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絶望の中で
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それから、僕は、荒れた。
最悪の気分だった。
当たり前だろう? 僕の未来は消えたんだ。
別に、弁護士になろうとか、大企業に勤めて地位を昇り詰めようとか、そんな夢があったわけじゃない。でも、漠然と、どこか『ちゃんとした会社』に入って、結婚して、子どもは二人か三人か……ってくらいのことは思い描いていたんだ。
大した野心もなく、平凡でありきたりでありふれた、未来予想図。
けれど、そんな当たり前のことが、本当に『夢』になってしまった。
僕には、もう『普通』の人生は歩めない。
だったら、頑張る必要なんてないじゃないか。何をしたって意味がないんだ。
何もする気が起きなくて、自分の部屋に閉じこもり、母さんが部屋のドアの前に置いていく食事を引っ張り込んで食べた。部屋から出るのは、トイレに行く時くらいだった。
そうして、ただ、無為に時間を過ごしていき、いつの間にか一週間経っていた。もう、いっそ七十年くらい一気に過ぎてしまってくれよ、という気分だったさ。
――僕が全てから目を背けていたその七日間、彼女は毎日欠かさず学校帰りにうちに寄っていった。そのたびに、僕はまさに門前払いを食らわせていたけれど。
「会いたくないよ」
いつものように部屋のドア越しに彼女が来たことを伝えてきた母さんに、僕もいつものようにドア越しにそう答えた。そして、いつものように、スリッパが階段を下りていく音が聞こえる。
それが一番下まで辿り着くのを待って、またベッドの上で布団を被って丸くなった。
そうやって、また一日が終わっていく。
――と、思ったら。
荒い足音がみるみる近付いてきて、何の前触れもなく、唐突に、部屋のドアが開け放たれた。
僕の部屋に鍵は付いていないけれど、病院から帰ってから、母さんも父さんも部屋から一歩も出ようとしない僕のことをそっとしておいてくれたんだ。間違っても、こんなふうに踏み込んだりはしない。
布団を跳ね除けて振り返った僕の目に入ってきたのは、仁王立ちの彼女だった。
「いい加減、会ってくれてもいいんじゃないの?」
「お前……」
「一週間、通い詰めなのよ?」
鼻息荒くそう言い放ち、彼女はドアを閉めると、ずかずかとベッドに歩み寄ってきた。そして、呆れた顔で、僕を見下ろしてくる。
「なんて顔してるの? ちょっと、臭いよ? お風呂入ってる? ……ふうん、君でも無精ひげ生えるんだ」
呆気に取られたのは一瞬だ。
すぐに僕はベッドの上に起き上がり、唾を飛ばす。
「なんだよ、勝手に入ってくるなよ! 出てけ!」
「せっかくお見舞いに来たモンにその言い草はないでしょ」
彼女は長い髪を揺らして、肩をすくめた。僕の怒鳴り声にも、全然怯まず。
「ねえ、いつまで学校休んでるつもり? 来週は期末テストだよ?」
能天気なそのセリフに、イラッとした。
彼女にとっては当たり前のことが、もう、僕には絶対に手の届かないことになるんだ。
「関係ねぇよ! 学校だってもう辞めるんだ。放っといてくれよ。さっさと帰れ!」
「ちょっと、それってどういうこと!? なんで辞めるの!?」
ベッドの上に両手を突いて、彼女が食って掛かる。
平和で幸せな彼女。
『普通』の未来が拓けている彼女。
きっと、その時の僕の口元には、とても意地の悪い笑みが浮かんでいたに違いない。
「あのな、僕は『ショーガイシャ』になるんだぜ」
「はあ?」
彼女は、全身で「何言ってるの?」と表現していた。
僕はベッドの上に胡坐を組んで、彼女を見る。
「僕の目は見えなくなるんだよ。あと何年かのうちに」
「それって……」
「『進行性の目の病気』なんだってさ。ジワジワ見えなくなってくんだよ。この病気になったからって、全員が全員、失明するわけじゃないけど、僕は症状が出た年齢が早くて進行も速いから、ほぼ確実に、普通の生活ができないくらいの見え方になるだろうって、さ」
彼女は絶句していた。
そりゃそうだろう。僕だって、誰か親しいヤツからこんな話を突然聞かされたら言葉を失う。聞かなきゃよかったと思うさ。
これで彼女はここを出て行き、そして、二度と僕に会いには来ないだろう。
そう思ったのに。
――彼女は、留まった。
出て行くどころかベッドの横にストンとしゃがみこみ、僕を真っ直ぐに見つめてきたんだ。
「ねえ、でも、あと何年かあるんでしょ? 今はまだ見えるんでしょ? だったら、学校に行こうよ。今ならまだできることをやろうよ。わたしが手伝えることなら、なんでもするから」
歪みも淀みもない視線が、痛い。
そんな目を向けられても、彼女と僕の道は、もう重ならない。今までみたいに、同じ速さで一緒に歩いていくことは、もうできないんだ。
決して届かない果実に手を伸ばすようなことはしたくない――そんな、不毛なことは。
「なんだよ、同情してんのか?」
嘲るような笑みを浮かべてみせる。
「ホントになんでもしてくれんの?」
何もしてくれなくていい。
さっさと出て行って欲しかった。
彼女に憐れまれるなんて、真っ平だった。
――僕がそんな気持ちでいるなんて夢にも思っていないだろう彼女は、僕のその言葉に、勢い込んで何度もうなずいた。
「いいよ、何したらいい?」
「じゃあさ、服脱いで見せろよ」
ポカンと、彼女が口を開ける。
「……え?」
僕は嘲笑を深くして、繰り返した。
「女の裸って、見たことないんだよな。目が見えなくなる前に、生で拝ませてくれよ」
きっと、彼女は呆れ返って去って行く。
二度と僕に関わるもんかと思って。
こんなくだらないヤツに手間暇かけるのなんか無駄だと、その綺麗な眼差しを侮蔑に変えて。
なんなら引っ叩いてくれたっていい。
――けれども、彼女は、僕の予想を裏切った。
一瞬息を呑んだけれど、少し目を伏せて、その細く小さな両手を胸元に上げた。そして、微かに震える指で制服のリボンをほどき、ボタンを外していく。
「ちょ、お前、何してんの!?」
上から四番目までが外れたところで、その動きを呆然と見守ってしまっていた僕は我を取り戻した。はだけた襟元から覗く白い肌とレースに、狼狽してしまう。
彼女は手を止めると、首をかしげて僕を見つめてきた。
「なんで止めるの?」
「なんでって、お前、当たり前だろ? お前……お前はいいのかよ、そんな簡単に――」
しどろもどろに弁解する僕を、彼女はキッと睨み付けてきた。
「『簡単』なんかじゃない!」
「じゃ、なんで……」
言いながら、手元にあったシャツを彼女に押し付ける。隠してくれないと、とてもじゃないけど話なんかできなかった。
「わたし、『そういう意味』で裸を見せる相手は、君だけだと思ってたよ、ずっと」
「何を……」
「解からない? じゃ、もっとストレートに言おうか? わたし、君のことが――」
「やめろよ!」
「イヤ。言うよ」
「聞きたくない! もう、僕は普通の生活なんかできなくなるんだぜ? 学校だって、『それ用』のところに移るんだ。数学なんかよりも、目が見えなくても生活できる方法を覚えていかなきゃなんないんだよ! 自分のことでいっぱいいっぱいなんだ! 余計なお荷物なんか、背負いたくないんだよ!」
吐き捨てるようにそう言って、僕はクルリと彼女に背を向けた。
そう、僕は自分のことで手一杯になる。『誰か』を支え、守ることなんて、できやしなくなるんだ。
だから、独りがいい。
早くこんな男には愛想を尽かせて行ってしまってくれ。
心底から、そう願った。
が。
不意に、背中が温かくなる。押し付けられたのは、柔らかな、温もり。
僕は振り払おうとしたけれど、彼女の声がその動きを押し止める。
「あのさ、わたしはわたしが居たいから、君の傍に居るよ。イヤになったら、すぐに離れるから」
僕の身体に回された華奢な腕に、力がこもる。こんなに細い腕なのに、なんでこんなに強いのだろうと思うほどの、力が。
僕は、彼女を追い払えなかった。強張った肩から、力が抜ける。
それが伝わったかのように、彼女がまた囁いた。
「それまでは、傍に居させてよ」
その言葉に、『否』と言えるだろうか――言えるわけが、なかった。
最悪の気分だった。
当たり前だろう? 僕の未来は消えたんだ。
別に、弁護士になろうとか、大企業に勤めて地位を昇り詰めようとか、そんな夢があったわけじゃない。でも、漠然と、どこか『ちゃんとした会社』に入って、結婚して、子どもは二人か三人か……ってくらいのことは思い描いていたんだ。
大した野心もなく、平凡でありきたりでありふれた、未来予想図。
けれど、そんな当たり前のことが、本当に『夢』になってしまった。
僕には、もう『普通』の人生は歩めない。
だったら、頑張る必要なんてないじゃないか。何をしたって意味がないんだ。
何もする気が起きなくて、自分の部屋に閉じこもり、母さんが部屋のドアの前に置いていく食事を引っ張り込んで食べた。部屋から出るのは、トイレに行く時くらいだった。
そうして、ただ、無為に時間を過ごしていき、いつの間にか一週間経っていた。もう、いっそ七十年くらい一気に過ぎてしまってくれよ、という気分だったさ。
――僕が全てから目を背けていたその七日間、彼女は毎日欠かさず学校帰りにうちに寄っていった。そのたびに、僕はまさに門前払いを食らわせていたけれど。
「会いたくないよ」
いつものように部屋のドア越しに彼女が来たことを伝えてきた母さんに、僕もいつものようにドア越しにそう答えた。そして、いつものように、スリッパが階段を下りていく音が聞こえる。
それが一番下まで辿り着くのを待って、またベッドの上で布団を被って丸くなった。
そうやって、また一日が終わっていく。
――と、思ったら。
荒い足音がみるみる近付いてきて、何の前触れもなく、唐突に、部屋のドアが開け放たれた。
僕の部屋に鍵は付いていないけれど、病院から帰ってから、母さんも父さんも部屋から一歩も出ようとしない僕のことをそっとしておいてくれたんだ。間違っても、こんなふうに踏み込んだりはしない。
布団を跳ね除けて振り返った僕の目に入ってきたのは、仁王立ちの彼女だった。
「いい加減、会ってくれてもいいんじゃないの?」
「お前……」
「一週間、通い詰めなのよ?」
鼻息荒くそう言い放ち、彼女はドアを閉めると、ずかずかとベッドに歩み寄ってきた。そして、呆れた顔で、僕を見下ろしてくる。
「なんて顔してるの? ちょっと、臭いよ? お風呂入ってる? ……ふうん、君でも無精ひげ生えるんだ」
呆気に取られたのは一瞬だ。
すぐに僕はベッドの上に起き上がり、唾を飛ばす。
「なんだよ、勝手に入ってくるなよ! 出てけ!」
「せっかくお見舞いに来たモンにその言い草はないでしょ」
彼女は長い髪を揺らして、肩をすくめた。僕の怒鳴り声にも、全然怯まず。
「ねえ、いつまで学校休んでるつもり? 来週は期末テストだよ?」
能天気なそのセリフに、イラッとした。
彼女にとっては当たり前のことが、もう、僕には絶対に手の届かないことになるんだ。
「関係ねぇよ! 学校だってもう辞めるんだ。放っといてくれよ。さっさと帰れ!」
「ちょっと、それってどういうこと!? なんで辞めるの!?」
ベッドの上に両手を突いて、彼女が食って掛かる。
平和で幸せな彼女。
『普通』の未来が拓けている彼女。
きっと、その時の僕の口元には、とても意地の悪い笑みが浮かんでいたに違いない。
「あのな、僕は『ショーガイシャ』になるんだぜ」
「はあ?」
彼女は、全身で「何言ってるの?」と表現していた。
僕はベッドの上に胡坐を組んで、彼女を見る。
「僕の目は見えなくなるんだよ。あと何年かのうちに」
「それって……」
「『進行性の目の病気』なんだってさ。ジワジワ見えなくなってくんだよ。この病気になったからって、全員が全員、失明するわけじゃないけど、僕は症状が出た年齢が早くて進行も速いから、ほぼ確実に、普通の生活ができないくらいの見え方になるだろうって、さ」
彼女は絶句していた。
そりゃそうだろう。僕だって、誰か親しいヤツからこんな話を突然聞かされたら言葉を失う。聞かなきゃよかったと思うさ。
これで彼女はここを出て行き、そして、二度と僕に会いには来ないだろう。
そう思ったのに。
――彼女は、留まった。
出て行くどころかベッドの横にストンとしゃがみこみ、僕を真っ直ぐに見つめてきたんだ。
「ねえ、でも、あと何年かあるんでしょ? 今はまだ見えるんでしょ? だったら、学校に行こうよ。今ならまだできることをやろうよ。わたしが手伝えることなら、なんでもするから」
歪みも淀みもない視線が、痛い。
そんな目を向けられても、彼女と僕の道は、もう重ならない。今までみたいに、同じ速さで一緒に歩いていくことは、もうできないんだ。
決して届かない果実に手を伸ばすようなことはしたくない――そんな、不毛なことは。
「なんだよ、同情してんのか?」
嘲るような笑みを浮かべてみせる。
「ホントになんでもしてくれんの?」
何もしてくれなくていい。
さっさと出て行って欲しかった。
彼女に憐れまれるなんて、真っ平だった。
――僕がそんな気持ちでいるなんて夢にも思っていないだろう彼女は、僕のその言葉に、勢い込んで何度もうなずいた。
「いいよ、何したらいい?」
「じゃあさ、服脱いで見せろよ」
ポカンと、彼女が口を開ける。
「……え?」
僕は嘲笑を深くして、繰り返した。
「女の裸って、見たことないんだよな。目が見えなくなる前に、生で拝ませてくれよ」
きっと、彼女は呆れ返って去って行く。
二度と僕に関わるもんかと思って。
こんなくだらないヤツに手間暇かけるのなんか無駄だと、その綺麗な眼差しを侮蔑に変えて。
なんなら引っ叩いてくれたっていい。
――けれども、彼女は、僕の予想を裏切った。
一瞬息を呑んだけれど、少し目を伏せて、その細く小さな両手を胸元に上げた。そして、微かに震える指で制服のリボンをほどき、ボタンを外していく。
「ちょ、お前、何してんの!?」
上から四番目までが外れたところで、その動きを呆然と見守ってしまっていた僕は我を取り戻した。はだけた襟元から覗く白い肌とレースに、狼狽してしまう。
彼女は手を止めると、首をかしげて僕を見つめてきた。
「なんで止めるの?」
「なんでって、お前、当たり前だろ? お前……お前はいいのかよ、そんな簡単に――」
しどろもどろに弁解する僕を、彼女はキッと睨み付けてきた。
「『簡単』なんかじゃない!」
「じゃ、なんで……」
言いながら、手元にあったシャツを彼女に押し付ける。隠してくれないと、とてもじゃないけど話なんかできなかった。
「わたし、『そういう意味』で裸を見せる相手は、君だけだと思ってたよ、ずっと」
「何を……」
「解からない? じゃ、もっとストレートに言おうか? わたし、君のことが――」
「やめろよ!」
「イヤ。言うよ」
「聞きたくない! もう、僕は普通の生活なんかできなくなるんだぜ? 学校だって、『それ用』のところに移るんだ。数学なんかよりも、目が見えなくても生活できる方法を覚えていかなきゃなんないんだよ! 自分のことでいっぱいいっぱいなんだ! 余計なお荷物なんか、背負いたくないんだよ!」
吐き捨てるようにそう言って、僕はクルリと彼女に背を向けた。
そう、僕は自分のことで手一杯になる。『誰か』を支え、守ることなんて、できやしなくなるんだ。
だから、独りがいい。
早くこんな男には愛想を尽かせて行ってしまってくれ。
心底から、そう願った。
が。
不意に、背中が温かくなる。押し付けられたのは、柔らかな、温もり。
僕は振り払おうとしたけれど、彼女の声がその動きを押し止める。
「あのさ、わたしはわたしが居たいから、君の傍に居るよ。イヤになったら、すぐに離れるから」
僕の身体に回された華奢な腕に、力がこもる。こんなに細い腕なのに、なんでこんなに強いのだろうと思うほどの、力が。
僕は、彼女を追い払えなかった。強張った肩から、力が抜ける。
それが伝わったかのように、彼女がまた囁いた。
「それまでは、傍に居させてよ」
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