放蕩貴族と銀の天使

トウリン

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第一部『地上に舞い降りた天使は護り手など必要としない。』

天使は戦う天使だった②

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 真っ直ぐに立ち上がっても、彼女は小柄だった。頭のてっぺんがブライアンの顎に届くのがやっと、というところだろう。
 丸い頭を支える首も、すらりとした手足も、どこもかしこも信じられないほど華奢で、まるで現世には実体を持たない妖精さながらだ。報告では十八か十九になるかだとブライアンは聞いていたが、もっと年若い、少女のように見える。彼女がまとうのは、盛りを迎えた大輪の薔薇ではなく、これから咲き誇ろうとしている初々しい蕾の可憐さ、美しさだ。
 混じりけのない銀髪は流れる清水のごときに真っ直ぐ腰まで届き、それそのものが光を放っているかのように、キラキラと輝いている。それをすくい取ってみたくなる衝動を、ブライアンは手を拳に握り締めて抑え込んだ。

「あ……僕は……」

 言葉を用意せずに口を開いたブライアンに、頬に影を落とす銀色の睫毛を一度はためかせてから彼女――アンジェリカが目を向ける。

(なんて、綺麗なんだ)

 揺らぎ一つなく彼に注がれる眼差しは今までどんな女性の中にも見たことのない菫色で、澄み切っているのに、とても、深い。
 その目に射すくめられてしまったかのように、ブライアンの喉が引き攣った。

 いつもなら、立て板に水のように女性を賛美する言葉をこぼす口が、ピクリとも動かない。
 いやに心臓がバクバクと打っていて、思わず胸元を握り締めた。

(なんなんだ、これは?)

 緊張のあまりに、熱でも出したのだろうか。だが、何故そんなに緊張しているのだろう。

 アンジェリカに見つめられ、彼女の目を見つめていると、まるで、頭が働かない。
 なんだか、息も苦しくなってきたような気がする。

 今まで経験したことのない身体の不調に、ブライアンの中に不安と焦燥が入り混じった何かが込み上げる。

(とにかく、名前。名前だ)
 それだけは告げなければ。彼の方はもうアンジェリカの名前を知っているのだから、こちらの名前を教えるのが礼儀というものだ。
 そう自分を叱咤し、ブライアンは喉を動かす。
「僕は――」
 動こうとしない舌に何とか油を注した、その時。

「何しやがんだ、クソあまぁ!」
 怒号を放ち、床に倒れ伏している男の連れが、アンジェリカの肩に手を伸ばす。
「君――!」
 咄嗟にブライアンは一歩を踏み出したが、次の瞬間、目に入ってきた光景に、固まった。

 伸びてきた男の手。
 それがアンジェリカに届く寸前、彼女がクルリと身をひるがえした。そして、ブライアンより背は低いが男としてはそれなりに立派な体格のその図体が、宙に舞う。

 続く、硬い床に重い荷物を勢いよく落とす音。

 いや、違う。荷物ではなく、人間、だ。

 ブライアンは我が目を疑った。今が夢の中でなければ、確かに男が宙に浮き、床に叩き付けられたのだ。

(それを、彼女がやった……?)

 呆然と胸の中で呟いたが、その時、彼の頭の中に一週間前の光景がよみがえる。

 そうだ。
 あの時も、同じだった。
 あの時も、彼女が男を投げ飛ばしたのだ。

 たった今、目の前で繰り広げられたように、あの時も、男に絡まれている娘を助けようと一歩を踏み出したブライアンの前で、銀色の髪がふわりと広がり、男が飛んだ。
 それがあまりに有り得ないことだったから、確かに目にしたその一幕を、彼は頭の奥にしまい込んだのだ。

 優雅な身のこなしで身体を起こし、またブライアンの方に向き直ったアンジェリカは、あの素晴らしい菫色の瞳で彼を見つめてくる。類稀な紫水晶さながらの輝きに呑まれるようにその目に見惚れていたブライアンは、彼女が先ほど口にしかけた彼の言葉の続きを待っているのだと、少し遅れて気が付いた。

「僕は――」

 そこへ、また、闖入者。

「あんた、何出てきちゃってるのよ!?」

 高い声とともに、茶色い髪、茶色い目の給仕の娘が、ブライアンの目からアンジェリカを隠そうとするかのように、彼女に抱き付いた。

 彼女に名前を告げたいだけなのに、どうしてこうも邪魔が入るのか。

 憮然とするブライアンの前で、給仕の娘はアンジェリカの肩を掴んでゆさゆさと揺さぶっている。

「あんた狙いの変なおっさんが来てるから出てきちゃダメだって言ったでしょ?」

(変なおっさん?)

 ブライアンは思わず店内を見回した。彼以外にも、アンジェリカを探しに来た者がいるのだろうか。と、茶色の髪が宙に浮くほど勢いよく、娘が振り返った。

「あんた! もう見たでしょ? さっさと帰りなさいよ」
 何のことかと、ブライアンは目をしばたたかせる。すると娘は、苛立たし気に舌打ちをした。
「この子は単なる給仕で、見世物でも売り物でもないのよ。妙なちょっかい出さないでよね」

 ここに至って、ブライアンはようやく理解する。
 この給仕の娘が言うところの『変なおっさん』は、彼のことなのだ。

「誤解だ。僕はただ、彼女に逢いたくて――」
「会ってナニするつもりだってのよ?」
「ナニって、何も……」
「ごまかしたってダメよ!」
 ピシャリと決めつけて、娘はギュウとアンジェリカを抱き締めブライアンを睨み付ける。まさに汚らわしい何かを蔑む眼差しだ。

「どうせまた、この子の見てくれにホイホイ寄ってきたバカな男の一人でしょ」
 鼻で嗤われ、ブライアンは返事に詰まった。
 彼女の言葉は、あながち間違いではない。確かに、今の彼は、アンジェリカの外見しか知らないのだ。

 ブライアンはうなずき、答える。
「そうだね。だから、彼女のことを知る機会が欲しかったんだ」
「ッ!」

 まさか自分の言い分を肯定されるとは、思っていなかったのだろう。娘は唇を引き結んでブライアンを睨み付けてきた。アンジェリカはと言えば、そんな給仕の娘の腕の中から、じっとブライアンを見つめている。

 店の客はこんな光景を見慣れているのか、皆、ニヤニヤ笑いながら三人を眺めている。誰がいつの間に運び出したのか、昏倒していた男二人は店の床から消えていた。

 給仕の娘はアンジェリカをがっちり守って放しそうもない。

 ブライアンも、せっかくここまで来たのだから、せめて名前くらいは伝えてから帰りたかった。せめて、ブライアン・ラザフォードという人間が存在するということくらいは、アンジェリカに知って欲しい。

(さて、どうしよう?)
 一歩たりとも引きそうにない娘に、彼が胸の中で呟いた時だった。

「コニー」
 リンと、ガラスの鈴が鳴ったような声。
 涼やかで透明なその声に、ブライアンの鼓膜が心地良く振動する。

(これが、彼女の声)

 どんなふうに聴こえるのだろうと、想像はした。さぞかし、美しい声なのだろう、と。
 だが、彼女の口からこぼれたそれは、ブライアンの想像など足元にも及ばなかった。

「コニー、大丈夫だから、放して」

 アンジェリカは自分を抱え込んでいる娘の腕を、そっと押した。コニーと呼ばれた彼女は、ムッと唇を引き結んでから、いかにも渋々という素振りでアンジェリカを解放する。

 一歩前に出たアンジェリカは、しげしげとブライアンを見つめてきた。

 女性が彼に視線を向ける時、そこには必ず媚びと打算と欲求が滲む。ブライアンは、そういう眼差しに、馴染んできた。そういう眼差しに、それ相応の笑顔を、彼は返してきたのだ。

 だから、それらが欠片も存在しない目で心の中まで貫き通しそうなほどに真っ直ぐに覗き込まれて、ブライアンは戸惑う。

(その目に、僕はどんなふうに映っているんだ?)
 急に、そんなことが気になった。
 今まで、相手の女性が自分のことをどう見ているかなど、頭の片隅でも意識したことがなかったのに。

 ブライアンは落ち着きなく身じろぎをする。
 そんな彼をひとしきり観察した後。

「で、私に用とは、何なのだ?」

 清らで甘い声とは裏腹の硬い語り口で、彼女は彼に問いかけた。
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