塔の魔王は小さな花を慈しむ

トウリン

文字の大きさ
上 下
5 / 41

手放し難い小さなぬくもり

しおりを挟む
(何だか、眠れないな)
 寝台に入ってから四半時ほど。
 幾度か寝返りを打った末に、アストールはもぞもぞと起き上がった。
 点け、と念じれば、枕元に置いた洋灯に火がともる。
 眠れない理由は、判っている。
 あの少女のことが気になるせいだ――初めてのこの場所で、ちゃんと眠れているだろうかと。
 夕食の席に呼んだとき、フラウはとても驚いた様子だったとゼスは言っていた。孤児院では、ずっと独りで食事をしていたらしいと。

 どうにか引っ張り出した夕食の席で、ゼスは口数が少ないフラウからずいぶんと多くのことを引き出した。知った事実を頭の中で思い返すと、アストールの腹の底はジリジリと炙られるような感覚に襲われる。
 彼女は、寝る時だけでなく、食べる時も、それ以外の時も、いつでも独りだったのだ。
 孤児院からの身上書ではフラウは八歳だということになっているが、それもどうも疑わしい。
 フラウが孤児院に来たのが三年前だということは、確かな記録として残されている。だが、その時に五歳だったというのは、どうだろう。
 孤児院に連れてこられた時、彼女は自分の名前を言えなかったらしい。名前も年齢も答えられない彼女に、孤児院はフラウという名前をつけたのだとか。ゼス曰く、普通、五歳にもなっていれば自分の名前や年齢は言えたはずだろう、と。今現在の体格からしても八歳というには無理があり、小柄な方だとしても、やはりせいぜい五、六歳というところではないかと、ゼスは結論付けた。

 フラウは物置で寝起きをして、食事は独りでとって、洗濯をさせられていた。
 三年間、そんな生活を送ってきた。
 彼女は、それをおかしいとも思っていない――思えないのだ。そうではない生活を知らないから。

 アストールは、この二年間、自分を不幸だと思っていた。
(でも、そうなのか?)
 胸の中で自問し、彼は拳を握り締める。
 アストールは、『独り』になったことなどない。常に、誰かがいてくれた。彼のことを愛し、心配してくれる人たちが。幸せだった頃を知っているから、今の状態を『不幸』だと感じることができるのだ。
 二年前にこの塔には追いやられたけれども、この力を制御できるようになれば、帰れる場所がある。自分が待たれているということも、本当は、解かっているのだ。
(僕は、拗ねてただけだ)
 責任転嫁のために無視していたその事実を、ようやく認める気になった。

 アストールはため息をつき、寝台を出る。
 足音を忍ばせて階段を下り、一階の、フラウの部屋に向かった。
(ちゃんと眠れていることを確認したら、戻ろう)
 そう思って、そっと彼女の部屋の扉を押し開ける。
 灯りがつくように念じると、仄かな明るさが部屋に満ちた。
 彼は、小さな部屋の大部分を占める寝台に目を向ける。

 が。

(いない!?)
 いくらフラウが小さくても、寝台にいるかいないかは、一目で判るだろう。そこには、明らかに、誰もいない。

 いったい、どこへ行ったのか。

 慌てて部屋から出ようとして、奥に置かれている椅子がアストールの視界の隅をよぎった。
「え?」
 思わず、声が漏れる。
 眠るには適していない椅子の上にちょこんと収まっている、毛布の塊。その上には、白銀の綿毛がのっている。
 疲れているのか、元々眠りが深い方なのか、歩み寄ったアストールが覗き込んでも起きる気配はない。
(なんでこんなところに)
 寝台よりも椅子の方が寝心地が良いということはないだろう。
(広過ぎて落ち着かなかった、とか?)
 と言っても、使用人用の寝台は、特別大きいものではなかったが。

(これでは休めないじゃないか)
 アストールは寝台に移してやろうと、眠る少女に手を伸ばした。が、再三彼女が口にしていた、「触れるな」という言葉を思い出す。
 その理由はフラウ自身知らないらしく、夕食の席でどうにかゼスが訊き出そうとしても叶わず、結局判らずじまいだった。

(どうせ、大した理由じゃないんだろ)
 アストールはここにはいない孤児院の連中を罵って、フラウに触れた。

 と。

 スゥッと、触れたところから何かが抜けていくような感触。
 それと共に、アストールは身体が軽くなったような、柔らかくなったような、不思議な感覚に見舞われる。
(なんだ、これ?)
 不快ではない。
 むしろ、心地良いというか、楽になったというか。
 今まで彼の身体を雁字搦めにしていた見えない鎖が、消え失せたような感じだ。

「ん……」
 気づかぬうちにアストールはフラウの肩を握り締めていて、彼女が漏らした小さな声で我に返る。
 一体何なのだろうと眉をひそめつつ、アストールはフラウを抱き上げた。重くて持ち上がらないかもしれないと思ったが、彼女の身体は予想外に軽く、むしろその軽さのせいでふらついてしまうくらいだった。
(うわ、何だこれ)
 腕の中にすっぽりと納まるぬくもりに、アストールの胸の内がほわほわとした心地良さに満たされる。幼い頃に庭に迷い込んできた仔猫を抱き上げたときに感じたものに、似ているかもしれない。無性に力を込めて抱き締めたくなったが、さすがにそんなことをしたら起こしてしまうだろうから、自重した。

 アストールは寝台に向かい、フラウをそこに下ろそうとする。が、離れようとして、彼女の手が彼の胸元を握り締めていることに気が付いた。小さな手はあかぎれだらけで、それを目にした瞬間、アストールのみぞおちがキュッと痛んだ。
 華奢な指にたいして力は入っていないから、外そうとすれば簡単にできただろう。
 だが、アストールはそうせず、フラウの隣に寝転んで彼女を胸の中に引き寄せた。

(温かい)
 思わずギュッと抱き締めると、フラウが「んん」と微かに声を漏らした。
 アストールはハッと我に返って腕の力を緩める。そうすると、今度はフラウの方がもぞもぞと動いて、暖を求めるかのようにアストールに身を摺り寄せてきた。
 今度はそっと、華奢な背に手を回す。
 小さな身体はさして長くもないアストールの腕の中にすっぽりと納まって、彼はそこにあるべきものを取り戻したような心持ちになる。

 こんなふうに誰かを抱き締めたのは、きっと初めてだ。ふとした拍子に力を暴発させるアストールに近づこうという者は、滅多にいなかったから。

 アストールはフラウに回した腕に力を込めて、ふわふわのくせ毛に頬を寄せる。
 小さく、温かく、柔らかい。

(この子は、僕のものだ)
 ゼスが訊き出した限りでは、フラウは天涯孤独の身だった。
 孤児院でも居場所がなく、ここを追い出せばどこにも行く当てがない。この小さな子どもを欲しがっているのは、自分だけなのだ。

 だが、仮に誰か他の者がフラウを求めたとしても。

(放すものか)
 アストールは胸の中で宣言し、丸い頭に口づける。柔らかな白銀の髪に頬を埋めると、甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。

 伝わってくる寝息と、自分のものよりも少し速い鼓動と。
 こうしているのはフラウのためなのか、それとも、アストール自身のためなのか。
 その答えはあやふやなうちに、彼は眠りの中に引きずり込まれていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

はずれのわたしで、ごめんなさい。

ふまさ
恋愛
 姉のベティは、学園でも有名になるほど綺麗で聡明な当たりのマイヤー伯爵令嬢。妹のアリシアは、ガリで陰気なはずれのマイヤー伯爵令嬢。そう学園のみなが陰であだ名していることは、アリシアも承知していた。傷付きはするが、もう慣れた。いちいち泣いてもいられない。  婚約者のマイクも、アリシアのことを幽霊のようだの暗いだのと陰口をたたいている。マイクは伯爵家の令息だが、家は没落の危機だと聞く。嫁の貰い手がないと家の名に傷がつくという理由で、アリシアの父親は持参金を多めに出すという条件でマイクとの婚約を成立させた。いわば政略結婚だ。  こんなわたしと結婚なんて、気の毒に。と、逆にマイクに同情するアリシア。  そんな諦めにも似たアリシアの日常を壊し、救ってくれたのは──。

【完結】今世も裏切られるのはごめんなので、最愛のあなたはもう要らない

曽根原ツタ
恋愛
隣国との戦時中に国王が病死し、王位継承権を持つ男子がひとりもいなかったため、若い王女エトワールは女王となった。だが── 「俺は彼女を愛している。彼女は俺の子を身篭った」 戦場から帰還した愛する夫の隣には、別の女性が立っていた。さらに彼は、王座を奪うために女王暗殺を企てる。 そして。夫に剣で胸を貫かれて死んだエトワールが次に目が覚めたとき、彼と出会った日に戻っていて……? ──二度目の人生、私を裏切ったあなたを絶対に愛しません。 ★小説家になろうさまでも公開中

探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?

雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。 最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。 ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。 もう限界です。 探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。

君は妾の子だから、次男がちょうどいい

月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、彼女は片田舎で遠いため会ったことはなかった。でもある時、マリアは妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。

処理中です...