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第五章:愚者が溺れる白昼夢
微かな違和感
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建物の中に入った水澤は、笑顔を絶やさず話し続けていた。ここにある農園のこと、飼育している動物たちのこと、北海道の天気のこと、自然のこと等々。
ありふれた日常会話の中で、水澤が軽く首をかしげる。
「それで、明日菜ちゃんはどこから来たの?」
あまりに普通な問いかけに、そんな場合ではないのにと思いつつも明日菜は律義に答えてしまう。
「え、っと、関東の方で」
「関東……ずいぶん遠くからなのね。大変だったでしょう?」
「ええ、まあ」
こういう遣り取りは、ほんの数ヶ月前までは旅先なんかで気軽に交わされていたものだ。鹿角が合流する前、樹と二人きりの時はほとんど会話らしい会話がなかったし、鹿角が入ってきてからも、日常的なことというのは話題に上らなかった。
(ていうか、鹿角さんとのは会話っていうよりあたしをからかうことがメインなんだよね)
こんなふうに『ごくごく普通のおばさん』と『何の変哲もない会話』をしていると、まるで何もなかった頃に戻ったかのように思えてしまう。
(この一ヶ月は実は夢でした、とかね)
胸の中で呟いて、明日菜は笑ってしまった。それを言うなら、今の方が夢に違いない。
平和な頃に戻りたいという願望を充足させるための、夢。
(まったく、現実逃避もいいとこだって)
自嘲した明日菜に追い打ちをかけるように、現実を思い出させる問いを水澤が投げてきた。
「一緒にいる人というのは、お父様とお母様?」
思わず、明日菜は立ちすくんだ。
「明日菜ちゃん?」
「あ、いえ、父と母は――」
口ごもった明日菜に、水澤は事情を察したらしい。足を止め、明日菜に向き直る。そうして、彼女の手を取った。
「とても、辛い思いをしたのね」
そう言ってジッと明日菜に注がれた彼女の眼差しには、心の底から悼む気持ちが溢れていた。明日菜の手を包み込んでいるのは水仕事で少し荒れていて、でも、温かくて柔らかい――女性の手、だ。
不意打ちの同情と懐かしい温もりに、不覚にも明日菜の目の奥が熱くなる。
慌てて瞬きをして視界を晴らし、笑顔を作った。
「あたしだけに起きたことじゃないですから」
明日菜の言葉に水澤は微かに眉をひそめた。
「皆がそうだからと言って、明日菜ちゃんが辛くないという訳ではないでしょう?」
そう言って微笑むと、彼女はまた歩き出した。
「でもね、『ミヒカリ様』はね、現世で辛い思いをした人ほど来世では幸せになれるとおっしゃっているのよ。だからきっと、これまで大変な思いをしてきた分、明日菜ちゃんもこれから幸せになれるわ」
「そう、ですか……」
また、『ミヒカリ様』だ。
何だろうなと思いつつ明日菜が曖昧に相槌を打つと、水澤はにこりと笑った。
「私たちもね、『ミヒカリ様』の教えに従って、ずっと俗悪な現世を遠ざけて自らを律して生きてきたのよ。でも、それだけでは充分ではなかったのね。今回の試練は、きっと、私たちをより良い世界に導くためのものだったのよ。大丈夫、『ミヒカリ様』がお間違えになるはずがないもの。きっと、お救いくださるの」
彼女の声はうっとりと満ち足りて幸せそうなものなのだけれども、なんとなく深追いしたくない感じだ。
「……あの、他の人は……」
明日菜が尋ねると、数歩分先を歩いていた水澤はピタリと止まり、一呼吸分間が空いてから振り返った。
「他の人?」
「その、水澤さん、『私たち』って……」
「ああ、そう。そうね」
水澤は、合点がいったというよりも、どこか彼女自身に言い聞かせるかのように、数回頷く。そうして、また歩き出した。歩きながら、謳うように言う。
「皆はね、殻を脱ぎ捨てて行ってしまったの」
首をひねるようにして明日菜に顔を向けた水澤は、そう、微笑んだ。
いや、微笑んでいるのは口元だけで、明日菜に向けられている両の眼差しは真っ暗で色がない。
「殻……」
(つまり、変化して出て行ったとか?)
それにしては、水澤はよくぞ無事に生き延びられたものだ。よほどうまく隠れていたに違いない。
そうするつもりもなく明日菜が繰り返した一言に、水澤がうなずく。
「ええ。あれは救いだったの。『ミヒカリ様』が、私にそれを果たすようにお命じになったのよ」
一瞬、ひやりとした空気が流れた。何故だろう、不意に明日菜は、無性に、この場を離れたくなる。
明日菜は今すぐ塀の外に出して欲しいと言いたくなったけれども、何となく、それは口にしない方がいいような気がした。
「どうしたの?」
いつの間にか立ち止まってしまっていた明日菜に、振り返った水澤がいぶかしげな眼を向けてくる。それはもう穏やかな光を取り戻していて。
「あ、と、なんでも、ないです」
「そう? ああ、もしかして、お腹が空いてる? そうだわ、シチューがあるから用意するわね。パンもね、ここで取れた小麦から作っているのよ。お友達を探すのは、食べてからでいいでしょう?」
「え、あの」
「何?」
屈託なく小首をかしげている水澤に、明日菜は食事よりも樹に会いたいのだという台詞を喉の奥に押し込んだ。
「……シチュー、楽しみです」
「ふふ、ミルクもうちの牛から絞ったものだし、全部、お手製なのよ」
塀の外で起きたことがなければ、ただの世話好きなおばさん、というところなのだろうけれども。
異常な状況に慣れ親しんでしまったせいか、普通であることが、どうにも落ち着かない。
(多分、気にし過ぎなんだよね)
こんな、悪意の欠片もないような人に対して警戒心を抱くとは、我ながらずいぶんと荒んでしまったものだと明日菜は内心で苦笑する。
鹿角と出会った村の人たちは老人だから変化が遅かったのだと言っていたし、水澤の年なら『新生者』であればとうに変化しているだろう。仮に変化したとしても、スタンガンあれば油断さえしていなければ対処できる。
発信機は持っているのだから、すぐに樹もこの場所に来てくれるはずだ。
(逆に、こっちが変に動いたら樹さんも見つけ出しにくいかもしれないし)
微妙に変な感じはするけれども差し当たってこの中は安全なようだし、きっと、ここはおとなしく彼を待つ方が得策なのだ。
明日菜は、もう一度水澤をチラリと見遣った。
(大丈夫。問題ない。気のせい。考え過ぎ)
目が合って穏やかな微笑みを浮かべてよこした女性にヘラリと笑い返し、明日菜は微かな違和感を胸の奥に押し込んだ。
ありふれた日常会話の中で、水澤が軽く首をかしげる。
「それで、明日菜ちゃんはどこから来たの?」
あまりに普通な問いかけに、そんな場合ではないのにと思いつつも明日菜は律義に答えてしまう。
「え、っと、関東の方で」
「関東……ずいぶん遠くからなのね。大変だったでしょう?」
「ええ、まあ」
こういう遣り取りは、ほんの数ヶ月前までは旅先なんかで気軽に交わされていたものだ。鹿角が合流する前、樹と二人きりの時はほとんど会話らしい会話がなかったし、鹿角が入ってきてからも、日常的なことというのは話題に上らなかった。
(ていうか、鹿角さんとのは会話っていうよりあたしをからかうことがメインなんだよね)
こんなふうに『ごくごく普通のおばさん』と『何の変哲もない会話』をしていると、まるで何もなかった頃に戻ったかのように思えてしまう。
(この一ヶ月は実は夢でした、とかね)
胸の中で呟いて、明日菜は笑ってしまった。それを言うなら、今の方が夢に違いない。
平和な頃に戻りたいという願望を充足させるための、夢。
(まったく、現実逃避もいいとこだって)
自嘲した明日菜に追い打ちをかけるように、現実を思い出させる問いを水澤が投げてきた。
「一緒にいる人というのは、お父様とお母様?」
思わず、明日菜は立ちすくんだ。
「明日菜ちゃん?」
「あ、いえ、父と母は――」
口ごもった明日菜に、水澤は事情を察したらしい。足を止め、明日菜に向き直る。そうして、彼女の手を取った。
「とても、辛い思いをしたのね」
そう言ってジッと明日菜に注がれた彼女の眼差しには、心の底から悼む気持ちが溢れていた。明日菜の手を包み込んでいるのは水仕事で少し荒れていて、でも、温かくて柔らかい――女性の手、だ。
不意打ちの同情と懐かしい温もりに、不覚にも明日菜の目の奥が熱くなる。
慌てて瞬きをして視界を晴らし、笑顔を作った。
「あたしだけに起きたことじゃないですから」
明日菜の言葉に水澤は微かに眉をひそめた。
「皆がそうだからと言って、明日菜ちゃんが辛くないという訳ではないでしょう?」
そう言って微笑むと、彼女はまた歩き出した。
「でもね、『ミヒカリ様』はね、現世で辛い思いをした人ほど来世では幸せになれるとおっしゃっているのよ。だからきっと、これまで大変な思いをしてきた分、明日菜ちゃんもこれから幸せになれるわ」
「そう、ですか……」
また、『ミヒカリ様』だ。
何だろうなと思いつつ明日菜が曖昧に相槌を打つと、水澤はにこりと笑った。
「私たちもね、『ミヒカリ様』の教えに従って、ずっと俗悪な現世を遠ざけて自らを律して生きてきたのよ。でも、それだけでは充分ではなかったのね。今回の試練は、きっと、私たちをより良い世界に導くためのものだったのよ。大丈夫、『ミヒカリ様』がお間違えになるはずがないもの。きっと、お救いくださるの」
彼女の声はうっとりと満ち足りて幸せそうなものなのだけれども、なんとなく深追いしたくない感じだ。
「……あの、他の人は……」
明日菜が尋ねると、数歩分先を歩いていた水澤はピタリと止まり、一呼吸分間が空いてから振り返った。
「他の人?」
「その、水澤さん、『私たち』って……」
「ああ、そう。そうね」
水澤は、合点がいったというよりも、どこか彼女自身に言い聞かせるかのように、数回頷く。そうして、また歩き出した。歩きながら、謳うように言う。
「皆はね、殻を脱ぎ捨てて行ってしまったの」
首をひねるようにして明日菜に顔を向けた水澤は、そう、微笑んだ。
いや、微笑んでいるのは口元だけで、明日菜に向けられている両の眼差しは真っ暗で色がない。
「殻……」
(つまり、変化して出て行ったとか?)
それにしては、水澤はよくぞ無事に生き延びられたものだ。よほどうまく隠れていたに違いない。
そうするつもりもなく明日菜が繰り返した一言に、水澤がうなずく。
「ええ。あれは救いだったの。『ミヒカリ様』が、私にそれを果たすようにお命じになったのよ」
一瞬、ひやりとした空気が流れた。何故だろう、不意に明日菜は、無性に、この場を離れたくなる。
明日菜は今すぐ塀の外に出して欲しいと言いたくなったけれども、何となく、それは口にしない方がいいような気がした。
「どうしたの?」
いつの間にか立ち止まってしまっていた明日菜に、振り返った水澤がいぶかしげな眼を向けてくる。それはもう穏やかな光を取り戻していて。
「あ、と、なんでも、ないです」
「そう? ああ、もしかして、お腹が空いてる? そうだわ、シチューがあるから用意するわね。パンもね、ここで取れた小麦から作っているのよ。お友達を探すのは、食べてからでいいでしょう?」
「え、あの」
「何?」
屈託なく小首をかしげている水澤に、明日菜は食事よりも樹に会いたいのだという台詞を喉の奥に押し込んだ。
「……シチュー、楽しみです」
「ふふ、ミルクもうちの牛から絞ったものだし、全部、お手製なのよ」
塀の外で起きたことがなければ、ただの世話好きなおばさん、というところなのだろうけれども。
異常な状況に慣れ親しんでしまったせいか、普通であることが、どうにも落ち着かない。
(多分、気にし過ぎなんだよね)
こんな、悪意の欠片もないような人に対して警戒心を抱くとは、我ながらずいぶんと荒んでしまったものだと明日菜は内心で苦笑する。
鹿角と出会った村の人たちは老人だから変化が遅かったのだと言っていたし、水澤の年なら『新生者』であればとうに変化しているだろう。仮に変化したとしても、スタンガンあれば油断さえしていなければ対処できる。
発信機は持っているのだから、すぐに樹もこの場所に来てくれるはずだ。
(逆に、こっちが変に動いたら樹さんも見つけ出しにくいかもしれないし)
微妙に変な感じはするけれども差し当たってこの中は安全なようだし、きっと、ここはおとなしく彼を待つ方が得策なのだ。
明日菜は、もう一度水澤をチラリと見遣った。
(大丈夫。問題ない。気のせい。考え過ぎ)
目が合って穏やかな微笑みを浮かべてよこした女性にヘラリと笑い返し、明日菜は微かな違和感を胸の奥に押し込んだ。
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