放蕩貴族と銀の天使

トウリン

文字の大きさ
上 下
38 / 97
第一部『地上に舞い降りた天使は護り手など必要としない。』

天使の鞭は痛くて甘い①

しおりを挟む
 遠くで人の声がしている気がする。

 一体誰だろう。
 ラザフォード家の使用人に、主人の眠りを妨げるような者はいないはずだが。

 ブライアンは渋々ながら起きようとして、その途端、ひどい頭痛に見舞われた。

(二日酔い?)

 だが、最近はそんなに飲み過ぎるようなことはなかったはずなのに。
 ガンガンと、まるで頭が割れそうな痛みを押して起き上がろうとしたブライアンは、今度は自分の身体が思うように動かないことに気が付いた。

(何だ――? あ、そうだ)

 アンジェリカが、いなくなったのだ。

 その事実を思い出した瞬間、一気に全てが回り出す。

(彼女を見つけて、助けようとして、それで……)

 多分、頭を殴られた。

 ブライアンはちかちかする目を無理やり開いて周囲を見回した。

 まず探したのは、もちろんアンジェリカの姿だ。

 いた。

 すぐ隣で居心地の良さそうな椅子に座らされている。が、その腕は後ろ手に縛られていた。
 対するブライアンはというと、アンジェリカと同じく手を縛られているが、彼女の扱いとはまさしく天と地の差で、無造作に埃だらけの床に転がされている。
 こんな扱いなど、未だかつてされたことがない。憮然とするが、アンジェリカは大事にされているようなのだから、良しとしよう。

 と、再び全身の力を抜いた時。

「どうやら、彼が気付いたようですよ」
 ブライアンの背後から、そんな台詞が届いた。アンジェリカの向かいに誰かいるようだが、ブライアンの位置からはそちらを見ることができない。

(声には聞き覚えがある)

 誰だったろう、と考えたところで、ブライアンの頭の中で最後の欠片がカチリとはまった。

 この声は、殴られる直前に現れた人物のものだ。そして、ブライアンはその人物を知っている。知っているが、今の今まで、この事件の関係者として頭の片隅にも浮かばなかった。
 その人物がアンジェリカに向ける眼差しに、嫌な感じを覚えたこともあったというのに。

 自分のうかつさに舌打ちをしたくなるブライアンに、気遣わしげな声がかけられる。

「ブライアン?」
 目を上げると、アンジェリカが彼を見つめていた。いつもと変わらぬように見えるその菫色の輝きの中に、不安の色がちらついている。

 正直、頭は割れるように痛い。が、それは些細な問題だ。

「アンジェリカ、あなたに怪我はない? 何もされていないかい?」

 一見したところでは縛られている以外以上はなさそうだが。
 ブライアンの問いかけに、アンジェリカは目を瞬《しばたた》かせて、頷いた。
「私は、何も」
「良かった」

 ひとまずホッと息をつき、ブライアンは無様に身をよじらせて寝返りを打つ。アンジェリカは手だけだが、彼の方は足も縛られているのでたったそれだけの動きも一苦労だった。

 何とか方向転換を済ませて見上げた先にいたのは、ブライアンが予測していた通り、ウォーレス・シェフィールド。
 猫の目亭でしばしば顔を合わせた黒髪黒目の貿易商――そして、この誘拐事件の、親玉。
 彼は特徴らしい特徴のない平々凡々とした顔に、穏やかな微笑みを浮かべている。

 ブライアンにも、人を覚えるのが得意だというリリアンがこの男のことを思い出せなかったのも納得できた。何というか、このウォーレス・シェフィールドという男はとにかく印象に残らないのだ。
 たった今まで会話を交わしていても、ちょっと他所を見たらもうその顔を思い出せない――それが唯一の特徴ともいえるかもしれない。

「先ほどは失礼しました、ラザフォード様。頭は大丈夫ですか?」
「痛いよ」
 形ばかりの気遣いで訊いてきたウォーレスに、ブライアンは不自由な肩をすくめて答えた。
 短い一言に、ウォーレスは眉を持ち上げる。
「それは申し訳ありません、なにぶん、とっさのことだったので」
 謝罪を口にしながらも、ウォーレスの様子に悪びれたところは微塵もない。彼はそれきりあっさりとブライアンを視界から外し、その目をアンジェリカに向けた。

「それで、先ほどのお話の続きですが、アンジェリカ」

 言葉ともに彼女に注がれるウォーレスの眼差しは、三つ編みを解かれた銀色の髪の一本一本からきちんと揃えられた足の爪の先までを舐めるように辿る。一見、恋人が愛する人に向けるものと似ている。だが、愛おしさよりも執着を色濃くにじませたそれに、ブライアンは胸が悪くなった。

 彼女を見るな、と、言いたい。
 さっさと出ていけ、同じ空気を吸うな、とも。

 だが、今は、うかつな言動でこの男を激昂させるべきではない。

「話とは何のことだ」
 とにかく彼の視線をアンジェリカから逸らさせたくてブライアンは二人の間に割り込んだ。ウォーレスは地べたに転がる石ころでも見るような眼差しに一変させて、ブライアンを見下ろしてくる。

「私と一緒に来てください、という話ですよ。ねぇ、アンジェリカ」
「何をバカな――」
 食って掛かろうとしたブライアンを遮るように、アンジェリカが答えを返す。
「それは断る、と私は言った」
 冷やかな声で為された彼女の返事に、ウォーレスは眉根を寄せた。

「おとなしく来てくだされば、幸せにして差し上げるのに」
「必要ない。私は今のままで充分幸せだ」

 どこまでも淡々と、にべもなく拒絶の言葉を口にしたアンジェリカを、彼はいかにも残念そうに見遣った。
「それは、私が与える幸せをご存じないからですよ。まあ、いい、じきにお判りになりますよ。あなたをこうやって手に入れるまで、ずいぶんとかかりましたから。もう少し待つくらい、どうということもありません」
 ウォーレスはそう言って立ち上がる。
「あなたのその冷たい眼差しも良いですが、何、じきに、ねだるように私をご覧になるようになりますから。ああ、そのときが待ち遠しくてたまりません」

 うっとりと、彼が言った。その指先が銀糸のような髪をひと房掬い取る。
 そこが、ブライアンの我慢の限界だった。

「アンジェリカに、触るな」
 身動きできないまま唸り声で威嚇する彼に、ウォーレスは目線だけを寄越す。そうして、何も言わずにそのひと房を口元に寄せた。

 アンジェリカの髪の香りを、ブライアンは知っている。
 甘く可憐な、仄かな薔薇の香り。

 それを楽しむように、ウォーレスはこれ見よがしに深々と息を吸い込んだ。

(くそ。この身体が動くなら、今すぐ肺の中から全部絞り出してやるのに)

 ブライアンは胸の中で百もの罵りの声を上げたが、指先を動かすのがせいぜいなのが、現実だ。叶うことならこの身体を戒める縄を引きちぎってやりたい――叶うことなら。
 それができない非力なこの身が、忌々しくてならない。
 ブライアンの奥歯は歯ぎしりで砕け散りそうだった。しかし、そんな彼に対してアンジェリカはと言えば、ウォーレスが彼女を弄んでいる間も真っ直ぐに背筋を正したまま微動だにしない。
 まるで人形さながらに何の反応も見せようとしないアンジェリカに、ウォーレスは愉しげに目を細めた。喉を鳴らすように笑い声を漏らす。

「ああ、本当に、あなたは気高い。それを壊すのが、また、最高に心地良いのですよ」
 ウォーレスはそっと髪を手放し、ほんの少し乱れた毛先を指先ですく。
「では、また後で。取り敢えず、あなたの『説得』は沖に出てからにしますよ。ラザフォード様はあなたが素直になってくださったら解放しましょう」

 実現など決してしない妄言を最後に、ウォーレスは彼に目もくれないアンジェリカと燃える眼差しでその背を睨み付けるブライアンを残して部屋を出て行った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

「お姉様の赤ちゃん、私にちょうだい?」

サイコちゃん
恋愛
実家に妊娠を知らせた途端、妹からお腹の子をくれと言われた。姉であるイヴェットは自分の持ち物や恋人をいつも妹に奪われてきた。しかし赤ん坊をくれというのはあまりに酷過ぎる。そのことを夫に相談すると、彼は「良かったね! 家族ぐるみで育ててもらえるんだね!」と言い放った。妹と両親が異常であることを伝えても、夫は理解を示してくれない。やがて夫婦は離婚してイヴェットはひとり苦境へ立ち向かうことになったが、“医術と魔術の天才”である治療人アランが彼女に味方して――

【完結】烏公爵の後妻〜旦那様は亡き前妻を想い、一生喪に服すらしい〜

七瀬菜々
恋愛
------ウィンターソン公爵の元に嫁ぎなさい。 ある日突然、兄がそう言った。 魔力がなく魔術師にもなれなければ、女というだけで父と同じ医者にもなれないシャロンは『自分にできることは家のためになる結婚をすること』と、日々婚活を頑張っていた。 しかし、表情を作ることが苦手な彼女の婚活はそううまくいくはずも無く…。 そろそろ諦めて修道院にで入ろうかと思っていた矢先、突然にウィンターソン公爵との縁談が持ち上がる。 ウィンターソン公爵といえば、亡き妻エミリアのことが忘れられず、5年間ずっと喪に服したままで有名な男だ。 前妻を今でも愛している公爵は、シャロンに対して予め『自分に愛されないことを受け入れろ』という誓約書を書かせるほどに徹底していた。 これはそんなウィンターソン公爵の後妻シャロンの愛されないはずの結婚の物語である。 ※基本的にちょっと残念な夫婦のお話です

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?

新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。 ※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

罠に嵌められたのは一体誰?

チカフジ ユキ
恋愛
卒業前夜祭とも言われる盛大なパーティーで、王太子の婚約者が多くの人の前で婚約破棄された。   誰もが冤罪だと思いながらも、破棄された令嬢は背筋を伸ばし、それを認め国を去ることを誓った。 そして、その一部始終すべてを見ていた僕もまた、その日に婚約が白紙になり、仕方がないかぁと思いながら、実家のある隣国へと帰って行った。 しかし帰宅した家で、なんと婚約破棄された元王太子殿下の婚約者様が僕を出迎えてた。

【完結】伝説の悪役令嬢らしいので本編には出ないことにしました~執着も溺愛も婚約破棄も全部お断りします!~

イトカワジンカイ
恋愛
「目には目をおおおお!歯には歯をおおおお!」   どごおおおぉっ!! 5歳の時、イリア・トリステンは虐められていた少年をかばい、いじめっ子をぶっ飛ばした結果、少年からとある書物を渡され(以下、悪役令嬢テンプレなので略) ということで、自分は伝説の悪役令嬢であり、攻略対象の王太子と婚約すると断罪→死刑となることを知ったイリアは、「なら本編にでなやきゃいいじゃん!」的思考で、王家と関わらないことを決意する。 …だが何故か突然王家から婚約の決定通知がきてしまい、イリアは侯爵家からとんずらして辺境の魔術師ディボに押しかけて弟子になることにした。 それから12年…チートの魔力を持つイリアはその魔法と、トリステン家に伝わる気功を駆使して診療所を開き、平穏に暮らしていた。そこに王家からの使いが来て「不治の病に倒れた王太子の病気を治せ」との命令が下る。 泣く泣く王都へ戻ることになったイリアと旅に出たのは、幼馴染で兄弟子のカインと、王の使いで来たアイザック、女騎士のミレーヌ、そして以前イリアを助けてくれた騎士のリオ… 旅の途中では色々なトラブルに見舞われるがイリアはそれを拳で解決していく。一方で何故かリオから熱烈な求愛を受けて困惑するイリアだったが、果たしてリオの思惑とは? 更には何故か第一王子から執着され、なぜか溺愛され、さらには婚約破棄まで!? ジェットコースター人生のイリアは持ち前のチート魔力と前世での知識を用いてこの苦境から立ち直り、自分を断罪した人間に逆襲できるのか? 困難を力でねじ伏せるパワフル悪役令嬢の物語! ※地学の知識を織り交ぜますが若干正確ではなかったりもしますが多めに見てください… ※ゆるゆる設定ですがファンタジーということでご了承ください… ※小説家になろう様でも掲載しております ※イラストは湶リク様に描いていただきました

【完結】誰にも相手にされない壁の華、イケメン騎士にお持ち帰りされる。

三園 七詩
恋愛
独身の貴族が集められる、今で言う婚活パーティーそこに地味で地位も下のソフィアも参加することに…しかし誰にも話しかけらない壁の華とかしたソフィア。 それなのに気がつけば裸でベッドに寝ていた…隣にはイケメン騎士でパーティーの花形の男性が隣にいる。 頭を抱えるソフィアはその前の出来事を思い出した。 短編恋愛になってます。

処理中です...