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第一部『地上に舞い降りた天使は護り手など必要としない。』
天使の鞭は痛くて甘い①
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遠くで人の声がしている気がする。
一体誰だろう。
ラザフォード家の使用人に、主人の眠りを妨げるような者はいないはずだが。
ブライアンは渋々ながら起きようとして、その途端、ひどい頭痛に見舞われた。
(二日酔い?)
だが、最近はそんなに飲み過ぎるようなことはなかったはずなのに。
ガンガンと、まるで頭が割れそうな痛みを押して起き上がろうとしたブライアンは、今度は自分の身体が思うように動かないことに気が付いた。
(何だ――? あ、そうだ)
アンジェリカが、いなくなったのだ。
その事実を思い出した瞬間、一気に全てが回り出す。
(彼女を見つけて、助けようとして、それで……)
多分、頭を殴られた。
ブライアンはちかちかする目を無理やり開いて周囲を見回した。
まず探したのは、もちろんアンジェリカの姿だ。
いた。
すぐ隣で居心地の良さそうな椅子に座らされている。が、その腕は後ろ手に縛られていた。
対するブライアンはというと、アンジェリカと同じく手を縛られているが、彼女の扱いとはまさしく天と地の差で、無造作に埃だらけの床に転がされている。
こんな扱いなど、未だかつてされたことがない。憮然とするが、アンジェリカは大事にされているようなのだから、良しとしよう。
と、再び全身の力を抜いた時。
「どうやら、彼が気付いたようですよ」
ブライアンの背後から、そんな台詞が届いた。アンジェリカの向かいに誰かいるようだが、ブライアンの位置からはそちらを見ることができない。
(声には聞き覚えがある)
誰だったろう、と考えたところで、ブライアンの頭の中で最後の欠片がカチリとはまった。
この声は、殴られる直前に現れた人物のものだ。そして、ブライアンはその人物を知っている。知っているが、今の今まで、この事件の関係者として頭の片隅にも浮かばなかった。
その人物がアンジェリカに向ける眼差しに、嫌な感じを覚えたこともあったというのに。
自分のうかつさに舌打ちをしたくなるブライアンに、気遣わしげな声がかけられる。
「ブライアン?」
目を上げると、アンジェリカが彼を見つめていた。いつもと変わらぬように見えるその菫色の輝きの中に、不安の色がちらついている。
正直、頭は割れるように痛い。が、それは些細な問題だ。
「アンジェリカ、あなたに怪我はない? 何もされていないかい?」
一見したところでは縛られている以外以上はなさそうだが。
ブライアンの問いかけに、アンジェリカは目を瞬《しばたた》かせて、頷いた。
「私は、何も」
「良かった」
ひとまずホッと息をつき、ブライアンは無様に身をよじらせて寝返りを打つ。アンジェリカは手だけだが、彼の方は足も縛られているのでたったそれだけの動きも一苦労だった。
何とか方向転換を済ませて見上げた先にいたのは、ブライアンが予測していた通り、ウォーレス・シェフィールド。
猫の目亭でしばしば顔を合わせた黒髪黒目の貿易商――そして、この誘拐事件の、親玉。
彼は特徴らしい特徴のない平々凡々とした顔に、穏やかな微笑みを浮かべている。
ブライアンにも、人を覚えるのが得意だというリリアンがこの男のことを思い出せなかったのも納得できた。何というか、このウォーレス・シェフィールドという男はとにかく印象に残らないのだ。
たった今まで会話を交わしていても、ちょっと他所を見たらもうその顔を思い出せない――それが唯一の特徴ともいえるかもしれない。
「先ほどは失礼しました、ラザフォード様。頭は大丈夫ですか?」
「痛いよ」
形ばかりの気遣いで訊いてきたウォーレスに、ブライアンは不自由な肩をすくめて答えた。
短い一言に、ウォーレスは眉を持ち上げる。
「それは申し訳ありません、なにぶん、とっさのことだったので」
謝罪を口にしながらも、ウォーレスの様子に悪びれたところは微塵もない。彼はそれきりあっさりとブライアンを視界から外し、その目をアンジェリカに向けた。
「それで、先ほどのお話の続きですが、アンジェリカ」
言葉ともに彼女に注がれるウォーレスの眼差しは、三つ編みを解かれた銀色の髪の一本一本からきちんと揃えられた足の爪の先までを舐めるように辿る。一見、恋人が愛する人に向けるものと似ている。だが、愛おしさよりも執着を色濃くにじませたそれに、ブライアンは胸が悪くなった。
彼女を見るな、と、言いたい。
さっさと出ていけ、同じ空気を吸うな、とも。
だが、今は、うかつな言動でこの男を激昂させるべきではない。
「話とは何のことだ」
とにかく彼の視線をアンジェリカから逸らさせたくてブライアンは二人の間に割り込んだ。ウォーレスは地べたに転がる石ころでも見るような眼差しに一変させて、ブライアンを見下ろしてくる。
「私と一緒に来てください、という話ですよ。ねぇ、アンジェリカ」
「何をバカな――」
食って掛かろうとしたブライアンを遮るように、アンジェリカが答えを返す。
「それは断る、と私は言った」
冷やかな声で為された彼女の返事に、ウォーレスは眉根を寄せた。
「おとなしく来てくだされば、幸せにして差し上げるのに」
「必要ない。私は今のままで充分幸せだ」
どこまでも淡々と、にべもなく拒絶の言葉を口にしたアンジェリカを、彼はいかにも残念そうに見遣った。
「それは、私が与える幸せをご存じないからですよ。まあ、いい、じきにお判りになりますよ。あなたをこうやって手に入れるまで、ずいぶんとかかりましたから。もう少し待つくらい、どうということもありません」
ウォーレスはそう言って立ち上がる。
「あなたのその冷たい眼差しも良いですが、何、じきに、ねだるように私をご覧になるようになりますから。ああ、そのときが待ち遠しくてたまりません」
うっとりと、彼が言った。その指先が銀糸のような髪をひと房掬い取る。
そこが、ブライアンの我慢の限界だった。
「アンジェリカに、触るな」
身動きできないまま唸り声で威嚇する彼に、ウォーレスは目線だけを寄越す。そうして、何も言わずにそのひと房を口元に寄せた。
アンジェリカの髪の香りを、ブライアンは知っている。
甘く可憐な、仄かな薔薇の香り。
それを楽しむように、ウォーレスはこれ見よがしに深々と息を吸い込んだ。
(くそ。この身体が動くなら、今すぐ肺の中から全部絞り出してやるのに)
ブライアンは胸の中で百もの罵りの声を上げたが、指先を動かすのがせいぜいなのが、現実だ。叶うことならこの身体を戒める縄を引きちぎってやりたい――叶うことなら。
それができない非力なこの身が、忌々しくてならない。
ブライアンの奥歯は歯ぎしりで砕け散りそうだった。しかし、そんな彼に対してアンジェリカはと言えば、ウォーレスが彼女を弄んでいる間も真っ直ぐに背筋を正したまま微動だにしない。
まるで人形さながらに何の反応も見せようとしないアンジェリカに、ウォーレスは愉しげに目を細めた。喉を鳴らすように笑い声を漏らす。
「ああ、本当に、あなたは気高い。それを壊すのが、また、最高に心地良いのですよ」
ウォーレスはそっと髪を手放し、ほんの少し乱れた毛先を指先ですく。
「では、また後で。取り敢えず、あなたの『説得』は沖に出てからにしますよ。ラザフォード様はあなたが素直になってくださったら解放しましょう」
実現など決してしない妄言を最後に、ウォーレスは彼に目もくれないアンジェリカと燃える眼差しでその背を睨み付けるブライアンを残して部屋を出て行った。
一体誰だろう。
ラザフォード家の使用人に、主人の眠りを妨げるような者はいないはずだが。
ブライアンは渋々ながら起きようとして、その途端、ひどい頭痛に見舞われた。
(二日酔い?)
だが、最近はそんなに飲み過ぎるようなことはなかったはずなのに。
ガンガンと、まるで頭が割れそうな痛みを押して起き上がろうとしたブライアンは、今度は自分の身体が思うように動かないことに気が付いた。
(何だ――? あ、そうだ)
アンジェリカが、いなくなったのだ。
その事実を思い出した瞬間、一気に全てが回り出す。
(彼女を見つけて、助けようとして、それで……)
多分、頭を殴られた。
ブライアンはちかちかする目を無理やり開いて周囲を見回した。
まず探したのは、もちろんアンジェリカの姿だ。
いた。
すぐ隣で居心地の良さそうな椅子に座らされている。が、その腕は後ろ手に縛られていた。
対するブライアンはというと、アンジェリカと同じく手を縛られているが、彼女の扱いとはまさしく天と地の差で、無造作に埃だらけの床に転がされている。
こんな扱いなど、未だかつてされたことがない。憮然とするが、アンジェリカは大事にされているようなのだから、良しとしよう。
と、再び全身の力を抜いた時。
「どうやら、彼が気付いたようですよ」
ブライアンの背後から、そんな台詞が届いた。アンジェリカの向かいに誰かいるようだが、ブライアンの位置からはそちらを見ることができない。
(声には聞き覚えがある)
誰だったろう、と考えたところで、ブライアンの頭の中で最後の欠片がカチリとはまった。
この声は、殴られる直前に現れた人物のものだ。そして、ブライアンはその人物を知っている。知っているが、今の今まで、この事件の関係者として頭の片隅にも浮かばなかった。
その人物がアンジェリカに向ける眼差しに、嫌な感じを覚えたこともあったというのに。
自分のうかつさに舌打ちをしたくなるブライアンに、気遣わしげな声がかけられる。
「ブライアン?」
目を上げると、アンジェリカが彼を見つめていた。いつもと変わらぬように見えるその菫色の輝きの中に、不安の色がちらついている。
正直、頭は割れるように痛い。が、それは些細な問題だ。
「アンジェリカ、あなたに怪我はない? 何もされていないかい?」
一見したところでは縛られている以外以上はなさそうだが。
ブライアンの問いかけに、アンジェリカは目を瞬《しばたた》かせて、頷いた。
「私は、何も」
「良かった」
ひとまずホッと息をつき、ブライアンは無様に身をよじらせて寝返りを打つ。アンジェリカは手だけだが、彼の方は足も縛られているのでたったそれだけの動きも一苦労だった。
何とか方向転換を済ませて見上げた先にいたのは、ブライアンが予測していた通り、ウォーレス・シェフィールド。
猫の目亭でしばしば顔を合わせた黒髪黒目の貿易商――そして、この誘拐事件の、親玉。
彼は特徴らしい特徴のない平々凡々とした顔に、穏やかな微笑みを浮かべている。
ブライアンにも、人を覚えるのが得意だというリリアンがこの男のことを思い出せなかったのも納得できた。何というか、このウォーレス・シェフィールドという男はとにかく印象に残らないのだ。
たった今まで会話を交わしていても、ちょっと他所を見たらもうその顔を思い出せない――それが唯一の特徴ともいえるかもしれない。
「先ほどは失礼しました、ラザフォード様。頭は大丈夫ですか?」
「痛いよ」
形ばかりの気遣いで訊いてきたウォーレスに、ブライアンは不自由な肩をすくめて答えた。
短い一言に、ウォーレスは眉を持ち上げる。
「それは申し訳ありません、なにぶん、とっさのことだったので」
謝罪を口にしながらも、ウォーレスの様子に悪びれたところは微塵もない。彼はそれきりあっさりとブライアンを視界から外し、その目をアンジェリカに向けた。
「それで、先ほどのお話の続きですが、アンジェリカ」
言葉ともに彼女に注がれるウォーレスの眼差しは、三つ編みを解かれた銀色の髪の一本一本からきちんと揃えられた足の爪の先までを舐めるように辿る。一見、恋人が愛する人に向けるものと似ている。だが、愛おしさよりも執着を色濃くにじませたそれに、ブライアンは胸が悪くなった。
彼女を見るな、と、言いたい。
さっさと出ていけ、同じ空気を吸うな、とも。
だが、今は、うかつな言動でこの男を激昂させるべきではない。
「話とは何のことだ」
とにかく彼の視線をアンジェリカから逸らさせたくてブライアンは二人の間に割り込んだ。ウォーレスは地べたに転がる石ころでも見るような眼差しに一変させて、ブライアンを見下ろしてくる。
「私と一緒に来てください、という話ですよ。ねぇ、アンジェリカ」
「何をバカな――」
食って掛かろうとしたブライアンを遮るように、アンジェリカが答えを返す。
「それは断る、と私は言った」
冷やかな声で為された彼女の返事に、ウォーレスは眉根を寄せた。
「おとなしく来てくだされば、幸せにして差し上げるのに」
「必要ない。私は今のままで充分幸せだ」
どこまでも淡々と、にべもなく拒絶の言葉を口にしたアンジェリカを、彼はいかにも残念そうに見遣った。
「それは、私が与える幸せをご存じないからですよ。まあ、いい、じきにお判りになりますよ。あなたをこうやって手に入れるまで、ずいぶんとかかりましたから。もう少し待つくらい、どうということもありません」
ウォーレスはそう言って立ち上がる。
「あなたのその冷たい眼差しも良いですが、何、じきに、ねだるように私をご覧になるようになりますから。ああ、そのときが待ち遠しくてたまりません」
うっとりと、彼が言った。その指先が銀糸のような髪をひと房掬い取る。
そこが、ブライアンの我慢の限界だった。
「アンジェリカに、触るな」
身動きできないまま唸り声で威嚇する彼に、ウォーレスは目線だけを寄越す。そうして、何も言わずにそのひと房を口元に寄せた。
アンジェリカの髪の香りを、ブライアンは知っている。
甘く可憐な、仄かな薔薇の香り。
それを楽しむように、ウォーレスはこれ見よがしに深々と息を吸い込んだ。
(くそ。この身体が動くなら、今すぐ肺の中から全部絞り出してやるのに)
ブライアンは胸の中で百もの罵りの声を上げたが、指先を動かすのがせいぜいなのが、現実だ。叶うことならこの身体を戒める縄を引きちぎってやりたい――叶うことなら。
それができない非力なこの身が、忌々しくてならない。
ブライアンの奥歯は歯ぎしりで砕け散りそうだった。しかし、そんな彼に対してアンジェリカはと言えば、ウォーレスが彼女を弄んでいる間も真っ直ぐに背筋を正したまま微動だにしない。
まるで人形さながらに何の反応も見せようとしないアンジェリカに、ウォーレスは愉しげに目を細めた。喉を鳴らすように笑い声を漏らす。
「ああ、本当に、あなたは気高い。それを壊すのが、また、最高に心地良いのですよ」
ウォーレスはそっと髪を手放し、ほんの少し乱れた毛先を指先ですく。
「では、また後で。取り敢えず、あなたの『説得』は沖に出てからにしますよ。ラザフォード様はあなたが素直になってくださったら解放しましょう」
実現など決してしない妄言を最後に、ウォーレスは彼に目もくれないアンジェリカと燃える眼差しでその背を睨み付けるブライアンを残して部屋を出て行った。
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