壊れた世界、壊れた明日

トウリン

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第五章:愚者が溺れる白昼夢

迫るゴール、そして、別れの時

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「まったく、どうなることかと思ったよ!」
 やけに頑丈そうな鉄格子の門扉の前で再会した鹿角は、明日菜を見るなりいささかオーバーな声をあげて駆け寄ってきた。
 樹と同じくらい大きな身体があっという間に目の前にやってきたかと思うと、避ける間もなくガバリと抱き締められる。

「ちょ、鹿角さん、苦し――」
 硬い脇腹を手のひらでバシバシ叩きながら抗議しかけた明日菜だったけれども、次の瞬間背後からお腹にがっしりした腕が巻き付いて、バリ、と音がしそうな勢いで鹿角から引き剥がされた。

「おや」
「樹さん」

 明日菜を奪われた鹿角は目を丸くし、引っ張られた拍子によろけて背後の『壁』に寄り掛かった明日菜は頭を反らせて後ろを見上げる。彼女と目が合うと、樹はすぐに手を離して一歩後ずさった。そうして、目をしばたたかせて彼を見上げた明日菜の視線から、ふいと目を逸らす。

(なんか、怒ってる?)
 ――というか、機嫌が悪い、というか。

 憮然としている樹とそんな彼に戸惑っている明日菜を見て、鹿角はにやりと笑った。
「明日菜ちゃんを見失った時のそいつの顔、見せられなくて残念だよ」
「え?」
 目を丸くした明日菜に鹿角は肩をすくめてやれやれと言わんばかりにかぶりを振った。
「ありゃ完ッ璧に思考停止してたね」

(思考停止?)
 思わず見上げた明日菜を見返してくる樹の顔は、能面にも勝るレベルの無表情っぷりだ。

 この、樹が。

「まさかぁ」
 アハハと笑いながら明日菜はそう言ってしまったけれど、鹿角はいたって真面目な顔をしている。
「いやいや、マジで。明日菜ちゃん追跡マシーンって感じだったよ。もう、それしか頭にありません、みたいな」
「鹿角」
「なんだよ、そんな怖い顔して。ホントのことだろ? 落ち着かせようとしたオレを殴ろうとしてさぁ。ていうか殺されるかと思った」
 へらへら笑う鹿角の台詞がどこまで真実かは判ったものではないが、もう一度振り仰いだ樹の顔は微妙にむすりとしていた。

「えっと……その、心配かけてごめんなさい」
 なんだか申し訳なさが込み上げてきて明日菜が首を竦めると、樹はグッと奥歯を噛み締めた。歯ぎしりの音に、明日菜はおずおずと彼を見上げる。
「樹、さん?」

「……君が悪いわけではない」
 返ってきたのはいっそうむっつりとした声で、余計に彼を苛立たせてしまったのかと明日菜は困惑する。
「でも、そもそも、あたしが樹さんから離れたから……」
 もう一度謝ろうとした明日菜の髪が、横から伸びてきた手にぐしゃぐしゃと掻き回された。
「ちょっと、鹿角さん?」
 ムッと眉間にしわを寄せて睨み付けると、彼はニヤリと笑い返してくる。
「気にしなさんな。そのヒト、自分の不甲斐なさに腹を立ててるだけだから」
「え、なんで?」
「そりゃ、目の前で掻っ攫われたらねぇ」
「でも、それって、別に樹さんのせいじゃないし」
 ねぇ? と同意を求めて樹を見たら、目を逸らされた。

(なんで?)

 ドローンで連れ去られる時の状況を思い返してみても、やっぱり彼に非があるとは思えない。

 納得がいかず眉根を寄せた明日菜の耳に、鹿角は意味ありげな笑みと共に口を寄せる。
「ま、色々あるんだよ、男には――ッと、何すんだよ」
 最後の一言は鹿角の額をグイと押しやった樹に対するものだ。彼の抗議は無視して、樹は明日菜に目を向ける。

「この門扉の電子ロックは解けない」
「え、じゃあ、他の場所から……」
「いや、ここを乗り越える。俺が先に向こう側に行って受け止めるから、君は鹿角に持ち上げてもらえ」
 そう言い置いて、樹は明日菜の返事を待つことなく向きを変え、高さ三メートルはある鉄格子の門扉の上に何かを放り投げた。カシャンと金属音がした方を見上げると、門扉の上に何かが引っかかっていて、そこからロープが垂れていた。樹は身軽くそのロープを伝って門扉を越える。

「行ける、明日菜ちゃん?」
「あ、はい」
 明日菜が頷き返すと同時に鹿角は彼女の腰を掴んで持ち上げ、がっしりした肩に座らせた。

「ロープに掴まって。オレの肩を台にしたら上に届くだろ」
 言われたとおりに門扉の上に手をかけると、鹿角が明日菜の足を持ち上げてくれた。

 学校のものよりも遥かに頑丈で遥かに高い門扉の天辺にしがみつく。見下ろすと、かなり高かった。いや、有り得ないくらい高い。低く見積もっても、学校の二階くらいか。

(下りるの? ここから?)

「これは、ちょっと無理かも……」
 心の声は呟きになってこぼれ出た。

 明日菜は高所恐怖症という訳ではないけれど、二階の高さから飛び下りるというのは気軽にできることではない。登った木から下りられなくなった猫の気分とはこういうものなのだろう。

(さっさとしないと)
 そうは思っても身体は言うことを聞かず、目は彼方の地面に釘付け、ぶっとい鉄パイプにしがみついた腕の力は少しも緩もうとしない。

(これ、詰んだ?)
 まさに前にも後ろにも行けなくなった彼女に、静かな声が呼びかける。

「明日菜」
 ハッと瞬きをすると、狭まっていた視界が元に戻った。
 声の主に目を向ければ、いつも通りに泰然とした眼差しが明日菜の狼狽をどっしりと受け止めてくれた。

「大丈夫だ。来い」
 そう言って、樹が両手を差し伸べる。
 いついかなる時も揺らぎない声、所作、そして、眼差し。
 それらに引き寄せられるように、明日菜の四肢がコントロールを取り戻した。
 強張っていた指が動く。スムーズではないけれど何とかなりそうだ。

 明日菜はいったん鉄パイプに腰かける形になって、深呼吸を一つした。

「行くよ」
 自分を鼓舞する意味でもそう声をかけると、樹が無言でうなずき返してくれた。

 硬く目を閉じて身を乗り出した直後、一瞬の浮遊感。

 落下。

 そして。

 軽い衝撃と共に、明日菜は確か何かに受け止められる。

「大丈夫か?」
 間近で聞こえた声にパッと目を開けると、目の前に樹の顔があった。鼻先が、今にも触れ合いそうだ。

「!」

 思わず息を呑んだ明日菜をよそに、樹が彼女を地面に下す。わき腹の辺りを大きな両手で掴んだまま、彼はもう一度訊いてきた。
「大丈夫なのか?」
「え、あ、うん。大丈夫」
 こくりと頷いた明日菜の横に、身軽く鹿角が飛び下りる。

「よ、お疲れさん。頑張ったな……何?」
 ジッと鹿角を見つめる明日菜に、彼が小首をかしげた。

「なんか、悔しい」
「え?」
「樹さんも鹿角さんも何があっても自分で何とかできるのに」
 憮然と明日菜が答えると、鹿角は一瞬目を丸くし、次いで噴き出した。
「いや、そりゃ、そうでしょ。オレたちそういう仕事してたんだし」
 ワシワシと頭をかいぐり回してくる彼の手を振り払って、明日菜は樹を見上げる。
「あたしを鍛えて欲しいなぁ」

「……は?」
 間の抜けた声を上げたのは鹿角の方だ。樹は眉をひそめて明日菜を見つめているけれど、その眼差しはあからさまに「何を言っているんだと」告げている。

「あたし、自分じゃ何もできないし。もっと、色々できるようになりたい」
 むう、と唇を尖らせると、樹と鹿角が顔を見合わせた。

「……君には必要ない」
「そうそう、研究所に着いちゃえば、平和に過ごせるんだし」

 鹿角はポンポンと頭を叩きながらそう言ったけれども、明日菜はそれに頷くことができず、唇を噛んでうつむいた。彼女が諦めたと思ったのか、樹と鹿角は二人でこれからのことを話し始める。

 研究所に着いてしまえば。

 確かにそうなのだろう。

(でも、じゃあ、あたしはそこで何をするの?)
 安全に守られて、それで何をするのだろう――この、何もできない自分は。
 明日菜は振り返り、門扉の向こうを見つめた。そして、そこに住む人のことを思う。

(あたしは、自分で考え、決めることを放棄したくない)

 水澤のように、他者に言われるがまま生きるのは、嫌だと思った。あれを『生きている』と言いたくないと思った。

 それに。

(研究所に着いちゃったら、もう、樹さんはあたしから離れていっちゃうんだもの)
 樹は服部《はっとり》博士の命令で明日菜を研究所に届けるのが仕事だから。それが終わってしまえば、彼女とのつながりは、切れる。
 もうすぐ、その時がやってくる。
 そうしたら、明日菜は独りで道を歩いていかなければならなくなるのだ。

 明日菜はそっと鹿角と話し合っている樹に目を走らせた。その視線に気付いたように、彼が明日菜を見る。

「……どうした?」
 眉をひそめた彼の問いかけに、明日菜は小さくかぶりを振った。
「何でもない」
 樹はまだ何か言いたそうにしていたけれど、鹿角に呼ばれてそちらに向いてしまった。

 今まで明日菜のことを守ってきてくれた彼の広い背中を見つめて、彼女は自分の心に言い聞かせる。

 一人で生きていけるようになろう、一人で生きていけるだけの力を手に入れよう、と。

 研究所がどんなところなのかはまだ判らないけれど、きっと、何かを学ぶための手段はあるはずだ。

(呑気に高校生やってるときは、『学ぶ』なんて、めんどくさいだけだったのに)

 今は、何でもいいから吸収したい。

 知識、戦い方、生きていくために必要な、色々なこと。

 ものを知らなければ、考えることができない。
 考えることができなければ、決めることができない。
 そして、力や技能がなければ、動くことができない。

(そんな自分は、嫌だ)
 樹から離されて、心の底から実感した。

 自分には、何もないのだと。自分は、一人では歩いていけない人間なのだと。

 ――このままでは、何一つ選べないのだ、と。

 こんな世界になって初めて、明日菜は自分がこれから進もうとしている先にあるものが見えてきたような気がした。
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