ライオンのしつけ方

トウリン

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ライオンのしつけ方

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「一智さん、今晩は一緒にいてくれるんでしょう?」
 蕩けるような甘い声が、そう囁きかける。

 が。

 ――こいつの名前ってなんだっけ?
 ホテルのベッドでしなだれかかってくる女の身体に腕をまわした一智が考えたのは、そんなことだった。
「んー、そうだなぁ」
 返事を濁して唇を寄せれば、何の抵抗もなく応えてくれる。ウエストは細く、肋が浮くほどだが、胸は驚くほど大きい。

 ――これって、ニセモンだよなぁ。
 そう思いながらも、スムーズに服を脱がしていく。

 女性のどこをどうすれば反応するか、一智は熟知していた。あっという間に蕩けていく彼女を、半分以上は冷静な自分を残しつつ、味わう。それは、身体の欲求を満たすための、ただの『行為』だ。
 コトが終わって、ベッドの上で枕にもたれたまま、一智はタバコをふかす。何回か煙を肺に送り込み、揉み消した。ちらりと隣で眠る女を見下ろした後、音を立てずにベッドを下りる。
 ざっとシャワーを浴びて全身にこびりついた強い香水の匂いを消して外に出ると、廊下では忠犬のように水谷《みずたに》が佇んでいた。

「お待たせ。帰るぞ」
 水谷は無言で目を伏せて、歩き出した一智に続く。
 帰路の車の中で、一智は昼間の会議を思い出していた。
 相変らず会議は勝手に進行し、一智の発言を一度も必要とすることなく、スムーズに終了した。

 ――別に、俺がいてもいなくても、どうでもいいだろうに。

 その空虚感は、いつもついて回る。
 女と抱き合っていれば何となく満たされた感じがしてくるが、コトが終われば、結局は何も変わっていない現実が戻ってくる。

 時刻はすでに深夜の〇時をまわっていて、こんな時間に帰ったことがバレたらまた百合に叱られるだろうかと、一智は苦笑した。
 車は静かに屋敷に向かう。
 もとより水谷は余計な口はきかないし、何となく、一智も軽口を叩く気分ではなかった。

 さほどの時間をかけずに到着すると、屋敷は静まり返っており、玄関の明かりだけが灯されていた。
「じゃ、また明日な」
 そう水谷に手を振って、一智は一人屋敷に入る。
 何となく喉が渇き、寝る前に何か飲もうかとキッチンに向かうと、明かりが漏れていることに気が付いた。こんな時間に誰だろうと、一智は眉をひそめる。

 足音を忍ばせて覗き込んで見ると――百合だ。

「百合」
 突然入ってきた一智に、彼女はびっくりした顔をして見上げてくる。パジャマにカーディガンを羽織り、背中の半ばまである髪を下ろしている。寝る前だからか、メガネもかけていなかった。
 多分、百合が起きている時間に彼が帰ってくることが滅多にないから、ということもあるのだろうが、彼女がこんなふうに寛いだ姿をしているのを見るのは、彼女がここに住み込むようになってから、初めてだった。

「―― 一智様?」

 微妙に語尾に疑問符がついているのは、よく見えていないからだろうか。何となく心許なげな表情が、あどけない。そして……手にしているものは、握り飯のように見える。
「どうしたんだ? こんな時間に」
 尋ねた一智に、何故か百合は口ごもる。
「……ちょっと……小腹が空いて……」
 その答えに、思わず一智は吹き出してしまう。
「もう夜中だぜ? それ、食っちまうの?」
「だって、お腹が空いてたら眠れませんもの」
 からかいを含んだ一智の声に、百合が頬を膨らませた。と、彼女は首をかしげる。

「一智様は、どうされました?」
「ん、ああ。何か飲もうかと思って……」
「じゃあ、お作りします」
 いや、いい――と言いかけて、甲斐甲斐しく動き始めた百合の背中を見守ってしまう。何を作るのかと思っていたら、彼女が冷蔵庫から取り出したのは、牛乳だった。パンをコンロにかけ、牛乳を注いでいく。

「なあ、それ……」
「ホットミルクですよ。もうお休みになるんでしょう? ホットミルクは安眠にいいんですから」
 噴き上げないようにゆっくりとパンを回しながら、彼女が答える。

 ――なんか、柔らかそう……。

 百合の背中を見つめているうちにふっと頭の中に浮かんだその感想を、一智は自分でも怪訝に思って打ち消した。
「普通は、酒だろ?」
「ダメです。お酒は、寝付けるかもしれませんが眠り自体は浅くしますから、良い睡眠が摂れません。寝る前は、ホットミルクの方がいいんです。――はい」
「何の薀蓄だよ」
 一智は思わず笑ってしまいながらも、差し出されたミルクを受け取る。啜ってみると、ほのかに甘い――これは、蜂蜜だろうか。ちらりと百合に視線を投げると、彼女もジッと一智を見つめていた。

「……うまいよ」
 その言葉に、百合がホッと口元を緩ませる。普段見せたことのない柔らかなその表情を見た瞬間、何かが一智の胸に詰まった。

「――? どうされました?」
 動きを止めた彼に、百合がいぶかしげな顔で尋ねる。
「あ、いや……なんでもない。お前も、それ食っちまったら?」
 ごまかすようにそう言って、顎で調理台に置かれた握り飯を示した。
「あ、はい」
 頷いて、彼女は両手で持った白握り飯をもそもそと食べ始める。一智の方に視線は向いているが、多分、それほどはっきり見えていないのだろう。一智は横目で彼女を注視しているのだが、あまり気にしていない様子だ。見られていることに気付いていたら、きっと何か言うに違いない。

 ――二十歳か……。

 彼女が初めてこの屋敷に来たのは、十八歳の時だった。あの頃は、まだ子どもっぽさが残っていて――けれども、一智に対する『指導』ぶりは今と同じだった。
 あれから一年と……半年ほどになる。いつの間にそんなに過ぎていたのかと、少し驚いた。

 普通の二十歳は、もっと遊んでいるだろう。少なくとも、一智のお相手たちは皆、二十歳をだいぶ超えても親の金で遊びまくっている。
 そう思い、ふと、何も祝ってやっていないことに気がついた。

 ――遊ぶ暇も与えずこれほど世話になっているのに、あんまりな職場環境ではないのか?

 雇い主として、正しくない対応だろうと、一智は反省する。

 ――何か、彼女が喜ぶようなものを選んでみよう。

 何をあげたら、先ほどの『ちょっと緩む』程度ではなく、『満面の』笑顔を見せてくれるのだろうか。そう思うと、何故か、無性にその顔が見たくて堪らなくなった。
 これまで、数多くの女性にプレゼントを渡してきたが、選ぶのは水谷に任せていたので、実際のところ、女性がどんなものを喜ぶのかがよく判らない。光モノであれば、大体ウケていたような気がするのだが。

 そんなことをつらつらと考えていた一智に、百合がおずおずと声をかけた。いつの間にか、彼女は握り飯を食べ終わっていたようだ。
「あの……? 私、そろそろ休ませていただきますが……」
「ん、ああ。しかし、食べてすぐ寝てもいいのか? 太るぞ?」

 ――だから、もう少し、ここにいればいい。

 ふと、そんなふうに考える。

 しかし、一智の心の声など聞こえる筈もない百合はと言えば、彼の台詞にムッと口を曲げた。
「いいです。気にするほどのスタイルではないですから。それよりも、体力勝負なんですよ、一智様のお世話は」
「ふうん」
「じゃ、失礼します」
 そう言って彼の横をすり抜けようとした百合の腕を、捕らえた。

「一智様?」

 怪訝な顔で百合が見上げてくるのに構わず、腕の中に包み込んだ。中背の百合の頭の天辺は、丁度一智の顎の下辺りにくる。鼻先を、シャンプーの香りがくすぐった。その香りに誘われるように髪を掬い取ってみると、その柔らかさ、滑らかさに、手放しがたくなる。腰の辺りに置いた手には、なんともいえない感触が伝わってきた。

 ――あれ、これって、意外と……。

 ススッと、背中から腰にかけて撫で下ろした。
 と、固まっていた百合が変な声を上げて唐突に暴れ出す。

「ひゃっ! ちょっ、一智様!?」
 それはたいした力ではなかったが、一智はパッと手を放した。解放された百合は、真っ赤な顔でジリジリと数歩後ずさる。その様は、まるで警戒する仔猫のようだ。
「何なんですか、いったい……」
「いや、ちょっと、どんなスタイルなのかな、と……。何か、思ったよりも触り心地がいいな、お前」
 明らかに百合を怒らせるであろう台詞を、ポロッとこぼしてしまう。当然のことながら、彼女の眉が見る見る吊り上った。

 百合がさっと近づいたかと思ったら、突然一智の頭に衝撃が走る。
「いてっ!」
 見下ろせば、ブルブルと全身を震わせた百合が拳を固く握って足を踏ん張っている――拳骨で頭を殴られたのは、彼にとって生まれて初めての経験だった。

「……いいですか、一智様? それは、とても、非常に、失礼です――いろいろな意味で。今晩、よく、反省してください。これから寝たら、明日は七時には起きられますよね? もう、容赦しません。きっちり、規則正しい生活をしてもらいます。根っこから、叩き直しますから」
 地を這うような声が、張り上げられたものよりも尚一層、百合の怒りを感じさせる。何がこれほど彼女を怒らせたのかよく解らないまま、一智は頷いた。
 そんな彼をもう一度睨んで、百合はキッチンを出て行く。

 彼女の後姿を見送って、一智は首を傾げた。
 彼としては、褒めたつもりだったのだ。これまで、一智が付き合ってきたのは長身、細身のモデル体型ばかりだ。漂ってきたのが柔らかな香りだったり、全身が自分の腕の中にすっぽり入ってしまったり、全身がクッションを抱き締めたような柔らかな感触だったり、というのは、非常に新鮮な感覚だった。

 ――思わず撫で回してしまったのがマズかったに違いない。きっと、そうだ。

 ……百合が聞いたら激怒しそうな『反省』であることに、一智は全く気付いていなかった。


   *


 キッチンを出た百合は、怒り心頭のまま、競歩並みのスピードで自室へと向かっていた。
 新藤家では百合と瑞江――百合が働き出したのを契機に、彼女も住み込みにしたのだ――の他にメイド三人、運転手、執事が住み込みで働いているが、それぞれ個室を割り当てられている。

 自分の部屋に辿り着くと、ガッシと枕を掴み、力任せに何度も振り下ろした。
「もう! タラシ! 女っタラシ! バカ! 私は、太ってなんか、ないんだから!」
 夜中で大声が出せないのがまた、ストレスになる。

 あんなふうに無造作に抱き締めてしまえるのは、一智が自分を妹あるいは子ども扱いしているからだ――突然のことで変なふうに胸がドキドキして思わず硬直してしまったが、続いた彼の台詞が、その証拠だった。

「どうせ! 私なんか、女っぽくないけど! もう! 『触り心地』って、何なのよ!」
 最後にバフン、と叩きつけ、そこに顔を埋める。そして深々と溜息をついた。

 七歳も年上で、普段美女とばかり付き合っている一智からしたら、百合は子どものようにしか思えないだろうけれども、あんなふうに無造作に抱き締めていいものではない。

 百合は、もう一度溜息をつく。

「……寝よ」

 何故これほど腹立たしいのか自分でも理解できないまま、そう呟くと、百合はモソモソと布団を被った。
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