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熱のせい?◇サイドC
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「最近、やけに付き合いがいいな、セドリック」
バルコニーの欄干に寄りかかり、ワインの入ったグラスを片手にそう言ったのは、友人のブライアンだ。ラザフォード家の長男で、僕に負けず劣らぬ遊び人で鳴らしている。
「というか、良すぎるだろう。殆ど屋敷に帰っていないんじゃないのか?」
そう繋いだのは、同じく放蕩者のエリック・ドーソン。
どちらも僕の悪友で、夜会では必ずどちらかと顔を合わせる――今夜のように三人揃うことも、稀ではない。
僕はグラスに口を付け、あおった。そうやって、もの問いたげな彼の視線からさりげなく逃れる。
「そうか? 君達と大差ないだろう」
「まあ、私は皆に呆れられているからな。でも、君の所は、ほら……エイミーだっけ? あの子に怒られるんじゃないのか? いつも言っているじゃないか。まるで姉か母親のように世話を焼く、と」
ブライアンは面白そうに肩を揺らしながら、言う。
そのエイミーが問題で連日出歩いているのだとは、教えられない。暇を持て余しているこの二人にそんなことを言った日には、根掘り葉掘り訊かれて胸の奥の奥まで晒し者にされるに決まっているからだ。
話題がエイミーから離れてくれないかと願ったが、そんな僕の望みなど知る由もない彼らは構わずに続ける。
「あの子、もう十五? 六? 可愛いよね。そろそろ恋人が必要な年頃じゃないか? 何なら、私が手ほどきしてもいいんだけどね」
その台詞は今年三十路を迎えたブライアンのものだ。
冗談ではない。
「確かに君達は僕の大事な友人だが、あの子とは三分と同じ部屋に入れておきたくないよ」
「そりゃ残念。優しくしてあげるのに」
シレッとそう言った彼を、睨み付ける。
その横で、エリックがそう言えば、と声を上げた。
「公爵のご子息、知っているだろう?」
「ああ」
「彼も昔孤児を引き取ったんだよね。何でも、その子を妻に迎えるらしいよ」
エリックの情報に、ブライアンが眉を上げる。
「本当か? それはいささか難しいんじゃないのか? 確かに彼はまだ子爵だが、いずれは公爵の地位を継ぐのだろう? 貴賎結婚は認められない」
「それが、その子を一度遠縁の家に養子に入れて男爵家の令嬢ということにしたらしい」
「ああ……あの方は――意志が強いからな」
意志が強いというより、傲岸不遜と紙一重の強引さの持ち主なのだ。呆れながらも――微かな妬ましさを覚えてしまう。彼なら、欲しいと思ったものは何が何でも手に入れるのだろう。彼なら、色々な意味で、そうできる。
対して、僕はどうだ。
エイミーを幸せにしたいと思う。
手放したくないと思う。
ずっと傍に置いて、彼女を、彼女だけを慈しみたいと思う。
その望みを叶える方法は、一つだけだ。
――伯爵家としては『それなりの』家柄の令嬢を迎えなければならない。
その義務を無視することを自分に赦せるのか?
そして、何よりエイミー自身の意思。
彼女は、まだ幼い。きっと、僕の想いに追い付くには、まだ何年もかかる。
それを待てるのか?
エイミーの涙を目にした夜に気付いてしまった僕の中にある彼女を求める気持ちは、あれ以来日に日に膨れ上がっているというのに。
思わずため息がこぼれた。
と、耳ざとくそれを聞き止めたブライアンが視線を僕に向けてくる。
「どうした、流石に連日の夜更かしに疲れたか?」
「まさか。こんなのは序の口さ。――少し、踊ってくるよ」
肩を竦めてグラスを彼に渡し、眩い灯りの溢れるホールへと戻る。
碌に選びもせずに、目に付いた最初の貴婦人に手を差し伸べた。
「失礼、私と踊っていただけますか?」
「喜んで」
にっこりと微笑んだ彼女から、微かな薔薇の香りが漂う。
繊手を取り、コルセットで固められた細い腰に腕を回し、谷間も露わな豊かな胸が触れるほどに身体を引き付け、曲に乗る。
とても魅力的な女性だった。
だが、僕の心はピクリとも動かない。
こんなに肉感的な肢体を前にしても、僕の頭の中にはいつかの晩に抱き上げたエイミーの華奢な身体の感触しかないのだ。
これは本気でマズい事態だ。
また、ため息がこぼれる。
その吐息が首筋をくすぐってしまったらしく、腕の中のご婦人が微かに身を震わせた。と思ったら、熱を含んだ眼差しで見上げてくる。
しまった。勘違いをさせてしまったかもしれない。
僕は彼女が口を開くよりも先に、曲が終わると同時ににっこりと笑顔を浮かべて腕を解いた。
「とても素敵でした。他の男にも、貴女のダンスを堪能させなければ私が恨まれてしまいます」
そう残し、絡んできた彼女の腕からさりげなく逃れて、そそくさとその場を後にする。未練を含んだ視線を背中に感じたが、振り返らなかった。
……何だか、疲れてしまった。やはり、寝不足がたたっているのかもしれない。
僕はブライアン達がいるバルコニーを覗いて、二人に挨拶を残した。
「すまないが、僕はこれで失礼するよ。やっぱり少し寝不足なのかもしれない」
「そうか、じゃあ、また別の夜に」
ブライアンとエリックは、そう言って僕に向けてグラスを掲げて見せる。それに対して小さく手を上げて、僕はその場を後にした。
馬車に乗り込み独りになると、気が緩んだのか一気に身体がだるさを増した。
これは本気で疲れているらしい。何だか頭もぼんやりとしてきた。
屋敷に着いて、寝室に入った時には僕の頭は朦朧としていて、辛うじて服を脱ぎ、ベッドへと潜り込む。
何かがおかしいと思いつつも、僕は見る見るうちに深い眠りの淵へと引きずり込まれていった。
*
ああ、何だかフワフワした感じだ。それにやけに熱い。
目蓋を通して明るい光が入ってくるから昼間なのだろうなと、ぼんやりと思う。
ここは、屋敷だよな?
確か、自分のベッドには入った筈。
思考が何だかまとまらなかった。
不意に首に何か冷たいものが触れる。
とても、気持ち良い。
それは首回りと鎖骨の辺りを辿って離れていき、そしてまた触れる。それと共にふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
この香りは――エイミーだ。
昨晩の夜会で女性達が付けていたのとは全然違う、もっと優しい香り。
そう言えば、エイミーの呼びかけも耳にしたような気がする。
目を開けると霞む視界の中にぼんやりとしたシルエットが入り込んだ。
「エイミー……?」
かすれた声で名前を呼ぶと、影は小さく首をかしげて手を止める。
「お熱があるんです。おつらいでしょう?」
労わる声が耳にとても心地良くて、思わず笑ってしまう。けれど、エイミーは僕に背を向けてしまった。
彼女の顔を見たい。こちらを向いて欲しい――彼女に触れたい。
小さな水音。
そして彼女が振り返る。はっきりとは見えないけれど、確かに僕を見詰めている。
「お拭き、しますね」
エイミーの、声。
ああ、どうしたことだろう。
まるで、大きな穴が開いた酒樽になった気分だ。
理性が底からダボダボとこぼれていき、代わりに彼女への愛おしさ、彼女が愛おしくてたまらないという気持ちが注ぎ込まれていく感じ。
身体はやけに重いのに頭だけがフワフワと浮いているようで、これが現実だとは思えなかった。きっと、僕は自分に都合の良い夢を観ている。きっと、そうだ。
――だから、触れても赦される。
免罪符を貰った心持ちで伸びてきた小さな手を握り、そっと引き寄せる。
抱き締めると、僕の胸の中でまるで仔猫のように華奢な身体がジタバタと暴れた。そんなところは、やけにリアルだ。それを抑え込むように、僕は腕に力を込める。
何だろう、もう、何かで胸が詰まって頭がおかしくなりそうだ。
我慢できなくて、むき出しの細いうなじに口づける。
ビクリと震えて一層もがき始めた背中を宥めるように撫で下ろすと、また、エイミーは僕の腕の中でおとなしくなった。そうして、胸の辺りからボソボソと小さな声がする。
「旦那さま、わたしはエイミーです」
ああ、そうだね。君はエイミーだ。
僕の大事な――この世で一番大事な子。
少し身体を離して見下ろすと、目に入ってきたのは僕を見つめる大きな瞳。
そうして、柔らかそうな薄紅色の唇が僕を呼ぶ。
「旦那さま」
いつもは、彼女の甘い声でそう呼ばれると胸が温かくなる。
けれど、今はその呼び方をされたくはなかった。それは、僕とエイミーとの間に横たわる距離をはっきりと突き付けてくる呼び方だ。
夢の中でくらい『セディ』と呼んでくれてもいいのに。
そう思うけれど、僕自身、そんなエイミーを想像できない。
いつも真面目なエイミー。
彼女はメイド、僕は主人。
エイミーの方からそれを崩すことは、決してない。
またエイミーの口から『旦那さま』という呼びかけを聞かされるのが嫌で、僕は彼女の唇を封じる。
そのキスはこれまで味わったことのあるどんな菓子よりも甘く、一度始めてしまったら、どうしても止めることができなかった。
彼女の唇の感触を確かめる為の、ただ触れるだけのキスを、僕は繰り返す。
そうしながら、切実に願った。
エイミーが、僕の想いに応えてくれたらいいのに、と。
僕が彼女を想っている気持ちの半分でも――いいや、十分の一でもいい。たとえそれだけでも、エイミーが僕を一人の男として想ってくれるなら、僕は万難を排して彼女を手に入れよう。
そんな誓いを胸に抱きつつ、僕の意識はやがて暗い淵へと呑み込まれていった。
*
――鳥の声が聞こえる。
まぶたの裏には明るい光が射していて、僕は今までになく軽やかに目を開けた。
カーテンは開けられているが、日の高さからすると多分まだ朝早い時間だろうに、眠気は全くない。久し振りに、すっきりとした目覚めだ。
と、まるでドアの外で窺っていたかのようなタイミングで、ボウルを手にしてデニスが入ってきた。
「お気付きですか」
彼のその台詞に、おや、と思う。
『お気付き』? 『お目覚め』ではなく?
僕は少し記憶を手繰って、最後に覚えていることを頭の奥から引っ張り出してみた。確か、帰宅し、服を脱いで、ベッドに入って――それから、今だ。
そう言えば、と布団の中を覗いてみると、着た記憶はないのに寝間着姿をしている。
どういうことだ?
怪訝な顔でデニスを見ると、彼はボウルをベッドの脇の台に置いて僕をしげしげと見つめてきた。
「もう大丈夫そうですね」
「大丈夫?」
おうむ返しの僕に、デニスが頷く。
「はい。旦那様が熱を出されて三日が過ぎました」
「三日?」
「はい。……覚えていらっしゃいませんか?」
「全然、覚えていない。やけに寝覚めがいいなと思ったんだ。三日も寝た後なら当たり前だな」
笑った僕に、デニスがホッとしたような顔になる。
「召し上がれそうなら、スープか何かをお持ちしましょう」
「そうだな、頼む」
実際、今度は腹が減って目が回りそうだ。
「では、エイミーに運ばせます。少しお待ちください」
エイミー。
その名前を聞いた途端、パッと脳裏にとんでもない場面が思い浮かんだ。
一瞬固まった僕に、デニスが首をかしげる。
「旦那様、どうかなさいましたか? どこか、まだ不調な場所が?」
「ああ、いや、何でもないよ。大丈夫だ」
無理やり笑顔を作って、デニスを部屋から追い出した。
そうして、頭の中から消えないその妄想めいたものを、エイミーが現れる前に何とか消し去ろうとする。
――エイミーとキスだなんて、とんでもない。
だが、彼女を抱き締めた感触も、柔らかな唇の甘さも、香水とは違う優しい香りも、否定すればするほど鮮明になってくる。
僕が、エイミーにそんなふうに触れる筈がない。そんなことを自分に許す筈がない。
それに、病気の僕の世話はデニスか看護婦がする筈だ。病み上がりのエイミーが、この三日の間、僕に近付いた筈がない。
……その筈だ。
悶々と悩む僕の中からその妄想が消え去る前に、ドアがノックされる。この叩き方はエイミーに違いなく、予想通り、皿を載せたトレイを手にして彼女が入ってきた。
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
そう言いながら近付いてくる彼女は、いつもと変わらないように見える。
やっぱりあれは、単なる夢だ。そう思ってホッとする。
「やあ、エイミー」
普段通りを意識して、そう声をかけた。
「お元気になられたようで、何よりです」
彼女の生真面目なその声も、いつもと同じだろうか? だが、いつもは真っ直ぐに僕を見る目が、終始逸らされている――気がする。
スープを用意するエイミーからふわりと漂う香りが懸命に打ち消そうとしている『記憶』を揺さぶり、胸がざわついた。
「では、お済みになりましたら、またお呼びください」
そう言って、彼女はそそくさと部屋を出て行こうとする。その様子が、やたらに僕の不安を掻き立てた。
「エイミー」
呼びかけると、ドアノブに手をかけた格好で彼女が振り返る。視線は、やっぱり逸らされたままで。
「僕が……何かした?」
その問いかけに、パッとエイミーが僕を見る。
そうして。
「いいえ、何も」
短くそう答えると、今度は僕に呼び止める隙を与えず、するりと出て行ってしまった。どう見ても、おかしい。
「……まさか……」
僕は呆然と呟く。
やっぱり、あれは本当にあったことなのか……?
――多分、いや間違いなく、そうなのだ。僕の五感は、そう訴えている。
エイミーに、何と言ったらいいのだろう。
熱に浮かされていた、とか?
そんなふうに言い逃れをするのか?
いいや、熱のせいで抑制が効かなかったのは確かだが、その根底にあったのは僕の願望だ。僕がそれを望んでいなければ、行動には現れなかった。
しかし、だからといって、僕の胸の内全てを明らかにすることはできない。
「ああ、クソ……」
髪をかきむしって呻き声を上げる。
自分のしでかしたことをどう修復したらよいのか、さっぱり思い浮かばなかった。
バルコニーの欄干に寄りかかり、ワインの入ったグラスを片手にそう言ったのは、友人のブライアンだ。ラザフォード家の長男で、僕に負けず劣らぬ遊び人で鳴らしている。
「というか、良すぎるだろう。殆ど屋敷に帰っていないんじゃないのか?」
そう繋いだのは、同じく放蕩者のエリック・ドーソン。
どちらも僕の悪友で、夜会では必ずどちらかと顔を合わせる――今夜のように三人揃うことも、稀ではない。
僕はグラスに口を付け、あおった。そうやって、もの問いたげな彼の視線からさりげなく逃れる。
「そうか? 君達と大差ないだろう」
「まあ、私は皆に呆れられているからな。でも、君の所は、ほら……エイミーだっけ? あの子に怒られるんじゃないのか? いつも言っているじゃないか。まるで姉か母親のように世話を焼く、と」
ブライアンは面白そうに肩を揺らしながら、言う。
そのエイミーが問題で連日出歩いているのだとは、教えられない。暇を持て余しているこの二人にそんなことを言った日には、根掘り葉掘り訊かれて胸の奥の奥まで晒し者にされるに決まっているからだ。
話題がエイミーから離れてくれないかと願ったが、そんな僕の望みなど知る由もない彼らは構わずに続ける。
「あの子、もう十五? 六? 可愛いよね。そろそろ恋人が必要な年頃じゃないか? 何なら、私が手ほどきしてもいいんだけどね」
その台詞は今年三十路を迎えたブライアンのものだ。
冗談ではない。
「確かに君達は僕の大事な友人だが、あの子とは三分と同じ部屋に入れておきたくないよ」
「そりゃ残念。優しくしてあげるのに」
シレッとそう言った彼を、睨み付ける。
その横で、エリックがそう言えば、と声を上げた。
「公爵のご子息、知っているだろう?」
「ああ」
「彼も昔孤児を引き取ったんだよね。何でも、その子を妻に迎えるらしいよ」
エリックの情報に、ブライアンが眉を上げる。
「本当か? それはいささか難しいんじゃないのか? 確かに彼はまだ子爵だが、いずれは公爵の地位を継ぐのだろう? 貴賎結婚は認められない」
「それが、その子を一度遠縁の家に養子に入れて男爵家の令嬢ということにしたらしい」
「ああ……あの方は――意志が強いからな」
意志が強いというより、傲岸不遜と紙一重の強引さの持ち主なのだ。呆れながらも――微かな妬ましさを覚えてしまう。彼なら、欲しいと思ったものは何が何でも手に入れるのだろう。彼なら、色々な意味で、そうできる。
対して、僕はどうだ。
エイミーを幸せにしたいと思う。
手放したくないと思う。
ずっと傍に置いて、彼女を、彼女だけを慈しみたいと思う。
その望みを叶える方法は、一つだけだ。
――伯爵家としては『それなりの』家柄の令嬢を迎えなければならない。
その義務を無視することを自分に赦せるのか?
そして、何よりエイミー自身の意思。
彼女は、まだ幼い。きっと、僕の想いに追い付くには、まだ何年もかかる。
それを待てるのか?
エイミーの涙を目にした夜に気付いてしまった僕の中にある彼女を求める気持ちは、あれ以来日に日に膨れ上がっているというのに。
思わずため息がこぼれた。
と、耳ざとくそれを聞き止めたブライアンが視線を僕に向けてくる。
「どうした、流石に連日の夜更かしに疲れたか?」
「まさか。こんなのは序の口さ。――少し、踊ってくるよ」
肩を竦めてグラスを彼に渡し、眩い灯りの溢れるホールへと戻る。
碌に選びもせずに、目に付いた最初の貴婦人に手を差し伸べた。
「失礼、私と踊っていただけますか?」
「喜んで」
にっこりと微笑んだ彼女から、微かな薔薇の香りが漂う。
繊手を取り、コルセットで固められた細い腰に腕を回し、谷間も露わな豊かな胸が触れるほどに身体を引き付け、曲に乗る。
とても魅力的な女性だった。
だが、僕の心はピクリとも動かない。
こんなに肉感的な肢体を前にしても、僕の頭の中にはいつかの晩に抱き上げたエイミーの華奢な身体の感触しかないのだ。
これは本気でマズい事態だ。
また、ため息がこぼれる。
その吐息が首筋をくすぐってしまったらしく、腕の中のご婦人が微かに身を震わせた。と思ったら、熱を含んだ眼差しで見上げてくる。
しまった。勘違いをさせてしまったかもしれない。
僕は彼女が口を開くよりも先に、曲が終わると同時ににっこりと笑顔を浮かべて腕を解いた。
「とても素敵でした。他の男にも、貴女のダンスを堪能させなければ私が恨まれてしまいます」
そう残し、絡んできた彼女の腕からさりげなく逃れて、そそくさとその場を後にする。未練を含んだ視線を背中に感じたが、振り返らなかった。
……何だか、疲れてしまった。やはり、寝不足がたたっているのかもしれない。
僕はブライアン達がいるバルコニーを覗いて、二人に挨拶を残した。
「すまないが、僕はこれで失礼するよ。やっぱり少し寝不足なのかもしれない」
「そうか、じゃあ、また別の夜に」
ブライアンとエリックは、そう言って僕に向けてグラスを掲げて見せる。それに対して小さく手を上げて、僕はその場を後にした。
馬車に乗り込み独りになると、気が緩んだのか一気に身体がだるさを増した。
これは本気で疲れているらしい。何だか頭もぼんやりとしてきた。
屋敷に着いて、寝室に入った時には僕の頭は朦朧としていて、辛うじて服を脱ぎ、ベッドへと潜り込む。
何かがおかしいと思いつつも、僕は見る見るうちに深い眠りの淵へと引きずり込まれていった。
*
ああ、何だかフワフワした感じだ。それにやけに熱い。
目蓋を通して明るい光が入ってくるから昼間なのだろうなと、ぼんやりと思う。
ここは、屋敷だよな?
確か、自分のベッドには入った筈。
思考が何だかまとまらなかった。
不意に首に何か冷たいものが触れる。
とても、気持ち良い。
それは首回りと鎖骨の辺りを辿って離れていき、そしてまた触れる。それと共にふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
この香りは――エイミーだ。
昨晩の夜会で女性達が付けていたのとは全然違う、もっと優しい香り。
そう言えば、エイミーの呼びかけも耳にしたような気がする。
目を開けると霞む視界の中にぼんやりとしたシルエットが入り込んだ。
「エイミー……?」
かすれた声で名前を呼ぶと、影は小さく首をかしげて手を止める。
「お熱があるんです。おつらいでしょう?」
労わる声が耳にとても心地良くて、思わず笑ってしまう。けれど、エイミーは僕に背を向けてしまった。
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小さな水音。
そして彼女が振り返る。はっきりとは見えないけれど、確かに僕を見詰めている。
「お拭き、しますね」
エイミーの、声。
ああ、どうしたことだろう。
まるで、大きな穴が開いた酒樽になった気分だ。
理性が底からダボダボとこぼれていき、代わりに彼女への愛おしさ、彼女が愛おしくてたまらないという気持ちが注ぎ込まれていく感じ。
身体はやけに重いのに頭だけがフワフワと浮いているようで、これが現実だとは思えなかった。きっと、僕は自分に都合の良い夢を観ている。きっと、そうだ。
――だから、触れても赦される。
免罪符を貰った心持ちで伸びてきた小さな手を握り、そっと引き寄せる。
抱き締めると、僕の胸の中でまるで仔猫のように華奢な身体がジタバタと暴れた。そんなところは、やけにリアルだ。それを抑え込むように、僕は腕に力を込める。
何だろう、もう、何かで胸が詰まって頭がおかしくなりそうだ。
我慢できなくて、むき出しの細いうなじに口づける。
ビクリと震えて一層もがき始めた背中を宥めるように撫で下ろすと、また、エイミーは僕の腕の中でおとなしくなった。そうして、胸の辺りからボソボソと小さな声がする。
「旦那さま、わたしはエイミーです」
ああ、そうだね。君はエイミーだ。
僕の大事な――この世で一番大事な子。
少し身体を離して見下ろすと、目に入ってきたのは僕を見つめる大きな瞳。
そうして、柔らかそうな薄紅色の唇が僕を呼ぶ。
「旦那さま」
いつもは、彼女の甘い声でそう呼ばれると胸が温かくなる。
けれど、今はその呼び方をされたくはなかった。それは、僕とエイミーとの間に横たわる距離をはっきりと突き付けてくる呼び方だ。
夢の中でくらい『セディ』と呼んでくれてもいいのに。
そう思うけれど、僕自身、そんなエイミーを想像できない。
いつも真面目なエイミー。
彼女はメイド、僕は主人。
エイミーの方からそれを崩すことは、決してない。
またエイミーの口から『旦那さま』という呼びかけを聞かされるのが嫌で、僕は彼女の唇を封じる。
そのキスはこれまで味わったことのあるどんな菓子よりも甘く、一度始めてしまったら、どうしても止めることができなかった。
彼女の唇の感触を確かめる為の、ただ触れるだけのキスを、僕は繰り返す。
そうしながら、切実に願った。
エイミーが、僕の想いに応えてくれたらいいのに、と。
僕が彼女を想っている気持ちの半分でも――いいや、十分の一でもいい。たとえそれだけでも、エイミーが僕を一人の男として想ってくれるなら、僕は万難を排して彼女を手に入れよう。
そんな誓いを胸に抱きつつ、僕の意識はやがて暗い淵へと呑み込まれていった。
*
――鳥の声が聞こえる。
まぶたの裏には明るい光が射していて、僕は今までになく軽やかに目を開けた。
カーテンは開けられているが、日の高さからすると多分まだ朝早い時間だろうに、眠気は全くない。久し振りに、すっきりとした目覚めだ。
と、まるでドアの外で窺っていたかのようなタイミングで、ボウルを手にしてデニスが入ってきた。
「お気付きですか」
彼のその台詞に、おや、と思う。
『お気付き』? 『お目覚め』ではなく?
僕は少し記憶を手繰って、最後に覚えていることを頭の奥から引っ張り出してみた。確か、帰宅し、服を脱いで、ベッドに入って――それから、今だ。
そう言えば、と布団の中を覗いてみると、着た記憶はないのに寝間着姿をしている。
どういうことだ?
怪訝な顔でデニスを見ると、彼はボウルをベッドの脇の台に置いて僕をしげしげと見つめてきた。
「もう大丈夫そうですね」
「大丈夫?」
おうむ返しの僕に、デニスが頷く。
「はい。旦那様が熱を出されて三日が過ぎました」
「三日?」
「はい。……覚えていらっしゃいませんか?」
「全然、覚えていない。やけに寝覚めがいいなと思ったんだ。三日も寝た後なら当たり前だな」
笑った僕に、デニスがホッとしたような顔になる。
「召し上がれそうなら、スープか何かをお持ちしましょう」
「そうだな、頼む」
実際、今度は腹が減って目が回りそうだ。
「では、エイミーに運ばせます。少しお待ちください」
エイミー。
その名前を聞いた途端、パッと脳裏にとんでもない場面が思い浮かんだ。
一瞬固まった僕に、デニスが首をかしげる。
「旦那様、どうかなさいましたか? どこか、まだ不調な場所が?」
「ああ、いや、何でもないよ。大丈夫だ」
無理やり笑顔を作って、デニスを部屋から追い出した。
そうして、頭の中から消えないその妄想めいたものを、エイミーが現れる前に何とか消し去ろうとする。
――エイミーとキスだなんて、とんでもない。
だが、彼女を抱き締めた感触も、柔らかな唇の甘さも、香水とは違う優しい香りも、否定すればするほど鮮明になってくる。
僕が、エイミーにそんなふうに触れる筈がない。そんなことを自分に許す筈がない。
それに、病気の僕の世話はデニスか看護婦がする筈だ。病み上がりのエイミーが、この三日の間、僕に近付いた筈がない。
……その筈だ。
悶々と悩む僕の中からその妄想が消え去る前に、ドアがノックされる。この叩き方はエイミーに違いなく、予想通り、皿を載せたトレイを手にして彼女が入ってきた。
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
そう言いながら近付いてくる彼女は、いつもと変わらないように見える。
やっぱりあれは、単なる夢だ。そう思ってホッとする。
「やあ、エイミー」
普段通りを意識して、そう声をかけた。
「お元気になられたようで、何よりです」
彼女の生真面目なその声も、いつもと同じだろうか? だが、いつもは真っ直ぐに僕を見る目が、終始逸らされている――気がする。
スープを用意するエイミーからふわりと漂う香りが懸命に打ち消そうとしている『記憶』を揺さぶり、胸がざわついた。
「では、お済みになりましたら、またお呼びください」
そう言って、彼女はそそくさと部屋を出て行こうとする。その様子が、やたらに僕の不安を掻き立てた。
「エイミー」
呼びかけると、ドアノブに手をかけた格好で彼女が振り返る。視線は、やっぱり逸らされたままで。
「僕が……何かした?」
その問いかけに、パッとエイミーが僕を見る。
そうして。
「いいえ、何も」
短くそう答えると、今度は僕に呼び止める隙を与えず、するりと出て行ってしまった。どう見ても、おかしい。
「……まさか……」
僕は呆然と呟く。
やっぱり、あれは本当にあったことなのか……?
――多分、いや間違いなく、そうなのだ。僕の五感は、そう訴えている。
エイミーに、何と言ったらいいのだろう。
熱に浮かされていた、とか?
そんなふうに言い逃れをするのか?
いいや、熱のせいで抑制が効かなかったのは確かだが、その根底にあったのは僕の願望だ。僕がそれを望んでいなければ、行動には現れなかった。
しかし、だからといって、僕の胸の内全てを明らかにすることはできない。
「ああ、クソ……」
髪をかきむしって呻き声を上げる。
自分のしでかしたことをどう修復したらよいのか、さっぱり思い浮かばなかった。
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早稲 アカ
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