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第三章:眠れる時限爆弾
学校へ
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確かに、樹は地図を覚えているようだった――それも、赤線で示されたルートだけではなく、この町の道そのものを。
その証拠に、今も、また。
「あ、前前、前にいる!」
少し先の曲がり角から、こちらに向けて猛然と駆けてくる『新生者』が三人ばかり。
バイクの荷台に腰を据え樹の肩にしがみ付く明日菜が声を上げると同時に、まるで自転車を扱っているかのように軽々と彼は向きを変える。
向かう先にあるのは――
「あ、ちょっと、待って、そこ、階段ッ!」
「口を閉じていろ。舌を噛む」
樹が言い終えるよりも少し早く、下からガツンと衝撃が突き上げた。思わず明日菜は樹の厚い肩に爪を立ててしまう。
「ッ! ッ! ッ!」
ガツガツと、一段ごとに全身が揺さぶられる。
オフロード車で山道を抜けた時でさえも、乗り心地はこれほど悪くはなかった。
歯を食いしばっていなかったら、きっと口の中が血塗れになっていたに違いない。
ざっと四十段はある階段を、樹は速度を緩めることなく一気に下った。最後に後輪がダン! と地に落ちて、ようやく明日菜はひびが入りそうなほどに噛み締めていた顎から力を抜く。
肩越しに振り返った樹が明日菜の眉間のしわをチラリと見た。
「大丈夫か?」
「……じゃない」
「大丈夫そうだな。校舎が見える」
言われて前方に目を向ければ、古びた学校が目に入る。
(やっと、だ)
明日菜は肺を絞るようにして深々と安堵のため息をついた。
かれこれ一時間ばかり続いたこのアクロバティックなツーリングも、ようやく終わるらしい。
その一時間の間に樹がとんでもない走り方をしたのは、今の階段だけではない。
急な方向転換は序の口、人一人が通るのがやっとな細い路地や平均台のような塀の上を走ったり、明日菜の背丈ほどもある高さから飛び下りたり。
こんなぼろいバイクでこんな曲芸じみた走行ができるとは、明日菜は夢にも思わなかった。樹の運転テクニックも驚異的だけれども、その荒事に耐えきったこのバイクも褒めてあげたい。
樹のことは信頼しているが、『新生者』に殺されるよりも先にバイクの事故で死ぬんじゃないかと、明日菜はチラリと、本当にチラリと、思ってしまった。
そんな彼女の心中など全く知らない樹は、淡々と指示を出す。
「花火を出しておけ」
言われて明日菜はバッグの中から花火とライターを取り出した。花火はいわゆるロケット花火で、持っている人に火花が飛ばないように先端を覆う傘がつけられている。そこに小さな穴が開いていて、ひもがぴょろりと伸びていた。それに火を点けるらしい。念のために、一回、ライターを灯してみる。
「大丈夫、準備万端。いつでもいいよ」
「よし……行くぞ」
合図を放てば、あとはもう突っ走るだけだ。
「うん」
ごくりと唾を呑んで答えると、彼は顎を引くようにして小さく頷いた。そうして、またスロットルを回す。
走り出したバイクは、どんどん校舎に近付いていく。
あと、十メートルほど。
「火を点けろ」
スピードは出ていないから、彼に掴まっていなくても大丈夫そうだ。明日菜は左手で花火を持ち、右手でライターを点ける。
着火。
「俺に向けるなよ」
「わかってるって」
彼がその台詞を真面目な注意事項として言ったのか、それとも明日菜の緊張を解す為の冗談として言ったのかは、判らない。けれど、そう返すことによって、ガチガチだった彼女の肩からほんの少しだけ力が抜ける。
明日菜は花火を斜め上方に向けて掲げた。こんなことをしたことがないから、ちょっと怖い。空いた右手で樹の服を掴み、目をつむってしまう。
数秒経って、シュボッという音に引き続き、ヒューンという音。それには、聞き覚えがある。
「飛んだ?」
「見ていなかったのか?」
「目、つぶってた」
そう答えて辺りに目を向けると、もう校門を通り抜けていた。
校庭と、いくつかの遊具、サッカーやバスケットのゴール――それに、校舎。
ロケット花火がどうだったかなど頭からすっ飛んで、明日菜はまじまじと左右を見回した。
(学校、だ)
明日菜が通っていたものとは違って木造の古そうなものだけれども、学校であることには違いない。自分の学び舎でもないのに、すごく、懐かしい感じがする。
いつかまた、学校というものが機能する日が来るのだろうか。
この校庭いっぱいに子どもが溢れ、屈託なく笑いさざめく日が。
――今は、想像もできない。
そっとかぶりを振った明日菜に、声がかけられる。
「明日菜、下りるぞ」
同時にバイクが停まって、もう正面玄関についていたことに気付く。
「彼らもうまく食い付いてきている」
樹に言われて振り返れば、ゾッとするほどの数の『新生者』が校門から溢れるようにしてこちらに押し寄せてくるのが見えた。
通りで見かける姿はまばらだと思っていたのに、まだこれほどの数がいたのか。
作戦通りとは言え身が竦んだ明日菜の背中が、押された。パッと見ると、全く取り乱したところのない、落ち着き払った樹の眼差しがある。
「中に入るぞ」
「うん」
短く答え、明日菜は正面玄関の両開きの扉をグイと押す。アキラは確かにこの中に居るようで、扉はスムーズに開いた。
先に入った明日菜は下駄箱が並ぶ玄関の奥に進む。
廊下は左右に伸びていた。
(えっと、どっちだったっけ)
まるで明日菜の迷いが聞こえたように、すかさず入る樹の声。
「右だ」
言われた方へ向かいながらガラス戸越しに外に目を遣ると、『新生者』たちはもう校門と玄関の半分ほどまで来ていた。
ぼうっとしていたら、追いつかれてしまいそうな勢いだ。
樹もそう思ったのだろう。大きな手で、また、明日菜の背中を押す。
「急げ」
今度は返事よりも先に足を動かし、廊下の奥にある階段を目指した。
彼女が最初の一段に足を置いたところで、ガラスが砕ける音が人気のない校舎のしじまを破った。そして続く、怒号。
思わずビクンと動きを止めた明日菜の腕が、グイと引かれた。
「止まるな」
叱咤されて我に返り明日菜は階段を駆け上がる。小中学校併設の為か階段の幅が小さくて、微妙に走りにくい。
それでもすぐに、一階分は上がり切った。
そのまま三階へ――と視線を先に注いで、明日菜は一瞬その目を丸くする。
「確かに、塞がっているな」
隣で樹が呟いた。
多分、アキラの仕業なのだろう。二階から三階に向かう踊り場には、これでもかというほど、椅子や机が放り込まれている。
束の間それに目を取られた二人だったけれど、階下で近づく咆哮に今の状況を思い出した。
今度は、西の階段だ。
静まり返った廊下に足音を響かせて走る途中で、明日菜は床に引かれた赤い線に気付く。少し先に目を遣ると、床から十センチほどの高さに紐が張ってあった。『新生者』は足元なんて見ないから、これに足を取られて転ぶだろう。
けれど。
(罠って、これだけじゃないよね?)
確かアキラは、追いかけてくる奴らが赤い線に来るのを待って、その先にあるロープを切るように言っていたはず。
(ロープって、どこ……?)
階下から迫ってくる雄叫びに追い立てられるように走りながらキョロキョロと探すと――あった。
西階段の手前の壁に、ピンと張ったロープがある。見れば、天井間際の壁に沿って、通り過ぎた背後まで伸びている。
(どこに続いてるんだろう)
疑問は湧いたが全力疾走中では振り返るわけにもいかず、追いかけきることはできない。
明日菜と樹が廊下の端に辿り着くと同時に、東階段から最初の『新生者』が姿を現した。一人が見えれば、あとは怒涛のように次から次へ、だ。
その最初の一人――男は、束の間キョロキョロとしたけれど、すぐに廊下のこちらに立つ明日菜たちに気付く。まるで合図のように一声叫ぶと、獣のようになりふり構わず猛然と走ってきた。
目の前で押し寄せてくる彼らも強烈だが、すぐ後ろの西階段から響いてくる騒音や咆哮も、明日菜には気が気ではない。
さっき東階段を上ったときに見たように、西階段でも一階から二階の間で塞がれているけれど、イヤというほど音はよく聞こえてくる。『新生者』たちが上げる声や、積み上げられている机や椅子に八つ当たりのように挑んでいる物音が。あれをどかしきるのはそう簡単ではないから背後の階段から襲い掛かられることはないだろうけれども、挟み撃ちされてる感は満載だ。
そうこうするうちに東階段を上ってきていた『新生者』集団のトップランナーが廊下の半ばほどまで到達した。ちょうど、赤い線の辺りだ。
ロープを切らないと。
そう思って樹を見上げるけれど、彼は手を動かそうとしない。
「ちょっと、樹さん、追いつかれちゃう――」
焦った明日菜が声を掛けたその時、廊下で「グギャッ」と悲鳴じみた声が上がる。
(何?)
パッとそちらに目を遣ると、廊下の床に男が這いつくばっていた。
どうやら、床に張ってある紐に足を取られたらしい。
(本当に、頭働いてないんだ)
こんな簡単な仕掛けに引っかかるなんて。
呆れながら床でもがく男を見ていると、続いてまた一人、スッ転んだ。そして、彼らにつまずいて、また一人。
目の前で『仲間』がどんなふうになっているかなど全く目に入らず、とにかく、『餌』に喰らい付くことしか頭にない。
馬鹿みたいだ、と思いつつ、明日菜は怖くなる。
本当に、彼らが獣――いや、獣以下になり果てていることを目の当たりにして。
目を見開いた彼女が見守るうち、ようやくどんな状況なのか判ったのかそれとも単なる偶然なのか、床でもつれ合った者たちを避けてこちらに来ようとする『新生者』が現れる。
「樹さん」
パッと樹を見上げると、彼は頷きアキラに言われていたロープを切った。
一瞬遅れて。
『新生者』たちが群がる場所に、バサリと何かが落ちる。
「何……網……?」
明日菜は全然気が付いていなかったけれども、赤線が引いてある辺りの天井に、ネットが張ってあったらしい。多分、障害物競走に使われる、アレだ。
一人一人が冷静になって抜け出そうとすれば何ということはないその仕掛けも、皆がもがいて足を引っ張り合うから見事な『罠』になっている。引っかかった彼らが堰になっていて、後ろはまさに黒山の人だかりだ。無理やり通ろうとする者に、先頭で転んだままの数人は踏み潰されている。
(あれ、死んじゃうよ……)
いや、もう死んでいるのかもしれない。
最初に転んだ男はまだ床に転がっていて、その上には何人もの『新生者』がのしかかっている。見えているのは手の先くらいで、それはピクリともしない。多分、いや、きっと、上にいる連中は、自分が『ヒト』を踏み潰していることになんてこれっぽっちも気付いていない。
胸が悪くなった明日菜の二の腕が、強い力で握られた。
「上に行くぞ」
「あ……うん……」
明日菜は数歩後ずさり、無理やり引き剥がすようにして、こちらに来ようともがいている『新生者』の塊から目を逸らす。獣たちの咆哮に押しやられるようにして踵を返し、階段を駆け上がった。
その証拠に、今も、また。
「あ、前前、前にいる!」
少し先の曲がり角から、こちらに向けて猛然と駆けてくる『新生者』が三人ばかり。
バイクの荷台に腰を据え樹の肩にしがみ付く明日菜が声を上げると同時に、まるで自転車を扱っているかのように軽々と彼は向きを変える。
向かう先にあるのは――
「あ、ちょっと、待って、そこ、階段ッ!」
「口を閉じていろ。舌を噛む」
樹が言い終えるよりも少し早く、下からガツンと衝撃が突き上げた。思わず明日菜は樹の厚い肩に爪を立ててしまう。
「ッ! ッ! ッ!」
ガツガツと、一段ごとに全身が揺さぶられる。
オフロード車で山道を抜けた時でさえも、乗り心地はこれほど悪くはなかった。
歯を食いしばっていなかったら、きっと口の中が血塗れになっていたに違いない。
ざっと四十段はある階段を、樹は速度を緩めることなく一気に下った。最後に後輪がダン! と地に落ちて、ようやく明日菜はひびが入りそうなほどに噛み締めていた顎から力を抜く。
肩越しに振り返った樹が明日菜の眉間のしわをチラリと見た。
「大丈夫か?」
「……じゃない」
「大丈夫そうだな。校舎が見える」
言われて前方に目を向ければ、古びた学校が目に入る。
(やっと、だ)
明日菜は肺を絞るようにして深々と安堵のため息をついた。
かれこれ一時間ばかり続いたこのアクロバティックなツーリングも、ようやく終わるらしい。
その一時間の間に樹がとんでもない走り方をしたのは、今の階段だけではない。
急な方向転換は序の口、人一人が通るのがやっとな細い路地や平均台のような塀の上を走ったり、明日菜の背丈ほどもある高さから飛び下りたり。
こんなぼろいバイクでこんな曲芸じみた走行ができるとは、明日菜は夢にも思わなかった。樹の運転テクニックも驚異的だけれども、その荒事に耐えきったこのバイクも褒めてあげたい。
樹のことは信頼しているが、『新生者』に殺されるよりも先にバイクの事故で死ぬんじゃないかと、明日菜はチラリと、本当にチラリと、思ってしまった。
そんな彼女の心中など全く知らない樹は、淡々と指示を出す。
「花火を出しておけ」
言われて明日菜はバッグの中から花火とライターを取り出した。花火はいわゆるロケット花火で、持っている人に火花が飛ばないように先端を覆う傘がつけられている。そこに小さな穴が開いていて、ひもがぴょろりと伸びていた。それに火を点けるらしい。念のために、一回、ライターを灯してみる。
「大丈夫、準備万端。いつでもいいよ」
「よし……行くぞ」
合図を放てば、あとはもう突っ走るだけだ。
「うん」
ごくりと唾を呑んで答えると、彼は顎を引くようにして小さく頷いた。そうして、またスロットルを回す。
走り出したバイクは、どんどん校舎に近付いていく。
あと、十メートルほど。
「火を点けろ」
スピードは出ていないから、彼に掴まっていなくても大丈夫そうだ。明日菜は左手で花火を持ち、右手でライターを点ける。
着火。
「俺に向けるなよ」
「わかってるって」
彼がその台詞を真面目な注意事項として言ったのか、それとも明日菜の緊張を解す為の冗談として言ったのかは、判らない。けれど、そう返すことによって、ガチガチだった彼女の肩からほんの少しだけ力が抜ける。
明日菜は花火を斜め上方に向けて掲げた。こんなことをしたことがないから、ちょっと怖い。空いた右手で樹の服を掴み、目をつむってしまう。
数秒経って、シュボッという音に引き続き、ヒューンという音。それには、聞き覚えがある。
「飛んだ?」
「見ていなかったのか?」
「目、つぶってた」
そう答えて辺りに目を向けると、もう校門を通り抜けていた。
校庭と、いくつかの遊具、サッカーやバスケットのゴール――それに、校舎。
ロケット花火がどうだったかなど頭からすっ飛んで、明日菜はまじまじと左右を見回した。
(学校、だ)
明日菜が通っていたものとは違って木造の古そうなものだけれども、学校であることには違いない。自分の学び舎でもないのに、すごく、懐かしい感じがする。
いつかまた、学校というものが機能する日が来るのだろうか。
この校庭いっぱいに子どもが溢れ、屈託なく笑いさざめく日が。
――今は、想像もできない。
そっとかぶりを振った明日菜に、声がかけられる。
「明日菜、下りるぞ」
同時にバイクが停まって、もう正面玄関についていたことに気付く。
「彼らもうまく食い付いてきている」
樹に言われて振り返れば、ゾッとするほどの数の『新生者』が校門から溢れるようにしてこちらに押し寄せてくるのが見えた。
通りで見かける姿はまばらだと思っていたのに、まだこれほどの数がいたのか。
作戦通りとは言え身が竦んだ明日菜の背中が、押された。パッと見ると、全く取り乱したところのない、落ち着き払った樹の眼差しがある。
「中に入るぞ」
「うん」
短く答え、明日菜は正面玄関の両開きの扉をグイと押す。アキラは確かにこの中に居るようで、扉はスムーズに開いた。
先に入った明日菜は下駄箱が並ぶ玄関の奥に進む。
廊下は左右に伸びていた。
(えっと、どっちだったっけ)
まるで明日菜の迷いが聞こえたように、すかさず入る樹の声。
「右だ」
言われた方へ向かいながらガラス戸越しに外に目を遣ると、『新生者』たちはもう校門と玄関の半分ほどまで来ていた。
ぼうっとしていたら、追いつかれてしまいそうな勢いだ。
樹もそう思ったのだろう。大きな手で、また、明日菜の背中を押す。
「急げ」
今度は返事よりも先に足を動かし、廊下の奥にある階段を目指した。
彼女が最初の一段に足を置いたところで、ガラスが砕ける音が人気のない校舎のしじまを破った。そして続く、怒号。
思わずビクンと動きを止めた明日菜の腕が、グイと引かれた。
「止まるな」
叱咤されて我に返り明日菜は階段を駆け上がる。小中学校併設の為か階段の幅が小さくて、微妙に走りにくい。
それでもすぐに、一階分は上がり切った。
そのまま三階へ――と視線を先に注いで、明日菜は一瞬その目を丸くする。
「確かに、塞がっているな」
隣で樹が呟いた。
多分、アキラの仕業なのだろう。二階から三階に向かう踊り場には、これでもかというほど、椅子や机が放り込まれている。
束の間それに目を取られた二人だったけれど、階下で近づく咆哮に今の状況を思い出した。
今度は、西の階段だ。
静まり返った廊下に足音を響かせて走る途中で、明日菜は床に引かれた赤い線に気付く。少し先に目を遣ると、床から十センチほどの高さに紐が張ってあった。『新生者』は足元なんて見ないから、これに足を取られて転ぶだろう。
けれど。
(罠って、これだけじゃないよね?)
確かアキラは、追いかけてくる奴らが赤い線に来るのを待って、その先にあるロープを切るように言っていたはず。
(ロープって、どこ……?)
階下から迫ってくる雄叫びに追い立てられるように走りながらキョロキョロと探すと――あった。
西階段の手前の壁に、ピンと張ったロープがある。見れば、天井間際の壁に沿って、通り過ぎた背後まで伸びている。
(どこに続いてるんだろう)
疑問は湧いたが全力疾走中では振り返るわけにもいかず、追いかけきることはできない。
明日菜と樹が廊下の端に辿り着くと同時に、東階段から最初の『新生者』が姿を現した。一人が見えれば、あとは怒涛のように次から次へ、だ。
その最初の一人――男は、束の間キョロキョロとしたけれど、すぐに廊下のこちらに立つ明日菜たちに気付く。まるで合図のように一声叫ぶと、獣のようになりふり構わず猛然と走ってきた。
目の前で押し寄せてくる彼らも強烈だが、すぐ後ろの西階段から響いてくる騒音や咆哮も、明日菜には気が気ではない。
さっき東階段を上ったときに見たように、西階段でも一階から二階の間で塞がれているけれど、イヤというほど音はよく聞こえてくる。『新生者』たちが上げる声や、積み上げられている机や椅子に八つ当たりのように挑んでいる物音が。あれをどかしきるのはそう簡単ではないから背後の階段から襲い掛かられることはないだろうけれども、挟み撃ちされてる感は満載だ。
そうこうするうちに東階段を上ってきていた『新生者』集団のトップランナーが廊下の半ばほどまで到達した。ちょうど、赤い線の辺りだ。
ロープを切らないと。
そう思って樹を見上げるけれど、彼は手を動かそうとしない。
「ちょっと、樹さん、追いつかれちゃう――」
焦った明日菜が声を掛けたその時、廊下で「グギャッ」と悲鳴じみた声が上がる。
(何?)
パッとそちらに目を遣ると、廊下の床に男が這いつくばっていた。
どうやら、床に張ってある紐に足を取られたらしい。
(本当に、頭働いてないんだ)
こんな簡単な仕掛けに引っかかるなんて。
呆れながら床でもがく男を見ていると、続いてまた一人、スッ転んだ。そして、彼らにつまずいて、また一人。
目の前で『仲間』がどんなふうになっているかなど全く目に入らず、とにかく、『餌』に喰らい付くことしか頭にない。
馬鹿みたいだ、と思いつつ、明日菜は怖くなる。
本当に、彼らが獣――いや、獣以下になり果てていることを目の当たりにして。
目を見開いた彼女が見守るうち、ようやくどんな状況なのか判ったのかそれとも単なる偶然なのか、床でもつれ合った者たちを避けてこちらに来ようとする『新生者』が現れる。
「樹さん」
パッと樹を見上げると、彼は頷きアキラに言われていたロープを切った。
一瞬遅れて。
『新生者』たちが群がる場所に、バサリと何かが落ちる。
「何……網……?」
明日菜は全然気が付いていなかったけれども、赤線が引いてある辺りの天井に、ネットが張ってあったらしい。多分、障害物競走に使われる、アレだ。
一人一人が冷静になって抜け出そうとすれば何ということはないその仕掛けも、皆がもがいて足を引っ張り合うから見事な『罠』になっている。引っかかった彼らが堰になっていて、後ろはまさに黒山の人だかりだ。無理やり通ろうとする者に、先頭で転んだままの数人は踏み潰されている。
(あれ、死んじゃうよ……)
いや、もう死んでいるのかもしれない。
最初に転んだ男はまだ床に転がっていて、その上には何人もの『新生者』がのしかかっている。見えているのは手の先くらいで、それはピクリともしない。多分、いや、きっと、上にいる連中は、自分が『ヒト』を踏み潰していることになんてこれっぽっちも気付いていない。
胸が悪くなった明日菜の二の腕が、強い力で握られた。
「上に行くぞ」
「あ……うん……」
明日菜は数歩後ずさり、無理やり引き剥がすようにして、こちらに来ようともがいている『新生者』の塊から目を逸らす。獣たちの咆哮に押しやられるようにして踵を返し、階段を駆け上がった。
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