放蕩貴族と銀の天使

トウリン

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第一部『地上に舞い降りた天使は護り手など必要としない。』

天使の微笑みは、時に、苦い②

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 ボールドウィンと別れたブライアンは胸ポケットから懐中時計を取り出した。
 今日は議論が白熱したこともあって少し遅くなってしまった。長居はできないけれど、まだ猫の目亭は開いている時間だ。
(ちょっと、彼女の声を聴くだけでも……)
 ほとんど本能に直結しているといってもいいかもしれないその欲求に促され、ブライアンの足は自然と心が望む場所へと向かう。

 猫の目亭に着いた頃にはちょうど夕食時を迎えていて、店の中は仕事帰りに寄ったらしい人たちでごった返していた。席は一つも空いていそうにない。
 その人込みの中に銀色の輝きを探すと、視線を一巡させただけですぐに見つけられた。不思議なことに、アンジェリカの姿はいつも一瞬で見出せるのだ。大勢の中にいても、彼女だけが浮き上がって見える感じで。
(銀髪のせいかな……)
 ブライアンは首を捻る。と、彼の視線に気付いたように、アンジェリカがクルリと振り返った。ブライアンと目が合うと、相手をしていた客に何かを言って、彼の方へとやってくる。

「すまないが、今日は混んでいて席が空くのにしばらくかかる」
 アンジェリカは彼の前に立ち、わずかに首をかしげる。その拍子に、銀髪がさらりと揺れた。
 それを指先で掬い取り口付けられれば食事なんて要らないのだけどなどとぼんやりと思いつつ、ブライアンは申し訳なさそうにしているアンジェリカにニコリと笑い返す。

「ああ、いいよ。今日はあなたを見に寄っただけだから、すぐに帰るよ」
 と、アンジェリカが眉根を寄せた。

「……私を……?」

 繰り返されて、ブライアンは自分の台詞の意味するところを悟る。
(しまった。また、用もないのに来るなと言われてしまう)
 彼は慌てて言い繕った。慌てたあまりに心の声が駄々洩れになる。
「あ、いや、あなたに逢うと逢わないとじゃ、眠りの質が違うんだ」
「眠り……?」
 どういうことだと言わんばかりに、いっそう、アンジェリカの眉間のしわが深まった。

 そんなしわすら可愛いな、と思いながらも、ブライアンは天を仰ぎたくなる。
 彼女の困惑ももっともだ。今の台詞はブライアンの忌憚のない真実ではあるが、それは心の中にとどめておくべきものであって、アンジェリカに伝えるものじゃない。そんなことを言われても、彼女だってどう返したらいいか判らないだろう。
 だが、今さら両手で口を塞いでも、こぼした言葉は戻らない。

 会話能力には自信があったはずなのに、どうしてか、アンジェリカの前に立つとそれが全く発揮されなくなる。特に今はケンドリック伯爵との遣り取りの余韻で頭がのぼせているのか、言葉を重ねれば重ねるほど妙なことを口走ってしまいそうだ。

「今日はもう――」
 帰るよ、と続けようとしたブライアンを、アンジェリカの声が遮る。
「こんな時間になるなんて、珍しいな」

 ブライアンは目をしばたたかせた。

 これは、『雑談』だろうか。
 余計なことは話さないアンジェリカからの振りに、彼は咄嗟に反応を返すことができなかった。たっぷり呼吸三回分は沈黙してから、ハタと我に返って頷く。

「あ、ああ、うん。今日はちょっと議会が長引いて」
「議会?」
 ことんと、アンジェリカが首を傾げた。その仕草がなんとも可愛らしくて、ブライアンのみぞおちがキュウと締め付けられる。それに心を取られて、彼は頭の中にあることを気もそぞろに吐き出した。

「そう。ほら、あなたも言っていたけど、孤児とか、病気で働けない人とか、色々困ってる人たちのことを、我が国では有志が個々で援助しているだろう? そこをね、国として何か関わるべきじゃないかと思って」
「国が……」
「うん。色々あなたに教えてもらって、僕にも何かできないかと思ったんだ」

 アンジェリカは無言でブライアンを見つめている。残念ながら、その表情から彼女がどう考えているのか、彼に読み取ることはできない。

 余計なことを、と言われてしまうのだろうか。
 あるいは、そんなことは無駄だと言われてしまうのだろうか。

 ブライアンはアンジェリカの口から否定の言葉を聞きたくなくて、口早に続ける。
「貴族とか、貴族以外でも一定の収入がある者から、その収入に応じて、そういう人たちへの援助を出すようにできないか、と……そう、議会に案を提出してみたんだよ」
 彼女は、まだ、口をつぐんでいる。
「えっと、国が無関心だから個人も無関心になるんじゃないかな、とか。国が動いているんだとなれば、自然と、国民一人一人の目が向くようにならないかな、と思ってさ」

 先日、通りでアンジェリカが大立ち回りを演じた件で、ブライアンは虐げられた人がいるということを知らなかった自分に愕然とした。そして、同時に、あれほどの騒ぎにも関わらず通りの人々が皆素通りしていったということにも衝撃を覚えたのだ。

 人々の無知無関心、それが問題なのではないか、と。
 ブライアンは思った。そうして、何かできることはないかと考え、動いたのだ。

 アンジェリカはブライアンにその紫水晶のような眼を固定して、ピクリとも揺らがせない。

「えっと……アンジェリカ……?」
 恐る恐る呼びかけてみた。と、そこでようやく彼女がしばしばと瞬きをする。

 そして。

「すごい」
「――え?」
「すごいな、そんなことができるなんて」
 そう言ったアンジェリカの目は微かに見開かれて、生き生きとした輝きを放っている。その眩さに目を奪われていたブライアンは、次の瞬間意識を失いそうになった。アンジェリカがふわりと浮かべた満面の笑みに心を奪われて。

(ちょっと待って何その笑顔)
 ブライアンは息を呑む。
 彼女が笑った瞬間、世界の色が、変わったような気がした。

 微笑みなら、何度か目にした。ちょっとした苦笑も。
 今の笑顔は、それらとは全然違う。彼女がそんなふうに笑うなんて――笑えるなんて、想像すらしていなかった。

 そのふっくらとした頬を両手の中に閉じ込めてしまいたい。

 切望に手のひらが疼く。

 両手で頬を包んで、薄っすら開いたその薄紅色の唇に――

「ブライアン?」

 呆けたようにアンジェリカに見惚れていたブライアンは、彼女が何か言っていることに気づくのが遅れる。ふらふらと無自覚に持ち上げかけていた手を慌てて身体の両脇に下し、ぎこちない笑みを浮かべた。

「あ、ごめん、何て言った?」
「ありがとう、と。私は、私の手が届くところしか助けられない。でも、あなたが動いてくれれば、きっと、もっとたくさんの人が助かる」
 煌く眼差しを注がれると、ブライアンは自分の背が一気に倍にもなったように感じられたが、すぐにそれがしぼむ。
「でも、まだ決まったわけじゃないから、うまくいかないかもしれない」
「それでも、大きな一歩だ。結果は問題じゃない。あなたがしてくれたこと――しようとしてくれていることに、感謝する」
 そう言って、アンジェリカはまた笑った。今度は、柔らかな微笑みで。

 ブライアンはその微笑みに心を奪われ、同時にどうしようもなく胸が詰まった。
 今日は、ブライアンが尊敬する人二人から、認められてしまった。振り返ってみると、誰かから褒められたのは初めてかもしれない。
 ブライアンの両親は子どもの養育には興味がない人たちだったから、そもそもあまり接触することがなかった。
 幼いころからの教育係は課題を成し遂げれば「よくできました」と『評価』をくれることはあったけれども、それは『褒める』というのとはちょっと違っていたのではないかと思う。
 付き合いがあった女性から確かに賛辞は与えられたが――何か違う。彼女たちから『褒め』られても、何も感じなかった。

 ケンドリック伯爵から言葉を受けた時もそうだったが、アンジェリカからの『ありがとう』も『すごい』も、ブライアンにはまるで魔法の呪文のように思われた。何か、今までとはまるきり違う自分になったような気がする。

「ブライアン……どうかしたか?」
「え?」
 呆けたままのブライアンに、アンジェリカがついと手を伸ばしてくる。気付いた時には、彼女の指先が彼の頬に触れていた。

 女性に触れられたことなど、腐るほどある。それこそ口には出せないような場所に、これ以上はないというほど親密に。それらはそれなりに心地良いものだ。だが、たった今アンジェリカの温度が肌をかすめた時の衝撃は、これまで経験したことがないものだった。

(う、わ!?)

 反射的にブライアンは身をのけぞらせてその繊手から離れる。明らかに不自然な動きに、アンジェリカがキョトンとした。彼女のその顔でブライアンは自分の行動の不審さに気付く。
「あ、えっと、ちょっと驚いて」
 彼がヘラッと笑ってそうごまかすと、アンジェリカは指先を握り込み、そしてその手を下げた。

「すまない。私も不躾だった」
 気まずげに無礼を謝罪したアンジェリカに、ブライアンはグッと息を詰める。彼女に触れられたところは、まだ、疼いていた。まるで、身体中の神経がそこに集中してしまったかのように。

 ブライアンの頬に残るアンジェリカの温もりは、薄れることなくじわじわと彼の全身に広がっていく。それに伴い、ブライアンの身体に衝動がほとばしる。
 その衝動に、突き動かされそうになる。
 たった今、アンジェリカのその手から逃れたくせに、ブライアンは彼女に触れたくてたまらなかった。全身で彼女を感じたくて、たまらない。

 だが。

(ちょっと、待て。僕はいったい何を考えているんだ?)

 我に返った瞬間、ブライアンは心の中で自分の頬を殴りつけた。

 ――そんなふうに感じてはいけない。
 こんな衝動は、アンジェリカに対して抱くべきではないのに。

 彼女の笑顔の余韻と、触れられた感覚と、自分でも制御できなかった行動と、彼女に謝らせてしまった申し訳なさとその他諸々で、ブライアンの頭の中は混乱の頂点を極める。

「いや、僕も――……ごめん」

 もごもごと謝って、なし崩しに彼は猫の目亭を後にした。
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