戻ろう)
そう思って、そっと彼女の部屋の扉を押し開ける。
灯りがつくように念じると、仄かな明るさが部屋に満ちた。
彼は、小さな部屋の大部分を占める寝台に目を向ける。
が。
(いない!?)
いくらフラウが小さくても、寝台にいるかいないかは、一目で判るだろう。そこには、明らかに、誰もいない。
いったい、どこへ行ったのか。
慌てて部屋から出ようとして、奥に置かれている椅子がアストールの視界の隅をよぎった。
「え?」
思わず、声が漏れる。
眠るには適していない椅子の上にちょこんと収まっている、毛布の塊。その上には、白銀の綿毛がのっている。
疲れているのか、元々眠りが深い方なのか、歩み寄ったアストールが覗き込んでも起きる気配はない。
(なんでこんなところに)
寝台よりも椅子の方が寝心地が良いということはないだろう。
(広過ぎて落ち着かなかった、とか?)
と言っても、使用人用の寝台は、特別大きいものではなかったが。
(これでは休めないじゃないか)
アストールは寝台に移してやろうと、眠る少女に手を伸ばした。が、再三彼女が口にしていた、「触れるな」という言葉を思い出す。
その理由はフラウ自身知らないらしく、夕食の席でどうにかゼスが訊き出そうとしても叶わず、結局判らずじまいだった。
(どうせ、大した理由じゃないんだろ)
アストールはここにはいない孤児院の連中を罵って、フラウに触れた。
と。
スゥッと、触れたところから何かが抜けていくような感触。
それと共に、アストールは身体が軽くなったような、柔らかくなったような、不思議な感覚に見舞われる。
(なんだ、これ?)
不快ではない。
むしろ、心地良いというか、楽になったというか。
今まで彼の身体を雁字搦めにしていた見えない鎖が、消え失せたような感じだ。
「ん……」
気づかぬうちにアストールはフラウの肩を握り締めていて、彼女が漏らした小さな声で我に返る。
一体何なのだろうと眉をひそめつつ、アストールはフラウを抱き上げた。重くて持ち上がらないかもしれないと思ったが、彼女の身体は予想外に軽く、むしろその軽さのせいでふらついてしまうくらいだった。
(うわ、何だこれ)
腕の中にすっぽりと納まるぬくもりに、アストールの胸の内がほわほわとした心地良さに満たされる。幼い頃に庭に迷い込んできた仔猫を抱き上げたときに感じたものに、似ているかもしれない。無性に力を込めて抱き締めたくなったが、さすがにそんなことをしたら起こしてしまうだろうから、自重した。
アストールは寝台に向かい、フラウをそこに下ろそうとする。が、離れようとして、彼女の手が彼の胸元を握り締めていることに気が付いた。小さな手はあかぎれだらけで、それを目にした瞬間、アストールのみぞおちがキュッと痛んだ。
華奢な指にたいして力は入っていないから、外そうとすれば簡単にできただろう。
だが、アストールはそうせず、フラウの隣に寝転んで彼女を胸の中に引き寄せた。
(温かい)
思わずギュッと抱き締めると、フラウが「んん」と微かに声を漏らした。
アストールはハッと我に返って腕の力を緩める。そうすると、今度はフラウの方がもぞもぞと動いて、暖を求めるかのようにアストールに身を摺り寄せてきた。
今度はそっと、華奢な背に手を回す。
小さな身体はさして長くもないアストールの腕の中にすっぽりと納まって、彼はそこにあるべきものを取り戻したような心持ちになる。
こんなふうに誰かを抱き締めたのは、きっと初めてだ。ふとした拍子に力を暴発させるアストールに近づこうという者は、滅多にいなかったから。
アストールはフラウに回した腕に力を込めて、ふわふわのくせ毛に頬を寄せる。
小さく、温かく、柔らかい。
(この子は、僕のものだ)
ゼスが訊き出した限りでは、フラウは天涯孤独の身だった。
孤児院でも居場所がなく、ここを追い出せばどこにも行く当てがない。この小さな子どもを欲しがっているのは、自分だけなのだ。
だが、仮に誰か他の者がフラウを求めたとしても。
(放すものか)
アストールは胸の中で宣言し、丸い頭に口づける。柔らかな白銀の髪に頬を埋めると、甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。
伝わってくる寝息と、自分のものよりも少し速い鼓動と。
こうしているのはフラウのためなのか、それとも、アストール自身のためなのか。
その答えはあやふやなうちに、彼は眠りの中に引きずり込まれていった。
寝台に入ってから四半時ほど。
幾度か寝返りを打った末に、アストールはもぞもぞと起き上がった。
点け、と念じれば、枕元に置いた洋灯に火がともる。
眠れない理由は、判っている。
あの少女のことが気になるせいだ――初めてのこの場所で、ちゃんと眠れているだろうかと。
夕食の席に呼んだとき、フラウはとても驚いた様子だったとゼスは言っていた。孤児院では、ずっと独りで食事をしていたらしいと。
どうにか引っ張り出した夕食の席で、ゼスは口数が少ないフラウからずいぶんと多くのことを引き出した。知った事実を頭の中で思い返すと、アストールの腹の底はジリジリと炙られるような感覚に襲われる。
彼女は、寝る時だけでなく、食べる時も、それ以外の時も、いつでも独りだったのだ。
孤児院からの身上書ではフラウは八歳だということになっているが、それもどうも疑わしい。
フラウが孤児院に来たのが三年前だということは、確かな記録として残されている。だが、その時に五歳だったというのは、どうだろう。
孤児院に連れてこられた時、彼女は自分の名前を言えなかったらしい。名前も年齢も答えられない彼女に、孤児院はフラウという名前をつけたのだとか。ゼス曰く、普通、五歳にもなっていれば自分の名前や年齢は言えたはずだろう、と。今現在の体格からしても八歳というには無理があり、小柄な方だとしても、やはりせいぜい五、六歳というところではないかと、ゼスは結論付けた。
フラウは物置で寝起きをして、食事は独りでとって、洗濯をさせられていた。
三年間、そんな生活を送ってきた。
彼女は、それをおかしいとも思っていない――思えないのだ。そうではない生活を知らないから。
アストールは、この二年間、自分を不幸だと思っていた。
(でも、そうなのか?)
胸の中で自問し、彼は拳を握り締める。
アストールは、『独り』になったことなどない。常に、誰かがいてくれた。彼のことを愛し、心配してくれる人たちが。幸せだった頃を知っているから、今の状態を『不幸』だと感じることができるのだ。
二年前にこの塔には追いやられたけれども、この力を制御できるようになれば、帰れる場所がある。自分が待たれているということも、本当は、解かっているのだ。
(僕は、拗ねてただけだ)
責任転嫁のために無視していたその事実を、ようやく認める気になった。
アストールはため息をつき、寝台を出る。
足音を忍ばせて階段を下り、一階の、フラウの部屋に向かった。
(ちゃんと眠れていることを確認したら、戻ろう)
そう思って、そっと彼女の部屋の扉を押し開ける。
灯りがつくように念じると、仄かな明るさが部屋に満ちた。
彼は、小さな部屋の大部分を占める寝台に目を向ける。
が。
(いない!?)
いくらフラウが小さくても、寝台にいるかいないかは、一目で判るだろう。そこには、明らかに、誰もいない。
いったい、どこへ行ったのか。
慌てて部屋から出ようとして、奥に置かれている椅子がアストールの視界の隅をよぎった。
「え?」
思わず、声が漏れる。
眠るには適していない椅子の上にちょこんと収まっている、毛布の塊。その上には、白銀の綿毛がのっている。
疲れているのか、元々眠りが深い方なのか、歩み寄ったアストールが覗き込んでも起きる気配はない。
(なんでこんなところに)
寝台よりも椅子の方が寝心地が良いということはないだろう。
(広過ぎて落ち着かなかった、とか?)
と言っても、使用人用の寝台は、特別大きいものではなかったが。
(これでは休めないじゃないか)
アストールは寝台に移してやろうと、眠る少女に手を伸ばした。が、再三彼女が口にしていた、「触れるな」という言葉を思い出す。
その理由はフラウ自身知らないらしく、夕食の席でどうにかゼスが訊き出そうとしても叶わず、結局判らずじまいだった。
(どうせ、大した理由じゃないんだろ)
アストールはここにはいない孤児院の連中を罵って、フラウに触れた。
と。
スゥッと、触れたところから何かが抜けていくような感触。
それと共に、アストールは身体が軽くなったような、柔らかくなったような、不思議な感覚に見舞われる。
(なんだ、これ?)
不快ではない。
むしろ、心地良いというか、楽になったというか。
今まで彼の身体を雁字搦めにしていた見えない鎖が、消え失せたような感じだ。
「ん……」
気づかぬうちにアストールはフラウの肩を握り締めていて、彼女が漏らした小さな声で我に返る。
一体何なのだろうと眉をひそめつつ、アストールはフラウを抱き上げた。重くて持ち上がらないかもしれないと思ったが、彼女の身体は予想外に軽く、むしろその軽さのせいでふらついてしまうくらいだった。
(うわ、何だこれ)
腕の中にすっぽりと納まるぬくもりに、アストールの胸の内がほわほわとした心地良さに満たされる。幼い頃に庭に迷い込んできた仔猫を抱き上げたときに感じたものに、似ているかもしれない。無性に力を込めて抱き締めたくなったが、さすがにそんなことをしたら起こしてしまうだろうから、自重した。
アストールは寝台に向かい、フラウをそこに下ろそうとする。が、離れようとして、彼女の手が彼の胸元を握り締めていることに気が付いた。小さな手はあかぎれだらけで、それを目にした瞬間、アストールのみぞおちがキュッと痛んだ。
華奢な指にたいして力は入っていないから、外そうとすれば簡単にできただろう。
だが、アストールはそうせず、フラウの隣に寝転んで彼女を胸の中に引き寄せた。
(温かい)
思わずギュッと抱き締めると、フラウが「んん」と微かに声を漏らした。
アストールはハッと我に返って腕の力を緩める。そうすると、今度はフラウの方がもぞもぞと動いて、暖を求めるかのようにアストールに身を摺り寄せてきた。
今度はそっと、華奢な背に手を回す。
小さな身体はさして長くもないアストールの腕の中にすっぽりと納まって、彼はそこにあるべきものを取り戻したような心持ちになる。
こんなふうに誰かを抱き締めたのは、きっと初めてだ。ふとした拍子に力を暴発させるアストールに近づこうという者は、滅多にいなかったから。
アストールはフラウに回した腕に力を込めて、ふわふわのくせ毛に頬を寄せる。
小さく、温かく、柔らかい。
(この子は、僕のものだ)
ゼスが訊き出した限りでは、フラウは天涯孤独の身だった。
孤児院でも居場所がなく、ここを追い出せばどこにも行く当てがない。この小さな子どもを欲しがっているのは、自分だけなのだ。
だが、仮に誰か他の者がフラウを求めたとしても。
(放すものか)
アストールは胸の中で宣言し、丸い頭に口づける。柔らかな白銀の髪に頬を埋めると、甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。
伝わってくる寝息と、自分のものよりも少し速い鼓動と。
こうしているのはフラウのためなのか、それとも、アストール自身のためなのか。
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