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第五章:愚者が溺れる白昼夢
飛行場
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街中を通ることを避け、目的の飛行場から直線距離にして五キロメートルほど離れたところで上陸し、てくてく歩くこと一時間強。
目指す場所に辿り着き、正面ゲートを通り抜けて少し進んだところで、前を歩いていた男二人が立ち止まる。
「あるな」
「あるねぇ」
いつものように生真面目な声と、いつものように軽々しい声が、言い合った。
巨大な壁のような背中二枚に隠されて、明日菜の視界は遮られている。
「何があるの?」
訊ねた彼女に、二人が肩越しに振り返った。
「え、いやぁ……」
「死体だ」
ごまかそうとした鹿角の努力はあえなく潰されて、樹が単刀直入に告げた。
「あ――ああ、そっか……」
そう言えば、そこはかとなく漂っているのは腐敗臭だ。それほど珍しいものではなくなってしまったから、明日菜はついその意味するところを忘れていた。
樹は極力人が多い――多かったところは避けてきたから、ゴロゴロ死体が転がる場面を目にしたことは最初の日以来なかった。街中に入ったのは友永兄妹と出会った時くらいだけれども、あの時通りに死体を見かけることがなかったのは、アキラが片付けていたからなのだろう。
明日菜はスンと空気を嗅いでみる。
臭い。
一体でも結構な臭いがするのは経験上知っている。
(近くにあるのかな、それとも……)
よほどの数が転がっているのか。
明日菜は無意識のうちに鼻の頭にしわを寄せた。
できれば見たくない。
けれど、この奥に進むしかないのだから仕方がない。
「あたしは大丈夫だから早く行こうよ」
せっつくと、男二人はまた顔を見合わせた。そして示し合わせたように、鹿角が言う。
「オレが先に行ってちょっと片付けてくるからさ、五島と明日菜ちゃんはここで待ってろよ」
「ああ」
当人の意見も聞かずさっさと頷いてしまった樹の袖を、明日菜は慌てて引く。
「ちょっと待って、あたしは大丈夫だってば。それより早く出発したい方がいい」
「だが……」
「大丈夫」
きっぱりと言い切ると、樹の眉間のしわが深まった。
彼はしばし黙り込み。
「わかった。ならば、行くぞ」
この上なく不満そうな声でそう告げて、歩き出す。
樹のこの態度は、明日菜に反抗されて怒ったわけではない。きっと、彼女に嫌な光景を見せることになってしまうのが、受け入れがたいのだ。
「樹さん、ありがとう……ごめんね」
急いで追いかけ上着の背中を引っ張って明日菜が告げた。気を遣ってくれて『ありがとう』だけれども、同時にそれを無にして『ごめんね』だ。
彼は肩越しに振り返り彼女を見下ろしてくる。
「……ああ」
明日菜の言葉に樹は短く頷いただけで、またすぐに歩き出した。でも、ほんの少し歩調が和らいだから、彼女の意図は読み取ってくれたに違いない。ホッと肩を撫で下ろした明日菜の頭を、大きな手がポンと叩く。
「我慢できなかったら言えよ?」
「ありがとう、鹿角さん」
今度は素直にうなずいた明日菜に鹿角は二ッと笑いを返し、二、三歩足を速めて樹の隣に並んだ。
真っ直ぐな道路を歩くと、じき、左手に駐車場が見えてくる。そこには何体かのヒトの身体らしきものが転がっていた。
(うわ……)
すぐに目を逸らしたけれども、何だか、あまり原型は留めていなかったような気がする。
(動物とか、いそうだもんね……)
周囲には木々が生い茂り、少し離れたら立派な森の中になりそうな様相だ。逃げた飼い犬とかはもちろん、普通に、野生の動物が出没しそうだ。
もっとも、獣が食い荒らす前の状態がどんなものだったかは、推して知るべし、というところだけれども。
視線は心持ち右方向に流し、明日菜は前を行く二つの背中を追いかけることだけに専念する。
やがて駐車場を通り過ぎると、今度は右手に大きな建物が現れた。
「あれが格納庫だよ」
足は止めずに首だけ振り返り、鹿角が教えてくれる。
「ヘリがいいよな。多分あると思うんだけど。ヘリでも五、六百キロは行けるし、たいていのところに降りられるしね。セスナだと場所を選ばないといけないからなぁ」
格納庫をぐるりと回りながらそんなふうに鹿角が話しかけてくるのは、パラパラと転がっているものから明日菜の気を逸らそうとしているからなのだろう。
彼の意図に従って、明日菜も質問を返す。
「ヘリコプターってそんなに飛べるんですか?」
「ああ。普通の奴でもそれくらい。軍用機なら余裕でその倍はイケる」
「へえ……」
とかなんとか。
そんなふうに気を紛らわせながら建物の角を一つ曲がって少し行くと、突然目の前が開けた。
「ここ、飛行場なの?」
パッと見、ただの公園か運動場だ。
「あっちの方に滑走路があるよ。でも平地からじゃ、良く判らないだろうな」
鹿角が指さしてくれた方に目を凝らしたけれど、確かにただ平らなだけにしか見えない。
そんな遣り取りを明日菜と鹿角がしている間にも、樹は格納庫の中に入っていってしまった。
(こっちの方が、少ないな)
大見得を切ったけれども、内心ほっと独り言ちる。
死体は、あまり見当たらない。多分、変化した『新生者』が現れた時点で、皆、車で逃げようとしたのだろう。
樹を追って大きな建物の中に入っていくと、鎮座していたのはヘリコプターだ。実物を見るのは初めてで、思っていたよりも小さいな、というのが感想だ。
機体そのものは小さいけれど、上のプロペラは驚くほど長い。あんなのが勢いよく回ったらパキンと折れてしまうのではないかと、その光景をうっかり想像してしまった明日菜は慌ててそれを打ち消した。
バカげた夢想に右往左往する明日菜をよそに、男二人は操縦席で何やら話し合っている。
「燃料は補充する必要があるな」
「満タンなら六百は行けそうだから、ほぼゴールじゃん。楽勝」
何やら良い感じのようだ。
物珍しさも手伝ってウロウロとそこらを見回っていた明日菜は、大きな缶の山にもたれるようにしてこと切れている男性を目の当たりにして、思わず息を呑んだ。
悲鳴すらこぼせず一目散に樹のもとに駆け戻る。
「どうした……ああ」
飛び込んできた明日菜を受け止め、腰のマチェットに手をやりながら鋭い眼差しを彼女が来た方向に投げた樹は、もうそこに何があるのか知っていたのだろう。すぐに警戒を解いた。
「すまない。言っておけばよかった」
そう言って、言葉もなく荒い息を繰り返してしがみつくしかできない彼女を、片腕で引き寄せてくれる。
すっぽりと包み込んでくる大きな手で硬い胸に頭を押し付けられていると、伝わってくるのはとてもゆっくりした鼓動だ。
(気持ちいい……)
温かさと穏やかさが、緊張を解してくれる。
明日菜は、無意識のうちに頬を摺り寄せた。
と。
「もう落ち着いたか?」
耳に直接響いてくるような低く静かな声に、パッと身体を離す。
「大丈夫!」
反射的に答えた明日菜に、ブハッと噴き出す音が聞こえてきた。振り返ってその音の出どころを睨み付ける。鹿角は両手を上げてにやりと笑った。
そこへ、小さなため息が。
見上げると、樹の難しい顔がある。
(あれ? 微妙に、怒ってる?)
いや、怒っているのとは、少し違うような気がする。
でも、平素の彼ではないようには、見えた。
(なんかした、あたし?)
思い返してみても、普段していることとそう変わりはないと思うのだけれども。
困惑する明日菜をよそに、樹は二人に指示を出す。
「鹿角は給油を。俺は周囲の警戒に当たる。君は――俺か鹿角の目が届くところにいろ」
淡々と言われて、ついさっき目にした死体が明日菜の脳裏によみがえった。
わずかに身体を強張らせた彼女の背中を、鹿角が宥めるように叩く。
「大丈夫だって。全然気配はないから」
「あ、うん……」
頷く明日菜の横で、樹が踵を返した。外へと足を進める彼を、少し迷って追いかける。
明日菜が隣に並ぶと、樹はチラリと彼女を見下ろしてきた。
「滑走路までは行ってもいい。だが、何か動くものを見たらすぐに戻って来い」
「――判った」
明日菜は違う言葉を口に出しかけ、結局そう答えた。
足早に樹から離れ、明日菜は滑走路の方へ向かう。別に、もうそれほど見たいわけではなかったけれど、何となく、傍にはいるなと言われたような気がしたからだ。
(気のせい、だと思うけど)
うつむきながら足を運び、自分にそう言い聞かせる。
少しすると、左右に真っ直ぐ、幅広の道が伸びているところに行き当たった。
「これが、滑走路?」
本当にただ飛行機の通路があるだけにしか見えない。念のために警戒したけれど、正面左右には何も動くものはない。
格納庫と滑走路との距離は、だいたい二百メートルくらいだろうか。
振り返って確認すると、彼はその中間くらいで立ち止まっている。
物理的な距離が、気持ちの距離にも感じられて。
不意に目の奥が熱くなった明日菜は、空を振り仰いだ。
秋晴れで、とても空が高い。電線一本なく見渡せるのは気分が良かった。
と、その視界の隅に、何かが入り込む。
「鳥?」
にしては、羽ばたきをしていないような。
どちらかというと飛行機の影に近いように思えるけれど、このご時世、そんなはずはあるまい。第一、それにしては小さい気がする。
「何だろう」
頭を戻し、樹に向き直った。片手で空を指さし、もう片方の手を口元に添える。
「樹さん、あれ――」
彼女の方を見た樹が、突如として走り出した。遠目にも、怖い顔をしているのが見て取れて、思わず彼の方へ戻ろうと足を踏み出す。
その時。
「明日菜!」
樹が、呼んだ。
刹那。
「え――キャァ!?」
不意に肩から腕にかけて何かに掴まれ、身体が浮き上がる。反射的に上を見れば、そこにあったのは。
「――ナニコレ?」
明日菜の口からこぼれたのは、その一言だ。
おもちゃの飛行機から伸びたマジックハンド。それが自分を捕まえている。
思わず、暴れることも忘れた。
「明日菜!」
また樹に名前を呼ばわれて慌てて身をもがき始めたけれども、マジックハンドはビクともしない。彼女の抵抗などものともせずに、ドンドン高度を上げていく。
樹はすさまじい速度で迫ってきたけれど、奇妙な機械が上昇する方が早かった。
「樹さん!」
ビル三階分ほどの高さから彼を見下ろし呼んだけれども、どうにもならない――彼も成す術がない。
「クソッ!!」
樹が発したとは思えない荒々しい罵声を耳にしたのが最後で、見る見るうちに彼の姿は小さくなっていった。
目指す場所に辿り着き、正面ゲートを通り抜けて少し進んだところで、前を歩いていた男二人が立ち止まる。
「あるな」
「あるねぇ」
いつものように生真面目な声と、いつものように軽々しい声が、言い合った。
巨大な壁のような背中二枚に隠されて、明日菜の視界は遮られている。
「何があるの?」
訊ねた彼女に、二人が肩越しに振り返った。
「え、いやぁ……」
「死体だ」
ごまかそうとした鹿角の努力はあえなく潰されて、樹が単刀直入に告げた。
「あ――ああ、そっか……」
そう言えば、そこはかとなく漂っているのは腐敗臭だ。それほど珍しいものではなくなってしまったから、明日菜はついその意味するところを忘れていた。
樹は極力人が多い――多かったところは避けてきたから、ゴロゴロ死体が転がる場面を目にしたことは最初の日以来なかった。街中に入ったのは友永兄妹と出会った時くらいだけれども、あの時通りに死体を見かけることがなかったのは、アキラが片付けていたからなのだろう。
明日菜はスンと空気を嗅いでみる。
臭い。
一体でも結構な臭いがするのは経験上知っている。
(近くにあるのかな、それとも……)
よほどの数が転がっているのか。
明日菜は無意識のうちに鼻の頭にしわを寄せた。
できれば見たくない。
けれど、この奥に進むしかないのだから仕方がない。
「あたしは大丈夫だから早く行こうよ」
せっつくと、男二人はまた顔を見合わせた。そして示し合わせたように、鹿角が言う。
「オレが先に行ってちょっと片付けてくるからさ、五島と明日菜ちゃんはここで待ってろよ」
「ああ」
当人の意見も聞かずさっさと頷いてしまった樹の袖を、明日菜は慌てて引く。
「ちょっと待って、あたしは大丈夫だってば。それより早く出発したい方がいい」
「だが……」
「大丈夫」
きっぱりと言い切ると、樹の眉間のしわが深まった。
彼はしばし黙り込み。
「わかった。ならば、行くぞ」
この上なく不満そうな声でそう告げて、歩き出す。
樹のこの態度は、明日菜に反抗されて怒ったわけではない。きっと、彼女に嫌な光景を見せることになってしまうのが、受け入れがたいのだ。
「樹さん、ありがとう……ごめんね」
急いで追いかけ上着の背中を引っ張って明日菜が告げた。気を遣ってくれて『ありがとう』だけれども、同時にそれを無にして『ごめんね』だ。
彼は肩越しに振り返り彼女を見下ろしてくる。
「……ああ」
明日菜の言葉に樹は短く頷いただけで、またすぐに歩き出した。でも、ほんの少し歩調が和らいだから、彼女の意図は読み取ってくれたに違いない。ホッと肩を撫で下ろした明日菜の頭を、大きな手がポンと叩く。
「我慢できなかったら言えよ?」
「ありがとう、鹿角さん」
今度は素直にうなずいた明日菜に鹿角は二ッと笑いを返し、二、三歩足を速めて樹の隣に並んだ。
真っ直ぐな道路を歩くと、じき、左手に駐車場が見えてくる。そこには何体かのヒトの身体らしきものが転がっていた。
(うわ……)
すぐに目を逸らしたけれども、何だか、あまり原型は留めていなかったような気がする。
(動物とか、いそうだもんね……)
周囲には木々が生い茂り、少し離れたら立派な森の中になりそうな様相だ。逃げた飼い犬とかはもちろん、普通に、野生の動物が出没しそうだ。
もっとも、獣が食い荒らす前の状態がどんなものだったかは、推して知るべし、というところだけれども。
視線は心持ち右方向に流し、明日菜は前を行く二つの背中を追いかけることだけに専念する。
やがて駐車場を通り過ぎると、今度は右手に大きな建物が現れた。
「あれが格納庫だよ」
足は止めずに首だけ振り返り、鹿角が教えてくれる。
「ヘリがいいよな。多分あると思うんだけど。ヘリでも五、六百キロは行けるし、たいていのところに降りられるしね。セスナだと場所を選ばないといけないからなぁ」
格納庫をぐるりと回りながらそんなふうに鹿角が話しかけてくるのは、パラパラと転がっているものから明日菜の気を逸らそうとしているからなのだろう。
彼の意図に従って、明日菜も質問を返す。
「ヘリコプターってそんなに飛べるんですか?」
「ああ。普通の奴でもそれくらい。軍用機なら余裕でその倍はイケる」
「へえ……」
とかなんとか。
そんなふうに気を紛らわせながら建物の角を一つ曲がって少し行くと、突然目の前が開けた。
「ここ、飛行場なの?」
パッと見、ただの公園か運動場だ。
「あっちの方に滑走路があるよ。でも平地からじゃ、良く判らないだろうな」
鹿角が指さしてくれた方に目を凝らしたけれど、確かにただ平らなだけにしか見えない。
そんな遣り取りを明日菜と鹿角がしている間にも、樹は格納庫の中に入っていってしまった。
(こっちの方が、少ないな)
大見得を切ったけれども、内心ほっと独り言ちる。
死体は、あまり見当たらない。多分、変化した『新生者』が現れた時点で、皆、車で逃げようとしたのだろう。
樹を追って大きな建物の中に入っていくと、鎮座していたのはヘリコプターだ。実物を見るのは初めてで、思っていたよりも小さいな、というのが感想だ。
機体そのものは小さいけれど、上のプロペラは驚くほど長い。あんなのが勢いよく回ったらパキンと折れてしまうのではないかと、その光景をうっかり想像してしまった明日菜は慌ててそれを打ち消した。
バカげた夢想に右往左往する明日菜をよそに、男二人は操縦席で何やら話し合っている。
「燃料は補充する必要があるな」
「満タンなら六百は行けそうだから、ほぼゴールじゃん。楽勝」
何やら良い感じのようだ。
物珍しさも手伝ってウロウロとそこらを見回っていた明日菜は、大きな缶の山にもたれるようにしてこと切れている男性を目の当たりにして、思わず息を呑んだ。
悲鳴すらこぼせず一目散に樹のもとに駆け戻る。
「どうした……ああ」
飛び込んできた明日菜を受け止め、腰のマチェットに手をやりながら鋭い眼差しを彼女が来た方向に投げた樹は、もうそこに何があるのか知っていたのだろう。すぐに警戒を解いた。
「すまない。言っておけばよかった」
そう言って、言葉もなく荒い息を繰り返してしがみつくしかできない彼女を、片腕で引き寄せてくれる。
すっぽりと包み込んでくる大きな手で硬い胸に頭を押し付けられていると、伝わってくるのはとてもゆっくりした鼓動だ。
(気持ちいい……)
温かさと穏やかさが、緊張を解してくれる。
明日菜は、無意識のうちに頬を摺り寄せた。
と。
「もう落ち着いたか?」
耳に直接響いてくるような低く静かな声に、パッと身体を離す。
「大丈夫!」
反射的に答えた明日菜に、ブハッと噴き出す音が聞こえてきた。振り返ってその音の出どころを睨み付ける。鹿角は両手を上げてにやりと笑った。
そこへ、小さなため息が。
見上げると、樹の難しい顔がある。
(あれ? 微妙に、怒ってる?)
いや、怒っているのとは、少し違うような気がする。
でも、平素の彼ではないようには、見えた。
(なんかした、あたし?)
思い返してみても、普段していることとそう変わりはないと思うのだけれども。
困惑する明日菜をよそに、樹は二人に指示を出す。
「鹿角は給油を。俺は周囲の警戒に当たる。君は――俺か鹿角の目が届くところにいろ」
淡々と言われて、ついさっき目にした死体が明日菜の脳裏によみがえった。
わずかに身体を強張らせた彼女の背中を、鹿角が宥めるように叩く。
「大丈夫だって。全然気配はないから」
「あ、うん……」
頷く明日菜の横で、樹が踵を返した。外へと足を進める彼を、少し迷って追いかける。
明日菜が隣に並ぶと、樹はチラリと彼女を見下ろしてきた。
「滑走路までは行ってもいい。だが、何か動くものを見たらすぐに戻って来い」
「――判った」
明日菜は違う言葉を口に出しかけ、結局そう答えた。
足早に樹から離れ、明日菜は滑走路の方へ向かう。別に、もうそれほど見たいわけではなかったけれど、何となく、傍にはいるなと言われたような気がしたからだ。
(気のせい、だと思うけど)
うつむきながら足を運び、自分にそう言い聞かせる。
少しすると、左右に真っ直ぐ、幅広の道が伸びているところに行き当たった。
「これが、滑走路?」
本当にただ飛行機の通路があるだけにしか見えない。念のために警戒したけれど、正面左右には何も動くものはない。
格納庫と滑走路との距離は、だいたい二百メートルくらいだろうか。
振り返って確認すると、彼はその中間くらいで立ち止まっている。
物理的な距離が、気持ちの距離にも感じられて。
不意に目の奥が熱くなった明日菜は、空を振り仰いだ。
秋晴れで、とても空が高い。電線一本なく見渡せるのは気分が良かった。
と、その視界の隅に、何かが入り込む。
「鳥?」
にしては、羽ばたきをしていないような。
どちらかというと飛行機の影に近いように思えるけれど、このご時世、そんなはずはあるまい。第一、それにしては小さい気がする。
「何だろう」
頭を戻し、樹に向き直った。片手で空を指さし、もう片方の手を口元に添える。
「樹さん、あれ――」
彼女の方を見た樹が、突如として走り出した。遠目にも、怖い顔をしているのが見て取れて、思わず彼の方へ戻ろうと足を踏み出す。
その時。
「明日菜!」
樹が、呼んだ。
刹那。
「え――キャァ!?」
不意に肩から腕にかけて何かに掴まれ、身体が浮き上がる。反射的に上を見れば、そこにあったのは。
「――ナニコレ?」
明日菜の口からこぼれたのは、その一言だ。
おもちゃの飛行機から伸びたマジックハンド。それが自分を捕まえている。
思わず、暴れることも忘れた。
「明日菜!」
また樹に名前を呼ばわれて慌てて身をもがき始めたけれども、マジックハンドはビクともしない。彼女の抵抗などものともせずに、ドンドン高度を上げていく。
樹はすさまじい速度で迫ってきたけれど、奇妙な機械が上昇する方が早かった。
「樹さん!」
ビル三階分ほどの高さから彼を見下ろし呼んだけれども、どうにもならない――彼も成す術がない。
「クソッ!!」
樹が発したとは思えない荒々しい罵声を耳にしたのが最後で、見る見るうちに彼の姿は小さくなっていった。
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