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ライオンのしつけ方
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一智の元を離れてから、もう二年以上が過ぎた。
逃げ出した百合を彼が追いかけてきた時は身を切るような寒さだったけれど、あれから季節は二回巡り、そろそろ桜の蕾も膨らみ始めている。
京都に辿り着いた時からお世話になっている小料理屋の開店準備をしながら、百合はふとテレビのニュースに目を止めた。アナウンサーが読み上げた『新藤商事』という一言が耳を掠めたからだ。
すぐに切り替わってしまったアナウンサーの下のテロップには、『新藤商事』『新部門』と書いてあった気がする。続いて映し出されたのは、会見する一智の姿だった。
彼は『あれ』以来、毎月一回は必ず京都にやってきて、百合がそこにいるか、何事もなく過ごしているかを確認して、ただそれだけで東京に戻っていく――あの日の宣言どおり、指一本、彼女に触れず。
時折、食いつかれるのではないかと思わせる眼差しを向けられることがあったけれど、彼は極めて礼儀正しく振舞った。
アナウンサーは、『新藤商事』『新部門』『躍進』などの単語を並べていき、そして『専務新藤一智』の名を挙げる。
彼を称賛する言葉の数々を、百合は一言一句聞き漏らさぬように耳を澄ました。
「一智様、やったんだ……」
彼を軽視する役員たちをねじ伏せるのに、どれだけ頑張ったのだろう。
遊び暮らしてばかりで出社すらままならなかった一智が、随分成長したものだ。
胸を張って会見をしている今の彼の姿には、まさに王者の貫録があった。
我知らず、ふふ、と百合の口から小さな笑みが漏れる。
と、不意に。
店のドアに掛けられた鈴が軽やかな音を立てる。開店までは、まだ一時間近くあり、『準備中』の札もかけられたままの筈なのに。
「すみません、まだ……」
営業スマイルで振り返った百合は、『客』の姿を見て固まった。
「一智様……」
「何だよ、その顔は」
苦笑しながらそう言って、彼が近づいてくる。そして、いつものように、触れられない距離で足を止めた。
「今日はお仕事がある日じゃないんですか? それに、こんな時間に、どうされたんですか? あ、こちらに出張ですか?」
いつもは休日の昼間に来るのだ――仕事をサボってはいない、という証拠に。平日の夕方に来るなど、この二年間なかったことだ。
一智はその質問には答えずに、ジッと百合を見下ろしている。
そしておもむろに、膝を突いた。
立場が入れ替わって見下ろす形になり、百合は慌てる。
「ちょ……っと、一智様! スーツが汚れます!」
床はきれいに掃除してあるけれど、それでも一着何十万円もする服でそんなことをされると、困る。
腕を引っ張って立ち上がらせようとする百合を、しかし一智は無言で見つめてくる。そうして、スーツのポケットから手のひらに載る程度の小さなものを取り出した。
開かなくても中身はわかるその小箱に、百合の鼓動が速まっていく。
「一智、様……?」
怖いほどに真剣な一智の眼差しが、百合を射抜いてくる。
たっぷり一分は殆ど睨むようにして彼女を見つめてから、彼はおもむろに口を開いた。
「俺は、もう充分に『誠意』を見せただろう?」
「え?」
「この二年、お前には指一本触れなかった。仕事もこれ以上はないというほど、やった」
「え、ええ」
先ほどのニュースが百合の脳裏をよぎる。経営や会社のことはよく解らないが、多分、充分すぎる成果なのではないだろうか。でも、それがこの、大の男に跪かれているという状況と、どんな関係があるのか。
戸惑う百合の前で、一智が小箱を手のひらに載せ、開ける。
そこから現われたのは、深く透き通った真っ青なサファイアにダイアをあしらった、指輪だった。サファイアは、百合の生まれ月である九月の誕生石ではあるけれど――それにはまだあと半年はある。
以前にも、一智は誕生日プレゼントだと言って宝石をくれた。彼女は、いつも首にかけているそれを、無意識のうちに探る。
「また、そんな高価なものを――」
たしなめようとした彼女の台詞を遮って、一智が口を開いた。
「お前を愛してる。結婚してくれ」
しばしの沈黙。
「は……はぁっ!?」
頓狂な声をあげて思わず後ずさった百合に、一智が立ち上がって開いた距離を縮める。
「俺は待った。『誠意』も見せた。『はい』以外の返事は聞かない」
百合に我に返る隙を与えないかのように、一智が立て続けに主張する。
「『はい』だったら、今日、これからすぐに帰ろう。『いいえ』だったら、勝手に連れ帰る」
――それって、結局どちらも同じじゃないの?
百合の中で妙に冷静な自分がそんなふうに考えたが、言葉は出て来ない。はくはくと口を開閉する百合の左手を取ると、一智は勝手に薬指に指輪をはめてしまう。そのサイズは、憎たらしいほどぴったりだった。
しげしげと彼女の手を見つめた一智は、恭しげにそれを持ち上げると、愛おしそうに、指の一本一本に口付けていく。
「俺はお前を欲しいと思う。けどな、それだけじゃないんだ。お前を抱き締めていると、ただそれだけでも最高の気分になれる。お前は俺のものなんだと世界中に宣言したくてたまらない。お前を無性に守ってやりたくて、大事にしたくて、爪の先ほどの傷でもついたらと思うと頭がおかしくなりそうになるんだ」
指先にかかる彼の吐息の温もりを、百合は呆然と受け止めた。
彼の口付けは百合の右手の指から左手の指へと移っていく。
やがて到達したのは、薬指。
そこに輝くサファイアにそっと唇で触れて、彼の目が百合を真っ直ぐに覗き込んでくる。
「お前には、俺の傍にいて欲しい。だから、結婚してくれ」
再び現れたその言葉に、ようやく我に返って状況を理解した百合が手を取り戻す。
「ちょ、ちょっと一智様! 少し頭を冷やしてお考えになってください!」
慌てて指輪を抜き去ろうとしたが、それより早く、指輪ごと包み込むようにして一智に両手を握られてしまった。
「言っただろう? お前の返事はどうあれ、連れ帰る。もう、お前がいない生活にはうんざりなんだ。お前がまだ納得していないというなら、あとは家で続けるぞ。二年間、お前のやり方を尊重した。それでダメなんだから、今度は俺のやり方でやる」
「ちょっと、待って!」
「待たない」
百合の抗議はざっくり切り捨てられ、有無を言わさず一智の腕の中に抱え上げられてしまう。
「でも、あの、急に辞めるなんて、女将さんに悪いから!」
「大丈夫。今日お前を連れて帰ることは、二ヶ月前に言ってある」
「はあ!?」
百合が思わず厨房の方へ視線を走らせると、いつの間にか奥から出てきていた女将が、ニコニコと笑いながら手を振っていた。目が合うと、全て心得ている、と言わんばかりに、力強く頷く。
「百合ちゃん、ありがとね。この二年間、助かったわぁ。お幸せにね!」
いったい、どんな伝え方をしたというのか。明らかに拉致られているのに、女将はまるで幸ある門出に娘を送り出す母親のような笑顔だった。
キッと腕の中から睨み上げると、一智はしたり顔で笑みを返してくる。
「な、俺にも常識ってモンがついてきただろ?」
こんなことをしでかして、どの面下げてそんなことを言うのか。
「完っ全に、非常識です!!」
車に押し込められる百合のその叫びを聞く者は、ドアが締まると同時に、一智以外にはいなくなった。
――それすらも、じきに封じ込められてしまうのだが。
逃げ出した百合を彼が追いかけてきた時は身を切るような寒さだったけれど、あれから季節は二回巡り、そろそろ桜の蕾も膨らみ始めている。
京都に辿り着いた時からお世話になっている小料理屋の開店準備をしながら、百合はふとテレビのニュースに目を止めた。アナウンサーが読み上げた『新藤商事』という一言が耳を掠めたからだ。
すぐに切り替わってしまったアナウンサーの下のテロップには、『新藤商事』『新部門』と書いてあった気がする。続いて映し出されたのは、会見する一智の姿だった。
彼は『あれ』以来、毎月一回は必ず京都にやってきて、百合がそこにいるか、何事もなく過ごしているかを確認して、ただそれだけで東京に戻っていく――あの日の宣言どおり、指一本、彼女に触れず。
時折、食いつかれるのではないかと思わせる眼差しを向けられることがあったけれど、彼は極めて礼儀正しく振舞った。
アナウンサーは、『新藤商事』『新部門』『躍進』などの単語を並べていき、そして『専務新藤一智』の名を挙げる。
彼を称賛する言葉の数々を、百合は一言一句聞き漏らさぬように耳を澄ました。
「一智様、やったんだ……」
彼を軽視する役員たちをねじ伏せるのに、どれだけ頑張ったのだろう。
遊び暮らしてばかりで出社すらままならなかった一智が、随分成長したものだ。
胸を張って会見をしている今の彼の姿には、まさに王者の貫録があった。
我知らず、ふふ、と百合の口から小さな笑みが漏れる。
と、不意に。
店のドアに掛けられた鈴が軽やかな音を立てる。開店までは、まだ一時間近くあり、『準備中』の札もかけられたままの筈なのに。
「すみません、まだ……」
営業スマイルで振り返った百合は、『客』の姿を見て固まった。
「一智様……」
「何だよ、その顔は」
苦笑しながらそう言って、彼が近づいてくる。そして、いつものように、触れられない距離で足を止めた。
「今日はお仕事がある日じゃないんですか? それに、こんな時間に、どうされたんですか? あ、こちらに出張ですか?」
いつもは休日の昼間に来るのだ――仕事をサボってはいない、という証拠に。平日の夕方に来るなど、この二年間なかったことだ。
一智はその質問には答えずに、ジッと百合を見下ろしている。
そしておもむろに、膝を突いた。
立場が入れ替わって見下ろす形になり、百合は慌てる。
「ちょ……っと、一智様! スーツが汚れます!」
床はきれいに掃除してあるけれど、それでも一着何十万円もする服でそんなことをされると、困る。
腕を引っ張って立ち上がらせようとする百合を、しかし一智は無言で見つめてくる。そうして、スーツのポケットから手のひらに載る程度の小さなものを取り出した。
開かなくても中身はわかるその小箱に、百合の鼓動が速まっていく。
「一智、様……?」
怖いほどに真剣な一智の眼差しが、百合を射抜いてくる。
たっぷり一分は殆ど睨むようにして彼女を見つめてから、彼はおもむろに口を開いた。
「俺は、もう充分に『誠意』を見せただろう?」
「え?」
「この二年、お前には指一本触れなかった。仕事もこれ以上はないというほど、やった」
「え、ええ」
先ほどのニュースが百合の脳裏をよぎる。経営や会社のことはよく解らないが、多分、充分すぎる成果なのではないだろうか。でも、それがこの、大の男に跪かれているという状況と、どんな関係があるのか。
戸惑う百合の前で、一智が小箱を手のひらに載せ、開ける。
そこから現われたのは、深く透き通った真っ青なサファイアにダイアをあしらった、指輪だった。サファイアは、百合の生まれ月である九月の誕生石ではあるけれど――それにはまだあと半年はある。
以前にも、一智は誕生日プレゼントだと言って宝石をくれた。彼女は、いつも首にかけているそれを、無意識のうちに探る。
「また、そんな高価なものを――」
たしなめようとした彼女の台詞を遮って、一智が口を開いた。
「お前を愛してる。結婚してくれ」
しばしの沈黙。
「は……はぁっ!?」
頓狂な声をあげて思わず後ずさった百合に、一智が立ち上がって開いた距離を縮める。
「俺は待った。『誠意』も見せた。『はい』以外の返事は聞かない」
百合に我に返る隙を与えないかのように、一智が立て続けに主張する。
「『はい』だったら、今日、これからすぐに帰ろう。『いいえ』だったら、勝手に連れ帰る」
――それって、結局どちらも同じじゃないの?
百合の中で妙に冷静な自分がそんなふうに考えたが、言葉は出て来ない。はくはくと口を開閉する百合の左手を取ると、一智は勝手に薬指に指輪をはめてしまう。そのサイズは、憎たらしいほどぴったりだった。
しげしげと彼女の手を見つめた一智は、恭しげにそれを持ち上げると、愛おしそうに、指の一本一本に口付けていく。
「俺はお前を欲しいと思う。けどな、それだけじゃないんだ。お前を抱き締めていると、ただそれだけでも最高の気分になれる。お前は俺のものなんだと世界中に宣言したくてたまらない。お前を無性に守ってやりたくて、大事にしたくて、爪の先ほどの傷でもついたらと思うと頭がおかしくなりそうになるんだ」
指先にかかる彼の吐息の温もりを、百合は呆然と受け止めた。
彼の口付けは百合の右手の指から左手の指へと移っていく。
やがて到達したのは、薬指。
そこに輝くサファイアにそっと唇で触れて、彼の目が百合を真っ直ぐに覗き込んでくる。
「お前には、俺の傍にいて欲しい。だから、結婚してくれ」
再び現れたその言葉に、ようやく我に返って状況を理解した百合が手を取り戻す。
「ちょ、ちょっと一智様! 少し頭を冷やしてお考えになってください!」
慌てて指輪を抜き去ろうとしたが、それより早く、指輪ごと包み込むようにして一智に両手を握られてしまった。
「言っただろう? お前の返事はどうあれ、連れ帰る。もう、お前がいない生活にはうんざりなんだ。お前がまだ納得していないというなら、あとは家で続けるぞ。二年間、お前のやり方を尊重した。それでダメなんだから、今度は俺のやり方でやる」
「ちょっと、待って!」
「待たない」
百合の抗議はざっくり切り捨てられ、有無を言わさず一智の腕の中に抱え上げられてしまう。
「でも、あの、急に辞めるなんて、女将さんに悪いから!」
「大丈夫。今日お前を連れて帰ることは、二ヶ月前に言ってある」
「はあ!?」
百合が思わず厨房の方へ視線を走らせると、いつの間にか奥から出てきていた女将が、ニコニコと笑いながら手を振っていた。目が合うと、全て心得ている、と言わんばかりに、力強く頷く。
「百合ちゃん、ありがとね。この二年間、助かったわぁ。お幸せにね!」
いったい、どんな伝え方をしたというのか。明らかに拉致られているのに、女将はまるで幸ある門出に娘を送り出す母親のような笑顔だった。
キッと腕の中から睨み上げると、一智はしたり顔で笑みを返してくる。
「な、俺にも常識ってモンがついてきただろ?」
こんなことをしでかして、どの面下げてそんなことを言うのか。
「完っ全に、非常識です!!」
車に押し込められる百合のその叫びを聞く者は、ドアが締まると同時に、一智以外にはいなくなった。
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