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序
別れの時~慟哭と選択~
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疾走する馬の背の上で、蹄が地面を蹴るたび、リルは下から突き上げられたように跳ねる。ひと揺れごとに、リュカに斬りつけられた傷が殴られるようだったけれど、リルにとって、そんなことはどうでも良かった。
(どこに行くんだ! リリィのところに帰して!)
傷から溢れる血でリルを捕らえているカーテンがずぶ濡れになっていて、全身にペタリと貼り付いてくる。暴れるほどに血は流れ、いっそう、四肢の自由が奪われる。
ゼイゼイと荒く大きな息をしていても、まるで溺れているかのように苦しかった。
(リリィ……)
次第に暴れる力も失せていき、ただただ馬上で揺られるだけとなる。
どれほど駆けた後だろう。
ぐったりと弛緩したリルが鞍からずり落ちそうになった時、ようやく、馬の足が止まった。引きずり降ろされ、無造作に硬い地面に投げ出されても、唸ることすらできなかった。
リュカの手でカーテンが解かれ、自由にされて、立ち上がろうともがいて――叶わない。前足だけが空気を掻いて、終わる。
どうにかこじ開けた目蓋の隙間から、うっそうと茂る木々の枝が見える。少し目を動かせば、冷たい眼差しでリルを見下ろしている、リュカの顔も。リルを見るリュカの目はいつでも冷ややかで鋭いものだったけれども、今のそれはまるで氷でできた針のようだった。
「いつかこうなるのではないかと、ずっと危ぶんでいた。あれだけ慈しんでくださっていたというのに……やはり、お前はけだものに過ぎんのだ」
リュカの台詞は、苦いものを吐き捨てるようだった。
「森猫はほとんど魔獣のようなものだ。いつ牙を剥くかと、お前がリリアーヌ様のお傍にいると気が気じゃなかった。もっと早く、こうしておくべきだったのだ」
リュカが膝を突き、グッと顔を近づけてくる。薄っすらと開いているリルの目蓋の奥にある目を睨み据えるようにして、告げる。
「リリアーヌ様の願いだ。息の根は止めん。恐らく、お前は生き延びるだろう。森猫の生命力はすさまじいからな。だが、生き延びたとしても二度とリリアーヌ様には近寄るな」
刃よりも鋭い眼差しでリルを一瞥すると、リュカは再び馬にまたがった。
「次にお前の姿を目にすることがあれば、今度こそ、殺す」
そう言い置いて、馬の腹を蹴る。
(待って!)
懸命にもがいて追いすがろうとしたけれど、馬はクルリと鼻先を翻し、嘶きを一つ響かせ駆け出してしまう。見る見る小さくなっていくリュカの背中を、リルは目で追うことしかできなかった。
暗い森の中に聞こえるのは、ヒューヒューという自分の息遣いだけ。
立ち上がろうと足掻いた拍子に、己の前脚が目に入る。リリィの血で紅く染まった前脚が。
途端に、あの光景が――この爪がリリィの腕を切り裂いたという事実が脳裏によみがえり、リルの全身から力が抜けていく。
リリィを傷付けるつもりなんて、なかったのに。
絶対に、そんなこと、起こるはずがなかったのに。
(リリィを傷付けるものなんて、要らない)
リルは爪を咥え根元から引き抜いた。
リリィを守るはずのものだったのに、守るどころか、コレが彼女を傷付けたのだ。
一本、また一本と、爪を引き抜いていく。
鋭い痛みが足の尖端から脳まで走る。その痛みが、今は欲しかった。
(リリィに会いたい)
この爪が全部無くなったら、リリィを傷付けるものがなくなったら、また会えるのだろうか。
(リリィ……ごめん、リリィ。もう二度とあんなことしないから)
お願いだから、傍にいさせて。
ただ傍に居られれば、それでいいから。
(これで終わりだ)
震える顎に力を込めて、最後の一本を咥え、引き抜こうとした、その時だった。
「すごい声が聞こえたと思ったら」
唐突に聞こえたヒトの言葉に、リルはパッと顔を上げる。
と、目の前に脚があった。ヒトの、脚が。
(え? なんで? いつの間に? どこから?)
確かに、ほんの一瞬前までは、誰も居なかったはず。その声の主は、まるで天から落ちる雨のように唐突に、現れたのだ。
痛みも忘れてポカンと見上げるリルの前に、そのヒトがしゃがみこんだ。年寄りだ。年寄りの、メスだ。
呆気に取られているリルに構わず、そのヒトは彼の顎に指をかけて持ち上げると、鼻先がくっつかんばかりに顔を寄せてきた。
「完全な白子の森猫とは珍しい。よくこんなに大きくなるまで生き延びたもんだ」
感心したように声を上げ、目をすがめる。
「それにしても、えらい魂の強さだね。森猫だとしても、たいしたもんだよ」
そう言って、しげしげとリルの全身を眺める。と思ったら、ふいに伸ばした手をリルの頭に置いた。
「爪はともかくとして、その肩は剣でやられたんだね。なのに恨みつらみの欠片もない。その願いは――ただただ一つのことだけを想っているのかい。濁りが全くないね。あんたの望みは――なるほど。これは実におあつらえ向きだね」
つらつらと独りごちてから、目と唇を細くする。その顔は『笑う』に似ているけれども、リリィが笑った時とは全然違って、リルの胸がほわほわと温かくなることはなかった。
「あんたはリルってんだね? あたしは魔女だよ。ちょいと仕事を頼まれててね。ずっと探し物をしていたんだよ」
魔女と名乗ったヒトはリルから手を離し、続ける。
「これからあたしが言うことに頷けば、取り敢えず、あんたの望みは叶うよ」
その言葉に、リルはパッと起き上がる――起き上がろうとした、が、できなかった。精一杯頭をもたげて魔女を見あげる。
(ホントに!? リルに会える? リルの傍に居られる?)
「ああ」
頷いて、魔女はスッと目を細めた。
「ただ、あんたが求める形ではないかもしれんがね」
それまでとはガラリと変わった、地の底から響いてくるような声だった。けれど、リルは、リリィが良く話して聞かせてくれた女神様だって、こんなに素敵な声をしていないだろうと思った。
(リリィのところに行けるんだよね!?)
それさえ叶うなら、迷うことなんて何一つない。
(だったら、やる。やるよ!)
息まいた拍子にケホケホとむせて、血が飛んだ。
「単純だねぇ。まあ、それだけ純粋だってことか」
魔女がそうつぶやいた瞬間、リルの視界は暗転した。
(どこに行くんだ! リリィのところに帰して!)
傷から溢れる血でリルを捕らえているカーテンがずぶ濡れになっていて、全身にペタリと貼り付いてくる。暴れるほどに血は流れ、いっそう、四肢の自由が奪われる。
ゼイゼイと荒く大きな息をしていても、まるで溺れているかのように苦しかった。
(リリィ……)
次第に暴れる力も失せていき、ただただ馬上で揺られるだけとなる。
どれほど駆けた後だろう。
ぐったりと弛緩したリルが鞍からずり落ちそうになった時、ようやく、馬の足が止まった。引きずり降ろされ、無造作に硬い地面に投げ出されても、唸ることすらできなかった。
リュカの手でカーテンが解かれ、自由にされて、立ち上がろうともがいて――叶わない。前足だけが空気を掻いて、終わる。
どうにかこじ開けた目蓋の隙間から、うっそうと茂る木々の枝が見える。少し目を動かせば、冷たい眼差しでリルを見下ろしている、リュカの顔も。リルを見るリュカの目はいつでも冷ややかで鋭いものだったけれども、今のそれはまるで氷でできた針のようだった。
「いつかこうなるのではないかと、ずっと危ぶんでいた。あれだけ慈しんでくださっていたというのに……やはり、お前はけだものに過ぎんのだ」
リュカの台詞は、苦いものを吐き捨てるようだった。
「森猫はほとんど魔獣のようなものだ。いつ牙を剥くかと、お前がリリアーヌ様のお傍にいると気が気じゃなかった。もっと早く、こうしておくべきだったのだ」
リュカが膝を突き、グッと顔を近づけてくる。薄っすらと開いているリルの目蓋の奥にある目を睨み据えるようにして、告げる。
「リリアーヌ様の願いだ。息の根は止めん。恐らく、お前は生き延びるだろう。森猫の生命力はすさまじいからな。だが、生き延びたとしても二度とリリアーヌ様には近寄るな」
刃よりも鋭い眼差しでリルを一瞥すると、リュカは再び馬にまたがった。
「次にお前の姿を目にすることがあれば、今度こそ、殺す」
そう言い置いて、馬の腹を蹴る。
(待って!)
懸命にもがいて追いすがろうとしたけれど、馬はクルリと鼻先を翻し、嘶きを一つ響かせ駆け出してしまう。見る見る小さくなっていくリュカの背中を、リルは目で追うことしかできなかった。
暗い森の中に聞こえるのは、ヒューヒューという自分の息遣いだけ。
立ち上がろうと足掻いた拍子に、己の前脚が目に入る。リリィの血で紅く染まった前脚が。
途端に、あの光景が――この爪がリリィの腕を切り裂いたという事実が脳裏によみがえり、リルの全身から力が抜けていく。
リリィを傷付けるつもりなんて、なかったのに。
絶対に、そんなこと、起こるはずがなかったのに。
(リリィを傷付けるものなんて、要らない)
リルは爪を咥え根元から引き抜いた。
リリィを守るはずのものだったのに、守るどころか、コレが彼女を傷付けたのだ。
一本、また一本と、爪を引き抜いていく。
鋭い痛みが足の尖端から脳まで走る。その痛みが、今は欲しかった。
(リリィに会いたい)
この爪が全部無くなったら、リリィを傷付けるものがなくなったら、また会えるのだろうか。
(リリィ……ごめん、リリィ。もう二度とあんなことしないから)
お願いだから、傍にいさせて。
ただ傍に居られれば、それでいいから。
(これで終わりだ)
震える顎に力を込めて、最後の一本を咥え、引き抜こうとした、その時だった。
「すごい声が聞こえたと思ったら」
唐突に聞こえたヒトの言葉に、リルはパッと顔を上げる。
と、目の前に脚があった。ヒトの、脚が。
(え? なんで? いつの間に? どこから?)
確かに、ほんの一瞬前までは、誰も居なかったはず。その声の主は、まるで天から落ちる雨のように唐突に、現れたのだ。
痛みも忘れてポカンと見上げるリルの前に、そのヒトがしゃがみこんだ。年寄りだ。年寄りの、メスだ。
呆気に取られているリルに構わず、そのヒトは彼の顎に指をかけて持ち上げると、鼻先がくっつかんばかりに顔を寄せてきた。
「完全な白子の森猫とは珍しい。よくこんなに大きくなるまで生き延びたもんだ」
感心したように声を上げ、目をすがめる。
「それにしても、えらい魂の強さだね。森猫だとしても、たいしたもんだよ」
そう言って、しげしげとリルの全身を眺める。と思ったら、ふいに伸ばした手をリルの頭に置いた。
「爪はともかくとして、その肩は剣でやられたんだね。なのに恨みつらみの欠片もない。その願いは――ただただ一つのことだけを想っているのかい。濁りが全くないね。あんたの望みは――なるほど。これは実におあつらえ向きだね」
つらつらと独りごちてから、目と唇を細くする。その顔は『笑う』に似ているけれども、リリィが笑った時とは全然違って、リルの胸がほわほわと温かくなることはなかった。
「あんたはリルってんだね? あたしは魔女だよ。ちょいと仕事を頼まれててね。ずっと探し物をしていたんだよ」
魔女と名乗ったヒトはリルから手を離し、続ける。
「これからあたしが言うことに頷けば、取り敢えず、あんたの望みは叶うよ」
その言葉に、リルはパッと起き上がる――起き上がろうとした、が、できなかった。精一杯頭をもたげて魔女を見あげる。
(ホントに!? リルに会える? リルの傍に居られる?)
「ああ」
頷いて、魔女はスッと目を細めた。
「ただ、あんたが求める形ではないかもしれんがね」
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