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第四章:偽りの安寧は微睡の淵で
彼の過去
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明日菜は目をしばたたかせてから、ヘラッと笑った。
「やだなぁ、何言ってるの。じゃ、樹さんはどうするのよ。あたしを連れてくのが樹さんの役目なんでしょ? あ、そっか。鹿角さんと三人で一緒に行くの? 確かにその方がいいよね」
睨んでいると言ってもいいほど明日菜を真っ直ぐに見つめてくる樹から心持ち目を逸らして、つらつらと明日菜は言い立てた。
「やっぱマンツーマンとか無理があるよね。これで樹さんもちょっと楽になるじゃん。いっつも、あたし一人でグーすか寝てて悪いなぁって思ってたんだ」
「明日菜」
「そしたら、いつ出発する? さっきのって、あたしたちを追っかけてきた『新生者』たちなんでしょ? 早くここ出た方がいいよね。あ、でも、まだ樹さんの体調が万全じゃないのか」
「明日菜」
「熱まだある? なんか、見た目は全然楽そうになってるけど」
言いながら彼の額に伸ばそうとした明日菜の手を、低い声が止める。
「明日菜、口を閉じろ」
淡々とした、声。
穏やかだけれどもその声は、明日菜の口をつぐませる。
唇を噛んで樹に目を向けた明日菜に、彼は静謐な眼差しを注いできた。
「俺はここまでだ。鹿角が言う通り、俺はもう君とはいられない」
「なんで」
「さっき彼が話したことが真実だからだ」
「でも、今まで大丈夫だったし、今だって大丈夫じゃない」
目の前の樹は冷静そのもので、そんな彼が『新生者』だなんて絶対に信じられない。けれど、樹は束の間目を伏せ、また明日菜を見返してきた。
「俺は『新生者』だ。それは間違いない」
「じゃあ、今ここにいる樹さんは何なのよ!?」
拳を固めて、明日菜は言い張った。
まったく訳が解からないし納得もいかない。樹と鹿角が口をそろえて同じことを百回言ったとしても、明日菜にとってはこの一ヶ月あまり見てきた樹の姿が全てだ。彼は全身全霊で明日菜を護ってきてくれたし、ついさっきだって、確かにちょっと間襲い掛かってはきたけれど、結局彼自身が助けてくれたようなものだ。
(樹さんがあたしを本気で襲うわけがないんだから)
徹底抗戦の構えを見せる明日菜に、樹はまた口を開く。
「俺は『新生者』だ。かつて完全に変化し、人も喰い殺した」
口調とは裏腹に凄惨な内容の彼の台詞に、明日菜は一瞬息を止めた。が、すぐにグッと奥歯を噛み締める。
「ウソ」
「本当だ」
「じゃ、なんで今は普通なの」
「服部博士の力だ」
「……じゃあ、これって、治療できるの? 薬とか?」
明日菜は眉をひそめた。そんなことは、初めて聞いた。
樹はほんの一瞬その目の中に逡巡をよぎらせて、頷く。
「俺には、効果があった」
「なら、それ、皆に使ったらいいじゃない!」
思わず大声を上げてしまった明日菜を、樹は黙って見つめていた。その漆黒の目は何を考えているのかを読み取らせない。
「治せるのに、どうして……」
それを樹に問うても仕方がないのだということは、判っている。彼は服部という科学者から命じられて動いているに過ぎないのだから。
そう、理解していても、やっぱり明日菜は彼女の疑問に答えて欲しかった。
治療法があるなら、今のうちなら、この狂ってしまった世界をまだ元に戻せるかもしれないのに。
唇を噛み締めて樹を見下ろす明日菜に、背後から静かな声が呼びかける。
「仕方がないんだよ」
パッと振り返ると、いつも飄々としている鹿角が暗い眼差しを彼女に向けていた。
「仕方がないって、なんで? 治せるって知ってるのに、なんで何もしないでいられるの?」
「成功したのが彼だけだからさ」
「え?」
「治療っていっても滅茶苦茶特殊で難しいんだよ。博士も他に何人か試したけど、皆駄目だったんだ」
不意に明日菜の身体から力が抜けて、その場にペタリと座り込んだ。それを目で追っていた樹が、感情の色を含まない声で語る。
「俺は、博士が確認した限りでは、最初の『変化した新生者』らしい。派遣された内線地帯で作戦を遂行し終え、帰投中に俺は変化し仲間に襲いかかった」
「なか、ま」
「ああ。彼らは抗戦したが、結局俺は十一人中六人を殺した。俺も相当の傷を負い、出血多量で意識がとんで、ようやく止まったらしい」
樹の語りで明日菜が思い出すのは、彼の身体を拭いた時に目にした数々の傷跡だ。
よく生きていたなと思うほどの、傷痕。
(あれが、もしかして……?)
理解の範疇を超えている話に彼女が呆然としていると、斜め後ろで鹿角が呟くのが聞こえる。
「『新生者』はちょっとやそっとの怪我じゃ、止まらないんだよ。脊髄やるか両手両足をぶった切るか、いっそ息の根を止めないと、阻止できない。治癒力も通常の数倍になるしな。多分、生物として太く短く、になるんだ。『新生者』に変化すると、寿命は縮まるが生命力は段違いに上がる」
「俺も『新生者』でなければ死んでいた。だが、『新生者』だったから生き延びた。拘束された俺の話を服部教授が聞きつけ、俺を調べたいと言って彼の研究所に連れて行ったらしい。そこは、俺の記憶にはない」
何でもないことのように、樹は言った。けれど、ポカリと開いた深い穴のようなその目は、どこまでも暗い。
何だか酸素が薄くなったような気がして無意識のうちに胸元を握り締めた明日菜を見ぬまま、彼は続ける。
「俺を『新生者』として変化させたミトコンドリアは、服部教授が行った処置で抑制された。彼から、それが消えたわけではないのだとは、聞かされていた。だが、覚醒を促すための様々な刺激にも二度と反応することがなかったから、もう大丈夫なのだと思っていた」
沈黙。
短くはない時間を置いてから、ようやく、樹の目が明日菜に向けられた。それまでとは打って変わって真っ直ぐに、彼女を見据えてくる。
「やはり、俺は『新生者』だ。だから、君とはもう行動を共にすることはできない」
「やだ」
「君に選択肢はない」
「あるよ」
「ない」
きっぱりと、彼は言い切った。明日菜には本当に、選択の余地など欠片も与えるつもりがない口調で。
明日菜は唇をムッと引き結んで息を吸い込んだ。
確かに、樹は常に正しいことを言う。
けれど、いくら正しくても、受け入れられないことは受け入れられない。
すっくと立ち上がり、明日菜は樹に挑みかかるように彼を睨み付ける。
そうして。
「絶対、やだ」
胸いっぱいに溜めた息を全て声に代えて、樹以上にきっぱりと、彼女は断言した。
「やだなぁ、何言ってるの。じゃ、樹さんはどうするのよ。あたしを連れてくのが樹さんの役目なんでしょ? あ、そっか。鹿角さんと三人で一緒に行くの? 確かにその方がいいよね」
睨んでいると言ってもいいほど明日菜を真っ直ぐに見つめてくる樹から心持ち目を逸らして、つらつらと明日菜は言い立てた。
「やっぱマンツーマンとか無理があるよね。これで樹さんもちょっと楽になるじゃん。いっつも、あたし一人でグーすか寝てて悪いなぁって思ってたんだ」
「明日菜」
「そしたら、いつ出発する? さっきのって、あたしたちを追っかけてきた『新生者』たちなんでしょ? 早くここ出た方がいいよね。あ、でも、まだ樹さんの体調が万全じゃないのか」
「明日菜」
「熱まだある? なんか、見た目は全然楽そうになってるけど」
言いながら彼の額に伸ばそうとした明日菜の手を、低い声が止める。
「明日菜、口を閉じろ」
淡々とした、声。
穏やかだけれどもその声は、明日菜の口をつぐませる。
唇を噛んで樹に目を向けた明日菜に、彼は静謐な眼差しを注いできた。
「俺はここまでだ。鹿角が言う通り、俺はもう君とはいられない」
「なんで」
「さっき彼が話したことが真実だからだ」
「でも、今まで大丈夫だったし、今だって大丈夫じゃない」
目の前の樹は冷静そのもので、そんな彼が『新生者』だなんて絶対に信じられない。けれど、樹は束の間目を伏せ、また明日菜を見返してきた。
「俺は『新生者』だ。それは間違いない」
「じゃあ、今ここにいる樹さんは何なのよ!?」
拳を固めて、明日菜は言い張った。
まったく訳が解からないし納得もいかない。樹と鹿角が口をそろえて同じことを百回言ったとしても、明日菜にとってはこの一ヶ月あまり見てきた樹の姿が全てだ。彼は全身全霊で明日菜を護ってきてくれたし、ついさっきだって、確かにちょっと間襲い掛かってはきたけれど、結局彼自身が助けてくれたようなものだ。
(樹さんがあたしを本気で襲うわけがないんだから)
徹底抗戦の構えを見せる明日菜に、樹はまた口を開く。
「俺は『新生者』だ。かつて完全に変化し、人も喰い殺した」
口調とは裏腹に凄惨な内容の彼の台詞に、明日菜は一瞬息を止めた。が、すぐにグッと奥歯を噛み締める。
「ウソ」
「本当だ」
「じゃ、なんで今は普通なの」
「服部博士の力だ」
「……じゃあ、これって、治療できるの? 薬とか?」
明日菜は眉をひそめた。そんなことは、初めて聞いた。
樹はほんの一瞬その目の中に逡巡をよぎらせて、頷く。
「俺には、効果があった」
「なら、それ、皆に使ったらいいじゃない!」
思わず大声を上げてしまった明日菜を、樹は黙って見つめていた。その漆黒の目は何を考えているのかを読み取らせない。
「治せるのに、どうして……」
それを樹に問うても仕方がないのだということは、判っている。彼は服部という科学者から命じられて動いているに過ぎないのだから。
そう、理解していても、やっぱり明日菜は彼女の疑問に答えて欲しかった。
治療法があるなら、今のうちなら、この狂ってしまった世界をまだ元に戻せるかもしれないのに。
唇を噛み締めて樹を見下ろす明日菜に、背後から静かな声が呼びかける。
「仕方がないんだよ」
パッと振り返ると、いつも飄々としている鹿角が暗い眼差しを彼女に向けていた。
「仕方がないって、なんで? 治せるって知ってるのに、なんで何もしないでいられるの?」
「成功したのが彼だけだからさ」
「え?」
「治療っていっても滅茶苦茶特殊で難しいんだよ。博士も他に何人か試したけど、皆駄目だったんだ」
不意に明日菜の身体から力が抜けて、その場にペタリと座り込んだ。それを目で追っていた樹が、感情の色を含まない声で語る。
「俺は、博士が確認した限りでは、最初の『変化した新生者』らしい。派遣された内線地帯で作戦を遂行し終え、帰投中に俺は変化し仲間に襲いかかった」
「なか、ま」
「ああ。彼らは抗戦したが、結局俺は十一人中六人を殺した。俺も相当の傷を負い、出血多量で意識がとんで、ようやく止まったらしい」
樹の語りで明日菜が思い出すのは、彼の身体を拭いた時に目にした数々の傷跡だ。
よく生きていたなと思うほどの、傷痕。
(あれが、もしかして……?)
理解の範疇を超えている話に彼女が呆然としていると、斜め後ろで鹿角が呟くのが聞こえる。
「『新生者』はちょっとやそっとの怪我じゃ、止まらないんだよ。脊髄やるか両手両足をぶった切るか、いっそ息の根を止めないと、阻止できない。治癒力も通常の数倍になるしな。多分、生物として太く短く、になるんだ。『新生者』に変化すると、寿命は縮まるが生命力は段違いに上がる」
「俺も『新生者』でなければ死んでいた。だが、『新生者』だったから生き延びた。拘束された俺の話を服部教授が聞きつけ、俺を調べたいと言って彼の研究所に連れて行ったらしい。そこは、俺の記憶にはない」
何でもないことのように、樹は言った。けれど、ポカリと開いた深い穴のようなその目は、どこまでも暗い。
何だか酸素が薄くなったような気がして無意識のうちに胸元を握り締めた明日菜を見ぬまま、彼は続ける。
「俺を『新生者』として変化させたミトコンドリアは、服部教授が行った処置で抑制された。彼から、それが消えたわけではないのだとは、聞かされていた。だが、覚醒を促すための様々な刺激にも二度と反応することがなかったから、もう大丈夫なのだと思っていた」
沈黙。
短くはない時間を置いてから、ようやく、樹の目が明日菜に向けられた。それまでとは打って変わって真っ直ぐに、彼女を見据えてくる。
「やはり、俺は『新生者』だ。だから、君とはもう行動を共にすることはできない」
「やだ」
「君に選択肢はない」
「あるよ」
「ない」
きっぱりと、彼は言い切った。明日菜には本当に、選択の余地など欠片も与えるつもりがない口調で。
明日菜は唇をムッと引き結んで息を吸い込んだ。
確かに、樹は常に正しいことを言う。
けれど、いくら正しくても、受け入れられないことは受け入れられない。
すっくと立ち上がり、明日菜は樹に挑みかかるように彼を睨み付ける。
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