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第一章:壊れた世界の始まり
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廊下は埃が落ちても音が聞こえそうなほど、静まり返っている。
このマンションは一つの階に六戸並ぶ、十階建てだ。エレベーターは中央に一基、屋上から地下まで続く非常階段は東と西の両端にある。明日菜たちが今いるのは七階だから、地下まで入れると八階分だ。
いつもなら、なんの苦も無く駆け下りてしまう程度のものだけれども。
明日菜は全身を耳にして何か聞こえないかと意識を集中させた。
耳慣れた日常の喧騒は何一つない。奇妙にのどかに感じられる鳥の声が、時折鼓膜をかすめた。
こんなにも静かであることが、不気味だった。
思わず身震いをした明日菜に、静かな声がかかる。
「上階にはもう誰もいない。基本的には、彼らは扉を開けたり階段を上ったりという行動ができないから、背後から襲われる可能性は低い。だが、たまたま上ってきたりたまたまドアを開けてしまったりということもあるかもしれないから、注意は怠るな」
淡々とした低い声は、嫌というほどクリアに明日菜の耳に届いた。彼女は緊張で強張る唇を噛み締めて、声は出さずに頷く。
「では、行くぞ。二歩分離れて俺の後ろにいるんだ」
「わかった」
真っ直ぐに彼女を見つめて念を押してくる樹に、明日菜は震える拳を握り締める。背負っている、樹のものの五分の一もないようなバックパックがズシリと重みを増したような気がした。
彼は微かに顎を引くようにして頷くと、くるりと彼女に背を向ける。
歩き出した彼に続いて、明日菜も足を踏み出した。
江藤家はエレベーターのすぐ脇の部屋だ。つまり、階段までは二戸の前を通らなければならないということになる。
明日菜は、たった二枚の扉を、息を呑んで見つめた。
樹は大丈夫だと言ったけれど、どうしても、遊園地のアトラクションか何かのように、あの前を通り過ぎようとしたら中から奴らが飛び出してくるのではないか、そんなふうに思ってしまう。
三歩で、つい、立ち止まる。
「どうした?」
振り返った樹は、扉の真ん前にいた。
何も起きない。
物音ひとつ、しない。
(大丈夫、大丈夫だから)
明日菜は小さくかぶりを振って、歩き出す。動き始めた彼女の足がまた止まってしまわないことを確認して、樹はまた背中を向けた。
ついさっき樹がいた場所に、明日菜も辿り着く。
静かだ。
彼女はホッと息をつく。
ほんの少し気が楽になって、足取りも軽くなった。
続いて、隣の部屋の前も通り過ぎ。
(なんだ、平気じゃない)
あんなにビクビクしていたのが、バカみたいだった。
あとは非常階段の扉が待つばかりだ。
先にその扉の前に立った樹が、もうノブに手をかけている。
自分を待っているのかと、明日菜は早足で彼に駆け寄った。けれど、大きな背中の後ろに立っても、彼はノブを軽く握ったまま身じろぎ一つしない。こっそりと覗き込んだその横顔は、いつも以上に厳しいものになっている。
「樹、さん……?」
おずおずと声をかけると、閃くような一瞥が返ってきた。
「十歩下がれ」
「え?」
「早く」
鋭い声に、明日菜は息を呑んだ。樹の背中には、圧し掛かってくるような何かがみなぎっている。
良くないことが起ころうとしている。
何も判らない彼女にも、それだけは、解かった。
明日菜はグッと唇を引き結び、そろそろと後ずさる。
明日菜の方をチラリとも見ていなかったはずの樹は、ちょうど彼女が指示された距離を取り終えると同時に扉を引き開けた。
蝶番がきしむ音が、微かに響く。ゆっくりと動く扉が、ぎりぎり人が通れるか、というところまで開いた。
(……何もない、じゃない――?)
明日菜が拍子抜けした、刹那。
「がぁあ!」
咆哮と共に何かが扉にぶち当たるのと、サッと飛びのいた樹がノブを手放すのとはほぼ同時のことだった。彼は二歩ほど後ろに跳んで、トンファーを握る手を肩の高さまで持ち上げる。
重い非常扉が弾けたように開け放たれ、勢い余って壁にぶつかり建物が揺るがんばかりの音を立てた。
「ッ!」
明日菜にできたのは、口から迸りそうになった悲鳴を呑み込むことくらいだった。
飛び込んできたのは、女性――だった、モノ。
このマンションのどこかの部屋に住む人で、ゴミ捨ての時に何度か挨拶を交わしたことがある。
三十前半の、とても、物腰の穏やかな女性だった。
明日菜が挨拶をすれば、いつでも笑顔を返してくれる人だった。
けれど、今の彼女は。
髪を振り乱し、頬には抉られたような傷がある。服は斑に赤茶色に染め上げられ、見るからに強《ごわ》ついていた。足は、片方しか靴を履いていない。
「う……が……」
濁った涎を垂れ流す口から意味不明の呻き声を漏らしつつ、彼女は数歩離れたところにいる樹に向かって行きかけ、不意に動きを止めた。顎を上げ、ゆっくりと首を巡らせる。
その血走った目が、明日菜を捉えた。
と、思ったら。
「ぐ、がぁッ」
感電したかのように身震いを一つして、獣と化したソレが床を蹴る。両手を伸ばして明日菜の方へと向かってきた彼女の形相に、思わず踵を返して走り出しそうになった。が、肩を引きかけたところで、樹の動きが視界の隅をかすめる。
それは流れるように静かな動作だったから、何が起きたのか、明日菜にはすぐには理解できなかった。
トンファーという武器が、樹の手の中でクルリと回る。その取っ手のような出っ張りが、彼の横をすり抜けようとしていた女性の喉元を捉えた。明日菜の方に来ようとしていた勢いはそのままに首だけを留められ、彼女がもんどりうってひっくり返る。
「グッ」
くぐもった、呻き声。
続いて。
「ゴガッ」
コンクリートの廊下に強烈に後頭部を打ち付けてピク付く彼女の胸の真ん中に、樹が黒いブーツを履いた足を踏み下ろす。それは、一気に踝くらいまで、女性の胸に沈み込んだように見えた。
同時に響いた、ボキッという、嫌な音。
女性の四肢が一度だけばねのように跳ね上がり、それきり静かになる――ピク、ピク、と痙攣する彼女の指先を除いては。
(死んだ。殺したんだ)
明日菜は、息一つ乱していない樹を見つめる。彼はゆっくりと足を持ち上げ、姿勢を正した。首を巡らせた彼が、明日菜を見返してくる。
「行くぞ」
たった今、たとえもうヒトとは思えないようなモノに成り果てていたとは言え、紛れもなくヒトの姿をしたモノの命を奪ったばかりだというのに、樹のその声もその眼差しも、平静そのものだった。
あまりに淡々としたその姿に、明日菜の背筋にぞくりと怖気が走る。
彼が今目の前で人を殺したのだということよりも、そうしたにも拘らず、何一つ変わった素振りを見せないということに。
明日菜は、横たわる女性に目を戻す。まだ、ピク付きが残っている。吐き気がこみ上げた。見なければいいと判っているのに、目が離せない。
不意に、目の前に大きな黒いものが割り込んでくる。
樹の身体だ。
彼は明日菜の視界を遮ると、彼女の顎の先に指を添えて顔を上げさせた。
「大丈夫か?」
覗き込んできた目にはっきりと浮かんでいる、彼女を案じる色。
それが見えた瞬間、明日菜の強張りが解けた。
彼は、決して何も感じていないわけではない。平然としていても、平気なわけではないのだ。彼はちゃんと何かを感じ、ものを考えている人間で――奴らとは、違う。
「行けるな?」
また、彼が訊いてきた。
明日菜は唾を飲み込み喉を潤し、頷く。
「大丈夫、行ける。行く」
震えてはいてもはっきりとした声での彼女の答えに、束の間、貫くような眼差しが和らいだ。
樹の手が離れていき、一歩下がった彼は再び厳しい顔つきになって、言う。
「非常階段に入り込んでいたということは、駐車場にも相当数がうろついているということだろう」
淡々と告げられる彼の言葉に、明日菜は無言で頷いた。
これは、昨夜のうちに聞かされていたことだ。
一応、昨夜樹が駐車場まで見に行った時には『クリア』だった――『クリア』にしてきたけれど、新たに入り込むモノは必ずいるから、と。
問題は、それがどれくらいの数なのかということで。
「思ったよりも――」
呟きかけて、不意に樹が口を閉ざした。
彼は何て言おうとしたのだろう。
(思ったよりも、ここに奴らが集まってきている、とか……?)
樹は、『新生者』は『変異者』がいるところに集まってくるのだと言っていた。転々とあちらこちらに『変異者』が残っていれば、それだけ『新生者』はばらけるはずだ。
それが、このマンション一点に集まりつつあるのだとすれば。
(あたしの他には、もう生きていない)
そういうことになるのだろうか。
明日菜は、軋むほどに奥歯を噛み締めた。そうしないと、くだらないことを喚き散らしてしまいそうだった。
そんなことはない。きっと、そんなことはない。
自分に言い聞かせる明日菜の前で、樹は眉間に深いしわを刻む。
「駐車場のどこに何があるかは思い出せるか?」
唐突な問いを訝しみつつ、明日菜は頷く。
地下駐車場は両親と管理人に叱られながらもさんざん子どもの頃から遊び場にしていたから、目をつぶっていても自分の家の車に辿り着けるほどだ。
「乗る車は、十五番に置いてある」
言われて、明日菜は頭の中に思い浮かべる。
非常階段を出て左側、十台向こうだ。
「君は、走って車に乗れ」
「樹さんは?」
「俺のことは気にするな。とにかく、自分が車に乗り込むことだけ考えろ」
「……わかった」
渋々そう答えながら、明日菜は襲ってきた女性にチラリと目を走らせる。
この襲撃があって、良かったのかもしれない。
駐車場に行ってから初めて突然襲われていたら、頭の中が真っ白になって、とてもじゃないが動けやしなかっただろう。こうやって、少しでも考える余裕があって、良かった。
深呼吸を一つして、明日菜は樹を見上げる。
「もう大丈夫。行こう」
今度は本当に、そう思えた。
はっきりとした声で告げた明日菜に小さな頷きを返して、樹は踵を返してまた扉に向かった。
このマンションは一つの階に六戸並ぶ、十階建てだ。エレベーターは中央に一基、屋上から地下まで続く非常階段は東と西の両端にある。明日菜たちが今いるのは七階だから、地下まで入れると八階分だ。
いつもなら、なんの苦も無く駆け下りてしまう程度のものだけれども。
明日菜は全身を耳にして何か聞こえないかと意識を集中させた。
耳慣れた日常の喧騒は何一つない。奇妙にのどかに感じられる鳥の声が、時折鼓膜をかすめた。
こんなにも静かであることが、不気味だった。
思わず身震いをした明日菜に、静かな声がかかる。
「上階にはもう誰もいない。基本的には、彼らは扉を開けたり階段を上ったりという行動ができないから、背後から襲われる可能性は低い。だが、たまたま上ってきたりたまたまドアを開けてしまったりということもあるかもしれないから、注意は怠るな」
淡々とした低い声は、嫌というほどクリアに明日菜の耳に届いた。彼女は緊張で強張る唇を噛み締めて、声は出さずに頷く。
「では、行くぞ。二歩分離れて俺の後ろにいるんだ」
「わかった」
真っ直ぐに彼女を見つめて念を押してくる樹に、明日菜は震える拳を握り締める。背負っている、樹のものの五分の一もないようなバックパックがズシリと重みを増したような気がした。
彼は微かに顎を引くようにして頷くと、くるりと彼女に背を向ける。
歩き出した彼に続いて、明日菜も足を踏み出した。
江藤家はエレベーターのすぐ脇の部屋だ。つまり、階段までは二戸の前を通らなければならないということになる。
明日菜は、たった二枚の扉を、息を呑んで見つめた。
樹は大丈夫だと言ったけれど、どうしても、遊園地のアトラクションか何かのように、あの前を通り過ぎようとしたら中から奴らが飛び出してくるのではないか、そんなふうに思ってしまう。
三歩で、つい、立ち止まる。
「どうした?」
振り返った樹は、扉の真ん前にいた。
何も起きない。
物音ひとつ、しない。
(大丈夫、大丈夫だから)
明日菜は小さくかぶりを振って、歩き出す。動き始めた彼女の足がまた止まってしまわないことを確認して、樹はまた背中を向けた。
ついさっき樹がいた場所に、明日菜も辿り着く。
静かだ。
彼女はホッと息をつく。
ほんの少し気が楽になって、足取りも軽くなった。
続いて、隣の部屋の前も通り過ぎ。
(なんだ、平気じゃない)
あんなにビクビクしていたのが、バカみたいだった。
あとは非常階段の扉が待つばかりだ。
先にその扉の前に立った樹が、もうノブに手をかけている。
自分を待っているのかと、明日菜は早足で彼に駆け寄った。けれど、大きな背中の後ろに立っても、彼はノブを軽く握ったまま身じろぎ一つしない。こっそりと覗き込んだその横顔は、いつも以上に厳しいものになっている。
「樹、さん……?」
おずおずと声をかけると、閃くような一瞥が返ってきた。
「十歩下がれ」
「え?」
「早く」
鋭い声に、明日菜は息を呑んだ。樹の背中には、圧し掛かってくるような何かがみなぎっている。
良くないことが起ころうとしている。
何も判らない彼女にも、それだけは、解かった。
明日菜はグッと唇を引き結び、そろそろと後ずさる。
明日菜の方をチラリとも見ていなかったはずの樹は、ちょうど彼女が指示された距離を取り終えると同時に扉を引き開けた。
蝶番がきしむ音が、微かに響く。ゆっくりと動く扉が、ぎりぎり人が通れるか、というところまで開いた。
(……何もない、じゃない――?)
明日菜が拍子抜けした、刹那。
「がぁあ!」
咆哮と共に何かが扉にぶち当たるのと、サッと飛びのいた樹がノブを手放すのとはほぼ同時のことだった。彼は二歩ほど後ろに跳んで、トンファーを握る手を肩の高さまで持ち上げる。
重い非常扉が弾けたように開け放たれ、勢い余って壁にぶつかり建物が揺るがんばかりの音を立てた。
「ッ!」
明日菜にできたのは、口から迸りそうになった悲鳴を呑み込むことくらいだった。
飛び込んできたのは、女性――だった、モノ。
このマンションのどこかの部屋に住む人で、ゴミ捨ての時に何度か挨拶を交わしたことがある。
三十前半の、とても、物腰の穏やかな女性だった。
明日菜が挨拶をすれば、いつでも笑顔を返してくれる人だった。
けれど、今の彼女は。
髪を振り乱し、頬には抉られたような傷がある。服は斑に赤茶色に染め上げられ、見るからに強《ごわ》ついていた。足は、片方しか靴を履いていない。
「う……が……」
濁った涎を垂れ流す口から意味不明の呻き声を漏らしつつ、彼女は数歩離れたところにいる樹に向かって行きかけ、不意に動きを止めた。顎を上げ、ゆっくりと首を巡らせる。
その血走った目が、明日菜を捉えた。
と、思ったら。
「ぐ、がぁッ」
感電したかのように身震いを一つして、獣と化したソレが床を蹴る。両手を伸ばして明日菜の方へと向かってきた彼女の形相に、思わず踵を返して走り出しそうになった。が、肩を引きかけたところで、樹の動きが視界の隅をかすめる。
それは流れるように静かな動作だったから、何が起きたのか、明日菜にはすぐには理解できなかった。
トンファーという武器が、樹の手の中でクルリと回る。その取っ手のような出っ張りが、彼の横をすり抜けようとしていた女性の喉元を捉えた。明日菜の方に来ようとしていた勢いはそのままに首だけを留められ、彼女がもんどりうってひっくり返る。
「グッ」
くぐもった、呻き声。
続いて。
「ゴガッ」
コンクリートの廊下に強烈に後頭部を打ち付けてピク付く彼女の胸の真ん中に、樹が黒いブーツを履いた足を踏み下ろす。それは、一気に踝くらいまで、女性の胸に沈み込んだように見えた。
同時に響いた、ボキッという、嫌な音。
女性の四肢が一度だけばねのように跳ね上がり、それきり静かになる――ピク、ピク、と痙攣する彼女の指先を除いては。
(死んだ。殺したんだ)
明日菜は、息一つ乱していない樹を見つめる。彼はゆっくりと足を持ち上げ、姿勢を正した。首を巡らせた彼が、明日菜を見返してくる。
「行くぞ」
たった今、たとえもうヒトとは思えないようなモノに成り果てていたとは言え、紛れもなくヒトの姿をしたモノの命を奪ったばかりだというのに、樹のその声もその眼差しも、平静そのものだった。
あまりに淡々としたその姿に、明日菜の背筋にぞくりと怖気が走る。
彼が今目の前で人を殺したのだということよりも、そうしたにも拘らず、何一つ変わった素振りを見せないということに。
明日菜は、横たわる女性に目を戻す。まだ、ピク付きが残っている。吐き気がこみ上げた。見なければいいと判っているのに、目が離せない。
不意に、目の前に大きな黒いものが割り込んでくる。
樹の身体だ。
彼は明日菜の視界を遮ると、彼女の顎の先に指を添えて顔を上げさせた。
「大丈夫か?」
覗き込んできた目にはっきりと浮かんでいる、彼女を案じる色。
それが見えた瞬間、明日菜の強張りが解けた。
彼は、決して何も感じていないわけではない。平然としていても、平気なわけではないのだ。彼はちゃんと何かを感じ、ものを考えている人間で――奴らとは、違う。
「行けるな?」
また、彼が訊いてきた。
明日菜は唾を飲み込み喉を潤し、頷く。
「大丈夫、行ける。行く」
震えてはいてもはっきりとした声での彼女の答えに、束の間、貫くような眼差しが和らいだ。
樹の手が離れていき、一歩下がった彼は再び厳しい顔つきになって、言う。
「非常階段に入り込んでいたということは、駐車場にも相当数がうろついているということだろう」
淡々と告げられる彼の言葉に、明日菜は無言で頷いた。
これは、昨夜のうちに聞かされていたことだ。
一応、昨夜樹が駐車場まで見に行った時には『クリア』だった――『クリア』にしてきたけれど、新たに入り込むモノは必ずいるから、と。
問題は、それがどれくらいの数なのかということで。
「思ったよりも――」
呟きかけて、不意に樹が口を閉ざした。
彼は何て言おうとしたのだろう。
(思ったよりも、ここに奴らが集まってきている、とか……?)
樹は、『新生者』は『変異者』がいるところに集まってくるのだと言っていた。転々とあちらこちらに『変異者』が残っていれば、それだけ『新生者』はばらけるはずだ。
それが、このマンション一点に集まりつつあるのだとすれば。
(あたしの他には、もう生きていない)
そういうことになるのだろうか。
明日菜は、軋むほどに奥歯を噛み締めた。そうしないと、くだらないことを喚き散らしてしまいそうだった。
そんなことはない。きっと、そんなことはない。
自分に言い聞かせる明日菜の前で、樹は眉間に深いしわを刻む。
「駐車場のどこに何があるかは思い出せるか?」
唐突な問いを訝しみつつ、明日菜は頷く。
地下駐車場は両親と管理人に叱られながらもさんざん子どもの頃から遊び場にしていたから、目をつぶっていても自分の家の車に辿り着けるほどだ。
「乗る車は、十五番に置いてある」
言われて、明日菜は頭の中に思い浮かべる。
非常階段を出て左側、十台向こうだ。
「君は、走って車に乗れ」
「樹さんは?」
「俺のことは気にするな。とにかく、自分が車に乗り込むことだけ考えろ」
「……わかった」
渋々そう答えながら、明日菜は襲ってきた女性にチラリと目を走らせる。
この襲撃があって、良かったのかもしれない。
駐車場に行ってから初めて突然襲われていたら、頭の中が真っ白になって、とてもじゃないが動けやしなかっただろう。こうやって、少しでも考える余裕があって、良かった。
深呼吸を一つして、明日菜は樹を見上げる。
「もう大丈夫。行こう」
今度は本当に、そう思えた。
はっきりとした声で告げた明日菜に小さな頷きを返して、樹は踵を返してまた扉に向かった。
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